誤解
「……ラ。アキラ」
ぼんやりとした意識の向こうで、名前を呼ばれたと同時に身体を揺すられた。
「へ?」
「へ? じゃなくて。着いたぞ」
「えっ」
ようやく覚醒した意識で最初に感じたのは、左頬に当たる温かな感触。目前には雄大の横顔が……って、え? ええ?!
慌ててガバッと身体を起こした私を見遣って、小さく息を零す。
「そんなに飛び退かなくても」
「ごっごめん!」
ほんの十分程の間だったのに、どうやら熟睡していたらしい。しかもちゃっかり雄大を枕にしていた事が恥ずかしくてかーっと熱が駆け昇る。張りつめていた糸が切れて安心したのだとは思うけれど、久し振りに逢った彼氏の横で気を抜き過ぎだ。先程吐かれた息は呆れられたからかと思うと、穴を掘って埋まりたくなる。
「……ごめんね?」
ホームに降り立って、下から窺う様に再度謝ると、ちらりとこちらを見遣った雄大が小さく咳払いをして「ん」と控えめに手を差し出した。大きな手と、ほんの少し赤い頬を見比べて怖ず怖ずとその手に触れると、ゆっくりと指を絡めて繋がれた。指先から走った電流と、すごい勢いで全身に廻る鼓動に翻弄されて、何も言えず俯いたまま手を引かれて歩いていく。余りにも激しい動悸は、密かに深呼吸してみるものの治まらず、繋がれていない方の手を胸の上でぎゅっと握り締めた。
「アキラ」
駅を出て暫く歩いた頃、不意に呼び掛けられてビクリと身体が跳ねる。「なっなに?」もれなく声の裏返った私はふっと笑われて益々顔を熱くする事となった。
「すげードキドキしてる」
一瞬、雄大の事かと思ったが、繋いだ手をハイと持ち上げられて、それは私の事だと気付く。自覚はしていたが、指摘されると一層恥ずかしい。溢れ返る程の鼓動を持て余して再び俯くと、ふと顎に指が掛かってくいと上を向かされた。
えっと思う暇もなく近付いてきた顔を大慌てで手のひらで押さえる。
「ちょっ、路上! って、ひゃ……?!」
雄大の口元に当てた手のひらに生温かいものが這って、ゾクリと何かが背中を駆け上がる。慌てて手を引っ込めた私に、雄大は必死で笑いを堪えている様だ。
「ユータっ!」
「路上だろ、静かにしろよ」
ぐっと言葉に詰まった私を可笑しそうに見遣って再び前を向いて歩き出す。数分後、二階建ての集合住宅の前で立ち止まった雄大が「ここ」と指差した。
「階段気を付けろよ」
金属製の外階段を昇っていく雄大の背中を数秒見つめて、なるべく音を鳴らさない様にその後に続く。通路の一番端まで歩いて、チラリと振り返った雄大がポケットから鍵を取り出してガチャリとドアを開けた。中に入ると小母さんがパタパタとスリッパを鳴らして出迎えてくれて、「いらっしゃい」よりも先に「ああ、良かった晶ちゃん!」と僅かに涙が滲んだ声で言われて、申し訳なさで一杯になった。
「……ごめんなさい」
「ほんと、無事で良かったわ。疲れたでしょう。どうぞ上がって」
項垂れた私に早口で捲し立てて背を向けた小母さんに思わず「あのっ……!」と声を張り上げた。突然の大声に振り返った小母さんと雄大の視線を一身に浴びてゴクリと喉を鳴らす。胸の前でぎゅっと拳を握りしめて再び「……あの、」と呟いた。緊張して固まった私の前に戻ってきた小母さんに「どうしたの?」と優しく微笑まれて、内心溜めていた思いを吐き出した。
「ほ……本当ですか?」
「え?」
「あのお家、売っちゃうって本当ですか?」
一番訊きたかったその質問をぶつけると、小母さんが目を丸くした。隣に立っていた雄大が「何それ」と信じられない様に呟いた。
「売るって何だよ」
語気を荒くした雄大と私を困惑した様に眺めた小母さんは、暫く沈黙した後「どうぞ」と部屋の中へと促してくれた。パタパタとスリッパの音を響かせて奥に消えた小母さんの背中を見送って雄大と顔を見合わせる。彼の顔には不安が色濃く表れているけれど、きっと私も同様だろうと思う。
