プロローグ
運命はオレを見放したのだろうか。
この世に馬室哲学という男をつくりたもうた神は、いつまで経ってもどうしようもないこのオレに、今更何かを成させようとすることを諦めてしまったのだろうか。
そう思ってしまうときっと、オレは自分を負け犬だと認めてしまうことになるだろう。
本当に才能のある奴、ってのには運命だの神だのがついている必要なんてない。
誰かに頼らず、己の力のみで目的だの夢だのを達成できて、初めて人は一人前なのである。
今までオレを追い越してゴールまでたどり着いたにくたらしい奴らがその証拠だ。
次の四月を以て、めでたく「美大生」を名乗ることを許される勝者。
奴らの背中が、今年もオレを置いていった。
『まぁ、そうなんじゃないかと思ったわよ』
電話で報告を受けた母親の第一声は素っ気ないものだった。
日頃のオレの様子は見て知っている。
やっぱり、期待なんてされていなかったのだ。
『お父さんに代わる?』
「……いや、いい」
『そうよね。話したくなんてないわよね』
「うん」
『ところであんた、今年で諦めるって言ったわよね?』
オレは黙った。
多分、うんとかすんとか答えなくても母親はこの沈黙がオレの返事だって理解しただろう。
美大の受験は今年で3回目。
本当なら就活している時期の息子が大学の入り口でうろうろし続けて3年目だ。
ごねる奴はもう1年、くらい言いそうだけどオレはそんなに図々しくないつもりだ。
いや、違う。
決して所得の高くない両親にとって、オレはもうとっくに十分図々しい奴なのだ。
そのおかげで父親はすっかり怒ってしまい、ここ1年くらいまともに口をきいていない。
だからもう、分かっている。
『何時に帰るの?』
「遅くなると思う」
『終電の1本前くらいで帰ってきなさいね。そうじゃないと雪降るわよ?』
通話を切ると、馴染みの奴らがにやにやしながらオレを見ていた。
奴らも同じく今年「ダメだった」奴らだ。
2浪に1浪。
その顔には思ったより悲壮感がない。
まぁ、そうだよな。
ここに自分よりひどいのがいるんだもんな。
「馬室さん、親どうでした?」
「別に、なんも」
「いいっすね、オレ親泣いてたんすよ」
北風の中を歩きだした2人はどっちもオレより若い。
予備校に通ううちに仲良くなり、いつの間にか「先輩、先輩」とついてくるようになってしまった。
バカが固まってつるむのはつまらないと思う。
でも、1人になるよりはマシだ。
「何で1浪くらいで泣くんだよ」
「さぁ……期待してたんじゃないすか?」
「お前、頭いいもんな」
「そんな事ないっすよ」
親に泣かれたというこの1浪決定の18歳は、オレが知る限りかなりの秀才だ。
噂では、頑張れば東大や京大くらい狙えたんじゃないかとも言われていたらしい。
だが、本人はどうしても芸術の道で食っていきたくて美大を受験してしまった。
もう一人の2浪の20歳もそこそこ頭がよく、同じく別の道でならもっとすんなり大学生に慣れていたクチだ。
この手の奴らは意外に多い。
そして、往々にして頭は良いのにそっちの才能はない、というカナシイ現実にぶち当たる。
「馬室さん、居酒屋もう開いてっかな?」
「開いてるわけねえだろ。まず昼飯食いに行こうぜ」
「駅前にラーメン屋あったかな」
オレ達は当てもなく街へ繰り出した。
当然ながらこんな日はまっすぐ帰る気などしない。
ラーメン食って、ゲーセン行って、居酒屋が開く時間になったらまたのそのそと移動し始める。
でも、何をしても頭に浮かんでくるのは「今年も落ちた」という真っ直ぐ見たくない現実ばかり。
多分、オレだけじゃない。
一緒に来た2人もそうだ。
「予備校の先生に結果連絡しろって言われましたよね」
「いいよ。明日言えば」
「馬室さん来年、どうすんすか?」
「……来たよ、オレが今一番要らない質問」
「あ、すいません」
「受けるわけねえだろ。オレ、もう成人式来ちゃったし」
正直言って具体的なプランはない。
去年予備校を「卒業」したある先輩は今、トラック運転手をしているらしい。
