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きみの家まで30秒  作者: 柏原みほ
高校2年『窓辺のやくそく』
35/56

涙(月曜日)

 授業の終わりを告げるチャイムが辺りに響く。さっと礼を済ませた先生が教室から出て行くのをもどかしく見送って雄大に声を掛けようと思ったら、一足先に廊下から「坂井ー!」と声がして、雄大は鞄を抱えてそちらへと行ってしまった。彼の名前は知らないけれど、確かバスケ部だったと思う。

 雄大に一言謝ろうとドキドキしながら窺っていた機会を失って、どうしようもなく、浮かせた腰を再びストンと椅子に落とした。

 仕方無いので部活が終わったら体育館を覗いてみようかと考えていたら、ふと「高橋さん」と声を掛けられた。


「守田くん」


 返事をして、そういえば今日の帰りに本屋に寄ろうと約束をした事を思い出した。雄大の事は気掛かりだけど、家に帰れば会える訳だし、ここは先約を優先すべきだろう。


「今から部活だよね」

「うん。守田くんは?」

「俺は図書室かな」

「えっ……もしかして、待っててくれるの? ごめん」

「や、いいんだ。図書室行きたいし」


 やや早口で言った守田くんが、一呼吸置いて握り締めていた携帯を軽く掲げた。


「……あの、部活終わったら、連絡くれる?」

「あ……うん」


 男の子に連絡先を聞かれるのは初めてだったので一瞬躊躇したけれど、確かに連絡が取れないと都合が悪いかも知れないと思い直して自分の携帯を鞄から取り出した。赤外線でお互いの連絡先を交換したあと再び鞄に仕舞って顔を上げると、彼はまだ画面に見入ったまま突っ立っている。何処かおかしな箇所が有っただろうか?


「守田くん?」


 首を傾げながら見上げると、彼が慌てた様に携帯を畳んでポケットに突っ込んだ。


「や、えっと……部活頑張って」

「うん、ありがと」


 頬を弛めて機嫌が良さそうな守田くんにつられて笑みを零しつつ鞄を抱えて立ち上がる。

 本屋に行くのがそんなに楽しいのかな? まあでも、図書委員になれて本当に嬉しそうだった彼の事だから、きっと楽しくて仕方がないのだろう。私も本は好きだから、本屋がワクワクする気持ちは分かる。最近ゆっくりと行けてないし、新刊コーナーを観るのが楽しみだ。

 部活の後のそれを想像して、少し軽い足取りで部室へと向かった。


***


 クラブ仲間に「またあした」と別れを告げて歩きながら携帯を開く。少し前に知ったばかりのアドレスに『終わったよ』と短い文章を送ったそれを鞄に入れて、体育館内をそろりと窺うと入り口からドリブルの音が響いてきた。

 バスケ部、まだ終わってないのか……

 若干沈んで小さく溜息を吐き出した時、携帯電話が着信を告げた。練習の妨げにならない様、体育館から少し離れた所で鞄から掘り出して通話ボタンを押す。


「もしもし?」

『あ、高橋さん。今どこ?』

「えっと、もうすぐ昇降口に着くところ」

『そっか。じゃあ俺も今から向かうから、待ってて』


 弾んだ彼の声に「分かった」と答えて、靴を履き替える。待っている間に雄大にメールでも入れようかな? と携帯を開いて文面を考えているところに彼が来て軽く息を乱しながら「お待たせ」と微笑んだ。


「守田くん、走ってきたの?」

「うん」

「ゆっくりでも良かったのに」

「いや、……まあ、うん」


 何故か歯切れの良くない返事をして苦笑を漏らした彼にキョトンと瞬きを返すと、軽く頭を掻いた彼が「行こっか」と私を促した。少し不思議に思いながらも、きっと早く行きたいのだろうと結論付けてそれ以上聞くのを止めた。

 本屋に行く道すがら彼は色々と話題を振ってくれた。退屈しない様に気を遣ってくれたのかな。さりげなく車道側を歩いてくれたり、『女の子』として扱われるのが嬉しいとともに何だかこそばゆい。

