嫌い(月曜日)
「……おはよう」
次の日の朝、雄大と顔を合わせたくなくていつもより20分も早い時間に家を出たのに、彼はそこで待っていた。
こちらを窺う様に怖ず怖ずと発された挨拶に無言を返して俯き気味に歩みを速めた。何か言いたげに雄大の口が動いたのが見えたけど、見ない振りで彼の前を通り過ぎる。
いや、後一歩で通り過ぎようかという時、不意に手首を掴まれた。瞬間、電流でも走ったかの様に身体がビクッと跳ねる。
お腹の辺りでぐるぐると渦巻く何かが込み上げて、自分ではどうしようもなく瞳が潤んだのが分かった。こんな事で泣くまいと必死で堪えつつ唇を噛み締めて雄大を見つめると、切なそうに眉根を寄せた彼の手の力が僅かに弛んだ。
「昨日は悪かったよ。でも……」
「聞きたくない」
雄大の科白を遮って少し強めに否定の言葉を発すると、彼の手が力無く私から離れていった。
その顔は今にも泣きそうで、物凄い罪悪感に襲われる。胸はズキズキと呼吸が出来ない程に痛い。これ以上ここに居たらボロボロと泣き出してしまいそうで、鼻腔まで昇った熱いものを無理やり呑み込んで学校へと足を向けた。
そんな私から数歩遅れて黙って着いてくる雄大を背中で感じる。
昔からそうだ。私が怒っていると捨てられた仔犬の様な表情で着いてくる。いつだって怒っているのは私の方で、雄大は「ごめん」と繰り返す。
だって、悪いのは雄大なのだ。私が嫌いだと知っていて蛙の入った箱を渡してきたり、大好きなクマの縫いぐるみを返してくれなかったり。
今回だって……
ふと、昨日の雄大が脳裏に浮かんで身体の中がカーッと熱くなった。素足の太股に触れた雄大の手の感触は一晩経っても消える事は無くて、その瞬間の絶望感と相俟って胸が潰れそうになる。
雄大は私に『何もしない』とハッキリと言った。なのに、男の子の家に上がると何が有るか分からないという理由だけで、した事無い深いキスと……あんな事。
初めてはきっと一杯のドキドキに包まれて、恥ずかしいけれどとても幸せな行為を思い描いていた私の想像は粉々に打ち砕かれて、思い出したくもない記憶になった。
手首を無造作に押さえた雄大の力はとても強くて、暴れてもビクともしなくて只々怖かった。その舌に吐息を絡めとられる度にゾクリと背中を震わせる感覚に泣きそうになった。
そんな私の気持ちなんて、雄大はきっと微塵も分かっていない。ただ、私が怒っているから今まで同様謝っておこうと思っただけだろう。
雄大のバカ。
面と向かって罵ると、益々惨めになる気がして固く唇を噛み締めた。
***
「晶っオハヨっ」
教室に入ると、待ち構えていた様に梅香が傍に寄って来た。
「……おはよ。早いね」
「だって待ちきれなくて!」
昨日の甘い報告を聞こうとワクワクした気持ちが溢れ出ている梅香には悪いけれど、そんな楽しい話はひとつも無い。
キラキラした瞳で私を見つめる梅香に溜息をひとつ零してカタンと自分の席に掛けた。
雄大がその辺に見当たらない事がせめてもの救いだ。
「で? で? どうだった? ユータくんの反応はっ」
まだ早い時間の教室に人は疎らだけど、それでも声を潜めてウキウキと訊いた梅香に、暫く躊躇して「………別に」と答えた。
私の返答にパチパチと瞬きをした梅香が首を傾げる。
「へ? 着なかったの? アレ」
「着たよ」
「じゃあホラ、何か言うとか、照れ臭そうだったとか」
「……気に入らないみたいだから」
「は?! なんで!」
思わず声を張り上げた梅香をシーッと制して溜息を落とす。
何で。私が知りたいよ。折角頑張ってお洒落したのに、何であんな事言われなきゃならないの? それにっ……!
