その場で今から再現してご覧に入れます
王城の大広間には、晩秋の夜会にふさわしく、白檀の香が焚かれていた。楽団の音が高い天井に反響し、磨き上げられた床にシャンデリアの光が幾重にも映り込んでいる。
招待客たちは、思い思いに歓談していた。フィオナもまた、いつも通り静かに壁際に立ち、楽団の演奏に耳を傾けていた。ここ最近、レオンハルトから届く便りが減っていることには気づいていたが、事を荒立てるつもりはなかった。何かを問い詰めたところで、変わるものではないと知っていたからだった。
「フィオナ」
名を呼ばれ、フィオナは足を止めた。
声の主は、第三王子レオンハルトだった。広間の中央、人の輪が自然と割れてできた空間に、彼は立っていた。楽団の音がふと途切れ、談笑の声が波のように引いていく。集まった視線が、いっせいにフィオナへ向いた。
「婚約を解消する。リネットと共に歩む道を選んだ」
周囲がざわめいた。突然の宣言に、誰もが息を呑んでいる。フィオナだけが、それを予期していたかのように、表情を変えなかった。
隣には、宮廷歌姫リネットが戸惑ったように立っている。何も知らされていなかったのか、彼女自身も落ち着かない様子だった。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
フィオナは、驚いた素振りも見せず、静かにそう尋ねた。
「それだけなら、まだいい」
レオンハルトは、そこで一度言葉を切り、周囲を見回してから続けた。
「戴冠記念式典で演奏された『祝祷の調べ』——お前の作曲だと言われているあの曲だが、実は宮廷楽団の作曲家に代作させたものだと聞いている」
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会場が、大きくどよめいた。
「代作、でございますか」
フィオナの声には、動揺の色がなかった。ただ、静かに聞き返しただけだった。
「そうだ。お前ほどの若さで、あれほどの曲が書けるはずがないという声も、以前から出ていた。ようやく合点がいった」
レオンハルトは、勢いづいたように続けた。
「才能を偽ってまで評判を得ようとする者と、この先も添い遂げるわけにはいかない」
周囲の貴族たちが、扇の陰でひそひそと囁き交わす。「代作」「偽りの評判」——そんな言葉が、さざ波のように広がっていった。リネットは、青ざめた顔で俯いている。彼女自身、この噂の出所を知らないようだった。
「殿下は、その噂をどちらでお聞きになったのでしょうか」
フィオナは、静かに問い返した。
「……人づてに、だ。宮廷内では、まことしやかに語られている話だぞ」
「確かめては、いらっしゃらないのですね」
レオンハルトが、わずかに言葉に詰まった。
「うるさい。噂になるからには、それだけの理由があるのだろう。お前が反論できないのが、何よりの証拠だ」
「反論、と仰いますと」
「代作ではない、と言うだけなら誰にでもできる。証拠を出せるのか、と聞いているんだ」
レオンハルトは、勢いを取り戻したように声を張った。周囲の貴族たちが、固唾を呑んで成り行きを見守っている。
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「では、疑いを晴らすのは簡単なことでございます」
フィオナは、そう告げた。声はいつもと変わらず、落ち着いていた。
「今から、この場で新しい曲を作ってご覧に入れます」
会場が、しんと静まり返った。誰かが小さく息を呑む音が響いた。
「今から……作曲すると?」
レオンハルトが、怪訝そうに眉をひそめた。
「はい。代作を疑われているのでしたら、証明する方法は一つでございます。この場で、初めて耳にする題を頂戴し、その場で曲にしてご覧に入れます」
フィオナは、会場を見渡した。誰かが試すような真似をしてくるかもしれない、という予感はあった。それでも、退く理由にはならなかった。疑いを言葉だけで晴らそうとすれば、水掛け論にしかならない。ならば、疑いようのない形で示す以外にない。
「どなたか、旋律の一節でも、詩の一節でも構いません。お題をいただけますでしょうか」
少し離れた場所にいた老伯爵が、興味深そうに進み出た。
「では、これはどうかな。『枯れ葉は風に乗り、遠い春を夢見る』」
「ありがとうございます」
フィオナは、一礼した。広間の隅に置かれたクラヴィコードへ、迷いのない足取りで向かった。
