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きみの家まで30秒  作者: 柏原みほ
高校2年『窓辺のやくそく』
34/56

気遣い(月曜日)

「落ち着いた?」


 昼休み、柔らかい陽射しと心地良い風の踊る人気ひとけの少ない中庭でお弁当を食べ終えて、パックのジュースを飲みながら梅香が切り出した科白せりふに小さく頷いた。

 言うまでもなく、今朝の続きだ。

 授業が終わる度にそそくさと教室を出て行く私の背中に雄大の視線が刺さっていた事は知っているけど、一度も振り返らなかった。

 それは多分、梅香にはバレバレだっただろうと思う。

 このまま雄大を避け続けて解決する問題じゃないのは分かってるけど、向き合うにはもう少し時間が欲しい。


「で? なんでユータくん避けてんの?」


 案の定バレバレな上、ストレートに突っ込まれて苦笑を零す。一瞬、胸にサクッと刺さるけれど、変に気を遣われるよりずっといい。相談もし易くなるし。

 とは言え、何と切り出したものかと考えあぐねて口をつぐむ。

 黙り込んだ私にふっと溜息を零した梅香が「順に言ってみ?」と促してくれた。

 そこで、あの服を着て待ち合わせに行った事、途中で自転車にぶつかりそうになって守田くんに助けてもらった事、ケガをした彼の荷物を持って家に行った事、諸々を正直に打ち明けた。


「家? 上がったの?」

「うん」

「……それで?」

「それで……携帯忘れてたから守田くんに借りて、ユータに電話した」


 梅香の表情が段々苦笑気味になっているのは気のせいだろうか。


「そしたら、すごく不機嫌になっちゃって」

「だろうね」

「ええー……だって、遅れたのは不可抗力だし、何度も謝ったのに」

「……」


 黙って深々と溜息を吐いた梅香の顔に大きく「呆れた」と書いてある。

 なんで? どこが?


「何か、ユータくんが不憫ふびんに思えてきた」

「ええ?」


 納得いかない胸の内が顔に表れたであろう私に、再びふーっと息を吐いた梅香が、私の肩をポンポンと叩いて「それで?」と言った。

 え、話の続き? 不憫のくだりはそのまま流しちゃうの?


