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きみの家まで30秒  作者: 柏原みほ
高校2年『きみの家まで』
52/56

浴衣

 遠くで鳴る花火の音を上回るぐらいに、自らの鼓動がやけに大きく響いている。暫く連続して打ち上げられたそれが一段落したのか、辺りはしんと静まり返った。そこで聞こえるのは、名前の分からない虫のほそやかな声と、めいっぱいひそめたお互いの呼吸の音。

 他に誰も居ないこの場所で特に息を殺す必要は無いのだけれど、うなじくすぐる雄大の吐息に緊張の余り思わず息を詰めてしまう。

 久し振りに逢った雄大に強く抱き締められて、自分でも驚く程に脈が速い。嬉しいのだけれど、それ以上に壊れんばかりの動悸に翻弄ほんろうされて胸が痛く、苦しくて涙がじわりと浮かぶ。泣きそうな気持ちと詰めていた息を同時に呑み込むと「ひっく」と微かな声が漏れた。

 すると、「ごめん」と呟いた雄大の腕の力が弛んで身体がそっと離された。肩を柔らかく掴まれて顔を覗き込まれた事で涙は引っ込んだけれど、今度は顔中が燃える様に熱くてどうにも居たたまれない。

 視線を逸らす事も出来ずに固まっていると、小さく喉を鳴らした雄大の瞳が近付いた。反射的にピクリと身体を震わせた私の唇は柔らかい吐息に包まれて、一度治まった涙が再び勢い良く込み上げた。熱い鼻腔をクスンと鳴らすと、再度「ごめん」と呟いた雄大が申し訳無さそうに目を伏せた。

 別に雄大を責めている訳でも、怒っている訳でもないのだけれど。泣いたのは、久々の再会と抱擁に感極まったからだとは恥ずかしくて言えなくて、誤摩化す為に「どうして遅れたの?」と訊ねると、バツが悪そうに頭を軽く掻いた雄大が、岩に昇って私の隣に座りつつ口を開いた。

「……迷子だよ」

「ユータが?」

 聞き返すと、即座に「違う」と否定が飛んで来た。

「乗換駅のホームで泣いてるちびを見つけてさ。駅員に連絡して親探してる内に乗る筈だった電車行っちゃって」

 何だか雄大らしい。それにしても、連絡してくれれば良かったのに。そう言うと、益々ばつが悪そうに口篭もって言葉の続きを発した。

「や、次の電車乗れたら到着時間調べて連絡しようと思ったんだけどさ」

「思ったんだけど?」

「乗り換えまで時間有ったから、一回駅から出て飯食って」

「うん」

「……そしたら、帰り道分かんなくなっちゃって」

 だとしたら、やはり雄大が迷子ではないか。呆れた視線を向けた私をチラリと見遣った雄大が再び頭を掻いた。

「しょうがないから、携帯でナビ機能出して駅まで辿り着いたんだよ」

「……もしかして、携帯」

「そ、電池切れ」

 悪戯を見つかった子どもの様に苦笑して視線を泳がせた雄大に「えええー……」と脱力した声を漏らすと、顔の前で両手を合わせた彼から何度目かの「ごめん!」が飛んで来た。

 頭を下げる雄大の横顔が花火の光に照らされる。一際大きく上がった花の奏でる音が一拍遅れてお腹に響いた。

「もういいよ」

 小さな溜息と共に告げると、こちらを窺う様にそっと見上げた雄大と視線が合った。

「もういいから、花火観よ?」

 雄大と花火が観たくて、夏祭りを楽しみたくて、気合いを入れて浴衣まで着込んで来たのだ。ひたすら遅刻を詫びて欲しかった訳じゃない。

 そんな思いを込めて提案すると、一瞬黙った雄大が「うん」と呟いて視線を木立の間に向けた。それきり会話は途絶えて空を彩る光を2人で眺める。それはとても綺麗で見惚れるのだけれど、いざ会話が無くなると、雄大と触れている腕に意識が集中してしまう。

