殺し屋の彼女
俺には4年前から付き合っている彼女がいる。容姿端麗と言うに相応しい美人だ。誰が見ても、口を揃えて「美人」と言うだろう。しかし、彼女は___殺し屋だ。
「アイスが食べたい。ねぇ、買ってきて。」
彼女はワガママだ。恋人の可愛いワガママ、なんて甘いものではない。ただの自己中だ。
「じゃあ、2人で買いに行こうか。」
「…何で?」
こっちが「何で?」だ。突然アイスを食べたくなったのは彼女なのだから、彼女自身が買いに行くか、百歩譲っても2人で行くのが普通ではないのか。
「いや、俺は別にアイス食べたくないから。」
「私がアイスを食べたいんだから、あんたが買ってきて。」
意味が解らない。俺は下僕か。彼女のワガママは今に始まった事ではないが、ここ最近思い悩んでいた事もあり、カチンとキてしまった。
もう、いい。もう、決めた。言ってやろうではないか。こんな形で言いたくはなかったが。
「…あのさ、言おうと思ってた事があるんだけど」
プルルルルル
俺の話を遮るように、電話が鳴った。これは彼女が仕事用に持っている携帯電話の音だ。彼女は仕事柄、プライベート用と仕事用の携帯電話を持っている。
「はい。」
電話に出た彼女は相手と一言二言、会話とも言えないような会話をしてから、電話を切った。
「仕事に行ってくる。」
「…あぁ、そう。行ってらっしゃい。」
ソファに座っていた彼女は立ち上がり、玄関へと向かっていく。俺は見送りもせず、観てもいないテレビをただ眺めていた。それから直ぐに、ガチャンとドアの閉まる音が聞こえた。
彼女は殺し屋だ。先程の電話も依頼主か協力者からの電話だろう。そして、仕事へ向かった彼女は人を殺してくるという事だ。付き合い始める前から彼女がそういう職業である事は知っていた。知ったときは当然驚いたが、如何しても彼女の事が好きだった俺は、しつこい程に想いを告げ、ついには彼女を折れさせた。今思えばストーカーと言われてもおかしくない程しつこかったと思う。よく殺されなかったものだ。
それから4年の歳月が流れ、彼女と同棲を始めた訳だが、やはりと言うかこれが最大の難関だった。彼女のワガママに1日中振り回される事よりも、家事を全く手伝ってくれない事よりも、仕事から帰ってきた彼女を見る事が一番辛かった。返り血にまみれて帰ってくる時もあれば、彼女自身が怪我をしている時もある。最低な話ではあるが、彼女が血塗れで帰って来る度、返り血である事を祈るのだ。そんな事を繰り返している内に、彼女には女性らしい生活を送ってほしいと思うようになった。彼女には家事を任せ、俺は仕事へ出る。女性は家にいるべきなどと主張する気はないが、ただ彼女が待っている家に帰りたかった。そんな自身の夢を彼女に話したことがあったが、「考えが古い。」と一蹴されて終わった。
その時からだろうか。彼女との未来を描くことが出来なくなったのは。冷たい態度を取られるのは毎度の事だが、俺の独りよがりのような気がしたのだ。彼女は俺との未来は望んでいないのかも知れない。そもそも、彼女は何故俺と付き合っているのだろうか。好意を伝えるような台詞を言われたことはない。一緒に住んでいるのだから、少なくとも嫌われてはいないのだろうが…よく解らなくなってきた。
最近、こんなネガティブな考えに囚われて抜け出せなくなっている。悩んでは凹み、凹んだ先で彼女に冷たくあしらわれては再び悩む、という何とも哀れなループだ。解決策は解っている。彼女に直接聞けばいい。解ってはいるが、怖くて聞けない。今迄積み上げてきた4年間を否定されたくないのだ。解決策すらもループの一部になり、出口は見付からない。
「…逃げてばかりじゃあダメだよな。」
独りの部屋で小さく呟いた言葉は、つけっぱなしだったテレビの音に掻き消された。
簡単に荷物をまとめ、大きなショルダーバッグに詰めた。俺は今夜旅に出る。何故そんな考えに至ったかと言えば、ただ彼女と距離をおこう思ったのだ。暫く彼女と会わずにいれば、考えがまとまるかも知れない。良い結果だろうが悪い結果だろうが、よく考えた結果ならば後悔はないはずだ。
玄関の扉を閉め、鍵をかける。もしかしたら、もう帰っては来ないかも知れない。少し、寂しくなった。
深夜の静かな暗闇の中、街灯に照らされている道路を歩きながら、携帯電話を取り出す。彼女に電話だけはしておこう。家に帰って俺がいなかったら、少しは、ほんの少しくらいは心配するかも知れない。電話帳から彼女の名前を探し出し、通話ボタンを押す。
プルルルルル プルルルルル プルルルルル プルル
「…何?」
電話の第一声が「何?」は傷付く。
「あ、え~っと。突然なんだけど、俺…旅に出ようと思います。」
「は?」