今いる居酒屋と同じチェーンで店長になった人もいる。
みんな、いつかは花咲かせたくて頑張り続けていた人たちだ。
でも今はそんな事をすっぱり忘れ、全然違う道を歩んでいる。
多分そうだ。
そうだと言っていたから。
「とりあえず、自立しなきゃとは思う。多分、実家にはいさしてくんないと思うし」
「マジすか」
「アパート探さなきゃだな」
「1人暮らしすか! うわ、いいっすね!」
「下北とかいいな。前から住みたいと思ってたし」
「すげえ! オレ、遊びに行きます!」
浮かれた口調の18歳が、どうにもオレをバカにしているようにしか聞こえなくて困る。
落ちたくせにいささか明るいのはやはり、3浪のオレを見て自分のほうがマシだと思っているからだろう。
いや、まだ自分の立場がよく分かっていないだけかもしれない。
奴はまだどうするか分からないが、もし「来年も受ける」と言えばそこから黄泉路への旅が始まるのだ。
オレがそうだったように。
「馬室さん、もしそうするなら一緒にシェアハウスしませんか?」
「何? お前も今年でやめんの」
「専門行こうかと思って。何も、4年制大学じゃなくてもやりたいことはできるし」
そんな事を言い出した20歳はいくらか現実的だった。
金さえ払えば、アート系の予備校は就職まで面倒を見てくれるらしい。
だがその代わり国立の美大とは比較にならないくらいの金額を求められるようだ。
奴がそれを気にする様子がないところを見ると、何とかなるアテがあるのだろう。
いいよな、おぼっちゃまは。
オレは多分、これから先は親に学費も家賃も出して貰えない。
「お待たせしました。ファジーネーブル、カシスウーロン、それからノンアルコールのピーチミルクでございます」
「お、来た来た」
「じゃ、とりあえずオツカレ」
「オツカレっす!」
酒でうっぷんを晴らすとは親父臭い。
でも、飲まずにはいられなかった。
何でオレじゃなくてあいつらが受かったんだ。
オレの何が悪かったんだ。
予備校の講師はオレが言うとおりに描けない奴だと何度も言ったが、だからなんだと言うんだ。
デッサンとか、構図とか、そんなキチキチした言葉に従って何になる。
芸術は言葉じゃねえ、アートだ。
要は人を感動させられるかどうかだろう?
誰かに美しいとかすごいとか言われればいいわけだろう?
なのに何で、オレの絵はダメなんだ。
大学はオレを認めてくれないんだ。
なんで。
だから、なんで?
「てか……なんでわざわざオレら、大学まで見にいったんすかね? 合格・不合格はネットでも見れたのに」
「オレが来いって言ったから」
「馬室さん、毎年行くんすか?」
「受かってたら会いに来いっていう先輩がいるからな」
「そうだったんすか?」
「行かなかったけどさ」
美大には、オレを待っている先輩がいる。
先輩、と言っても年下だ。
オレがまだ1浪の時に仲良くなって、奴はそのままストレートで合格した。
奴は受かるまで毎年オレを待っていると言った。
オレはまだ1回も行っていない。
そして、行かないまま終わった。
「すいません、ジョッキで生」
「うぉ! ペース早いっすね馬室さん」
「うっせ。お前らも飲め!」
「飲めって、オレ未成年っす」
「聞こえねー聞こえねー! おら! 飲めよ、おら!」
2人に無理やり飲ませようとして、拒否られて、無理やり絡んで、ウザがられて。
それから何杯飲んだのか覚えていない。
気が付いたら辺りは真っ暗で、寒くて、なんだか臭かった。
記憶の端っこにドン引きしている2人の顔がある。
オレはどれだけ酩酊状態だったんだろうか。
2人に見捨てられて置いて行かれるくらいどうしょもなかったのは確かだ。
(うわっ……こいつ、ゴミ捨て場で寝てるよ)
どこかの誰かの声がした。
寝てねーよ。
起きてるよ。
(やだー、酔っ払い? ありえないしー)
酔ってねえよ。
オレは酔ってねえ。
あれくらいで……オレは酔わない。
(警察呼んだほうがよくね? うわっ、お漏らししてる!)
