登下校
新章始まりました。
「おはよ」
「はよー。なあ、宿題やった?」
「え。ユータ、まさか?」
「いやホラ、やる気は有ったんだけどさ」
「有ったんならすればいいのに」
「右手が拒否ったんだよ」
「何バカ言ってんの」
キスからうっかり先に進みそうになってから約一ヶ月。
結果から言うと、そういった関係になることもなく、相変わらず軽口を言い合う日々が続いている。
別に拒否した訳でもないのだけれど、雄大が私に触れる気配は無い。ううん、仲は良いと思う。現に今も、私の手は雄大の大きな掌に包まれていて。
「なあ、今日デートしよ?」
「人の話、聞いてる?」
不意に耳元で囁く様に告げられて脈拍が速まった。あまりに不意打ちすぎたそれに吃驚して思わず棘のある返事をしてしまった私に気を悪くする様子も無く、直ぐそこで振りまかれる笑顔に体温が上昇する。
相変わらず、と言ったけれど、本当は以前より少し距離が近付いたんじゃないかと思う。
一緒に居ると当然の様に手を繋いで、肩が触れそうなくらい近くを歩いて、そして時々顔が直ぐ傍に寄ってくる。
その近い距離にどうにも慣れなくて常にドギマギしている私を知っているのだろうか。
「何だよ」
上昇する体温を持て余して密かに溜息を吐いたつもりなのに、再び耳を撫でた雄大の声と吐息にドクンと鼓動が跳ねる。
「なっな、何がッ」
「アキラ、何そのカワイー反応」
「かっ……」
以前よりもあっさりと口にされる様になったその言葉にもやっぱり慣れなくて、視線が泳ぐ。熱い顔を雄大から逸らした瞬間、同じく熱い耳にちゅっと柔らかいものが触れて勢いよく湯気を噴いた。
「な何すんのッ」
声が裏返った。ますます恥ずかしくて、隠し様がない程に頬を染めた私にクスリと笑って口の動きだけで「キ・ス」と告げた雄大の額を思わずペチッと叩く。
「痛ッ。何すんだよ」
おでこを両手で押さえて大げさに痛がった雄大に、唇で触れられた熱い耳を覆い隠しながら「こっちの台詞よ!」と反論すると彼は、ニヤリと笑いを零した。
「ああ、ごめん。耳じゃ駄目か」
「は?」
「じゃあ」
そう言ったかと思うと、私の両腕を掴んでクイと引き寄せた雄大の顔が近付いてきて、本気で顔から火を噴いた。
「ちょ、何!」
「だから、キ」
「路上はダメー!」
「大声出すなよ。目立つだろ」
掴んでいた私の腕を放して、悪戯っぽい笑みを浮かべながらやれやれと発言した雄大の額を、無言のままもう一度ペチッと叩く。誰の所為でこんな目立つ事になっていると思っているのだろう。
しかし、明らかにわざと私をからかっている雄大が、軽い平手打ち程度で反省する訳もなく、頬を弛めたまま私の耳に再度口を寄せて確認する様に言った。
「路上じゃなきゃ良いんだな?」
「………まあ……」
そりゃ、別に雄大にキスされるのが嫌な訳じゃない。寧ろ嬉しいのだから拒否する理由も無い。でも、あえて確認した雄大に若干の不安を抱いていたら、握られた手に僅かに力が篭った。
「じゃあ、今日は家でデート」
「……へ?」
「俺んち、来る?」
「え」
雄大ん家? そっそれってまさか、もしかして?
思いっきり瞳を泳がせて視線を逸らした私を、口の端を弛めながら覗き込んでくる。
「アキラ顔赤い」
「……ッ」
「何。何か期待してる?」
「べっ別にっ!」
期待なんて、してない。してないってば!
そう思うのとは裏腹に、どんどん上昇する体温と速まる鼓動にすっかり翻弄されている。
ふと立ち止まった雄大を見上げると、嬉しそうに口の端を弛めて私の頭を撫でた。そしてその手が固まっている私の肩をポンポンと叩く。
「そんな構えなくても、テスト勉強だって」
「……」
「吹部も部活休みだろ?」
「うん」
中間テストが一週間後に迫った事で、今日から部活動は一斉休みになる。もしかして雄大と一緒に帰宅出来るかも、とは思っていたけど、テスト勉強までは考えていなかった。
ちょっと嬉しい。
でも雄大と居るとどうしてもドキドキしてしまうから、勉強になるかどうかは怪しいものだけど……
「なあ、一緒に勉強しよ?」
「う……まあ、良いけど……」
「やった、ノート見せて」
「ええ?!」
目的はそれ?!