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鍵盤に指を置く。会場中の視線が、その手元に集まっていた。
最初の一音が、静かに響いた。次いで、二音、三音と、旋律が形を取り始める。誰かが咳払いをしようとして、慌てて口を噤んだ。それほどに、場の空気は張り詰めていた。
フィオナの指先は、迷いなく鍵盤の上を進んでいく。老伯爵の言葉——枯れ葉、風、遠い春——その情景を追うように、旋律は静かな哀愁を帯びた出だしから、徐々に希望を感じさせる響きへと転じていった。
周囲の音が、フィオナの耳には遠のいていくようだった。ただ、鍵盤の感触と、自分の紡ぐ音だけが、はっきりと感じられた。
旋律は、やがて中盤に差しかかった。枯れ葉が風に舞い落ちる情景を思わせる、下降する音の連なり。それが一巡すると、今度は一転して、遠い春を予感させるような、跳ねるような高音の連なりへと移っていった。
聴衆の何人かが、思わずといった様子で身を乗り出していた。扇の動きが止まり、グラスを傾ける手も止まっている。楽団の団員たちでさえ、自分たちの楽器を構えるのも忘れて、フィオナの指先に見入っていた。
最後は、静かに音を収束させる終止形で締めくくられた。曲全体が、まるで一つの短い物語のように、始まりと終わりを持っていた。
演奏は、五分ほど続いた。最後の和音が広間に響き、余韻が消えていくまで、誰も物音一つ立てなかった。
フィオナは、鍵盤から手を離し、一度だけ息を吐いた。
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「……見事だ」
沈黙を破ったのは、老伯爵だった。
「即興でこれほどのものを弾いてのけるとは。代作の噂など、馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
その言葉に、会場のあちこちから、感嘆の声が漏れ始めた。
その時、宮廷楽団長エドモンが、人垣を割って進み出た。
「今の旋律、和音の運び方に見覚えがございます」
エドモンは、静かにそう言った。
「『祝祷の調べ』にも、同じ癖がございました。低音から高音へ跳躍する際に、必ず一つ経過音を挟む——あれは、フィオナ様が幼い頃から独自に磨いてこられた作曲の型です。以前、非公式に指導させていただいた際、何度も拝見しております」
「そんなことまで、分かるものなのか」
レオンハルトが、動揺した声で尋ねた。
「作曲家の癖は、筆跡と同じでございます。真似ようとしても、そう簡単には真似られません。今の即興演奏だけでも、フィオナ様が『祝祷の調べ』の作曲者であることの、何よりの証明かと存じます」
「た、たまたま似ているだけかもしれない。事前に、あの曲を用意していたということも……」
「殿下」
老伯爵が、呆れたように口を挟んだ。
「お題を出したのは私です。今この場で、思いつきで口にしたものですぞ。それを事前に用意していたなど、あり得ますまい」
レオンハルトは、それ以上何も言い返せなかった。
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「そ、その噂は、どこから聞いたのだ」
レオンハルトが、うろたえたように周囲を見回した。だが、誰も答えなかった。噂の出所を、彼自身も辿れずにいるようだった。
リネットが、震える声で口を開いた。
「殿下……私は、そのような噂、殿下に申し上げたことは一度もございません」
その一言に、レオンハルトの顔から、みるみる血の気が引いていった。誰かから聞いた又聞きを、検証もせずに公の場で持ち出してしまったのだと、ようやく気づいたようだった。
少し離れた場所にいた壮年の子爵夫人が、扇の陰から静かに言った。
「殿下は、確かめもせずに人の評判を貶め、その相手を公の場で辱めようとなさったのですね」
周囲の何人かが、小さく頷いた。囁きの対象が、フィオナからレオンハルトへと、はっきりと移っていくのが分かった。
誰も、それ以上何も言わなかった。ただ、レオンハルトへ向けられる視線が、先ほどとは明らかに違う色を帯びていた。
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リネットが、なおも何か言いたげにフィオナを見た。だが、言葉にはならなかった。ただ、深く頭を下げるだけだった。フィオナは、それに小さく頷き返した。恨む相手が違う、とだけ伝わればよかった。
