喧嘩(日曜日)
……二人で何を話しているんだろう。
先に外に出る様に言われてその通りにしたものの、ドアの内側が気になってソワソワと振り返っていたら、ムッとした表情の雄大が程無く出て来て無言のままグイと手首を引かれた。
「え、ユータ?」
呼んでもまるで止まる気配が無いどころか、振り返りもしない雄大に強い力で手を引かれて、もつれそうな脚を動かして何とか着いていく。
何? 何でこんなに早足なの?
つい先日もこうして引っ張られたばかりだというのに、今度は一体どうしたというのだろう。
「ちょっ……駅こっちじゃないよ?」
この速い歩みは、予定よりも遅くなってしまった所為だとしても、目的地である筈の駅と真逆に進んでいくのは納得がいかない。
「ユータってば!」
若干息を切らしつつ、返事がない雄大に語気を強めて呼び掛けて、やっと振り向いたと思ったら目一杯睨まれた。
もう、何で? 確かに遅刻は悪かったけど、携帯忘れて連絡も遅くなったけど、そんなに怒る事ないじゃない?
「……ッねえ、どこ行くの?」
「帰るんだよ」
「え!? 水族館は?」
「止めた」
は?! 何でよ! 楽しみにしてたのにっ!
指折り数えて今日を待ち望んでたのに、理由も言わずに帰るなんて酷い。
沸き起こる怒りを通り越して瞳にじんわりと雫が浮かんだ頃、見慣れた景色に全身が包まれて、直後そのまま引っ張り込まれたのは雄大の家。
ジンと痺れる様な痛みを残して漸く放された手首を摩りつつ雄大を正面から見据える。そして御近所丸聞こえを警戒して、ドアが閉まったのを確認してから少し声を荒げて理由を訊ねた。
「何でよ!」
「………出掛ける気分じゃなくなったんだよ」
私から視線を逸らしたまま、不機嫌な声でボソリと答えた雄大に怒りが募る。
そんな、そんな理由で取り止めなの? わたしの気持ちなんてどうでもいいの?
初デートだからって服まで新調して楽しみにしてたのに、気分じゃなくなったからって……!!
溢れんばかりの文句はどれも言葉に成らず、代わりに大粒の雫が数滴、頬を濡らした。
瞬間、慌てた様に口を開閉する雄大の横をすり抜けて外に出ようとしたら、ドアのハンドルを握った手に雄大のそれが重なった。
「待って」
少々焦った様な声を耳元で発せられた事により、ズキズキと刺す様な痛みに呑まれていた身体は、壊れんばかりに暴れている胸のリズムに上書きされた。
苛立ちとドキドキが入り交じって何も返答出来ず、後ろから被さる様に立っている雄大を背中一面に感じている。
只でさえ溢れる程にいっぱいいっぱいの鼓動なのに、そんな近くに居られたら息までも止まりそうだ。いや、既に止まっている。
吐き出せない息を体内に留めたまま固まった私の耳に再び吐息が掛かった。
動悸が更に激しくなったところに溜息と共に降ってきた言葉に、吐きかけた息を呑み込んだ。
「……なんで、こんな服着てんだよ……」
まるで、岩に打ち付けられた様な衝撃が走った。
そんなに気に入らなかった? 恥ずかしくて一緒に歩けない程?
だから止めたの? だから、初デートは無しになったの?
余りにもショックで暫し呆然と立ち尽くした後、滝の様に嗚咽が漏れた。
「えっ、ちょ……アキラ……」
「帰る!!!」
ガチャガチャとドアを鳴らして鍵がかかっている事に気付く。一体いつの間に閉めたんだろう。焦る手で解錠しようと藻掻いていたら、再びその手を掴まれた。
「待てって!」
「放してよ!!」
雄大の手を力一杯振り払って袖でグイと涙を拭う。せっかくの一張羅がしとどに濡れたけど、別にいい。どうせもう着る事は無い。
こんな服買わなければ良かった。そうしたらこんな惨めな思いをする事は無かったのに。
漸くカシャンと鍵が開いて外に出ようとした瞬間、背後から強い力で抱き締められた。
息を呑んだ私に構わず益々ぎゅうっと力を込めた雄大は無言のまま固まっている。
「…………おれの、為?」
長い長い沈黙の中で爆発しそうな鼓動をひたすら数えていたら、やっと小さな声が漏れた。
しかしその意味が分からずに「は……?」と問い返した私に言い難そうにモゴモゴと口篭もる雄大。
「……アキラの今日の服」
「は?」
「だから……その、おれとデートだから、これ?」
「……ッ」
そうだけど! でも気に入らないんだよね?!
