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きみの家まで30秒  作者: 柏原みほ
高校2年『窓辺のやくそく』
36/56

我慢(月曜日)

 中へと促されて玄関内へと入ったものの、背後で閉まるドアの音に身体が固くなる。そんな私を哀しげに見遣った雄大が躊躇ためらいがちに「上がる?」と言った。

 雄大の家に上がる事は、今までならごく当たり前で考えるまでもない事だったのだけれど、昨日の今日だけに即答出来ずにその場に立ち尽くす。先程雄大は「絶対に何もしない」と言ったけれど、以前も「アキラには何もしない」と言っておいて昨日の言動なのだから、信じろと言われてもやはり身構えてしまう。

 硬直している私にハーッと深い溜息を吐いた雄大が玄関と廊下の電気を点けて、私から数メートル離れた所でたたずんで足元の廊下を見つめている。

 暫く黙って俯いていた雄大が、やがて遠慮がちに顔を上げて視線が絡んだ。何か言い掛ける様に開閉された唇は何の音も発する事は無く、再び固く噛み締められた。

 漂う重い沈黙に堪えきれなくて、「……あの、」と絞り出した声は見事に雄大のそれと重なって益々気まずい空気に包まれた。


「……何?」

「ユ、ユータこそ……」

「いいよ、……アキラから」

「……」


 お互いボソボソと譲り合って、ちっとも話が進まない。折角謝ろうと思って来たのに、せめてそれだけでも伝えないと意味が無い。爆発しそうな鼓動を抱えながら固く拳を握りしめて深く息を吸い込んだ瞬間、「すきだ」という言葉が耳に飛び込んで、驚きのあまり体内に取り込んだ空気を吐き出せず、硬直したまま目を丸くして雄大を見つめた。


「は……?」


 唐突すぎて思考が着いてゆかず呆然と問い返した私に、ばつが悪そうに頭をガシガシと掻いた雄大が「だから、」と前置きして逸らしていた視線をこちらへ向けた。


「アキラん中じゃ終わったかも知れないけど、おれはまだ諦めきれないし」

「へ?」

「振られたのに未練がましいと思うけどすきなんだよアキラが!」


 息も吐かずに告げられた台詞に、ただただ瞬きを繰り返す。

 フラ……レタ? 誰が? 誰に?


「あ、あの」

「そりゃ、おれが悪いって分かってるけど」

「え?」

「アキラのこと大事にしたかったのに嫉妬して思わず手ぇ出すなんて馬鹿だと思ってるけど!」

「ちょ、ちょっと待って」


 一気に捲し立てられて思考回路が完全にパンクした。

 慌ててストップを掛けたけれど、雄大の吐き出す言葉は止まりそうにない。


「そりゃあ、彼奴あいつとは趣味も合うだろうし落ち着いてておれとは正反対でアキラにすげー優しかったりするかも知んないけど!」

「あの……」

「でも絶対に譲りたくないんだ!」


 静かな廊下に雄大の声が響いて、しんと静まり返る。

 放たれた言葉をゆっくりと反芻はんすうした私の体温が上昇して、全身を速い鼓動が廻る。

 目前で辛そうに表情を曇らせた雄大を眺めて、ゆっくりと口を開いた。


「……あの」

「……駄目?」


 先程までの勢いはどこへやら、弱々しい口調で呟いて小さく小首を傾げた雄大に胸がキュウンと締まる。

 どうしてそんな誤解に至ったんだろう。雄大の一挙一動にこんなにもドキドキしているのに、全然伝わってないのかな。

 哀しい様な、もどかしい様な気持ちで、詰めていた息をフーッと吐いて雄大を見つめる。

 何から伝えようかと思案して、取り敢えず誤解だということを行動で示そうと思った。


「……上がってもいい……?」

「へ?」

「ユータの家」

「あ、ああ、勿論……」


 呆然と私を見つめる雄大に「お邪魔します」と小声で告げて靴を脱ぐ。そして、狐に摘まれた様な顔で立ち尽くす雄大の脇を通ってリビングの扉を開けた。

 そこは、廊下の明かりが漏れ入るだけで薄暗い。入り口に立ち止まった私の脇から、傍の壁に腕を伸ばしてリビングの照明を点けようとした、雄大の袖をふと摘んでその動きを止めた。