彼女の訝しげな声に少し焦った俺は、この行動の意味を単刀直入に告げることにした。
「いや、だから…俺たち、距離をおこう。」
「…何で?」
少しの沈黙の後、険を含む声音が返ってきた。
「言いたい事はいっぱいあるんだけど、聞きたいことが一つだけあるんだ。」
「……。」
「俺のこと、好き?」
長い沈黙が流れた。電話口の向こうの彼女はどういう顔をしているのだろうか。少しくらいは焦ってくれているだろうか。彼女が言葉を発さない限り、窺い知ることは出来ない訳だが、長い沈黙は保たれたままだ。その意味を考えたくなくて、俺は沈黙を破った。
「考えがまとまったら帰るから。その時までにお互いの考えを」
「__す。」
「え?」
彼女が小さな声で何か呟いたようだったが、よく聞こえなかった。
「殺す。」
ブツンッ
鮮明に聞こえてしまった最後の言葉と不自然に切れた通話。聞き返さなければ良かった。俺は今日___恋人に殺される。
とりあえず、少しでも自宅なら離れなくては。彼女に遭遇してしまったら、と思うと背筋がゾッとした。重い鞄を抱え直し、不気味な程に静かな夜の中を走り出す。
一般的な人間であれば「殺す。」と言ったからといって、本気で殺しはしないだろう。しかし、相手は殺し屋だ。実際に人を殺せる人間は安易にそういう言葉を口にしない。言ったとしたら、それは殺害予告だ。つまり、電話口で殺害予告を受けてしまった俺は、彼女に殺される。それにしても、何故恋人に距離をおこうと言っただけで、殺されなければならないのか。彼女の職業上、自分の事を知り過ぎた人間を野放しにする訳にはいかないからだろうか。そう考えると、俺との同棲は安易な気持ちではなかったはず。簡単に別れる気はなく、俺の事をそれなりに好いていた、と考えるべきか。しかし、彼女は俺に殺害予告をした。つまり、俺を殺せるという事だ。好いた相手でも殺せるのか、殺せるような相手だから同棲を許したのか。駄目だ。どちらにしても殺される。余計な事は考えず、逃げる事に集中しよう。
友人に助けを求める為に電話をかけようとしたが、直ぐに思い直した。仲が良い友人は大抵彼女に紹介してしまったし、彼女が知らない友人にしても、何処から聞き出してくるか解らない。そもそも、命を狙われている状況下で友人を頼るのは如何なものだろうか。巻き込まれてしまえば、一緒に死んでもらわなければならない。
誰かに助けを求めるという選択肢を諦めたところで、自宅から一番近い駅に辿り着いた。駅周辺は深夜でも営業している店が多いので、この時間でも明るく賑やかだ。ふと、漫画喫茶の看板が目に入った。漫画喫茶ならば、朝まで安全に過ごせるだろうか。朝まで待ち、始発の電車に乗って、出来る限り遠くへ逃げる。良い案だが、逃げようとする人間ならば誰もが考えそうな事だ。この選択肢も諦めて、トボトボと駅を通り過ぎた。
~~~♪
駅から更に暫く歩いたところで携帯電話が鳴り始め、心臓が跳ね上がった。ドキドキしながら、表示されている名前を確認すると、先程助けを求めようとした友人の名前だった。
「もしもし。」
「あ、もしもし。お前、今何処にいんの?彼女が捜してるぞ。」
早々と核心をついてきやがった。解っていたことだが、本当に彼女が俺を捜していると知り、血の気が引いていく。
「何が原因で喧嘩したんだか知らないけど、さっさと仲直りしろよ。」
「喧嘩?…あぁ、うん。」
喧嘩をした事になっているらしい。まぁ、言えないだろう。殺す為に居場所を捜しているなんて。
「あんな美人と付き合う機会なんて、もう二度とないぞ。何なら、俺が貰おうか?」
彼は冗談のつもりで言っているようだが、何なら貰ってほしい。とは言っても、本当に彼が彼女と付き合うようなことになったら、俺は彼にそれはそれは陰湿な嫌がらせをするだろう。
「俺にだって色々あるんだよ。とりあえず、俺たちには関わらない方がいい。いいか、お前の為を思って言ってるんだからな。」
「…何かよく解らないけど、随分と必死だな。」
「当然だろう!命の危険が…な、何でもない。とにかく関わるな。じゃあな。」
「解ったよ。でも、別れる時は言えよ。俺にも美人と付き合えるチャンスを」
ブツッ
電源ボタンを押し、通話を強制終了した。助けを求めようとした相手から連絡が来たことで、少しは落ち着けるかと思ったが逆効果だった。イライラした。
イライラとしたまま歩き続け、気が付くと小さな公園の前にいた。駅の近くに公園があったとは知らなかった。とりあえず、近場にあったブランコに座ると、錆びた鎖がギーギーと音を立てた。少し、窮屈だ。思い悩んだ物語の主人公が、夜の公園で寂しくブランコを揺らす。ドラマや漫画でよくありそうなワンシーン。しかし、その主人公の悩みは、生きて明日を迎える為の悩みだっただろうか。何だか、架空の物語の主人公が羨ましくなった。