「お邪魔します」
一呼吸置いてゆっくりと靴を脱いだ。出してもらったスリッパを控えめに鳴らしつつ奥のドアを開ける。其処はダイニングキッチンで、小母さんが麦茶の注がれたガラスのコップをテーブルに並べてくれているところだった。
違う部屋でテレビを見ていたらしい小父さんも出て来て小母さんと並んで席に着く。
「いらっしゃい、晶ちゃん」
「こんばんは……あの、すみません突然」
「みんな心配するから、今度からは連絡してから来てね」
「すみません……」
しゅんと項垂れた私に顔を上げる様にと言った小父さんが微笑んだ。
「ところで、私に何か訊きたい事が有るのかな」
優しく問われて、鼻の奥にツンと痛みが生じた。何から訊けば良いのか纏まらなくて暫く視線を泳がせたあと、小父さんの顔を見つめて遠慮がちに口を開いた。
「もう……あの家には戻らないんですか?」
「……そうだね。少なくとも10年ぐらいは此方に住む事になりそうだ」
具体的な数字を述べられて、胸にズシリと重石が乗った。10年という年月は果てしなく遠く思えて想像もつかない。
「だから……売っちゃうんですか?」
じわりと込み上げた熱いものを必死で呑み込んで訊ねると、小父さんも小母さんと同じ様に目を丸くした。
「誰からそんな事を?」
小父さんがそう言った時、私の隣に黙って座っていた雄大が突然立ち上がった。
「おれが買うから!」
唐突な発言に場に居た全員が唖然とした。しかし、雄大の発する声は止まる気配は無い。
「そりゃ、今は無理だけどさ。家のローンならバイトして払うし、全額は無理かもしれないけど何れあの家にアキラと住みたいんだよ!」
息も吐かずに告げられた台詞に小父さんと小母さんは完全に固まっていて、私は体温がどんどん上昇するのを感じていた。今度仕切り直すと言った雄大の台詞の続きを、まさかこんな処で宣言されるとは思ってなくて、金魚の様にパクパクと口を開閉させるしか無い。
「……そうなのかい?」
暫くの沈黙の後、不意に小父さんに訊ねられてドキリと心臓が跳ねる。
「へ? いや、その……」
しどろもどろに答えた私に雄大の不満げな視線が刺さる。全員にじっと見つめられて、冷や汗を流しつつ「……どうでしょう?」と苦笑した途端、隣に腰を下ろした雄大がガクリと首を垂れた。
「何だよその気の抜ける返事は」
「だって、大学卒業してからの話とかまだ分かんないし」
「直感で答えろよ」
「意味分かんない」
思わずいつもの調子で遣り合ったあと、ふと目の前の小父さんと小母さんの苦笑混じりの視線を感じて口を噤む。
「要するに雄大は断られたの?」
「何言ってんだよ母ちゃん! 見ての通りうまくいってるよ!」
「母さんにはそうは見えないわー」
小母さんに含み笑いで言われた事でまたしても体温が上昇して居たたまれなくて俯いた。しかし、お蔭で重かった空気が払拭されて少し気が軽くなった。お茶を勧められて、有難く一口啜ったところに「でも、やっぱりふたり付き合ってたのね」と軽い調子で言われて思わず口内のお茶を吹き出しかけた。
「え、ユータ言ってなかったの?」
「あー……まあ、何かタイミング無くて」
「ウソ」
「何だよ、そっちだって言う前にバレてたんだろ」
「それはそうだけど」
再び始まったやり取りを「まあまあ」と遮った小父さんの方を同時に向くと、相変わらず苦笑気味ではあったが、出迎えてくれた時よりも雰囲気が柔和に感じられた。
「晶ちゃん」
「……ハイ」
「こんな息子だけど、良かったらこれからも宜しく頼むよ」
ふわりと笑った小父さんは、何かを思案する様に一拍置いて言葉を繋いだ。