「え?」


 そのままゆっくりと振り向いて、摘んだ袖ではない方の雄大の手に恐る恐る触れると、彼がビクリと身を震わせたのが分かった。繋ぐには至らない、指先で触れているだけのそこから熱が駆け巡って顔が熱い。きっと私の頬は真っ赤になっているに違いなく、それを見られるのが恥ずかしくて雄大の手を止めたのだ。


「……ごめん」

「え」

「『嫌い』って……取り消してもいい?」


 俯いてボソリと呟くと、雄大がゴクリと唾を呑んだのが聞こえた。一瞬、私の背中に回った手は慌てた様に離されて、握られた彼の拳が薄暗闇の中で見えた。

 「何もしない」って誓ったから? 雄大に抱き締められるのは嬉しいことなんだけど……

 そんな気持ちをどう伝えようか迷って怖ず怖ずと一歩前に踏み出すと、額に雄大の肩口が触れた。再び僅かに震えた身体を頬で感じつつ、そうっと彼の背中へと腕を回したら、一瞬の躊躇の後で遠慮がちな雄大の腕に包まれた。


「ア、キラ」


 掠れた声が耳を撫でて、益々高鳴る鼓動が全身を埋め尽くす。

 伝わったのかな、私の気持ち。やっぱり言わないと誤解をされたままなのかな。

 雄大の背中に回していた手をそっと弛めて半歩下がる。そして緊張で震える身体を叱咤してゆっくりと顔を見上げた。

 視線が絡んで頬が熱い。瞳が揺れる。

 自分の気持ちを告げるって、どうしてこんなに緊張するのだろう。


「……ユータ」


 名前を呼んだだけなのに、声が震えた。伝えたい気持ちはいっぱい有るのに、胸も喉も詰まって言葉に成らない。鈍い痛みと共に鼻腔を満たした熱いものが、今にも瞳から零れ落ちそうだ。

 自らの鼓動に呑み込まれそうになりながらそっと瞼を閉じると、瞳に溜まっていた雫が溢れてつうっと頬を伝った。「え、」と微かに漏らした雄大が動揺している様は、目を閉じていても肌で感じる。

 キスして欲しいなんて、とても口に出来なくて無言で伝えてみたのだけど、思った以上に恥ずかしくて震えが止まらない。

 とてつもなく長く感じた暗闇の時間は、遠慮がちに頬の雫を拭った雄大の指により終わりを告げた。少しひんやりとしたその手は、私の涙をそっと拭った後、ゆっくりと髪や耳を撫でて燃える様に熱い頬を包んだ。

 耳の真横で大きく響く鼓動に呼吸すらも出来ずに固まっていると、小さく唾液を呑む音が激しい動悸に混じって耳を掠めた。直後、詰めていた私の息は、雄大の熱い吐息に包まれて新たな雫が頬を伝う。


「あ……のさ」


 数秒後、私から唇を離した雄大がモゴモゴと口篭もったのを耳にしてそっと目を開ける。

言葉の続きを聞こうと雄大を見つめると、その瞳が忙しなくおよいで私から視線を逸らした。


「電気……点けてい?」


 言い難そうに言葉を濁す雄大にキョトンと瞬きを返す。

 確かに、いつまでも室内が暗いとご近所に不審に思われるかも。でも、顔真っ赤だからもうちょっと待って欲しいんだけどな……あ、そうか。もしかして。


「おばさん達帰って来る時間?」

「いや……今日結婚記念日で二人で出掛けてるから、まだだと思う……」

「……あの、じゃあもう少し」

「……や、その……あ、アキラ何か飲む?」

「え」


 勇気を出して告げたのに、応えてくれるどころか話を唐突に切り上げられて泣きそうになった。もっとこうしていたいと思うのは私だけ? やっぱり、雄大の「すき」と私の「すき」は違うのかな。ショックを隠しきれずに涙を溢れさせた私に慌てて声を上げた。


「ちょっ……泣くなよ!」


 私とは触れ合うのが嫌なのだと言われたも同然で、泣くなという方が無理が有る。


「帰るっ」

「待てって」

「だって私と居るのは嫌なんでしょ?!」

「んな事言ってない」

「言わなくても一緒だよ!」

「違うって!」


 押し問答の末、目の前に立ちはだかる雄大を押し退けて外に出ようと思ったら、微かに舌打ちをした雄大に目一杯抱き締められて息が止まった。


「聞けよ話!」

「……ッ!」


 絶句した私を強く掻き抱いてハアッと放たれた吐息が私の耳を包んで、胸の内がドクンと大きく跳ねた。


「…………おれだって、ずっとこうしてたいよ」


 その体勢のまま囁く様に告げられて体温が上がる。

 腰を抱き寄せられて、頭は大きな掌で彼の肩にぎゅっと押し付けられているこの状況で雄大の顔を見ることは叶わないけれど、密着している所為で雄大の速い鼓動がはっきり伝わってきて、爆発寸前の鼓動が益々速さを増した。


