本気
静かな部屋で二人、四角い座卓を挟んでノートを拡げる。聞こえるのは、捲る教科書が擦れる音と、ペンがノートの上を滑るカリカリという微かな音。
テスト勉強を一緒にしようという名目で随分久し振りに雄大の部屋に入って、何だかドキドキしながらも物珍しげに室内を見渡していたら、一度部屋の外に出て行った彼が大きめの座卓を持って帰って来た。
それは、二人分の教科書やノートを拡げても充分な広さが有って、勉強するには申し分無い。けれど、その分だけ雄大が遠い。
向かいに座る彼をそっと窺うと、真剣な瞳でノートを見つめて数式を書き付けている。
ノート貸して、などと言っていたけれど、そんな必要はなさそうだ。分からない箇所を訊いてくる様子も無く、そもそも理解出来てない所が有る様には見えない。
何となく阻害された気分になって微かに溜息を吐いた。
(……別に私、要らないじゃない……)
ふと脳裏を掠めた思考に慌てて小さく頭を振った。
同時に、思い出したのは昔の事だ。
同い年の幼馴染みだけど、何かと手が掛かっていた雄大に小母さんが苦笑して「晶ちゃん、雄大を宜しくね」等とよく言われていた。
その頃と同じ様にお姉さん気分で居たのだろうかと少々自己嫌悪に陥って、俯いて更なる溜息を落とす。
ノートを見つめたままそんな感傷に浸っていると、ふと視線を感じて顔を上げた。
其処にはじっと私を見つめる雄大が居てドキンと心臓が跳ねる。
「どうした?」
「え?」
「疲れた?」
心配そうに小首を傾げた雄大に、慌てて笑顔を浮かべて両手を顔の前で振った。
「何でもないよ、大丈夫」
「……」
否定した私を、胡散臭げに瞳を細めて見遣る。
……その顔は、信用されてない。
思った途端「嘘だ」という台詞が飛んで来た。
ああ、やっぱり。私が雄大の表情から心の内を察する様に、雄大からもこっちの気持ちは筒抜けなのだ。
「別に……みかん剥いてあげたなあ、とか思っただけ」
「は?」
予想通りキョトンと瞬きをした雄大。
そりゃそうだよね。自分でも脈絡が無いと思うもん。
でも、ふと浮かんだのが其れだったのだからしょうがない。
「いつの話だよ、それ」
「んー、4つぐらい?」
「なんで突然」
何故と訊かれても、疎外感を感じたからだとはちょっと言い難い。
「なんでかな」
言葉を濁して苦笑を漏らした私を暫く眺めた彼が、頭をポリポリと掻いた。
「……悪かったな」
「へ?」
「頼りにならない男で」
口篭もってフイと横を向いた彼に、今度はこちらが瞬きを返す番だ。
頼りって……何がだろう。もしかして、みかんの話だろうか。
雄大も覚えてるの? 自分で剥けなかった事、気にしてた?
