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きみの家まで30秒  作者: 柏原みほ
高校2年『きみの家まで』
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希望

 突然の抱擁に「きゃあ!」という叫びは声に成らず、瞬間的に思いっきり息を吸い込んだまま吐けずに固まった。

 これ以上無い程に顔から熱を放出して硬直していたら、雄大が掠れた声で呟いた。


「……ちょっとだけ」

「……ッ」


 や、そりゃ抱き締められても全然構わないんだけど、寧ろ嬉しいんだけど、でもバクバクし過ぎて壊れそうで涙までもがじんわり浮かんだ。

 しんと静まり返った玄関で、雄大の腕に包まれた自分の鼓動だけが耳の直ぐ傍で大きく響いている。

 付き合ってるんだから、私からも抱き締め返したりした方が良い? そんな事を思ったりもするけれど、いっぱいいっぱいで身体が動かない。

 こんなに受け身で本当に良いんだろうか。呆れたり嫌われたりしないだろうか。

 漠然とした不安に襲われてゴクリと唾を呑んだら、雄大の身体がそっと離れた。

 急に温もりが無くなった身体は何とも心許無こころもとなくて、思い切って自分から雄大の胸に飛び込もうかと思ったけれど、勇気が出ずに俯いたまま指先を小さく彷徨さまよわせるに留まった。


「……ごめん」


 呟いた雄大の言葉が呑み込めなくて呆然と顔を上げると、彼が苦笑を漏らした。


「アキラが固まるのは分かってたんだけど、ちょっと我慢しきれなくて」

「え?」

「ここんとこずーっと勉強ばっかだったから」


 そうなのだ。目の前に座ってるのに全然交流とか無くて、ただひたすら勉強尽くしの日々だった。でも折角一緒に居るんだから、ベタベタしないまでも笑い話したりとか有っても良いんじゃないだろうか。それに、ちょっとぐらい手を握るとか……キスとか。

 頭を過った考えに顔が熱くなる。我慢出来なかったのはむしろ私の方だ。雄大が少し身体を動かす度、微かに身体を震わせていた私を知っているのだろうか。

 無論、思うだけでそんな事を言動に出せる筈も無く下唇を噛んで俯いた。


「怒ってる?」

「えっ」


 不意に顔を覗き込まれてビクッと身体をしならせた。暴れる鼓動を処理出来ずに顔が引き攣っているのが分かる。


「……ごめん、いきなり抱き締めたりして」


 申し訳無さそうに眉根を寄せた雄大に目を見開いた。

 違うのに。どちらかと言えば全くそういう事がなかった事を残念に思っているのに。

 思考が言葉に成らずにただ、口をパクパクと開閉する私に苦笑を漏らして帰宅の為に背を向けた雄大の服の裾を掴む。ほぼ無意識のその行動に、自分自身が驚いて慌てて手を引っ込めた。


「……アキラ?」


 同じく驚いている雄大と目を合わせる事が出来ずに視線を泳がせて地面に落とす。回らない頭で何か言おうと懸命に考えていると、ふと視界が暗くなった。反射的に顔を上げると、間近に雄大の顔が有って心臓が痛い程に跳ねた。

 ドキドキドキドキ、ああもう。鼓動がうるさい。どうしよう。


「も、もう一回」


 考えるより先に出た言葉にしまったと思った。取り消そうと思ったけれど、期待に満ちた瞳で見つめられてしまってグッと言葉に詰まる。


「……もう一回、なに?」

「……ッ」

「なに?」


 囁く様に告げられた台詞と共に漏れ出た吐息が私の頬をくすぐった。

 ち、近、近いよ!

 ドキドキが最高潮まで高まって、雄大の吐息に撫でられた頬が燃える様に熱い。

 どうにも逃げられない空気を悟って、コクリと唾を呑んでゆっくりと口を開いた。


「もう一回、ギューって……」


 只でさえ掻き消えそうな声は、最後まで言い終わる前に雄大の胸元にモゴモゴと埋まった。


「……ヤバい、泣きそう」


 一瞬、声に出したのかと思ってしまった。それは雄大の呟きだった。

 というか、私は既に涙が堪えられておらず、雄大の制服に僅かに染みを作っている。

 震える身体を叱咤して怖ず怖ずと雄大の背中に腕を回すと、一層強く抱き締められた。


「我慢したご褒美かなー」

「え?」

「テスト勉強中、アキラに触んない様に必死で我慢してたからさ」


 平然と勉強してる様に見えたけど、我慢だったの?

