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きみの家まで30秒  作者: 柏原みほ
高校2年『窓辺のやくそく』
23/56

抱擁(水曜日)

「ゆっユータ?」


 ああ、完全に声が裏返った。雄大は何も言わずにただ、強い力で私を抱き締めている。

 どうしよう、心臓が壊れる。

 さっき、手を繋がれた時もすごくドキドキしてたけど、それとは比較にならない程に激しく鳴り響く鼓動に頭がパンクしそうだ。


「おお、おばさんは?」


 上擦った声で訊ねると、クスリと笑われた。雄大の吐息が耳を掠めた事で、動悸がますます速度を増して全身を支配している。


「今日、同窓会だって」

「えっ」


 じゃあ、暫く帰って来ないってこと? こんな薄暗い部屋で、2人っきりで雄大に抱き締められたままで……!?


「緊張……してる?」


 そりゃするよ! すきな人に突然抱擁されて動揺しない人が居たら見てみたい。

 そんな文句すらも言えない程、一杯一杯になって硬直してる。

 息すらも詰めて身動みじろぎしない私を包む力が少し弛んだ。

 怖ず怖ずと振り返ったら、直ぐそこに雄大の顔があって、赤面する暇もなく唇が触れた。


「……ッ」


 一拍置いて勢いよく熱が駆け昇る。顔から湯気を噴いた私を笑う事も無く、僅かに眉間に皺を寄せた雄大は、私の髪に触れた大きな掌をするりと下方へ滑らせて、燃えそうに熱い頬と耳を撫でた。


「ゆ、ユー……」


 名前を呼ぼうと発した震える声は、雄大の吐息に呑み込まれて、溶けて消えた。

 素っ気なかった昼間の態度とのギャップがあり過ぎて、より一層バクバクしてる。

 まるで耳の真横で和太鼓を打ち鳴らされている様だ。

 不意に、もう一方の手で腰を抱かれて、思わずビクリと身体が跳ねた。

 その手が僅かにうごめいて、ゾクゾクッと何かが背中を駆け上がる。


 え、ちょっ……待って。まさか、先に進んじゃうの?! 全然心の準備とか出来てないんだけど……!!

 慌てて身体をよじる私の耳元で、ふっと笑い混じりの溜息を零した雄大が、おでこに軽くキスを落として私を放した。


「何もしないって」

「……ッ」


 えっ何? 漏れてた?! わたわたと顔を覆う私を見て、苦笑気味に頬を弛める雄大に脈が速まる。

 ……ああでも、何にもしないのか……

 ふと頭を掠めた思考を慌てて振り払う。違う。無理無理。無理だから!

 雄大の事すきだけど、それとこれとは話が別っていうか……!

 内心大恐慌の私を知ってか知らずか、雄大はすごく落ち着いて見える。


「……だから、もうちょっと」


 囁く様に告げられた直後、再び抱き寄せられてゴクンとつばきを呑んだ。

 突然過ぎる甘い空気に馴染めずに完全に硬直していたけれど、じわじわと歓喜が全身を浸して熱いものが込み上げてくる。

 目尻に浮かんだ雫が流れない様にそっと瞼を閉じて、ドキドキしながら胸元に体重を預けたら、雄大の身体がピクッと小さく跳ねた。

 そして、再びキュウッと抱き締められて、速い鼓動の渦に呑み込まれた。


 こんなにしっかり抱き締められたのって、あのバレンタイン以来? でも、あの時は泣きじゃくって若干パニック起こしてたし、今みたいに浸る余裕は無かったなぁ……

 すっぽりと包まれた腕の中でひたすらドキドキしていたけど、ふと、頬に触れる雄大の鼓動も心做こころなしか速い事に気付いて、嬉しくて小さく笑いが漏れた。


「……可笑しい?」

「ううん、しあわせ」


 素直に口から溢れた言葉に我ながらビックリしつつ、照れ笑いを浮かべて雄大を見上げたら、思いのほか彼の頬が赤かった。

 ……あれ?