ばつの悪そうな彼が妙に可笑しくなって思わず噴き出した。
「何だよ、アキラが言い出したんだろ。笑うなっ」
「ご、ごめ……だって」
笑いの止まらない私に、ふと雄大の手が伸びる。
ペチッと全然痛くない力加減で私の額を叩いたその手は一拍置いて、クシャリと私の髪を乱して頭を撫でた。
不意の行動に鼓動がトクンと跳ねてまじまじと顔を見つめると、少し頬を染めた雄大がその手を引っ込めた。そしてゆっくりと視線を逸らして頬杖を突く彼にドキドキが踊りだす。
しんと静まり返った部屋で大きく響く自らの鼓動だけを数えていたら、雄大が僅かに掠れた声を発した。
「……休憩する?」
その声に導かれる様に時計を見遣ると、勉強開始から1時間と少しが経過していた。
「うん」
ドキドキがバレない様に精一杯にっこり笑って頷くと彼は、「お茶入れてくる」と立ち上がって部屋を出て行った。
その背中を見送って胸にそっと手を当てると、掌にトクトクと振動が伝わる。
速いリズムが何だか恥ずかしくて溜息を吐きつつ、その手で両頬を包むと思った以上に熱かった。
もしかして私、真っ赤なんだろうか。
意識すると益々恥ずかしくて、更に顔の温度が上がった様な気がする。
辺りを見渡しても鏡など見当たらず、確かめる術は無いけれど。
再度深々と体内の空気を吐き出した時、ノックの音が響いて控えめにドアが開いた。
その隙間から、お盆とスナック菓子の袋をそれぞれの手に持つ雄大が見えて、慌ててドアを開けに立ち上がる。
「サンキュ」
ニコリと微笑んだ雄大からお菓子の袋を受け取って、手早く座卓の上を片付ける。教科書類を脇に寄せると、空いた所に珈琲の乗ったお盆がコトリと置かれた。
其処には、湯気の立つマグカップが2つと、お砂糖とミルクが1つずつ。
いつから雄大はブラックで珈琲を飲む様になったんだろうな。気付いたのは中学の終わりぐらいだった。苦いのにすごい、と思うと同時に何だか置いて行かれた様な気持ちになったんだっけ……
新たに脳裏を掠めた思い出にフーッと微かに溜息を吐きつつ、雄大の分の珈琲をテーブルの向かいに置こうとしたら、直ぐ隣に腰を下ろされて身体がビクリと跳ねた。
「そこっ……座るの?」
「うん」
短く答えて平然と熱い珈琲を啜る雄大の横で、マグカップを持つ両手が震える。
そのまま固まっていると雄大が首を傾げた。
「アキラ、ミルクと砂糖入れねーの?」
「えっと……ブラックにも挑戦してみようかと」
「なんで?」
だって雄大と同じものが飲みたいから。
とても言える訳が無い台詞をぐっと呑み込んで眠気覚ましだと答えると雄大が笑って言った。
「何かボーッとしてると思ったら眠いのか」
やっぱりバレてたんだ。私が全然集中してなかったこと。
苦笑を漏らして珈琲を一口啜ると、その苦みに堪えきれず眉間に皺が寄った。
「なあ」
「うん?」
それでも我慢して飲んでいると、私を眺めていた雄大が遠慮がちに口を開いた。
「やっぱ入れたら?」
ハイ、とお盆からミルクと砂糖を渡されて雄大に視線を移す。
入れないと言った手前、今更やっぱりなんて恥ずかしい。
それに、これぐらい飲めないなんて自分がすごく子どもの様な気がする。
色々と考えて素直に受け取ることが出来ずに固まっていたら、雄大が無言で封を切って私のカップに2つとも入れた。
「ちょっ、何!」
「いいから入れとけよ」
「何がいいのよ」
気恥ずかしさから頬を赤らめて文句を言う私に構わず、雄大はスプーンでぐるぐると掻き混ぜて私の目の前にそれを置いた。
湯気の立つそのカップを複雑な顔で見つめていると、雄大が頬杖を突いてふーっと息を吐き出した。
「アキラはやっぱそれだよ」
「……」
「笑って飲んでるのを見たいのに」
「へ?」
声が裏返ってしまったのは仕方が無いと思う。
「苦いのに無理するな」とかじゃなくて、いや意味は一緒かもしれないけど、『見たいから』? 雄大が?
