留守
学校帰りに寄ったファーストフード店で2人掛けのテーブルに座っている。向かいには雄大が居て、終始にこやかに話し続けている。
その光景は確かにそこに有るものなんだけど、雄大の声はちっとも頭に入って来ず、何だかビデオを早回しで見ている様で現実味が無い。
両手で持った紙コップから指先に伝わる冷たい感覚だけがリアルだ。
「アキラ? おーい」
ぼんやりと佇む私の目前で大きな手を何度も振られて、漸く意識が現実に戻ってきた。僅かに落としていた視線をその手の主に向けると彼は、少し淋しそうに微笑んだ。
「疲れた?」
「ううん……」
力無く首を振った私を心配そうに見遣った雄大は、何か言いたげに数回口を開閉したけれど其処から言葉を発することは無く、唇を引き結んで視線を落とした。
沈黙が、重い。
ついさっきまで楽しげに喋っていた雄大の笑顔も、私を気遣ってのことだと分かってしまうから尚更重く感じる。
胸にもお腹にも何かがズシリと伸し掛っていて、息苦しくて堪らない。
微かに震える冷えた指先に力を込める。まるで中身の減っていないカップの形が僅かに変わるのを眺めてやや深く肺に空気を入れると、胸の痛みが増して思わず顔を顰めた。
痛みを堪えて口を開いたけれど空気が少し漏れただけで言葉には成らず、再度カラカラに渇いた喉を叱咤して震える声を絞り出す。
「…………ユータ」
やっと出た小さな声で名前を呼ぶと、顔を上げた雄大がにっこりと微笑んで「うん?」と言った。精一杯気遣ってくれて嬉しいけれど、その微笑みは逆に胸に刺さってズキズキと痛みを発している。
「……昼休みに守田くんと喧嘩したって、本当?」
雄大の瞳を見つめたまま訊ねると、無言のまま彼の瞳が忙しなく揺れた。それだけでもう肯定された様なものだ。じゃあ、雄大が別れるって言ったのも本当のことなんだね……?
今まで必死で堪えていたものが一気に迫り上がって鼻腔が熱くなる。直後、目の前で慌てた雄大が滲んで幾筋もの雫が頬を流れ落ちた。
「あ、ちょっアキラ……」
おろおろと空中で手を泳がせる雄大にそれ以上の言葉は出て来なくて、只々嗚咽だけが溢れ出る。周囲の視線とざわめきの中、困惑顔の雄大が私の腕をそっと取って「場所変えよう」と立ち上がった。
溢れる涙を時々手で拭いつつ、雄大に引かれるまま歩いていく。ふと立ち止まった雄大は掴んでいた腕をそっと放して私の手を包んだ。指を優しく絡められてドキドキと速まった鼓動がズキズキと胸に刺さって不協和音を奏でている。
別れるつもりなのに、どうしてこんなに優しくするんだろう。もしかして、最後の晩餐? そんなの無いよ。振られた時に益々傷が深くなる。
「やだ……!」
思わず語気を強めて繋がれた手を引っ込めると、目を丸くした雄大が呆然と私を見つめて、振り払ってしまった手に視線を落とした。
「…………ごめん」
その手をぐっと握り締めて声を震わせた雄大の瞳が僅かに潤んだのが見えて、胸が押し潰されそうに痛む。
(違う。ユータを傷つけたかった訳じゃなくて……!)
心の中で叫んだ台詞は当然彼には届かず、私に背を向けてとぼとぼと歩き出した雄大の背中を見つめて焦る気持ちだけが溢れる。声を絞り出すより先に身体が動いて、気付けば後ろから抱き着いていた。
「え、アキラ……」
動揺の滲んだ雄大の声に鼓動がトクリと弾む。放したら何処かに行ってしまいそうで手に力を込めると、やがてその手を柔らかく包まれた。重なる掌から流れ込んだ速い鼓動は、勢いよく全身を廻って体温を上昇させている。火照る額を背中にこつんと触れさせると熱いものが新たに込み上げて、溢れた雫が雄大の制服を濡らした。
時折抑えきれない嗚咽が溢れる私に雄大は何も言わず、優しく触れている手に僅かに力を込めて立ち尽くしていた。
何分間そうしていたのだろうか。少し冷静になって腕の力を弛めたら、ゆっくりと振り返った雄大の瞳に捉えられて熱が勢いよく昇る。視線から逃れる様に俯いて地面を見つめていると、その視界に大きな手が入って躊躇いがちに私の手を握った。
反射的に身を震わせた私に、引っ込め掛けられた手を掴む。驚いた様に私を見遣った雄大から視線を逸らしたまま恐る恐る指を絡めると、一拍置いてしっかりと繋ぎ直された。
「……不意打ちが多いよな」
いつもよりゆっくりと歩みを進めながらボソリと呟かれた言葉に「え?」と問い返すと、視線だけを此方に向けた雄大が反対側の手で口元を覆いつつモゴモゴと言った。
「……だから、なんつーか……」
歯切れの悪い雄大を見上げると、その頬が上気してコホンと咳払いが放たれる。何を言われるのだろうかと、踊り始めた鼓動を抱えながら息を詰めて次の言葉を待っていると、「心臓に悪い」と予想外の言葉が降って思わず間抜けな声で聞き返してしまった。