 どれぐらい抱き締められていたのだろうか。

 雄大の腕がようやく少し弛んで、今は私の髪をく様に優しく撫でてくれている。彼の指が滑る度に、胸が痛い程に締め付けられる。息を詰めてひたすら自らの鼓動を数えていたら、雄大の何度目かの溜息が耳に掛かった。


「………結構限界」


 不意に呟かれたその言葉に「え?」と聞き返すと、新たな溜息が降って来た。


「なあ、せめて電気」

「は?」

「おれ、この状況で我慢しきれる自信無いんだけど」


 我慢? 我慢って何が?


「私……とくっつくのが嫌って事……?」

「違う逆」


 声の震えた私を即座に否定して、何度目かの派手な溜息。


「何もしないって約束……破ってしまいそうになる」

「え」

「いや勿論我慢するけど! でもそれにも限界ってもんが……」


 段々小さくなって掻き消えそうな雄大の声に反比例してバクバクと鼓動が暴れる。

 そんなことを考えていたなんて。一度意識すると、腰に回されている手が僅かに位置をずらす事にさえ神経が集中してしまって熱が駆け上がる。

 どうにも居心地が悪くてモゾモゾと姿勢を変えていると「煽るな」と焦った様な声が耳元で響いた。

 えっ。ちょっ……そんな事言われても!

 バクバクし過ぎて、とてもじっと身体を預けていられないし、これで終わりでバイバイも淋しい。考える程に頬もおでこも熱くて瞳が潤む。

 そうだよ、それに。


「わっ私にはそういう興味は無いんじゃ……?」

「は?」

「だって、元から何もする気無いって」


 父に関係を打ち明けたあの日、確かにそう言ったと思う。

 動揺の滲む声で確認する様に訊ねると、一際大きな溜息と共にこれ以上無い程の呆れ声が落ちた。


「ッそんなの我慢に決まってんだろバカ」

「馬鹿って!」


 結構悩んだのにそんな一言で……え?


「アキラのこと大事だから我慢してんだよ分かれよ!」


 吐き出された言葉に自覚が有る程に湯気を噴いた。ずっと、私の為を思って我慢してくれてたの? 一体いつから?

 そんなに大事に想ってくれていた事が嬉しくてますます瞳が潤む。


「……いいのに」


 心の内に浮かんだことを思わず口にしたら、抱き寄せられていた身体が勢い良く離されて、目前の雄大に穴が開く程見つめられた。ゴクリと喉を鳴らしつつ「……何が?」と掠れた声で聞き返されて体温が急上昇している。

 今更何でもないと言えない雰囲気に呑まれて僅かに後退ったけれど、両腕を雄大に掴まれている状況で然程さほど下がれる訳も無く、ただただ瞳をおよがせて雄大の顔から横へと視線をずらした。


「だから、その……我慢とか、しなくても……」


 それ以上逃げ場が無いことを悟ってボソボソと呟いたけど、なんて恥ずかしいことを言ったのだろう。

 確かに、本音ではある。でも。

 私を大事に想ってくれる雄大といつかキス以上の事も、とは何となく思っていたけれど、それを伝えなければならない所まで想像が及んでいなかった。

 目を逸らしていても雄大の視線をひしひしと感じて、物凄く居たたまれない。

 逃げたい。でも激しすぎる動悸の所為で脚が震えてそれも叶わなそうだ。


「………煽るなって、言ったのに……」


 囁く様な声を発した雄大の方へと限界まで熱い顔を向けた瞬間、呑み込まれた吐息。

 遠慮がちに私の唇を舐めた舌は、口づけを繰り返す毎により深く咥内こうないへと入り込んだ。

 脚が震えて背中をゾクゾクと何かが駆け上がるけれど、昨日の様な嫌悪感は沸き起こらず、ただただ爆発する鼓動に包まれている。


「……だったら、言えよ」


 何が、と聞き返す間もなく制服のスカートの裾が揺れた。直後、脚に触れた雄大の掌がするりと太股を撫で上げる。少しひんやりとした彼の手が下着のラインすれすれまで滑った瞬間、身体の芯がキュウッと締まって顔から火を噴いた。

 まさかの急展開に完全に思考回路が遮断された。「嫌なら言え」と言われても、「待って」の一言すら出て来ない。

 僅かに開いた口は新たなキスに塞がれて、何も声に出せないまま、スカートの中を蠢く指に全神経が集中している。


 どっどうしよう。どうしたらいいの?! このまま流れに任せる? いやでも、ここで?!

