卒業したら
「お、おはよう」
雄大がうちに泊まった翌朝、洗面所でばったり出会した。うっかり声が裏返ったのは仕方が無いと思う。同じ家の中に居るのだから、朝イチの着替えもしていない状態で顔を合わせても何ら不思議は無いのだけれど、心拍数が急上昇するのは避けられない。
昨夜、私にとっては思い掛けなく雄大が泊まる事になったのだけれど、彼には一階の客間が用意されていたし、晩御飯の後は順番に入浴して寝る事になったので、結局あまり話もしなかった。それでも、同じ屋根の下に雄大が居るかと思うとどうにも落ち着かなく、中々眠れなかった。
起き抜けにそんな状態での遭遇は刺激が強い。一応、自分の部屋で鏡は覗いてきたので少なくともヨダレ跡などは無い筈だけれど、何とも気恥ずかしくて目が合わせられない。
洗顔は後にしようかとその場を去りかけたら、不意にクイと腕を引かれて洗面所の中に連れ込まれた。
「え、ユー……」
閉められる引き戸に速い瞬きをしつつ、再び裏返る寸前の声で名前を呼び掛けたら、背後から伸びた手に口を塞がれた。
「しー」
しーって、待って。後ろから抱き竦められていると言っても良い格好に顔から勢いよく火を噴いた。もう、刺激が強いとかいう次元の話では無い。体内で激しく暴れる鼓動が耳元で大きく鳴り響いていて、顔が熱くて堪らない。
「ちょっとだけ」
以前にも同じ台詞を言って抱き締められた事が有ったな、とふと思ったけれど、熱い耳を掠めた吐息と囁き声にそんな事は綺麗さっぱり飛んでしまった。
緊張の余りカクカクと震える膝を必死で踏ん張って息を詰めると、背中に雄大の少し速い鼓動を鮮明に感じて、より一層動悸が激しくなった。
昨日から、数ヶ月分まとめてかと思う程の抱擁とキスに頭が真っ白だ。黙って抱き締められるままになっていると、小さく喉を鳴らした雄大が躊躇しつつ「……嫌?」と呟いた。慌てて横に首を振るとホッと漏らされた安堵の溜息が頬を撫でた。
嫌な訳がないよ。逢えなかった期間を埋めてくれる様で安心する。けれど締め付けられる胸は痛くて壊れそうで、でもやっぱり泣きそうな程嬉しい、こんな気持ちを伝える術は有るんだろうか。
震える手を恐る恐る動かして、自らの身体に触れる雄大の手にそっと重ねると彼の腕がピクリと跳ねた。
「……ユータ」
すきの気持ちで溢れてしまった胸の内を何か言葉にしようかと振り返り掛けた時、外の廊下でパタパタと軽やかなスリッパの音が響いて、慌てて飛び退った。
キスを目撃されたのは今思い出しても相当恥ずかしかったのだ。こんなにくっ付いているところを再び見られるなんて冗談ではない。先程とは違う意味でドクドク暴れる鼓動に翻弄されながら、慌てて歯ブラシを取り出して2人で磨いていると、軽いノックの音が響いた。ほぼ同時にカラリと引き戸を開けられて、口内の泡を思わず呑み込むところだった。
(そんなに直ぐ開けたらノックの意味が無いよ!)