 ほんの僅か、触れるかどうかの処に有る腕にもう少しくっ付きたい気持ちと、ドキドキして離れたい気持ちが同時にやって来て、固まったまま動けない。

 ほんの数時間前、彼氏と腕を絡めて談笑していた梅香が脳裏に浮かぶ。私も、あんな風に自然に出来たら良いのに。自分の意思とは関係なく硬直してしまう身体が恨めしい。

 でも、このままずっと距離を詰める事も無く、花火も上の空のまま時間が過ぎて行くなんて嫌だ。あと何時間一緒に居られるか分からないのに。

 胸の奥をぎゅっと締め付ける何かを片手で握り締めて、静かに息を吸い込んだ。

 震える手を恐る恐る動かして、直ぐ傍にある雄大の手に指先でそっと触れる。その刹那せつな、静電気でも起こった様にビリッと衝撃が走って触れた手を引っ込めた。しまった、失敗だ。そのまま掴んでいれば良かったのに、引っ込めてしまった事で恥ずかしさが倍増した。再び伸ばす勇気も無く、緊張で僅かに湿った手のひらをぎゅっと握り締める。

 膝頭を見つめていた顔をふと上げると、視線が絡んでドキンと心臓が跳ねた。当然、触った事はバレている筈だ。私から手を繋いだ事なんて無いに等しいのに、もしかして退いた? 背中を嫌な汗が流れる。硬直した私を捉えた瞳が揺れて、引き結ばれた唇がゆっくりと開いた。

「……アキラ」

 囁く様に名を呼ばれて体温が上がっていく。いつの間にか辺りは静まり返っていて、どうやら花火は終わった様だった。代わりに体内でこれでもかという程に鼓動が打ち上がっている。

 僅かに注がれる月明かりのもとで、耳に響く動悸に泣きそうになっていたら、雄大が口元をふわりと弛めて照れ笑いを零した。

「手ぇ握られるって、すげードキドキするんだな」

 案の定バレていた事に顔から湯気を噴いた。逃げ出したいけれど、狭い岩の上で逃げる場所など存在する訳が無い。俯いて益々ぎゅっと握り締めた手がそっと包まれてピクリと身体が跳ねる。そろりと顔を上げると、間近でじっと見つめる瞳が有った。

「……アキラも、ドキドキする?」

 するに決まっている。それはもう、声すらも出せない程に。言葉の代わりに熱が駆け上がった。見つめられて目は泳ぐし、金魚の様にパクパクと口を開閉する自分がとてつもなく恥ずかしい。

「……ゆ、ユータ、あのっ……」

 恥ずかしさに堪え兼ねて絞り出した声は見事に裏返り、新たな湯気を噴いた。穴を掘って埋まりたいほどがっくりと落ち込んだ私にふっと笑った雄大が、堪えきれない様に喉の奥から笑い声を溢れ出させている。

「笑わないでっ」

 遂に爆笑に至った雄大を、握ったままの拳で思わずポコポコと叩くと、暫くされるがままになっていたけれど、やがて笑い過ぎで滲んだ涙を指先で拭った彼が私の手首を掴んで動きを止めた。

「あー……もう」

 笑い過ぎだからか、掠れた声で言った雄大の顔が不意に近付いてピクッと身体が跳ねる。反射的に目蓋を閉じた直後、吐息を包まれて鼓動が爆発した。そっと離れた雄大の口から「…………可愛すぎだって」と消えそうな呟きがこぼれて頬が燃える様に熱くなった。


***


 神社からの帰り道、手を繋いでゆっくりと下駄を鳴らす。静かな夜道に響くカラコロという音に心が弾む。履き慣れない下駄は少し痛いけれど、それを差し引いてもすごく幸せだ。

 そういえば、とふと思って足が止まった。不思議そうな表情の雄大を見上げて「今日、どこに泊まるの?」と訊ねると、うーんと首を捻って「まあ適当に」と返事が降ってきた。

「格安ビジネスホテルでも探すかな」

 雄大の家に行っても電気も何も無いのだから当然と言えば当然なんだけど、やっぱり淋しい。歩き慣れたこの道を一緒に帰っても、もう家から30秒の処には帰らない事にしゅんとする。

「沈むなよ」

 苦笑した雄大を見つめると、照れた様に指先で頬を掻いて「明日、朝イチで会いに来るからさ」とはにかんだ。

「うん……」

 繋いだ手をほどがたく、指を絡ませたまま俯いて家の前で佇んでいると不意にガチャリと玄関ドアが開いて、慌ててその手を放して一歩後退る。弾みで下駄が響かせた高い音に母の発した「おかえり」が重なった。

「た、ただいま……」

 少しばかり引き攣った私に母の和やかな台詞が続く。

「話し声がしたなと思って。早く入りなさいな」

 急かされて胸がきゅっと締まる。もう遅い時間なのは重々承知しているけれど、まだ雄大と居たいのに。少しでも長く居たいのに。

 もう少し待って、とお願いしようと思ったら、母が「ほら雄大くんも」と促した。

「……え?」

 呆けた顔で聞き返すと当然の様に「え、雄大くんうちに泊まるんでしょ?」と言われて目が丸くなる。そんな話は一度もしていないのに、いつの間にそういう事になったんだろうか。驚いて立ち尽くしていたけれど、やがてじわじわと嬉しさが拡がって、勝手に弛む頬を必死で締めつつ隣に立つ雄大を見上げた。