如何でも良いことまでが頭を巡り出して、いよいよ眠くなってきた。歩き疲れた所為だろうが、命の危険を感じていても眠気は訪れるらしい。人間とは図太い生き物だ。
ふと、視界の端に映っていたベンチに意識を移す。あまり寝心地は良くなさそうだが、贅沢は言っていられない。ブランコから腰を上げ、フラフラとベンチに横たわる。目を閉じると、瞼の裏に彼女の不機嫌そうな顔が見えた。
ガタンッ
「痛っ!」
ハッと目を覚ますと、目の前には地面。ぶつけた頭を押さえながら起き上がると、周囲は未だに暗く、横にはベンチ。寝返りを打った拍子にベンチから落下したらしい。
「こんな状況で眠れるなんて、やっぱり図太い神経してるのね。」
「!?」
慣れ親しんだ声に驚いて振り返ると、俺が眠っていたベンチの端に彼女が座っていた。呆れたように此方を見ている彼女に、まさに顔面蒼白。命を諦めた。完全に項垂れた俺を暫く眺めていた彼女は、ゆっくりと立ち上がり、目の前にしゃがみこんだ。どうせなら楽に殺してほしい。
「…あんたの事だから、友達に助けを求めてると思った。」
彼女は静かな声で話し出したが、真っ白になった頭では言っている事がよく理解出来ない。
「でも、違った。だから今度は、あんたの逃走経路を考えて、駅前の漫画喫茶を調べた。」
漫画喫茶、という単語にドキッとした。一度は考えたものの、諦めた逃走場所だ。
「でも、これも違った。」
ガッ
突然、胸倉を掴まれた。自然と顔が上がり、彼女と目が合う。
「あんたの考える事って、よく解らない。頭が悪いようで、良い。」
「…。」
「良いようで、悪い。」
「…?」
言っている言葉とは裏腹に、彼女の苦しそうな瞳に戸惑った。感情表現が乏しい彼女の表情を読み取れるようになるには随分と時間を要したが、現在は直ぐに解る。瞳。瞳に彼女の不器用な感情が表れている。
「会ったときから、そうだった。突然現れて、私の事が好きだとか言って、私の日常に入り込んできた。私が人殺しだって知っても変わらなくて、それどころか『一緒に住もう。』なんて言い出して。」
彼女は苦しげなままの目をそらし、俯いた。
「馬鹿じゃないの?私を知ってしまったら、もう逃げられないのに。」
「…!」
彼女の右手に銃が握られていた。これで打ち殺されるのかと思うと、身が竦んだのと同時に少し寂しかった。彼女が今迄仕事で殺してきた人間と、何ら変わらないと思ったのだ。でも、俺を殺す事に対して、少しでも苦しげな表情を浮かべた彼女が見られて良かった。彼女が苦しんだ分、俺の事を好いてくれていたという事なのだから。「距離をおこう。」なんて言って彼女から離れたくせに、最後の最後まで彼女の事が好きな自分に気が付いた。確かに、俺は頭が悪いようだ。
彼女が握った銃が、俺の心臓に向けられる。彼女が引き金を引く、その瞬間を待って俺は目を閉じた。
「…何で!何で、受け入れられるの!?」
「…!」
泣いたような彼女の声に驚いて、目を開けた。銃を握った彼女の手はカタカタと震え、目には涙を浮かべている。動揺し、何も答えられたい俺に対し、彼女は胸倉を掴んだまままくし立てた。
「何で、あんたは何でも受け入れるの!?私の仕事もワガママも…私の所為で死ぬ事も!そうやって何でも受け入れるから、私がおかしくなる!」
珍しく声を荒げた彼女を落ち着かせようと、静かな声でただ一つの答えを口にした。
「好きだからだよ。」
単純明快で、だけど、彼女の全てを受け入れられるただ一つの理由。ワガママで不器用で、仕事だと言って人を殺してしまうような彼女だけれど、出会ったあの瞬間から好きになってしまったのだから仕様がない。
カラン
彼女の手は銃を離し、今は俺の胸元のシャツを掴んでいる。縋るようなその仕草は、俺の勘違いだとは思えず、そっと彼女を抱き寄せた。彼女の顔は見えないが、肩が震え、顔を寄せた肩口に濡れたような感覚があった為、彼女が涙を流している事を知った。優しく、慰めるように背中を撫でる。
「ゴメンね。帰ろうか…一緒に。」
少しの間があった後、小さくコクンと頷いた彼女が愛しかった。彼女の手を引いて歩き出そうとしたとき、
「____。」
彼女が何か呟いたようだった。あまりに小さな声だったので聞き取れなかったが、聞き返しはしなかった。覗き込んだ彼女の瞳に全てが込められていたから。
俺の彼女は、殺し屋だ。美人だけど、ワガママで不器用。距離をおこうと言い出した恋人に銃を向けるような彼女だけれど、
「ねぇ、アイスが食べたい。」
「はいはい。2人で、買いに行こう。」
「…仕方ないわね。」
でも、俺はそんな彼女が大好きだ。