うるせえよ。
うるせえ。
オレは犯罪者じゃねえ。
警察なんか……警察……。
ていうか……なんだ。
ケツの辺り、めっちゃ冷てえ……。
漏らしたとか、そんな単語が聞こえたような気がしたが、それよりひどく眠かった。
冷たくて、身体も寒いのに、すごく眠たかった。
寒い中で寝たら死ぬんだったか。
雪山とか、そうなんだよな。
遭難って、そうなんだよなってシャレか。
つまんねえな。
ああ、ほんとつまんねえな。
オレの人生、何なんだろう。
美大受けて、落っこちて、オレより後から来た奴らにどんどん置いてかれて。
ダメだな……泣けてきそうだ。
情けねえな、死にてえ。
ていうか、死ぬのかな……。
ホントに死ぬのかな。
いや待て……ホントに死ぬのは、まだちょっと――――
(こっちよ! 早く来て!!)
急に周囲が温かくなり、女の声が聞こえた。
マジかよ。
警察呼ばれたのか。
パトカー来たのか。
逮捕か。
ああ、また親父に怒鳴られる。
いや、今度こそ勘当だ。
別にいいか。
オレはきっと……もう1人で生きていけるし。
(本当なの?)
(ねぇ、私にも見せて!)
(間違いないでしょう?)
(やだ……! 本当に……!)
(信じられない!)
何でこんなに女が集まってきたんだ。
そういえば、さっき誰かが「お漏らし」と言っていたような気がする。
ヤバい。
こいつらはオレの「20代浪人生お漏らしで逮捕」現場に集まって来た野次馬だ。
カッコ悪い事この上ない。
クソっ! クソっ!
漏らしたのはションベンだけどな!
(起きてください! ねぇ、早く目を覚まして!)
誰かが顔をぺちぺち叩いてくる。
やめてくれ、オレは起きねえ!
ションベン垂れ流しで連行されるくらいだったらこのまま死ぬ!
死なせてくれぇ!!
(ねぇ、起きないわ)
(どうしたのかしら?)
(息はしてる?)
(してるわ。心臓も動いてる)
(寝てるだけよ)
(お姉さま、どうしましょう)
(しゃあないなぁ……アタシに良い考えがあるよ)
周りにいる声が止んだ。
そして、次の瞬間身体がぐわっと浮き上がるのを感じた。
うわっ!
まさか、起きないからみんなで担いで署まで強制連行か!!
わ、分かった分かった!!
起きます! 立ちます! 歩きます!
だからオレにこれ以上恥を―――――――
「せーのっ!!」
覚醒した瞬間、体が宙に浮き、そしてドボーンという音がした。
何が起きたのか分からないまま息ができなくなった。
がぼがぼと沈んでいく感覚。
あったかい水の中。
いきなり風呂に投げ込まれたのか?
漏らしたからってそんな殺生な!
オレは必死でもがき、浮上した。
明るい光がオレを包み込んだ。
「起きたわ!!」
誰かがオレを見て叫んだ。
そして、わーっと拍手が沸き起こった。
目の前にいたのは、何人か分からないがとにかくたくさんの金髪の外人だった。
オレの方に差し出しされているのは真っ白な美女の腕……。
ナイスな胸元がポロリしそうなのもかまわず、きれいなお姉さんたちがオレに手を伸ばして水から引き揚げてくれた。
「あっはっはっはっは!! ほーら、アタシの言ったとおりだろ?」
「タレイアは乱暴すぎ!」
「せめて頭から水をかけるくらいにしておけばいいんですわ」
「でも、姉さんたちノリノリで協力したよね?」
「とにかく目を覚ましていただいたんだから結果オーライよ」
何なんだろう……この人たち。
ドギマギするオレを見て、女たちは嬉しそうに微笑んでいた。
中にはうっすら涙を浮かべている者もいた。
そして、見た感じ一番年上そうな女が言った。
「お帰りなさいませ、われらのアポロン様」