内心叫んだが口には出さず、代わりに泡を洗面ボウルに吐き出した。
「雄大くん、朝ごはんはパン? ごはん?」
「え? あ、じゃあ……ごはんで」
返事に少々吃りつつ僅かに顔を引き攣らせた雄大に「はいはい、ごはんね」と弾んだ口調で答えて和やかに出て行った母の背中を見送って、体内の息を大きく吐き出す。
一拍置いてどちらからとも無く顔を見合わせた直後、ほとんど同時に吹き出した。
***
そして数時間が経って、帰りの電車の時間が迫ってきた。あっという間だったな。リビングで掛け時計を眺めて、少し早いけれどと思いつつ腰を上げる。気持ちノロノロと靴を履いて「いってきます」と家を出た。雄大を駅まで見送りに行く為だ。
門を出た処で立ち止まっている雄大の隣に並んで、静まり返っている隣家の2階を見上げた時、ふと手が包まれた。繋がった手から彼の顔へと視線を移すと、僅かに瞳を泳がせた雄大が「あのさ」と呟いた。
「うん……?」
言葉の続きを聴こうと、目の合わない雄大の顔をじっと見つめていると、益々横を向いた彼がコホンと小さく咳払いをしてこちらに向き直った。
「おれ、大学出たら此処に住もうと思うんだよ」
「あ、帰ってくるの?」
小父さんや小母さんも帰ってくるのだろうか。期待に満ちた瞳を向けた私に「いや……」と言葉を濁して「多分おれひとり」と言い難そうに口を開いた。
「……そっか」
大学を出たら、と言った。すると、こっちで就職してこの家に一人暮らしをするつもりだという事か。それでもいい。少し先の話だけれど、またこの距離で雄大と暮らせるなら。大学もこっちで目指すと言っていたけれど、学生の間は違う処に住むのだろうか。此処だったら良いのに。でも、色々と事情も有るかもしれないし……
次々と廻る考えに気を取られていたら、押し黙っていた雄大がゆっくりと口を開いた。
「…………アキラも来いよ」
「え?」
数回瞬きをした後、「勿論」と答えると雄大の頬が僅かに染まった。
「じゃあ……」
「都合のつく日は遊びに行くよ」
何か言い掛けた雄大と同時に告げると、がっくりと項垂れた彼が「そうじゃなくて」と力無い声を発した。
「その……毎日」
「へ? 毎日はちょっと分かんないけど……」
益々俯いた彼に首を傾げると深々と溜息を吐き出された。そんな、大学を卒業した後なんて未だ全然想像も出来ないのに、毎日行く約束なんて。口を引き結んで頭をがしがしと掻いた彼を困惑して見つめていると、「ごめん、無し」と新たな溜息が落ちた。
「え? 何が?」
「また仕切り直すよ」
それっきり無言になった雄大は、疑問符が大量に浮かんだ私の手を引いて駅へと歩みを進める。先程の会話の意図は分からないけれど、何だか淋しくなって繋がれている手に僅かに力を込めると、雄大もこちらをちらりと見遣って手を包み直してくれた。
夏休みはもうすぐ終わりだ。今度はいつ逢えるんだろう。早くても冬休みだろうか。
また何ヶ月も逢えないと思うと急に淋しさが押し寄せて、俯いて眉根を寄せた。
「また来るよ」
私の心が見透かされたかの様な台詞に顔を上げると、「テスト休みとかさ」と言葉が繋がれた。
「……うん」
頷いたけれど、そんな簡単に逢える距離ではない事は知っている。お金も掛かる事だし、実現はしないかもしれないけど、そう言ってくれるだけでも嬉しかった。
ホームのベンチに並んで座ってぽつりぽつりと話をしていたら、乗る筈の電車が間もなく到着するというアナウンスが構内に響いた。あっという間に来てしまった電車を見つめてきゅっと唇を噛んだ私の頭がポンポンと叩かれる。顔を上げると、そこには柔らかい笑みが有った。
「…………またな」
込み上げた涙を必死で堪えて笑顔をじっと見ていたら、口の端からふっと笑いを零した雄大が私の髪をくしゃくしゃと乱した。
「や、ちょっと! ぐしゃぐしゃ」
「あんま変わんないって」
「もう!」
手櫛で髪を直す私に可笑しそうに笑いながら手を振って電車に乗り込む。直後、笛の音が響いてプシューという音と共にゆっくりとドアが閉まった。
笑顔のままの雄大が段々遠ざかっていく。ホームを走って追い掛ける事も出来ず、去り行くそれを只々見つめていた。
***
「プロポーズじゃん!」
雄大を見送った後、1人で家に帰るのが淋しくて、駅前のカフェで梅香とお茶をしながら先程の出来事を話すと興奮気味の台詞が飛んできた。
「は?!」
頭の片隅にも浮かばなかったことを言われて、頓狂な声を発してしまった。慌てて両手で口に蓋をしつつ身体を小さくして周りを窺った私に構わず、梅香のテンションと声のトーンは落ちる気配がない。
「大学出たら結婚しよう、かー。いいなーいいなー」
(待って。そんな事は一言も言われていないけど!)
