19 命の重さ
野盗の襲撃から馬車を救ったあと、イザヨイと夕香は残りの後始末をリリスと馬車の面々に任せて一足先にテルムスへ戻った。幸い馬車に乗っていたのはリリスと顔見知りの商人だったらしく、夕香の体調が優れないことを伝えれば快く後始末を引き受けてくれた。
別れ際にリリスが酷く心配していたが、夕香に応える余裕はなく弱々しく頷くだけだった。
テルムスに戻った二人はギルドに依頼完遂の報告をしてそのまま宿に帰った。
部屋で二人っきりになり、改めてイザヨイは夕香と向き合った。
「夕香、お前は人を殺したことがないな?」
確認に今一度問う。夕香はほんの僅かに肩を震わせるだけで答えようとしないが、その態度が物語っている。
――夕香は人を殺したことがない。
正直言って予想外だった。てっきり自分の許に来るまでに殺し殺される場面に遭遇し、とっくに一線を越えているものだとイザヨイは思っていた。
だが現実は違った。
この世界に召喚されてどれ程が経つのかは知れないが、夕香は未だ人を殺したことがなかった。それはこの世界において大きな障害と為り得る。
この世界において、命の重さはかなり軽い。病気や飢饉などに限らず、魔物との戦闘で命を落とすなんて日常茶飯事。それだけに限らず人間同士、さっきの野盗などに命を奪われることだってある。
いつどこで死んでもおかしくない。元の世界とは比べものにならない程に殺伐としたこの世界で、いざという時に殺す覚悟がないのはあまりにも致命的である。
さっきの野盗がいい例だ。
夕香に襲いかかった男は、理由は置いておくとして、確固たる殺意をもっていた。夕香は殺意などなく精々が敵意程度。故に男の奇襲に驚き、躊躇い、対処できなかった。
対してリリスは殺すことに迷いも躊躇いも一切なかった。それもそうだろう。冒険者という職業柄いざという時に一瞬でも躊躇えば殺されるのは自分自身なのだから。
ある意味で慣れであり、この世界の常識を弁えていると言えよう。
――殺らなければ殺られる。
それがこの世界における常識。
それを弁えていない夕香は、これから先の全ての戦いにおいて不殺というハンデを背負う羽目になる。殺し合いの最中に相手の生死を慮らねばならないというのは、あまりにも大きすぎる枷である。
だからイザヨイは夕香に説く。たとえ嫌われることになったとしても構わない。ここで気づかせなければ、いずれ取り返しのつかないことになってしまうだろうから。これだけは譲れない。
イザヨイは夕香を諭した。
この世界の命の軽さを。
この世界の常識を。
殺す覚悟を。
結果、夕香から返ってきたのは嗚咽混じりの声だった。
「なんで……なんで、そんなこと言うのよ……」
涙を目元に滲ませ、夕香がイザヨイの胸倉に掴みかかってくる。
「命が軽いってなに? 命の価値ってなに? アンタが言うとおり、この世界は元の世界と比べれば命は軽く見られてるかもしれないけど――」
でも、と続けて。
「世界が変わったからって――あたしまで変わるわけじゃない!」
血を吐くように放たれた言葉に、イザヨイは頭を鈍器で殴られたような感覚に陥った。そんな彼のことなどお構いなしに夕香は捲し立てる。
「魔物を殺すのだって辛かった。最初の頃は堪らず吐いてた。でも、何度も何度も戦っているうちにその感覚も薄れてった。仕方ないって割り切れちゃうようになった。それは、きっとアンタが言った慣れってヤツなんだと思う。でも、あたしはソレが怖かった。生き物を平然と殺してしまえるようになる自分が怖かった!」
限界に達した涙腺が溢れ、ぼろぼろと泣き出してしまう。それでもなお、夕香は箍が外れたように己の心情を吐き出し続ける。
「もう変わっちゃってるんだと思う。でも、それでも。人を殺すのだけはしたくなかった。慣れちゃダメだって、その一線だけは越えちゃダメだって思った。もしそれに慣れてしまったら、本当の意味であたしがあたしでなくなっちゃう。小暮夕香でなくなっちゃう。――それだけは絶対にいやっ!!」
最早懇願にも近い夕香の心の叫びが耳朶を叩く。まるで自分を非難するように、責め立てるように響く。
イザヨイはきっと、触れてはならないものに触れてしまったのだろう。夕香にとって決して譲れない、越えたくない一線を越えさせようとしてしまった。
最低だ。よくよく考えれば、自分は未だ子供の夕香に殺人を強要しようとしていたのだ。それがどれだけ彼女の心に影響を及ぼすかも考慮せず、彼女のためと銘打って心を抉ろうとしていた。