「へ? じゃなくて」
軽い溜息と共に呟いた雄大の横顔を呆けた顔で見つめた私にチラリと視線が送られて、絡めた指先が落ち着かなく位置を変えた。
「ドキドキするよ」
呟いた雄大はすっかり彼方を向いてしまったけど、耳も項も真っ赤に染まっているのが見えて心拍数が急上昇した。雄大の方がよっぽど不意打ちだ。
それっきり何の言葉も発さず、絡んだ指先から廻る鼓動に全身を包まれながら家に辿り着いた。てっきりそのまま雄大の家に入るのかと思ったら、私をじっと見つめた雄大が「アキラんち行っていい?」と訊いた。
その問いに暫く考えて「雄大の家がいい」と答えたら私を捉えている彼の瞳が揺れた。
「……ウチ、今誰も居ないんだけど」
「知ってる」
普段なら来てもらって一向に構わないんだけど、今日は昼休みに守田くんとしたという話をちゃんと聴きたい。何か誤解が有るのかもしれないし、仮に本当だとしてもどうしてなのかきちんと訳を訊きたい。
だから、母が居る私の家よりも雄大の家の方が良いと思ったんだ。
暫し固まった後、私の手をギュッと握ったまま黙って玄関の鍵を開ける雄大を同じく無言で眺めていたら、彼が振り返って「本当にいい?」と訊いた。
瞬きを返した私に緊張した面持ちで「おれん家で」と言葉が足される。本当に、と念を押されても雄大の家に入るのはごく当たり前の私にとって、まるで意味の分からない質問だ。瞬きを数回繰り返して「いいよ?」と答えると、再び揺らいだ瞳を向こう側へと逸らされた。
そのまま手を引かれて雄大の家へと入る。靴を脱ぐ際、放した手をじっと見つめてふと深呼吸をした雄大がその手を握り締めて少し引き攣った様な笑顔を浮かべた。
「何か飲むだろ? 用意するからリビングで話そっか」
その提案に頷きかけて、ふと頭に浮かんだ事を口にした。
「ユータの部屋じゃ駄目?」
もうすぐ見られなくなってしまうであろう雄大の部屋を目に焼き付けたくて訊ねると、「えっ」と一言発した雄大が瞳を見開いた。
「あー……いや、今おれ……自信無いんだけど」
私に見られたくない程に散らかっているのだろうか。そんな部屋は何度も見た事が有るし、別に気にしないのに。「いいよ」と答えると、またも視線が忙しなく揺れた。
「……マジで限界なんだけど」
そんなに念を押す程荒れた部屋なのか。もしかして、引っ越し準備? ふと過った考えに胸がキュウッと締まる。本当に、あと数日で居なくなってしまうのかと思うとまた鼻腔が熱くなった。泣いちゃ駄目だ。今日はちゃんと話をしにきたんだから。
気を弛めた瞬間、涙が溢れそうで必死で堪える。私も、限界だ。
「私も」
頑張って微笑むと、雄大の頬が染まった。泳いだ目は逸らされてそっと手が握られる。そのまま静かに階段を上がって彼の部屋のドアが開けられた。
一歩中に入ると、積まれた段ボール箱が目に入ってズキリと胸が痛んだ。その現実から目を逸らして部屋を見渡したけれど、特に散らかってなど居ない。寧ろ綺麗なくらいだ。
「綺麗じゃない?」
床には幾つか箱が置いてあるので、どうしようかなと迷った後、雄大のベッドに座る。口を引き結んで私を見下ろしていた彼はやがてゆっくりと隣に腰を下ろした。身体がぴったりと密着する程近くに座られてドキンと鼓動が跳ねた直後、腕が背中に回って腰を抱かれた。
雄大とくっ付くのは嬉しいけれど、これではドキドキしてしまって話どころではない。
「えっと……」
軽くパニックを起こした頭の中で、何とか訊きたかった事を整理していると、腰を抱いていない手が私の頬に滑って揺れる瞳が近付いた。ビクリと身体を震わせて慌てて瞼を閉じた瞬間、熱い吐息が唇に触れた。一瞬触れて離れたそれに目を開けようと思ったら、続いて二度三度と啄まれて微かな水音が耳に響く。唇をぺろりと舐められて驚いて目を見開いたと同時に、咥内にも入ってきた舌に再び固く瞼を閉ざした。
こんなキスは二度目だ。前回は怖くてどうしようもなかったけれど、今日はいたわる様に優しくゆっくりと触れられて怖くはない。しかし、跳ね上がった鼓動は暴れ過ぎて全身が心臓になってしまったかの様に身体中を支配している。
ふと、動悸の中心の上に手が触れてビクリと身体が震えた。限界だと思っていた鼓動が更に加速して耳の真横で太鼓を打ち鳴らしている。唇は捉えられたまま息が詰まって声も出せず、中心から脇へと身体を撫でる雄大の掌に全神経が集中している。ゆっくりと膨らみに到達した手にそっと力を込められてドキドキが爆発した。
(触られた……!)