「ユータくんが怒るのは分かるけど、何でアキラが怒ってんの?」


 え、分かるの? 雄大が怒った理由。

 呆けた顔で梅香を見つめた私に、もう一度「それで?」と訊かれてきゅっと唇を噛みしめる。

 固くて冷たいドアに押し付けられた自らの背中と、その背中を駆け上がるゾクリとした感覚が鮮明に蘇って小さく身体を震わせた。


「…………怖かった」

「え?」


 私の消えそうな呟きに聞き返した梅香に何も言えず、泣きそうな気持ちを堪えて自分の身体を両腕できつく抱え込むと、梅香が信じられないと言った表情で固い声を発した。


「まさか……襲われた?」


 そうか私、雄大に襲われ……

 言葉で認識すると、堪えていたものが一気にり上がって瞳にじんわりと熱いものが滲んだ。

 その滲む視界の中で梅香がオロオロと言葉を発する。


「えっ嘘でしょ?」

「……ッ」

「信じらんない! 無理やり押し倒すなんて!」


 押し倒……? いや待って、そこまでは。


「あ、あのね梅ちゃん」

「ちゃんと避妊してくれた?」

「や、えっと」

「してないの?! 最低!! 直ぐ病院行くよ!?」

「へ? 病院?」

「そうだよっピル処方してもらわないと!!」


 とんでもない方向に加速した話に慌てて違うと声を張り上げた。


「しっしてないから! っていうか、されてないっていうか……」

「……へ?」


 モゴモゴと語尾を濁らせた私に、数回瞬きをした梅香が呆けた声の疑問符を発した。


「襲われた……んじゃないの?」

「や、えーと確かに強引にキス……とか、されたけど……」

「はあ?」


 これでもかという程に呆れ声を出した梅香の顔を真っ直ぐ見る事は出来なくて視線を地面に落とす。

 沈んだ私を怖ず怖ずと覗き込んだ梅香が躊躇ためらいがちに口を開いた。


「……あの、晶もしかして、初めて……?」

「え?」

「ファーストキス?」

「ちっ違うけどッ」


 どもりながらも否定すると梅香は、やれやれといった様子でふーっと息を吐いた。


「なんだ、びっくりした。キスでこの世の終わりみたいな顔しないでよ」

「だって、びっくりしたんだもん!」


 まるでおうむ返しの様に反論した私に再度パチパチと瞬きをした梅香は「何が?」と至極真っ当な質問をした。


「だって、舌が……その、口の中に」


 顔に熱が駆け上がるのを感じつつモゴモゴと答えると、暫くポカンと私を見つめた梅香がウーンと唸って腕組みをしつつ地面を見つめた。

 考え込む梅香にドキドキが徐々に高鳴っていく。何かおかしな事を言った? 経験こそ無いが、そういうキスも有ったと思うのだけれど記憶違いだっただろうか。


「それ、嫌だったの?」

「へ?」

「晶は、ユータくんにそういう事をされたのが嫌だったの?」

「……」


 そう言われると悩む。キスをされたこと自体よりも、その経過と理由が嫌だった様に思う。私の事を想ってそういう行為をしたかったのでは無く、当て付けにされた事が多分、哀しかったというかショックだった。

 ……と思うのだけど、衝撃が強すぎた所為でその瞬間の感情がうまく言い表せない。

 黙って私を見つめる梅香に、正直に「分かんない」と告げると、何度目かの大息をふーっと吐き出された。

 そんなに溜息ばかり吐かれると何だか哀しい。私ってそんなにおかしいのだろうか。


「とにかくさ」


 シュンと沈んだ私の肩を宥める様にポンポンと叩いた梅香が、空のパックを潰しながらよいしょと立ち上がった。


「ユータくんと話し合おうよ」

「うーん……」


 それは分かってるのだけれど、どうしても腰が引けてしまう。


「後になればなる程気まずいよ、きっと」

「そうなの?」

「だって、うやむやに出来る事じゃないでしょ?」

「うー……」

「ゴミ捨ててくるね」


 頭を抱えた私を放置してジュースの空パックを捨てに行った梅香の背中を見つめて、地面に重い息を落とした。

 話し合うにはきっかけが必要なのだけれど、自分からそれを作り出すのは物凄く難度が高い様に思う。だって、とてもこちらから「ごめん」などと言える心境ではない。そして、喧嘩をした時にそれ以外の仲直りの方法を私は知らない。

 どうしてあんな事をしたのかと問いただして、その答えがやっぱり私の気持ちをないがしろにした内容だったらと思うと、それを訊くのも躊躇ためらわれる。

 どうするべきなのか答えが出ないまま、吐き出した息をその場に残して教室へと重い脚を引き摺った。


***


「……アキラ」


 自分の席に着くと、待ち構えていた様に斜め前から振り向いた雄大に話し掛けられて、身体が反射的にビクリと跳ねる。そんな私の態度に哀しそうに眉根を寄せた彼が尚も言葉を続けようと息を吸い込んだ瞬間、辺りに鳴り響いた本鈴。そして、ほぼ同時に教室の前の扉がガラリと開いて「席に着けー」と良く通る声を響かせつつ先生が入ってきた。

 おかげでそれ以上の話は出来ず、数回パクパクと口を開閉した雄大は、小さく溜息を零したきり口をつぐんで前を向いた。その後ろ姿でも沈んでいる様子が何となく窺えて、またしても胸がズキリと痛む。

 そんな雄大が気になって、授業は勿論上の空。ちっとも身が入っていない中、不意に名前を呼ばれてハッと我に返った。


「高橋、次読め」


 そんな事言われても、完全に右から左に流していた私に「次」が何処なのか分かる訳が無い。焦って古文の教科書をパラパラ捲っていると、右斜め前でふと手が挙がった。


「センセー、花摘みに行ってもいーですか」

「何だ坂井、トイレは授業が始まる前に行けよ」

「やだなセンセ、折角オブラートに包んだのに」


 クスクスと笑いが充満する教室に諦めの溜息を零した先生が「早く行ってこい」とまるで動物を追い払う様にシッシッと手を振った。それに「はーい」と気の抜けた返事をした雄大が緩い動作で立ち上がり、私の隣を抜けて教室外へと出て行った。


「静かに。ハイ、じゃあ高橋」

「は、はい」


 私の横を抜ける瞬間、ボソリと「27頁アタマ」と呟いて行った雄大の声が耳に残っている。聞くまでもなく、御手洗いなんて口実だ。答えられない私から皆の注意を逸らして朗読箇所も教えてくれた、そのり気ない気遣いに胸がじんと熱くなる。


 今なら「ごめん」って言えそうな気がする。大嫌いなんて言って、ごめんって。

 あと15分足らずでやってくる放課後に思いを馳せて、体内で加速している鼓動の上で拳をきゅっと握り締めた。

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