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きみの家まで30秒  作者: 柏原みほ
高校2年『きみの家まで』
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メール、そして

 翌朝、私はいつも通りの時間に起きて、身支度をして家を出た。

 雄大も大体同じ時間に出て来て「おはよう」と笑ってくれるそんな日々だったのだけれど、当たり前だが隣家は静まり返っていて胸がきゅっと締まった。

 花が好きだった小母おばさんが大事に育てていた鉢植えも、表札代わりに掛かっていた可愛らしい置物も総て無くなっていて、居なくなってしまった事が今更の様に実感として襲ってきた。思っていたよりもずっと大きな穴が胸に空いた様に感じて鼻腔が熱い。

 もう泣かないと決めたのに。初日からこんな事でこの先一年半以上もどうやって過ごしていけばいいのだろう。

 必死で涙を呑み込んで学校へと足を向けた時、鞄の中でメールの着信を告げる音が響いた。慌てて掘り出したそれには『ユータ』と表示されていて、またしても新たな熱が込み上げる。そっと開くと[アキラおはよう]とたった一言のメッセージが有った。

 それだけなんだけど、まるで目の前で言ってくれた様に感じて、感情の渦に呑まれそうだった気持ちがほんの少し落ち着いた。

 そうだ、待ってるって約束したのに。こんな事でめげている場合じゃなかった。

 その場で[おはよう]と語尾にスマイルマークの付いたメールを送信して、改めて学校へと早足で向かって行った。


「晶、おはよ」

「梅ちゃん」

 学校に近付くと、校門の前に立ってにこやかに手を振る人影に気が付いた。思わず辺りを見渡したけれど、どうやら目的は私らしい。今までこんな処で待っていてくれた事は無いから、きっと私を心配してくれたのだろう。友人の優しい気遣いに胸がじーんと温かくなった。

 他愛無い話をしながら教室に入ると、そこにはいつも通りの風景が拡がっていた。雄大と仲の良かったグループは相変わらず一所ひとところに固まって楽しげに談笑している様だし、他のクラスメイトも同様だ。特に何も変わらないその様子に安堵した様な、胸にほんの少し小さな穴が開いた様な複雑な気持ちになる。その光景を暫く立ち止まって眺めた後、黙って自分の席に着いた。目の前ではまだ梅香が楽しそうに話をしてくれていて、それに笑って相槌を打つ事で先程感じた小さな穴に蓋をした。

 やがてチャイムが鳴って梅香が席に戻ると、彼女が居たときは見えなかった空席が視界に入って目を伏せた。前を向くと自然に目に入っていた雄大の背中の代わりに、今後は誰も座っていない席が見えるかと思うと、何とも言えず胸の穴が大きくなった。


[今日の弁当何?]

 昼休みに鳴った雄大からのメールに[こんなの]と写真付きで返信すると、直ぐに[美味そー!]と返ってきた。そこに音はないけれど頭の中では確かに雄大の声がして、またも胸がキュンと締まった。

 今日のお弁当には雄大が好きなインゲンの肉巻きが入れてある。一緒に食べていたら上げるのにな、と思うと切なさが増した。お弁当を見つめて黙り込んだ私を梅香が心配そうに見つめていたけれど、やがて「それでね」と新たな話題を振ってくれた。何だかそんなに気を遣わせてしまって逆に申し訳ない様な気持ちになる。

「梅ちゃん」

「で、そのフルーツタルトがすっごく美味しくって……って、うん?」

 夢中でスイーツの話をしていた梅香に話し掛けると、ようやく口の止まった彼女が小首を傾げて私を見つめた。しまった、別に私に気を遣って喋り続けていた訳じゃないのかな。話の腰を折ってしまった事に内心冷や汗を流しつつ「……美味しそうだね」と同調すると「でしょー?!」と一段とテンションの高い梅香の声が返ってきた。

「ね、今度一緒に食べに行こうよ」

 ニコニコ笑う梅香につられて笑みが漏れる。「うん」と笑って頷くと、彼女が小さく安堵の溜息を吐いたのが分かったけれど、何も言わずその優しさに甘える事にした。


 放課後、部活を終えて家に帰ると、自宅からは美味しそうな匂いが漏れてきていた。今夜のメニューはどうやらカレーライスらしい。ふと、うちの食卓でカレーを3杯もおかわりした雄大が脳裏に浮かんだ。

(普通、ちょっとぐらい遠慮とかするよねえ?)