「あの家が気に入っているのなら住んでもらって構わない」
「え? でも……」
誰かに売り渡してしまうのではないのだろうか。キョトンと瞬きをしていると、小父さんもお茶を一口啜ってコトリとグラスを置いた。
「家を売る予定は無いからね」
「えっ」
驚きつつも、新しい人が来ると母から聞いた事、隣家に知らない人が沢山居た事などを伝えると、「なるほどね」と納得した様に頷いた。
「どうしてそんな勘違いになったのか、漸く腑に落ちたよ」
「勘違い……ですか?」
聞き直すと「ああ」と呟いた小父さんが再びお茶のグラスに手を着けた。
「確かに、新しい人が住む予定だ。私の知り合いなんだがね」
少し速まった鼓動を感じながらコクリと唾液を呑んで言葉の続きを待つ。
「長年住まないと家も傷むと言うし、ちょうどあの辺に賃貸を探している知人が居たから貸したんだよ」
「そう……なんですか」
「5年の契約だから、君たちが大学を卒業する頃には空いているよ」
その言葉を聞いてゆっくりと雄大の方に視線を遣ると、同じく此方を向いた彼と目が合った。なんだか照れ臭くて、弛む口の端を懸命に締めつつお茶に手を伸ばす。
「しかし、そうか。もう結婚するのか」
小父さんがしみじみと呟いた途端、グラスを倒してしまってテーブルの上に液体が拡がった。
「ごっごめんなさい」
「……なんだよ、アキラ」
片付けてくれる小母さんに慌てて謝った私に、雄大のじっとりとした視線が刺さる。
「嫌な訳?」
「え? 嫌とか、なんかそういう事じゃなくて、その、えーと……」
纏まらない思考がぐるぐる廻って、焦って何を言っているのか分からないでいると、台拭きを片付けた小母さんがにっこりと微笑んだ。
「雄大、そんなに焦ると晶ちゃん逃げちゃうわよ」
絶句して苦虫を噛み潰した雄大から、こちらに小母さんの微笑みが向いた。
「ごめんなさいね、晶ちゃん。せっかちな息子で」
「い、いえ」
「まだ高校生なんだし、他にいい子が居たらその子とお付き合いしてもいいのよ?」
「母ちゃん!!!」
語気の荒い声を発した雄大が不機嫌なオーラを放っている。明らかに怒っている彼に対して、小母さんは含み笑いだ。完全にからかわれていると思うんだけど、雄大は本気でムスッと拗ねている。そんな状況だけど、向こうを向いて頬杖を突いている様が何だか可愛く思えてキュンとしてしまった。恥ずかしいから言わないけど。
苦笑した私に小母さんは、ふふっと笑みを零して「何か食べた?」と聞いてくれた。正直に空腹だと伝えると、残りもので悪いけど、と沢山の食事を並べてくれた。
「狭いけど、どうぞ泊まっていってね」
「ありがとうございます」
突然来たにも拘らず、優しい言葉と笑顔に胸が温かくなる。幸せな気持ちで食事をいただいていると、ふと「雄大、あんたの部屋にお布団敷いたげて」という台詞が耳に飛び込んで再度吹き出すところだった。
(ゆ、ゆユータの部屋?!)
内心大恐慌の私に構わず、どこからか布団を持ってきた雄大がテーブルの前を横切った。
「アキラ、それ食ったら風呂沸いてるから入れよ」
「え? あ、う……うん……」
雄大が布団を運んできたのはどうやら小父さんと小母さんの寝室の方かららしい。奥に納戸が有るのだろうか。このダイニングを挟んで部屋は2つしか無さそうなので、必然的に私の寝る場所は雄大の部屋しか無い……?
全く予想もしていなかった展開に鼓動が跳ね上がる。まあ、同じ部屋に寝たからと言って、こんな丸聞こえになりそうな状況で初体験は無いと思うけど、でも緊張して絶対に眠れないに違いない。
ものすごい勢いで駆け巡る動悸とお茶碗を目一杯握り締めて、息を詰めたまま雄大が入っていった部屋の方をじっと見つめて固まった。