身構えてしまった自分が恥ずかしくて、またしても顔が熱くなる。
だいたい、紛らわしいよ。それはデートとは言わないと思う。
内心で不満を零しているうちに校門が見えて来て、ほんの少し淋しい気持ちがお腹の辺りを重くした。
学校がもう少し遠ければ良いのに……
溢れそうな溜息を体内に押し込めて、ほんの僅かばかり歩調を遅くすると、頭上からふっと小さな笑いが降って来た。その出所を見上げると、雄大が照れ笑いを浮かべている。
「教室でも会えるし」
「え?」
「今、淋しいとか思ったろ」
「は?!」
突然図星を突かれて、思わず頓狂な声を上げた。
どうしてバレてるの? ほんのちょっとゆっくり歩いただけなのに。
「なっなんでっ」
焦って問い返すと、指を絡めて繋がれている私の手の甲が、雄大の指でスリスリと柔らかく撫でられて鼓動がトクンと跳ねた。
「長年の付き合いをなめんなよ」
「何で威張ってんのよ」
「だって、当たったろ?」
「そっ……」
そうでは無いと否定しようとした言葉をゴクンと呑んで、相変わらずスリスリされている手をきゅっと握り返した。
「そうだけど……」
「へ?」
俯き加減でボソリと肯定した私に間抜けな声を上げた雄大を、恥ずかしさも相俟って若干睨む様に見上げると「……やべ」と呟いた彼が手で口元を覆って赤く染まった顔を逸らした。
たった今まで余裕しゃくしゃくで私を見下ろしていた雄大が急に可愛く思えて、またしても胸がキュンとなった。
***
そして特にこれと言った事もなくやって来た放課後、帰宅するべく荷物を片付けていると、目の前に立った雄大が私をじっと見下ろして待っている。
そんなに待ち構えられると何だか緊張して、普段よりも帰り支度に時間が掛かってしまった。急かされる事は無いけれど、じっと見られているとどうにも落ち着かない。
「お、お待たせ」
何とか支度を終えて立ち上がると、「ん」と手を差し出された。
えっと……この体勢は『手を繋ごう』?
や、待って。確かに、最近は当たり前の様に手を繋いで歩いているけれど。その行為にも慣れたとは思っていたけれど。
ここは教室だよ? しかも、クラスメイトの半分ぐらいは未だ居るんだよ?
そこで堂々と手を繋ぐのはあの『交際宣言』以来の出来事で、正直抵抗が有る。
数秒間固まって、結局その手は取らずに鞄を両手で抱えた。少しムッとした雄大を視界の端に捉えたけど、見なかった事にして気持ち早足で教室を後にした。
背後の不機嫌オーラが怖い。
教室を出た後、昇降口に降りて靴を履き替える時も、校門までの道を歩く間も、無言。
そうして校門を出て帰路を辿っている今も、一歩下がって着いてくる雄大は一言も喋らず、私の背中に不機嫌な視線をぶつけてくる。
その空気に遂に堪えきれなくなって脚を止めた。鞄を胸元に抱えたままくるりと振り返ると、そこに立ち止まっている雄大が不機嫌な表情を崩す事無く、私を見据えた。
「……そんな怒らなくても良いじゃない」
「無視はねーだろ、無視は」
「別に無視した訳じゃないよ!」
「じゃあ何」
何、と言われると困る。恥ずかしさに一杯一杯になって、手も取らず、何も言わずに教室を出たのは事実だ。せめて「後で」とでも伝えれば良かったと反省してシュンと沈んだ。
「……ごめん」
「何が」
冷たい感じで問われて胸がきゅっと締まった。どう伝えたらこの気持ちが雄大に伝わるのだろう。
「ちょっと……恥ずかしくて」
「……」
「教室で手とか……繋いだらきっと、真っ赤になっちゃうし」
「……真っ赤になる?」
「なるよ。だって、ドキドキするもん……」
今の自分の精一杯を伝えてみたけれど、言った内容がすごく恥ずかしくて段々声が小さくなった。雄大の顔は見ていられなくて、俯いて唇をきゅっと引き結ぶ。
この先どうしようかと思いつつ鞄に付けている赤いクマのストラップを指先で弄んでいたら、クイとその手を引っ張られた。
驚いて顔を上げると、引かれた手はそのまま雄大のそれに包まれて指が絡まる。
……やっぱり、ドキドキするよ。
大きく主張し始めた体内の鼓動を鞄ごとギュッと抱き締めて、少し歩みを速めた雄大に引っ張られる様にその場を後にした。