 そして目的の本屋に着いて、平積みにされた単行本や雑誌を眺めながら次々と弾む話は、雄大への気掛かりは心の片隅に引っ掛かってはいるものの、時間が過ぎるのがとても早く感じる程に楽しかった。


 その帰り道、別に一人で帰れるからと断ったのに親切にも送ってくれた守田くんと今日観た新刊や図書便りの構成などについて話しながら家に近付いたら、暗がりに誰か居るのが見えてビクリと身体が震えた。

 「坂井」と呟いた守田くんによって、その人影が雄大である事に気付く。既に晩ご飯を食べていてもおかしくない筈なのに、どうしてこんな時間にこんな所に? そう言えば、お隣の電気も点いていない。もしかして、鍵が無くて入れないとか?

 どうしたの、と声を掛けようとしたら雄大が微かな声を漏らした。


「………かよ」

「え?」

「そういうことかよ」


 そういう事って、何が?

 訳が分からず、呆けたまま立ち尽くしていたら雄大の顔がクシャリと歪んだ。


「……おれにはもう、チャンス無い訳?」

「え? ユータ、ちょっ……」


 何だかよく分からないけど、雄大が泣きそうな事だけは分かった。きびすを返した彼を慌てて止めようと思ったら、隣で守田くんの声が低く響いた。


「逃げんの?」


 いつもより冷たい感じのするその声を見上げたけれど、私と視線が合う事は無く、彼の瞳は険しい色をたたえて真っ直ぐに雄大を見据えている。


「お前が大事にしないなら、俺はもう遠慮しない」

「……ッ、譲らないって言ったろ」

「それは坂井じゃなくて彼女が決める事だろ」


 威圧する様に告げた守田くんの言葉の意味を理解しようと、軽いパニックに落ちた頭を叱咤していると、不意に雄大の手が勢い良くこちらに伸ばされてビクッと身体がしなった。一瞬、守田くんに殴り掛かるのかと思ったその手は、彼の脇をすり抜けて私の手首を強く掴んだ。


「痛っ……」

「坂井!」


 咎める様な声を発して反射的に雄大の腕を掴んだ守田くんを、ちらりと一瞥した雄大の手の力が少し弛む。


「分かってる……話がしたいだけだ」


 まだ雄大の腕を掴んだまま悔しそうに唇を噛んだ守田くんに、少し声のトーンを落とした雄大の言葉が続く。


「今日は帰ってくれよ、守田」

「……でも」

「おれらには『近所の目』ってのが有るんだよ。困るのは、アキラだ」

 

 そう言った雄大を暫く睨んだ守田くんはやがて、ゆっくりと腕を退いて固く拳を握りしめた。


「………サンキュ」


 小さく呟いた雄大に守田くんは何も応えず、くるりと背を向けて駆け足で去って行った。


「あっ、ちょ……」


 まだ送ってもらった御礼も言ってなかったのに。僅かに守田くんを追い掛けようとした自らの身体は、雄大にがっちりと捉えられていてその場から動く事は無かった。


「………来て」


 雄大の家の方にくいと引っ張られて、昨日の出来事が脳裏に鮮烈に蘇る。瞬間、全身を強張らせて拒否をした私を哀しげに見つめた雄大が声を絞り出した。


「何もしない」

「……ッ」

「誓うから。絶対に何もしない」


 そうは言われても、固まってしまって動けないでいた私の手首を掴んでいた手が、ふと離れた。

 地面を見つめていた視線をそうっと上げると、雄大が無言のまま手の甲でぐいと頬を拭ったところだった。

 泣い……てた?

 途端にズキリと胸に痛みが走る。泣きそうな顔は見ても、実際に泣いているところなんて何年振りかに見たのだから。


「……5分でもいいから……話したいんだ」


 涙交じりの声で絞り出す様に告げられて、更なる胸の痛みを覚えた。

 私も話したい事は有る。とりあえず『大嫌い』を取り消さないと。雄大の言う様に、ここで揉めてご近所に有らぬ噂でも広まったら困るし、と思って少し躊躇しつつも雄大の家へと足を向けた。

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