幕開け
鼻につく甘い香りに目を覚ましたユイヒは、あれ、と怪訝そうに眠たい目をこすった。
すん、と鼻を動かしてみるが、先ほどの不快な甘ったるい香りと、今嗅いだ秋の夜の爽やかな香りは全然違う。
夢には匂いなどの感覚がないという話はよく聞くけれど、私は例外なのかな。
顔にかかった長くふわふわの髪を背中に流して、もう一度ベッドに倒れこんだ。フリルのついたネグリジェの上に、軽い羽布団をかけて、再び眠りの体勢をとる。
夜特有の張りつめた静けさに身を任せると、自然と睡魔がすり寄ってきた。
小さくため息をついて、あくびをこらえたユイヒは、明日を思って、毎日恒例のお願いを心の中で唱えた。
――明日もいい日になりますように。
そして、目をつむろうとした。
が、まぶたが動かない。というか体全体が動かない。
大丈夫。ただの金縛りだ。落ち着いて眼球を動かせば金縛りはとけるって、前に先生が言っていた。
ユイヒは必死で知識を探って目に集中する。しかし、その意識を邪魔するかのように耳鳴りが始まった。頭が揺すぶられるような感覚の向こうで、風と女の子の悲鳴が聞こえた。
何かから逃れようとするような切ない叫び。
そしてまた…あの甘い香り。
これは何、と思考が停止した瞬間、自分のベッドの脇に少女がいるのが見えた。
髪が天女のように長く、古びた服の少女は肩で息をしながら立っていた。ユイヒを見下ろすその表情は真剣だ。その少女にユイヒは心当たりがなかったが、どこか懐かしい気がして恐怖は感じなかった。
少女はユイヒの目を見つめた。
その唇が、ゆっくりと動く。
i.u.e.e.e
口の動きから母音は読み取れたが、なんと言ったのかはわからない。
ユイヒが聞き取れていないことに、少女は気づいていないのか、もうそれ以上はなにも言わなかった。
ただ不安そうに窓の方を見やってから、再びユイヒを見下ろす。
表情を歪めた少女は、祈るような仕草をしたあと
――ユイヒの中に飛び込んだ。
すうっと吸い込まれるように少女が消えて行く。
それに対応するかのように、ユイヒの体の金縛りがとけていく。
別に少女が中に入ってくる、という感覚もなく、もしかして憑依されたのか、とも疑ってみるが、思考も身体もユイヒのもののままだ。
「…夢、かな。」
そこに思考を落ち着けたユイヒは、変な夢をみたなと、頬に手を当てる。
と。
「…私、何を泣いてるんだろ…」
いつのまにか頬をつたっている涙をぬぐい、妙に疲弊した身体をベッドに横たわらせた。
なんだかとても悲しかった。胸の中がとても空虚で、理由もわからないけれど、ただただ悲しい。
それでも、ユイヒはいつのまにか眠りに戻っていったのだった。
これがすべての終わりと始まりの幕開けである。