 思い出したその出来事に苦笑を漏らしつつ、静まり返ったままの隣家の2階を仰ぐ。

 逆に言えばそれぐらい雄大との距離は近かったという事で、突然取り払われた温もりを改めて感じて鼻腔にツンと痛みが生じた。

 口をきゅっと引き結んでその痛みに耐えると鞄の中から携帯が呼んだ。この着信音は雄大だ。その内容は[腹減ったー!]とかなんだけど、私が泣きそうな時にタイミング良く送られてくるメールは、まるで傍で見られている様に錯覚する。

 此処にいた時はメールなんて滅多にしなかったのに、今朝から本当に沢山のメールをくれる。その分だけ、私を気に掛けてくれる雄大を感じて胸の中が嬉しい気持ちで一杯になった。

[うち、カレーだよ]

[嘘マジで! いいなーこっちは野菜炒めだってさ]

[身体にいいよ野菜]

[じゃあ交換してくれ]

[残念、無理]

 クスクス笑いながらメールのやり取りをしていたんだけど、最後のメールを送ってから急に寂しさに襲われた。

「…………残念、ムリ…………」

 消えそうに呟いてぐっと唇を噛み締めつつ早足で家に入ろうとした時、携帯が鳴った。返信……じゃない。着信だ。

 一度鞄に入れた携帯を慌てて掘り出して震える指で通話ボタンを押す。そして軽く深呼吸をしてからそっと耳に当てた。

『アキラ』

 耳元で響いた優しい声に涙腺がじわりと弛む。熱くなってしまった鼻腔が決壊しない様に必死で我慢しながら黙って突っ立っていると、再び『アキラ』と呟いた彼がコホンと小さく咳払いをして『……よしよし』と言った。

「え……?」

 キョトンとして問い返すと電話の向こうで言葉に詰まった彼を感じた。

「何? よしよしって」

『……だから、アレだよ』

「は……?」

 あれって何だろう。首を捻っていると意味の無い言葉を呻いた雄大が『あーもう!』と声を張り上げた。

「ちょ、何」

『いいから大人しく撫でられてろよ、恥ずかしいだろ』

「は?」

(撫で……てくれたの? よしよしって?)

 一拍置いてじわじわと嬉しさが全身を満たしてきた。沈んだ声で『……今の無し』と取り消しかけた雄大に慌てて「ありがとう」と早口で告げると『いやもういいから』と投げやりな答えが返ってきた。

『悪かったな変な事して』

「ううん!」

 雄大の言葉の意味を呑み込むのに少し時間が掛かってしまったけれど、泣きそうだった私を慰めようと懸命に考えてくれた事は本当に本当に嬉しかった。拗ねてしまった雄大にどう言えばいいかと暫しオロオロして、再度「ありがとう」と伝えた。

「あの、もう一回……撫で撫でしてくれる……?」

 目の前に本人が居たらまず言えない台詞にカーッと熱が駆け上がる。怖ず怖ずと伝えたその言葉に電話の向こうは無言で、ドキドキが激しく暴れた。

『……改めて言われるとすげー恥ずかしい』

「ごめん」

『一回だけだからな』

「え?」

『…………さっきの、言い方が可愛かったからもう一回だけな!』

 そして再びしてくれた『よしよし』の最中に小さく吹き出した私は雄大の文句を一身に受ける羽目になったけれど、可笑しくて笑ったんじゃなくて嬉しくて笑いが溢れたんだ。

 照れて怒る雄大には申し訳ないけれど、おかげで悲しい涙が吹っ飛んだ。そっと自分の手のひらを頭に乗せると、雄大に撫でられた温もりを思い出して鼓動がドキドキと高鳴った。

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