しかし、すっかり宙を見つめて意識が何処かに行ってしまっている梅香に「違う」と訂正する隙は無く、少し氷が溶けて薄まったアイスキャラメルラテを両手で抱えて無言で啜った。
「で? 返事は?」
夢の世界から不意に帰ってきた梅香に勢い込んで質問されて、呑み込み損ねたラテが喉の奥で暴れている。辛うじて吹き出しはしなかったが、派手に咽せ返って周囲の更なる注目を浴びた気がする。
「ちょっと晶、だいじょうぶ?」
慌てて差し出してくれたハンカチを受け取って、涙目でこくこくと頷いた私の肩を両手で掴んだ彼女は、「オッケーしたの? やったー!」と目を丸くする様な解釈をした。
慌てて手を顔の前で振って、未だゴホゴホと咽せながら「違うよ!」と否定すると、「えー」と不満げな声を出した梅香がストンと腰を下ろして彼女のドリンクを一口飲んだ。
「なんでダメなの?」
何故とか、それ以前の問題だ。何せプロポーズだなんて微塵も思わなかったのだから。そもそも本当にそうなんだろうか。確かに、結婚という言葉は出た事が有るけれど、未だ高校生である自分たちには現実味が無い話だし、大学を卒業したら、と時期を決めてきた事も驚きだ。
暫く考えて「本当にプロポーズなのかなあ?」と怖ず怖ず発言すると、「そうに決まってる」と自信満々の回答があった。
「……どうして?」
苦笑気味に訊ねると「だってムーンストーンだよ」と言われた。意味が分からず「は?」と聞き返すと、梅香の指が私のペンダントを突いた。
「なんでこの石にしたと思う?」
「え? 誕生石……だから?」
突然の質問に瞬きをしつつ答えると、「それもだけど、」と前置きをして「宝石言葉があるんだ」と意味ありげに笑った。聞き慣れない言葉にキョトンと梅香を見つめていると、
彼女は得意げに指を一本立てて声を少し顰めた。
「その石は、恋愛成就と幸せな結婚て意味が有るよ」
呆然と見つめた梅香の顔から自らの胸元へと視線を移す。そっと手に取った石から放たれた控えめな煌めきを暫し見つめて顔を上げると、完全に頬を弛めた彼女が居て慌ててペンダントから手を放した。
「ユータくん的には、それプレゼントした段階で意思は固まってたと思うなー」
再びうっとりと宙を見つめた梅香に密かに苦笑を零しつつ、胸元に触れる少しひんやりしたペンダントの感触と僅かに速まった鼓動を感じていた。
***
それから程無く新学期が始まって、漸く夏休み気分が抜けた頃。
「お隣、新しい人が来るみたいよ」
母が何気なく言った台詞に固まった。口にしていた朝ごはんが喉にイガイガと刺さる。
(新しい人? 新しい人って……)
言葉の意味が理解出来ずに呆然と母を見遣ると、「またご挨拶しないとね」と言って茶碗を洗う為に席を立った。食卓にはまだ料理の残った器が乗っているけれど、どれも色彩を失って歪んで見えた。
あの家を、売ってしまうって事なんだろうか。そんな、だって、帰ってくるって。雄大が大学を卒業したら此処に住んで、それで私にも来るかって。
あの言葉がもしプロポーズじゃなくたって構わない。今は離れていても、そのうち帰ってきてまた窓越しにいろいろと話が出来る日が来ると信じていたのに、家が無くなってしまったら、雄大の居る家が無くなってしまったら……
頭の中で勢い良く廻った思考に答えは見えず、鼻腔が急激に熱された。
(やだよ……!!)
どうか間違いであって欲しいと願いつつ登校する為に家を出たら、こんな朝早い時間にも拘らず隣家の周りに知らない人が何人も居て、唇を噛み締めて速足でその場を通り過ぎた。
ムーンストーンには色々な石言葉が有りますが、本文の様な意味も有るらしいです。