「いいの……?」

「……アキラが良ければ」

 ボソリと呟かれた言葉に体温が上昇する。勿論答えは考えるまでもない。願ってもない提案に鼓動が3割増しになった。

「うん」

「うん?」

「泊まっていって」

 嬉しくて、雄大を見上げてにっこりと微笑むと、視線を泳がせた雄大の頬が少し染まったのが見えて更に嬉しい気持ちで一杯になった。


***


「雄大くん、ほら疲れたでしょう。座って座って」

「どうも」

「お腹空いてる? 何か食べた?」

「いえ、まだ」

「あら、じゃあ直ぐにごはん用意するわねー」

 明らかにウキウキとしながら色々世話を焼いている母を横目に小さく溜息を零した。雄大の事はとても気に入っていたし、久し振りに逢って嬉しいのも分かる。

「晶ちゃんも食べる?」

「あ、うん」

「じゃあ、お味噌汁残ってるから温めて容れてね」

 しかしこの実の娘に対する扱いとの差は何だろうか。改めて溜息を零しつつ、着替える為に部屋へと足を向けると、背後から慌てた様な声が飛んできた。

「あ、晶ちゃん待って待って」

 さっき勝手に食べろと言われたばかりなのに何だろうと不平な顔で振り向くと、引き出しからバタバタとコンパクトカメラを取り出す母の姿が有った。

「写真撮りましょう」

「え?」

「すごくいいわ、その浴衣」

 褒めたのは浴衣で、私じゃないかも知れないけれど、嬉々としてカメラを構える母に口元が綻んだ。写真を撮るなんて高校の入学以来だろうか。何だか気恥ずかしいけれど少し嬉しい。

 何処に立てば良いのだろうかと辺りを見渡していると、折角だから下駄も履いてという話になって再び玄関から外に出た。

「雄大くんもいらっしゃいな」

 呼ばれて瞬きをしながら出て来た雄大に手招きした母は、私の隣に立つ様にと言った。

「え?」

「一緒に撮りましょう」

 まさか雄大と一緒に写真を撮るなんて。それこそ小学生以来じゃないだろうか。緊張して突っ立っていると、「もっとくっ付いて」と距離を詰める様に指示が飛んだ。

 これ以上寄ったら腕がくっ付くけど。徐々に体温が上がる私に構わず近付いた雄大が私の横にピタリと並んで微笑んだ。

「こんな感じ?」

「ああ、いいわね素敵」

 テンションの上がった母が和やかにフラッシュを焚いて、その眩しさに瞳を細める。立て続けに数枚分のシャッター音がして、満足のいく物が撮れたのか、弾む足取りで先に家に入っていった。

 そんな母を見送った雄大が喉の奥をククッと鳴らす。

「相変わらず可愛いよな、アキラの母ちゃん」

「そう……?」

 あれは可愛いというのだろうか。娘としてはもう少し落ち着きなど持って欲しいところなのだけれど。口を噤んで視線を地面に落としていると、雄大が小さく咳払いをした。

「さっきの写真、焼き増ししろよ」

「え?」

「おれも欲しい」

 もごもごと口にした雄大を見上げると、彼の視線が私の頭から足元まで移動した。

「あー……反則」

「はあ?」

 間抜けな声を発した私を前に軽く頭を掻いた雄大が「だから、なんつーか」と言葉を濁して視線を逸らした。妙な空気に包まれて、どうしようかと指先を弄んでいると、一瞬声を詰まらせた雄大がボソリと何か言った。

「え?」

「……急に綺麗になってたら吃驚びっくりするし!」

 言い終わった頃には雄大は完全に向こうを向いていたけれど、赤くなった耳が見えて鼓動が跳ね上がる。綺麗? 本当に? 駆け上がった熱を処理出来ずに穴が開く程見つめていたら、赤い耳の後ろをがしがしと掻いた彼が早足で玄関ドアに歩み寄った。慌ててその後を追うと、ドアノブに手を掛けた雄大がちらりと振り返る。直後、ふと詰められた距離にドキンと鼓動が跳ねた瞬間、静かな空間にチュッと微かな水音が響いた。

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