お願いだからこれ以上傷口を抉らないで欲しい。
「もう着ない」
「え?」
「柄じゃないし似合わないんでしょ?! 悪かったわね!」
抑えきれなくて溢れた思いを口にした事で、更に胸の痛みが増した。
腕の力が弛んだ雄大に内心派手に溜息を吐きつつドアを押したら、不意に身体が反転させられて雄大と向かい合う格好になった。
突然の事に思考が停止した瞬間、屈んだ雄大の顔が目の前にあって……直後、触れた唇。
そっと離れた雄大を、瞳を見開いたまま呆然と見つめていると、眉根を寄せた彼の顔が再び接近して私の吐息を包んだ。
「………そんな事言ってねーし」
一度目よりもゆっくりと触れた二度目のキスの後、ふて腐れた様にボソリと呟いた雄大が深々と溜息を吐いた。
『そんな事』言ったも同然だ。ずっと不機嫌そうだし、デートだって取り止めだし。
「だって、『なんでこんな服』って言ったじゃん!」
「それはっ……」
言葉に詰まった雄大が彼の頭をガシガシと掻いた。
瞳に涙を溜めたまま睨む様に見据える私と僅かに絡んだ視線を泳がせて、ばつが悪そうに口を開閉する。
「なんで……おれじゃなくて、守田に見せてんだよって言うか……」
「え?」
「おまけに家まで行ってさ」
「だってそれは、私を庇って……」
「分かってる」
最後まで言わないうちに私の科白を遮った雄大は何度目かの溜息を落とした。
「……でも、スゲー嫌だ」
「は……?」
「こんな無防備な格好でノコノコと男の家に上がり込むな」
「へ? だって、守田くんだよ?」
「だから?」
「だから……そんな、別に何も起こらないっていうか……」
言った途端、これでもかというほど盛大な溜息を吐かれた。
さっきから溜息吐き過ぎじゃない? それに、その馬鹿を見る様な目付きは納得がいかない。だって、只のクラスメートの私と何が起こるというの?
「バカ」
目付きどころか口に出された。
反論しようとした声は雄大の吐息に呑み込まれて……って、え、舌っ……!
咥内をぺろりと舐められて軽くパニックになっていたら、角度を変えて更に深く重ねられた。
身体はドアと雄大に挟まれて全然動けなくて。焦って暴れる私の背後でドアの錠の音が響いた。
鍵……掛けた?
疑問に思う暇もなく、突如何も纏わない太股を撫で上げられた感触が背中をゾクゾクと震わせて頭の天辺まで駆け上がる。
「ユ……ッ」
制止の為に名前を呼ぼうとした声は、新たなキスに呑まれて口にする事が出来なくて、代わりに小さく嗚咽が漏れた。
いつかそのうち、雄大と交わす筈のハジメテは、何かこんなのじゃなくて……!
ヒクヒクと肩を震わせて泣く私からそっと離れた雄大に、怖ず怖ずと頭を撫でられて全身がビクッと震えた。
「……ごめん」
「……ッ」
「でも、男の家上がって何も無い保証なんて無いから」
不機嫌な声で呟いて視線を逸らした雄大に何も言えず、下唇をぎゅっと噛んだ。
何だか悔しい。自分が大切にしていた感情を踏みにじられた様な気がした。
「……それだけ?」
「え?」
「それを言う為だけに……したの?」
またも溢れそうな涙を必死で堪えて両手を力一杯握り締めた。
「……ユータなんか大っ嫌い」
俯いたまま絞り出す様に告げてくるりと背を向けた。
そのまま振り返る事は無く、玄関ドアを後ろ手で閉めて自分の家に走って帰った。