服の上からとは言え、もちろん初めての経験で完全にパニックに落ちた私を余所に中心に戻った雄大の手がブラウスのボタンに掛かる。
(え、ウソ待って、ちょっと)
内心大恐慌の私を放ってぷつり、ぷつりと外されるボタンに全身から火を噴いた。
「待っ……!」
大慌てでその手を包む様に両手で押さえたら、唇をそっと放した雄大が至近距離で私の瞳を捉える。濡れて光るその唇と上気する瞳に色気を感じてゾクリと背筋を震わせたとほぼ同時に身体が傾いて、そのまま背中からベッドへと緩やかに沈んだ。
雄大の体重を感じた直後、項に舌が這ってびくりと身体が撓る。その手にそうっと足を撫で上げられて身体の奥がキュウッと締まった。
まるで止まる気配の無い雄大にゴクリと唾を呑んだ。
(ユータ本気? このまま最後までするつもり……?)
それが嫌だという訳ではない。先日、梅香が体験済だと聞いてから何となく自分の中で覚悟も出来ていた。でも、さわさわと身体を這う雄大の手に、思った以上に動悸が激しくなって息も出来ずに全身が硬直する。急激に感情が高まって知らず涙が頬を伝った。
ふと気付くと、私を見下ろして切なげに眉根を寄せた雄大の顔が其処に有った。頬の雫をそっと拭った雄大から小さな声の「……ごめん」が降って、感じていた体重が身体から除かれる。
そして身体を起こしかけた雄大の服を慌てて掴むと、自嘲気味の笑みを微かに漏らしてゆっくりとベッドに座った。両手で頭を抱えてはーっと溜息を吐いた雄大を見て乱れた制服を整えつつ同じく座ると、ばつが悪そうな顔で私の髪をクシャリと撫でた。
「……悪い、焦った」
そう言って床に向かって再度深々と息を吐いた雄大を見遣ると、ふと此方を向いた彼と視線が絡んだ。「ごめんな」と呟かれてふるふると首を振る。
私が固まったから止めたのかな。嫌がったつもりはないのだけれど、未知の経験に対して硬直してしまったのは事実だし。
ふと、もしかしてこの先が無い事を思い出して止めたんだろうかと思って顔が引き攣った。私とはもう別れるつもりだから、最後までしなかった?
考えれば考える程そんな気がして泣きそうな顔で見つめていると、困った様に微笑んだ雄大がそっと私の頭を撫でた。その優しい感触に忘れていた涙が一気に迫り上がる。
不意にボロボロ泣き始めた私に雄大がぎょっとして「ごめん!!」と勢いよく頭を下げた。ベッドの上でまるで土下座をする様な格好の雄大を見下ろして溢れた涙を手で拭う。
謝って欲しい訳じゃないのに。終わりにしたい理由が知りたいのに。
「どうして?」
涙声で訊ねると、再び「ごめん」と言われて、思わず声を張り上げた。
「そんな事訊いてない」
語気を強めた私を見上げて、やがて躊躇いがちに身体を起こした雄大が胡座をかいてシュンと項垂れた。
「…………取られたくないんだ」
ボソリと呟かれた言葉に瞬きを返すと、顔を上げた雄大が辛そうな声を絞り出した。
「アキラの事……誰にも渡したくないって思ったら……つい」
「……え?」
「つい、じゃないよな……手ぇ出さないって言ったのに、ごめん」
沈んで言葉を紡ぐ雄大を只々見つめて段々速くなる鼓動が廻る。
「渡したく……ない?」
小さな声で繰り返した私を雄大の真っ直ぐな視線が貫いた。雄大の瞳は嘘を言ってない。じゃあ、守田くんと話した内容って?
疑問符を大量に浮かべつつ「私とは別れたいんじゃ……?」と怖ず怖ず訊ねると、口を開けたまま私をポカンと眺めた雄大が頭をガシガシと掻いて拗ねた様に言った。
「どんな話聞いたんだよ」
「ユータが別れるって言ったって」
「違う」
ガックリと項垂れた雄大がふと顔を上げて、そっと距離を詰めた。ドキンと鼓動が跳ねた途端、抱き寄せられて鼓動が大きくなった。
「おれ……ちょっと弱気になってて」
呟かれる言葉にドキドキしながら耳を傾ける。
「守田に、後頼むって言ったら、別れるのかって言われたんだよ」
「後を頼むって?」
不安に襲われて震える声を出したら、私を包む腕の力が強くなった。
「アキラに淋しい思いして欲しくない。幸せで居て欲しい」
吐き出された雄大の本音に何も言えなくて無言を返す。
「それが出来るなら、相手はおれじゃなくても良いって……」
段々小さくなる震え声で言った雄大の顔が私の肩に埋まる。そして、声を殺して泣き始めた彼に私の瞳もじわりと潤んだ。彼の頭を抱え込む様に抱き締めて、その柔らかい髪を梳く様にずっと撫でていた。