 リビングの入り口で薄暗い中、立ちっ放しでって、ハジメテの状況としてはどうなの?


「ゆっ、ユー……!」


 軽いパニックにおちいりながら必死で声を絞り出した瞬間、玄関を解錠する音が予告無く響いて、お互いに飛び退る様に慌てて距離を取る。その途端、廊下に置いていた私の鞄を雄大が蹴飛ばしたらしく、中身がバラバラと辺りに散らばった。

 それらを掻き集めていたら、ガチャリとドアが開けられてパチクリと瞬きをしたおばさんと目が合った。


「晶ちゃん……どうしたの?」

「え? いえその、ちょっと、今日渡されたプリントを探してて……」


 とっさに口から出た嘘は、無理が隠しきれなくて背中を嫌な汗が伝う。


「雄大の部屋で拡げれば良いのに」

「や、あの、す、直ぐに帰りますから」


 引き攣り気味の笑いを浮かべた私に、首を傾げて奥へと入っていく小父おじさんと小母おばさんの背中を見送って、廊下にへたり込んだままハーッと溜息を吐き出した。

 隣に雄大がしゃがんで荷物を集めるのを手伝ってくれた。


「危ねー……」


 同じく溜息と共に呟いた雄大に、緊張の反動で涙目になりつつ声を潜めて抗議した。


「ユータがこんな所でするから!」

「いいっつったろ!」

「今だなんて言ってない」

「お前……我慢の限界を舐めんなよ」

「意味分かんないし!」


 際限なく続くやりとりは、パタパタと軽やかにこちらへ向かってくるスリッパの音で幕が下ろされた。


「晶ちゃん晩ごはん食べた?」

「いえ、まだ」

「簡単なもので良かったら食べる?」


 お誘いはとても嬉しいけれど、もし雄大と目が合ったりしたら真っ赤になってしまいそうなので、丁重に断った。


「そう? 遠慮しないで、いつでも食べてってね」

「有難うございます」


 にこやかにリビングへ入っていった小母おばさんを固まった笑顔のまま見送って、新たにフーッと息を吐きつつ何気なく雄大に視線を戻すと彼は真顔で私を見つめていた。


「な……なに?」

「や、その……」

「うん?」

「…………嫌じゃなかった?」

「え」

「だからその、おれが」


 ふと目の前に右手を軽く掲げられて顔から火を噴いた。つられたのか同じく頬を染めた雄大を暫く見つめて小さく頷いた。


「え、ほんとに?」

「うん」


 だって、昨日と違って愛情が感じられたから。無理矢理じゃなくて、ちゃんと気遣ってくれているのが分かったから。


 溢れそうなドキドキを抱えながら手元に落としていた視線を上げると、雄大が拳を口に当てて隠しきれていない照れ笑いを零していた。


「なに?」

「いや、ホッとした」

「え?」

「だってさ、また嫌いとか言われたら今度こそ立ち直れないし」

「……」


 何と言って良いものか分からず、荷物の詰め直された鞄を持って靴を履いた雄大に黙って続く。熱い頬を撫でる少し冷たい外気に身を委ねていると、不意に雄大の掌が私の手を包んだ。

 びっくりして見上げると、はにかんだ雄大が私の耳元に口を寄せて「ほんとはキスしたいとこだけど」と小声で呟いた。再び駆け上がる熱にアタフタする私をクスッと笑って「しないって」と言った雄大の笑顔から目が離せずにドキドキが踊る。

 ゆっくりと歩いても、たった30秒で着いてしまう距離を律儀にも送ってくれた雄大の手を放せずに居たら、辺りをきょろきょろと見回した雄大がふと屈んで一瞬唇が触れた。


「また明日な」

「……ッう、うん」


 どもってしまった私の頭は、嬉しそうに頬を弛めた雄大にクシャリと撫でられて新たなドキドキが加速した。

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