一度形成された倫理観を崩すのは、一歩間違えればその者の人格をも破綻させかねないのだから。
どうしようもない程に自分が情けない。
そして、どうしようもない程に苦しい。
夕香は――小暮夕香は変わりたくないと言った。対してイザヨイは真逆。この世界に召喚されてからの永い時の中で、元の自分を忘れ、後戻りができない程に変わり果ててしまった。染まり切ってしまった。
最早今の彼と以前の彼を同一人物と見なすことは到底できないだろう。唯一変わっていないのは容姿だけで、中身はほぼ別人。命を奪うことに今さら忌避感などあるはずもない。
そんなイザヨイにとって、夕香の言葉は凶器にも等しかった。己の全てを完全否定されたようにも感じられた。
だが、それでも……
「――すまない」
両手で顔を覆い隠して泣きじゃくる夕香の頭に優しく手を載せる。
「お前の気持ちを、何も考えていなかった。自分勝手なことを言ってすまなかった」
己の感情を押し殺して謝辞の言葉を述べる。その声はぞっとする程に平坦で、冷たかった。
それに気づいて、夕香が嗚咽を堪えながら徐に顔を上げる。泣き腫らした瞳が彼の瞳とぶつかり――夕香の目が見開かれる。
「あ、あぁ……」
喘ぐように声を洩らす夕香。まるで何かに怯えるように、イザヨイから一歩後ずさる。
夕香は気づいてしまった。自分の言葉がイザヨイの存在を全否定していたことに。彼の心を容赦なく抉っていたことに。
そして恐怖してしまった。感情の一切を排した彼の目に。
「い、イザヨイ。あたし……」
「……いい、気にするな。少し頭を冷やしてくる」
震える声で言葉を紡ごうとする夕香を遮り、イザヨイは部屋をあとにする。
「ぁ……まっ――」
夕香が伸ばした手は、虚しくも空を切った。
▼
茜色の空が東から群青色に侵食されていく様子をぼんやり眺める。
特にやることも思いつかず、酒を飲む気にもなれなかったイザヨイは当てもなく街を彷徨っていた。既に街は隅々まで知り尽くしているため、何の面白味もないが。
その姿はまるで、帰り道を見失い、人波に流されて、母親が迎えに来るのを待つ子供のようだった。子供にしては齢数百とでかいが。
自嘲気味に薄く笑みを浮かべて、イザヨイは自然な風を装って通りから細い路地へと進路を変更する。
昼夜問わず薄暗い路地裏を躊躇うことなく進んでいき、しばらくした所で歩みを止めた。
「隠れてないで出てこい」
静かな呟きが路地裏に響く。するとどこからともなく前後を塞ぐように数人の影が現れる。暗がりのうえフードを目深に被っているせいで顔は見えないが、前方に三人、後方に二人。背格好と立ち姿から全員女だろうことが分かる。
「何の用だ?」
要件を尋ねはするがイザヨイは大方見当がついていた。恐らくリリス関連だろう。でなければ女五人に囲まれる覚えなどない。
溜め息混じりに相手方の反応を待っていると前方の三人のうち一人が一歩前に出た。
「単刀直入に申し上げますわ。リリス様に寄生するのは止めて頂けるかしら。リリス様の迷惑ですの」
口調こそ丁寧である程度の教養はあるようだが、言葉の端々からイザヨイを侮辱しているのが感じ取れる。
イザヨイはあまり冒険者事情を知らないので分からないが、恐らく貴族か騎士の出なのだろう。それでいてAランク冒険者であるリリスに憧れ陶酔している、と。
そしてイザヨイをリリスに纏わりつく害虫として排除しようと乗り出した、というところか。
リリスにファンのような存在がいるのは重々承知していたがまさかここまで浅慮な輩だとは、と一瞬思うも魔王時代にも似たような経験があったことがイザヨイの脳裏を過る。
あれは、そう。正妻がどうだとか側室がどうだとかいう話になった頃だった。狂信的な輩や権力に目が眩んだ阿呆共が自らの娘を、あるいは自分自身を正妻に娶れだとかイザヨイに迫ってきた時だ。
何をトチ狂ったのか、彼らはイザヨイの側近でもあり近しい女性であるイルムやレムを排除しにかかったのだ。まあ幸いイルムの機転とレムの魔術、そしてイザヨイの逆鱗に触れたことであえなく返り討ちとなったが。
その時も、イザヨイは彼らの行動言動が全く理解できなかった。はっきり言ってわけが分からないというのがイザヨイの感想だ。そして今、目の前にいる彼女らもまた同じ類の人間だと思うと溜め息を禁じ得ない。
はあ、と鬱屈な思いを呼気と共に吐き出して、イザヨイは星が顔を見せ出した空を仰ぐ。
「……面倒だ」
イザヨイの呟きが、暗い路地裏に響いた。
変わってしまった者と変わりたくない者。両者の道はこれからどうなっていくのか……。