「殿下」
フィオナは、最後に一度だけ、まっすぐにレオンハルトを見た。
「婚約解消につきましては、殿下のご意向どおりで構いません。ただ、根拠のない噂だけで人の実力を疑うのは、これきりになさった方がよろしいかと存じます」
レオンハルトは、それ以上何も言い返せなかった。
フィオナは、深く一礼した。
「では、失礼いたします」
踵を返し、会場の出口へ向かう。誰も、その背を止めなかった。
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廊下に出ると、楽団の音が遠のき、静けさが戻ってきた。窓から差し込む月明かりが、石畳の床に長い影を落としている。
フィオナは一度だけ息を吐いた。指先には、まだ鍵盤の感触が残っているようだった。
「見事な演奏でした」
声のした方を見ると、エドモンが後を追うように歩み寄ってきた。
「即興であれだけの曲を仕上げられるとは、正直、私も驚きました」
「お題をいただいた瞬間から、頭の中で旋律が動き始めておりました。あとは、それを鍵盤に写しただけでございます」
「幼い頃から、そうだったのですか」
「はい。まだ十にもならない頃から、耳にした言葉や景色を、すぐに旋律に置き換える癖がございました。エドモン様にご指導いただいていた当時も、よく呆れられておりました」
「呆れていたのではありません。あの頃から、いずれ大成すると思っておりました」
「『だけ』で片づけられる話ではありません。あなたの才能は、正式に評価されるべきものです」
「そのように仰っていただけたのは、エドモン様が初めてです」
フィオナは、少し驚いたように瞬きをした。
「先ほど、殿下が『事前に用意していたのでは』と仰った時は、正直、少し肝が冷えました」
「そのようには、まったく見えませんでした」
「顔には出さないよう、心がけておりますので」
エドモンが、意外だというように目を見開いた。それから、小さく笑った。
「肝が据わっていらっしゃる」
「臆病なだけかもしれません。あの場で怯んでは、疑いを晴らせないと分かっておりましたので」
「もしよろしければ、宮廷付き作曲家として、正式にお迎えしたいのですが」
エドモンは、そう続けてから、少し声を落とした。
「あなたのような才能が、根拠のない噂一つで埋もれてしまうのは、宮廷にとっても損失ですので」
「……喜んでお受けいたします」
廊下の窓から、夜会の灯りが遠く滲んでいた。フィオナは、鍵盤の余韻を指先に残したまま、前を向いて歩き出した。
◇◇◇
一週間後、ラングドン侯爵邸に、宮廷楽団の紋章が入った正式な招聘状が届いた。
宮廷付き作曲家としての任命と、来春の式典で新曲を披露する栄誉が記されていた。末尾には、エドモンの署名と共に、一文が添えられていた。
『あの夜の一節を、いつか正式な曲として、宮廷の舞台で聴かせてください』
フィオナは、その手紙を静かに畳んだ。窓の外では、晩秋の風が庭の木々を揺らしている。
もう誰も、彼女を「代作の令嬢」とは呼ばないだろう。だが、それでいい、とフィオナは思った。評判など、その場で紡いだ一つの旋律ほど、確かなものではないのだから。
書斎の扉が開き、父であるラングドン侯爵が顔を覗かせた。
「宮廷楽団から、正式な招聘状が届いたそうだな。夜会での話は、既に耳にしている。まさか、疑いを晴らすために、その場で新しい曲を作ってみせるとはな」
「他に、疑いを晴らす方法が思いつきませんでしたので」
「無茶をする」
侯爵は、そう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。それから、少し間を置いて付け加えた。
「宮廷付き作曲家の件、断る理由もないだろう。好きにしなさい」
「はい」
「お前が幼い頃から、来る日も来る日も鍵盤に向かっていたのを、母も私もよく覚えている。あれが、こういう形で報われる日が来るとはな」
「お聞き苦しい音ばかりだったかと存じます」
「いや」
侯爵は、短く言った。
「あの頃から、誰にも真似のできない音だったよ。母にも、よくそう話していた」
フィオナは、少しだけ口元を緩めた。
翌朝、フィオナは五線譜の束を鞄に詰め、宮廷楽団の稽古場へと続く道を、迷いのない足取りで歩き出した。窓辺に置かれたクラヴィコードが、朝の光を受けて静かに輝いていた。
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