 思わずキョトンとして見つめていたら、視線をずらした彼が頭をガシガシ掻いた。


「そ、そう」


 雄大がどもるなんて珍しい。もしかして、照れてる? どうしよう。嬉しくて顔が笑うのを止められない。

 そのまま見てたら、やや拗ねた様に「笑うなよ」と呟いて再びぎゅうっと身体が密着した。

 ドキドキをコクンと呑み込んで、雄大の背中にちょっとだけ手を回すと、それっきり沈黙に包まれて、速い鼓動の音だけがハッキリと耳に響いている。

 本当に、泣きそうな程にしあわせだ。


 感動して佇んでいると、いつの間にか室内は真っ暗になっていた。


「……帰る?」


 辺りを見回した私に、雄大が小首を傾げて訊いた。


「あ、うん……」


 そう答えたけれど、正直言って名残惜しい。恋人っぽい時間が終わってしまう。

 小さく溜息を吐いた私は、雄大に目敏めざとく発見された。


「淋しい?」

「そっ……!」


 含み笑いで訊かれたその科白せりふに、反射的に「そんなことない」と言い掛けた言葉を呑んで、「……そうだね」と呟くと、雄大の頬がみるみる染まった。


「……反則過ぎだろ……」

「え?」

「……急にそんな素直になられたら、どうしていいか分かんないじゃん……」


 徐々に消えそうな声になって行く雄大に耳を傾けていたら、彼が真っ赤な顔をフイッと逸らした。


「そんな事無い、とか言われたら、軽い感じで言い合いとか出来んのに」

「じゃあ……そんなことない」

「遅ぇよ」


 2人で顔を見合わせて、ほぼ同時に噴き出した。

 いつもと同じだけれど、いつもよりちょっぴり甘い空気に、胸がキュンと締まって身体がほんのり温かくなった。

 うん、やっぱりしあわせ。


「晩ご飯どうするの?」

「それが何も無いんだよ。適当に食べろって、今朝千円札1枚渡されてさ」


 財布から無造作にお金を出したおばさんが浮かんで、思わずクスリと笑いを零しながら「じゃあ」と言った。


「ウチで食べる?」

「え? いいの?」

「うん。今日カレーだって言ってたし。きっと一杯作ってあるから」

「やった。アキラの母ちゃんのカレー美味いよな」


 弾んだ声で答えた雄大がとても無邪気に見えて、ニコニコと微笑みながら見つめていると、雄大がまたポリポリと頭を掻いた。


「あんま見んなよ」

「どうして?」

「恥ずかしいから!」


 観ていたいのにな……

 ほんの少し沈んだけど、もし逆の立場だったらと考えると、やっぱり観られてると落ち着かない。気持ちは分かるんだけど、でも。

 他に見る所も無くて俯いていたら、ふと雄大の手が触れて握られた。

 顔を上げると、頬を染めた雄大が私から視線を逸らした所だった。


「腹減った。行こ」

「う、うん」


 慌てて靴を履いて玄関を開けると、空には僅かに茜色の名残が残っていて、深い藍色の上に星がキラリと瞬いていた。


「わ、綺麗」


 空を見上げて呟いた後、雄大に視線を移したら、またもそれを逸らされた。


「何?」

「……や、別に」


 口篭もられるとすごく気になる。もしかして、口開けて変な顔してた?


「……前言撤回」

「うん?」

「見られんの恥ずかしいけど、やっぱ……観たいし」


 予想外の科白せりふに、口をぽかんと開けたまま雄大を見つめてしまった。

 一拍置いて、額に向かって勢い良く熱が押し寄せる。

 ああ……確かに。急に素直な事言われたらビックリするね。どうしていいか分からないよ。

 でも……嬉しいな。

 胸にじんわりと拡がる温かいものを噛み締めて、自然に弛む頬に照れ笑いを零しながらそっと雄大の手を取った。 

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