現実味
転、校……?
雄大の放った言葉が呑み込めなくて、喉にイガイガと嫌な痛みが生じた。
「じょ、冗談……」
しんと静まり返った重い空気の中、ゴクリと唾を呑んで口を開いたけれど、何の言葉も出なくて微かな吐息だけが漏れた。大分経ってから漸く絞り出した掠れる声は、自分でも驚く程震えていた。
「冗談だったら良いんだけどな」
「い、いつ?」
「…………引っ越しは来週日曜」
一週間しか無い。あと、たった一週間しか無いの?
思考回路が遮断されて頭が真っ白になった私に雄大が微笑んだ。でもその笑顔は今にも泣きそうで、益々何も言えなくなった。
愕然として固まっている間に「おやすみ」と呟いた雄大がカーテンの向こうに消えた。待って、と言い掛けた私の声は空気に溶けて、代わりに嗚咽が込み上げる。
成す術も無く窓を開け放ったまま只々見つめていた雄大の部屋のカーテンに目に見えて皺が寄った直後、幾筋もの雫が私の頬を伝った。
***
……一睡も出来なかった。
うっすらと窓の外が明るくなる様を眺めてベッドから身体を起こした途端、頭痛を覚えて頭を抱え込む。
(来週転校って……本当に? 本当に何処かへ行ってしまうの?)
雄大の家がある方の窓を暫し呆然と見つめた後、指に触れている髪をクシャリと乱してのろのろと立ち上がった。
机の引き出しに仕舞った細長い箱を取り出してそっと開けると、中には確かに可愛いペンダントが煌めいている。
昨日、あんなに嬉しかったその輝きは、これ以上無い程に私の胸を締め付けた。
記憶に残る事がしたかったと雄大は言った。
確かに残ったよ。この上なく幸せな時間だった。でも、それと引き換えに雄大が居なくなるんなら、そんな時間要らなかったのに……!
高ぶった感情と共に熱い雫がぼろぼろと頬を伝った。
本当は分かってる。昨日の誕生祝いが無かったとしても雄大は引っ越してしまう事も、だからこそ目一杯祝ってくれた事も分かってる。
それでもやっぱり思わずにはいられなくて、またしても嗚咽が込み上げた。
完全に陽が昇った頃、泣き腫らした瞼を擦りつつ着替えて階下へ降りた。「朝ごはんは?」と訊ねた母に言葉少なに要らないと返事をして靴を履く。雄大の言葉を聞いてからずっと、お腹の中で何かがグルグルと渦巻いて気持ち悪い。ごはんなんてとてもじゃないけど入りそうになかった。
重い脚を引き摺って門の外に出ると、塀に凭れて立っている人影があった。
「ユータ……」
「おはよ」
にっこりと微笑んだ雄大に無言を返してギュッと唇を噛んだ。俯いた視界にスニーカーの爪先が入って、一拍のちにそっと身体が包まれた。
「そろそろ出てくる頃だと思った」
昨夜、詳しい事は何も訊けなかったから話を聴こうと思って出て来たのだ。そんな私の行動が完全に読まれている事に内心苦笑を漏らしたが、顔には出せなかった。微笑んでくれる雄大に笑い返そうと思うけど、苦笑すら浮かべる余裕は無い。
言葉に詰まった私を更にギュッと抱き締めて「……泣かせてごめん」と呟いた雄大に益々固く唇を噛み締めた。
「熱いから気をつけろよ」
そっと背中を押した雄大に促されて彼の部屋に入る。そして目の前にコトリと置かれたマグカップを怖ず怖ずと手に取った。立ち昇る湯気と珈琲の香りにほんの少し気持ちが落ち着いた。
「冷たいのより温かい方が落ち着くかと思って」
「…………ありがと」
消えそうな声で呟いてそれを一口啜ると、温かい苦みが喉を滑り落ちて空っぽの体内に染みた。黙って珈琲を口にする私を暫く見つめた雄大が、座卓に組んだ両腕を乗せて深々と溜息を吐いた。
「やんなっちゃうよな」
溜息と共に吐き出された言葉を聞いて雄大へ視線を移すと、テーブルに乗ったままの左腕に頭をコテンと乗せた彼の右手が、私へとそろりと伸びて遠慮がちに髪を摘んだ。そっとマグカップを置いて、毛先を弄ぶ彼にされるがままになっていると、再び大溜息を吐いた雄大の両腕が机上でだらりと伸びて彼の額が卓上に付いた。
「行きたくないなー……」
突っ伏した机に放り出された、僅かに涙声の本音に胸が熱くなって瞳が潤む。そこに有るつむじを見つめて、恐る恐る手を伸ばして雄大の頭をそっと撫でた。一瞬ピクリと震えた彼のつむじはゆっくりと見えなくなって、潤んだ視線がこちらに向けられた。
「アキラ……」
「うん?」
「ガキ扱いかよ」
「そうかも」
雄大が泣いてたら私が慰める。強がって滅多に泣いたりしないけれど、淋しいときは私が守ってあげるんだ。だって、昔から私は「お姉ちゃん」だったから。
少し膨れた雄大に涙を堪えて微笑んだ。視線が絡んで数秒後、身を乗り出した雄大の顔が間近に有って吐息が触れた。