 疑問に思って胸元から見上げると、雄大が苦笑気味の笑いを零した。


「だってさ、おれと付き合ったから成績落ちたとか、嫌じゃん」


 そんな事考えてくれてたんだ。だから真面目にひたすら勉強……

 感動して見つめていたら、微笑んだ雄大が一瞬真顔になって身を屈めた。

 ちゅっと唇に触れた感触に湯気を噴いていたら、再びきゅうっと抱き締められて速い鼓動に埋もれる。


「すげー幸せ」

「……うん」


 頬に響くドキドキに紛れてしみじみと呟いた雄大に頷いた。

 本当に本当に、しあわせだよ。このまま時間が止まっても良いと思うくらい。

 ああでも、もし止まっちゃったら私の誕生日に一緒に過ごせない。

 それは嫌だな。折角、生まれて初めて雄大が私の誕生日を2人っきりで祝ってくれるって言うのに。

 そうだ、どうしようかな誕生日……雄大にお任せしちゃおうかな? ちょっとぐらい希望出した方が良いのかな……


「何考えてんの」


 胸元に埋まって表情とか見えない筈だけど、どうして考え事してるとか分かるんだろう。

 抱き締められている腕から少し離れて、苦笑を零しつつ雄大を見上げて白状した。


「誕生日の事」


 正直に告げると彼は「ああ」と口にしてにっこりと微笑んだ。


「何か思いついた?」

「ううん、全然」


 そう言ってからふと頭を掠めた考えを口にする前に、雄大が「ん?」と小首を傾げた。

 そんなに顔に出てるんだろうか。とことん筒抜けな事に再度苦笑を漏らしつつ、その考えを口にするかどうか迷っていたら、雄大に無言で促されて「あの、」と怖ず怖ず声を発した。


「はい」

「……えっと」

「いいからってみ?」


 更に促されて、泳がせていた視線を雄大の瞳に合わせる。


「……ちょっとだけでもいいから、こういう2人っきりの時間が欲しい……かな」


 口篭もりつつ希望を述べた私を見つめる雄大の視線が痛い。

 そんなに凝視されるとどうにも落ち着かない。

 困らせちゃったかな。「無理だったらいいよ」と取り消そうと思ったら、雄大が「もー……」と呟いた。

 直後、頭をガシガシと掻いた彼を見つめていると、その頬がみるみる染まっていった。


「やばいな」


 何が? キョトンとした私をちらりと見た雄大がコホンと小さく咳払いをした。


「アキラを喜ばそうと思ったのに、何かおれが嬉しいんだけど」


 完全に視線を逸らした雄大の耳が赤い。

 こんな雄大が見られる事も、喜ばせてくれようとした事も「嬉しい」発言もとても嬉しい。

 改めて幸せを噛み締めつつニコニコと横顔を見つめていると、照れて若干むすっとした顔がまた、近付いて来て瞳を閉じた。


***


「そっか、晶もうすぐ誕生日だっけ」


 翌日の昼休み、梅香にまたしてもデート服の相談をしたら「おめでとう」という祝福とニヤリとした微笑みが返って来た。


「うん、いいよねー誕生日。盛り上がるよねー」


 うんうんと頷きながら、私じゃない所に視点を合わせてうっとりする梅香に苦笑を漏らしていると、不意にその視線がこちらを向いた。

 突然鋭く見つめられて思わず姿勢を正すとちょいちょいと手招きされて、首を傾げつつ顔を寄せる。


「……お泊まり?」

「なッ」


 無い無い無い!!!

 顔から勢いよく火を噴きながら大慌てで否定した私に「なーんだ」と残念そうな声を漏らして机に両肘を突いた。

 そっ、そんな、泊まりなんてするわけないよ!


「ぶっちゃけ、ユータくんと何処まで進んでるの?」

「は?!」


 声を潜めて訊いた梅香に思わず大声で聞き返してしまって、慌てて両手で口を押さえて辺りを見渡した。

 今日は天気がとても良いからか、学食で新製品が導入されたからなのか、教室内は人がまばらでホッと息を吐く。

 それにしても。どっ、何処までって、何処までって……!

 カーッと勢いよく熱を昇らせてすっかり固まっていると、苦笑した梅香が「ごめんごめん」と私の頭をよしよしと撫でた。


「晶にはまだ早かったかー」

「ちょ、梅ちゃん!」


 真っ赤になって抗議した後、ふと気付いた。


「その……梅ちゃんて、もう……?」

「うん、去年」


 経験済なのかと怖ず怖ず訊ねるとあっさりと答えられて開いた口が塞がらない。


「彼氏持ちは大抵経験済じゃない?」

「えっ」


 そ、そうなの? そういうものなの?

 衝撃の事実を聞かされて只々梅香を見つめる私の頭を再び撫でた彼女がふっと笑って言った。


「いいんじゃない?」

「へ?」

「晶はゆっくり時間をかけてやっとカレカノになったんだもん。焦らなくていいと思うよ?」

「………」


 そうは言われても……気になる。雄大だって、我慢してるだけで本当はしたいのかな。

 考え込むうちに昼休みの終わり時間が迫り、一気に教室がざわめいて、その話はそこでお終いとなった。

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