どうしても頭から離れないあの光景に溜息が重なる。
梅香なら今の彼氏とも長いし、このモヤモヤの相談も出来るかな。でも、今詳細を話す気にはなれなくて「後でね」と告げて口を閉じた。
心配そうな顔で梅香が去った後、ふと窓側に視線を遣ると、守田くんと目が合った。
いつもなら、目が合ったとしても直ぐに逸らされるそれが、私を真っ直ぐ見つめたまま動かなくて心臓がドキリと跳ねる。
やや有って、ゆっくりとその視線は逸らされたけれど、鼓動は速まったまま体内で主張をしている。
……聞いてた? 今の話。守田くんもやっぱりあの服は変だと思ったのかな。
少し沈んだけれど、そう言えば、もう手は大丈夫なのだろうかと、ふと思い出して席を立って彼に近付いた。
「守田くん、おはよう」
「……おはよう」
「あの、手、まだ痛む?」
「いや、昨日湿布してたからもう大丈夫」
「ホント? 良かったあ」
ホッと安堵の息を吐いたら、俯いて少し口篭もった彼が私を見上げた。
「可愛かったよ」
「え?」
「昨日の服。とても良く似合ってた」
にっこり微笑まれてカーッと顔が熱くなるのを感じた。
男の子に真っ向から服装を褒められたのなんて初めてだ。何だかすごく擽ったくて、嬉しい。
「あ、あ、ありがと」
噛んだ。恥ずかしさに益々顔に熱が集まる。そんな私に彼は、クスリと笑いを零して言った。
「ほんと可愛いよね、高橋さんて」
「えっ? やだな、からかわないでよ」
「からかってないよ」
「もー……」
守田くんってこんな事を言う人だっただろうか。社交辞令とはいえ、真っ正面から告げられた『可愛い』にドキドキが速くなる。
雄大は絶対にこんな事言わないな。無意識に比較して慌てて首を振った。
何を考えてるんだろう。そもそも、守田くんは服を貶されて沈んでいる私を見兼ねて慰めてくれただけなのに。
うん、でも嬉しかったな。どん底まで沈んでた気分が少し浮上した。
ふっと頬を弛めると、一瞬目を丸くして私を見つめた彼が軽く頭を掻いた。
「……そういや、来月図書便り作成だよね」
「あ、うん」
そう言えば、くじ運がいいのか悪いのか、来月早速当たったんだった。
「近いうち本屋でも寄って行かない?」
「うん?」
「新刊とか、話題の本とか見に」
そっか。お薦め図書とか載せる事が出来るって言ってたもんね。
楽しげな守田くんに自然と笑みが溢れる。明るく話題を振ってくれる彼は気を遣ってくれているのかも知れないけど、今はその気遣いが有難い。本当にいい人だなあ。
「あ、でも部活有るから、その後でもいい?」
「……勿論」
一拍置いて返事をした守田くんの視線が後ろに流れたのを感じて振り返ったら、入り口付近からじっと此方を見ている雄大が居た。
殆ど睨むと言ってもいいその視線に一瞬怯んでビクッと身体が震えたけれど、よく考えると睨みたいのはこっちだ。
モヤモヤした気持ちを、ふーっと吐き出した溜息に混ぜ込んで体外へと放出した。そして、改めて軽く深呼吸をして守田くんへ向き直る。
「いつにする?」
「……いいの?」
「え?」
「坂井。いいの?」
「……うん」
今雄大と向き合っても、きっと真面な話し合いにはならない。正直、彼の顔を見る事すら辛い。
先程フイと逸らした視界の隅で、一瞬泣きそうな雄大の姿が見えた様な気がするけど、見なかった事にしておこう。認識したらまた押し寄せる罪悪感に呑まれそうになってしまうから。
ざわざわと騒ぐ胸に蓋をして、守田くんに精一杯微笑んだ。