「……転勤だってさ」
「うん」
「急だよな」
「うん」
ポツリポツリ話される『転校』の詳細に頷きながら耳を傾ける。手にしたマグカップの中身はとっくに無くなって冷たい感触を掌に伝えていた。その冷たさは私を冷静にしたけれど、同時に転校話が現実味を帯びて押し寄せてきた。
不意にぽろっと涙をこぼした私にぎょっとした雄大が慌てて距離を詰めて「泣くな」と頭を撫でてくれた。後頭部に優しく触れる雄大の手に暫く身を委ねて、やがて襟元に顔を埋めた。
「…………ッく」
漏れる声を必死で堪えて肩を震わせる私を包んだ腕にゆっくりと力を込めた雄大は、何も言わずに只々強く抱き締めてくれていた。
***
「おはよー」
「おはよ……」
翌朝、普段と変わらない笑顔を向けた雄大にモゴモゴと挨拶を返すと、彼がふっと笑みを零した。
「何、緊張?」
「違うわよっ」
「そーか、そんなにおれの事がすきかー」
冗談めかして軽い口調で言った雄大に軽く息を吸い込んで「そーだよ」と答えた途端、「えっ」と一言発した雄大が足を止めて頬を染めた。
「え、ちょっアキラもう一回!」
「やだ」
フイと横を向いた私にブツブツと「不意打ち過ぎんだろ……」と漏らす雄大にクスリと笑いを零してそうっと手を握ると、彼の頬が更に赤くなった。
昨日散々泣いた私に雄大が気を遣って、朝から明るくしてくれたのは分かってた。だから、その気持ちに私も乗ろうと思ったんだ。せめてこの一週間は、変な意地を張らずに素直に自分の気持ちを出したい。
そう思って頑張ってみたけど、雄大を好きだと肯定するのは何度しても気恥ずかしいし、自分から手を握るなんて初めての事で、とてつもなくバクバクと心臓が踊っている。
暫くして「もー……」と呟いた雄大に、ゆっくりと指を絡めて繋ぎ直されたその手から拡がる鼓動を数えていたら、あっという間に校門が見えてきてしまった。早い。学校がもっと遠くなら良かったのに。
家から徒歩20分足らずと近いからここに決めたというのに、過去の自分を横に置いといて密かに溜息を零す。
前にも同じ事で悩んだ事が有るけれど、今回はタイムリミットが有るだけに余計にそう思う。ほんの少しでも多く雄大と一緒に居たいのに……
考えたら泣きそうになってしまって慌てて首を振った。
駄目だ、泣いたら。雄大に余計辛い思いをさせてしまう。昨日の様な哀しい顔はもう見たくない。
思い出して込み上げてしまった熱いものを必死に呑み込んで、雄大の手をきゅうっと握り返した。
***
校門を潜った雄大は何時もと同じ様に、昇降口辺りで声を掛けられた男子と談笑しながら教室へと向かって行った。
転校の事は未だ公表してないし、今まで通り振る舞うのは当たり前だとも思うんだけど、楽しげに笑っている雄大にどうにも遣りきれない想いがお腹の中で渦を巻いて、重石の様にズシリと胃を圧迫した。
それとも、気持ちの整理が出来ていないのは私だけなんだろうか。雄大はもう吹っ切って前を向いているの?
重い溜息を零しつつノロノロと靴を履き替えて、去って行く雄大の背中を見つめていると、ふと背後から「高橋さん?」と声を掛けられた。
「守田くん……おはよ」
「おはよう」
挨拶をして僅かに微笑んだ私に一拍置いて返事をくれた彼の視線が、チラリと雄大の方に移ってこちらへと戻ってきた。
「どうしたの?」
若干躊躇して訊ねた彼に「え?」と聞き返すと、言い難そうに口篭もった。
「坂井とケンカでもしたの?」
的を射た質問にビクリと身体が震える。逢ったばかりのクラスメートに見抜かれるぐらい重い空気を背負っていたのだろうか。
慌てて「何でもないよ」と笑って告げたけれど、きっと顔は引き攣っていたと思う。
無言で私を見つめた守田くんの視線から逃れる様に「お先に」と手を振って教室へと速足で向かった。
***
「は?! 転校?!」
昼休み、人気の少ない中庭でお弁当を拡げつつ梅香に打ち明けると、予想通りの反応が返ってきた。声を張り上げた梅香をシーッと制して力無く頷くと、彼女はごめんと呟いて黙り込んだ。きゅっと唇を噛んだまま暫く沈黙した梅香はやがて「そんなのって……」と独り言の様にボソリと漏らした。
「…………しょうがないよ」
呟いた私を見つめた梅香が震える声で「そんなのって無いよ」と言った直後、彼女の頬をポロポロと雫が伝った。
「ちょっ……梅ちゃんが泣かないでよ」
「だってー……」
苦笑を零しつつ、語尾を涙で滲ませた梅香の頭をよしよしと撫でていると、我慢して締めていた涙腺が弛んで私もじわりと涙が込み上げた。