速い速度でカーッと熱が駆け昇るのを感じる。
おそらくとても赤い顔で呆けていると、頭をポリポリと掻いた彼が視線を逸らした。
「……だってアキラ、何でもすごい美味そうに食うだろ」
「え?」
「それ見てると何か幸せな気分になるんだよ」
思いがけない言葉に益々頬を熱くしてモゴモゴと話す雄大の横顔を見つめたら、不意にこちらを向いた彼と視線が絡んだ。
揺れた瞳に吸い込まれる様に見入っていると、それがふと距離を縮めて彼の瞼に遮られた。睫毛長い、と場違いな事を思った瞬間、私の口に触れた柔らかい感触に一拍遅れて湯気を噴いた。
珈琲の程好い苦みが咥内にふわんと拡がって身体の奥がぎゅっと締まる。
一瞬離れたそれに再び吐息を包みこまれて鼓動が加速していく。まるで全身が心臓になってしまったかと錯覚する程の激しいドキドキに呑まれて、ひたすら息を詰めていたら身体がふわりと包まれた。
そして幼子をあやすかの様にポンポンと背中が叩かれる。
「そんな固まんなって」
「……ッ」
そう言われても、自分の意思ではどうにもならない。
少し久し振りのキスにすっかり硬直した私に苦笑を漏らす。
「そんな警戒しなくても」
「……そういう訳じゃ……」
別に警戒して固まった訳ではない。そもそも、何に警戒するというのだろう。
頭にふと浮かんだ疑問に答えるかの様に雄大が口を開いた。
「別に、これ以上何もしない」
ハッキリと告げられて顔を上げると真摯な瞳が其処に有った。
「それとも……キスも嫌?」
その瞳に不安の色が滲んだのを見て慌てて頭を振った。
「嫌じゃない」
「……本当?」
「ホントだよ、ちょっとドキドキし過ぎて固まっちゃうけどユータが嫌な訳、無っ」
早口で告げた台詞ごと強く抱き締められて新たな息を呑んだ。
あれから一ヶ月、雄大が私に触れる気配は無いけれど、やっぱり我慢してるのかな。
別にいいのにな……いや、勿論固まっちゃうと思うけど、嫌な訳じゃないし。大事にされているのはとても嬉しい事だけど、でもっ……
思考が容量を超えて溢れ出し、体温が上昇していく。何も言葉に成らず、黙って雄大の背中に手を回してキュウッと抱きつくと、慌てた様に身体を離された。
「……ユータ?」
「あ、いや……そろそろ勉強の続き」
立ち上がろうとした雄大の服の裾を思わず掴んだ。
吃驚した顔でまじまじと見つめられてしまって目が游ぐ。
離れる雄大を引き止めてどうしようと言うのだろう。
雄大の服を握ったまま、何も言えずに顔だけがどんどん熱くなる私を見つめて固まっていた雄大がやがてゆっくりと腰を下ろした。
「アキラ」
囁く様に名前を呼ばれて火照る顔を上げる。
きっと、私が熱すぎてそう感じるのだろう、少しヒンヤリした雄大の掌が私の頬を撫でた。瞬間、何かが背中を昇ってゾクリと小さく身を震わせる。頬を撫でた指先が項にも滑って一層大きく身体が震えた。
思わず瞳をギュッと閉じると、暫くして額にちゅっと軽いキス。
雄大が唇で触れたそこを手で押さえて見上げると、彼の頬も赤く染まっていた。
「急がなくていいよ」
呟かれた言葉に「え?」と聞き返すと雄大が鼻の頭を指先で軽く掻いた。
「……大事にするって決めたから、アキラの事」
それって、キスより先に進むかどうかって言う話だよね。
そういう事に興味がゼロという訳ではないし、ほんの少し残念な気もするけれど……まあいいかな。ゆっくりでも。雄大の言う様に、急がなくても。
いつか自然に身を任せられたら……
詰めていた息をゆっくりと吐き出して、自らの速い鼓動を両手で包む。
掌に伝わる振動を数えて雄大の言葉を噛み締めていたら、「……それに」と小さな呟きが耳に入った。
「今もし万が一があっても結婚出来ないしさ」
「けっ……?!」
け、結婚?! 突然何? 聞き間違い?!
完全に声が裏返った私に不機嫌な顔。
「おれじゃ駄目なのか」
「は?!」
「は? って……何だよ、傷つくな」
派手な溜息を吐いた雄大を目を丸くして見つめる。
「……ユータ、本気……?」
「当たり前だろ」
事も無げに答えられて体温がどんどん上昇していく。
そんな、突然そんな事言われても。雄大が駄目とかそういう事じゃなくて、結婚なんてまだまだ先の話だと思っていたのに……!
顔から湯気を噴いた私をちらっと見遣った雄大が、ふて腐れた口調でボソリと言った。
「責任取る覚悟でいかないと」
「……!」
雄大の決意表明にはかなり吃驚したけれど、そんなにも真剣に想ってくれていた事が嬉しくてじんわりと涙が浮かぶ。
熱い胸を抱えて見つめていた雄大の顔がふと間近に迫って吐息が触れた。




