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相談女の同室生に好きな人を奪われた私、彼女が落とせなかった先輩に告白されました

作者: 熾星
掲載日:2026/07/12


プロローグ



 憧れていた男子に自分から近づいてみて、藤崎恵はようやく気づいた。


 本当に不安にさせられるのは、拒まれることそのものとは限らないのだと。


 同じクラスの犬塚亮太を好きになってから、女子学生会館で同じフロアに住む白石琴音は、いつも隣でやわらかく忠告してきた。


「男の人って、あんまり信用しすぎないほうがいいよ」


 亮太がLINEで「キャンパスを少し歩かないか」と誘ってくれば、琴音は「そういう誘い方って、ちょっと曖昧で怖いよね」と言った。


 亮太が腕時計を贈ってくれたときも、琴音は「まだ始まったばかりなのに、そういうものを渡すなんて、少し気持ちが急ぎすぎてる気がする」と眉を下げた。


 何度も聞かされるうちに、恵も少しずつ自分の気持ちを疑うようになっていた。


 けれどある日、彼女は見てしまった。


 亮太と琴音が図書館裏の小道を回り込み、監視カメラの死角へ入っていくところを。


 ふたりは陰に隠れた途端、待ちきれないように互いの服の裾へ手を差し入れていた。



1.相談女に嵌められた日


 大学二年の春の体育祭で、藤崎恵は同じクラスの犬塚亮太を好きになった。


 亮太は走り高跳びで一位を取った。跳び上がった瞬間、ジャージの裾がめくれ、引き締まった腹が一瞬だけ見えた。観客席の周りで、小さなどよめきが起こった。


 恵は人垣の後ろに立ったまま、数秒ほど彼を見つめた。


 そして、自分に正直に認めた。


 あの少し鈍そうな整った顔と、きれいに割れた腹筋に、完全に撃ち抜かれたのだと。


 女子学生会館へ戻ってから、恵は共用リビングで何度かその話をした。


 白石琴音は畳マットの上に座り、マグカップを抱えたまま、甘く笑った。


「じゃあ、恵、頑張らなきゃね」


 三浦楽は胸をぽんと叩き、すぐにスマホを取り出した。


「恵、任せて。学生自治会と体育会の合同交流がちょうどあるから、鍋会を組んであげる」


 数日後、小さな鍋会は大学近くの居酒屋二階の個室で開かれることになった。


 一年生もいたため、テーブルに並んだのはウーロン茶やジンジャーエールが中心で、いわゆる飲み会よりずっと気楽な雰囲気だった。


 恵は短めのニットトップスにハイウエストのスカートを合わせ、上からライダースジャケットを羽織った。


 真奈と楽は示し合わせたように普通のニットを選んでいた。けれど琴音だけは、細い肩紐の白いウエストマークワンピースを着ていた。雪みたいに白い肩がのぞき、まるで少女雑誌から抜け出してきたようだった。


 入ってきた瞬間、彼女は頬を赤らめてうつむいた。


「ごめんね、恵。クローゼットにこういう服しかなくて」


 恵は服装に細かく口を出すタイプではない。ちらりと見ただけで手を振った。


「別にいいよ。鍋の汁だけ飛ばさないようにね」


 席につくと、恵は自分から亮太の隣に座った。ときどき皿を彼のほうへ押し出す。


「亮太、これ食べる?」


「果物あっちにあるけど、取ってこようか?」


 亮太は耳まで赤くし、まともな返事もできないくせに、視線だけはやたらと向かい側へ流れていた。


 恵がその先を追うと、琴音が箸で豆腐を小さくつまみ、伏し目がちに微笑んでいた。


 学生会館へ帰る道、夜風には春の終わりの湿気が少し混じっていた。


 恵は三人の後ろをゆっくり歩きながら、ふと口を開いた。


「さっき、犬塚ってずっと琴音のこと見てなかった?」


 琴音の肩がぴくりと強張った。


「そんなことないよ。私、犬塚くんとは別に親しくないし」


 楽が首をかしげる。


「恵を見るのが恥ずかしくて、視線が泳いでただけかもよ」


 恵は少し考え、それもなくはないと思った。


 今日の自分は確かにかなり積極的だった。亮太みたいな大型犬っぽい性格なら、驚いてもおかしくない。


 その後の数日間、恵は夜になるたび、隣の小部屋から押し殺した泣き声を聞くようになった。


 彼女たちが暮らすのは、大学近くの女子学生会館だ。ひとり一部屋の小さな個室があり、キッチン、浴室、洗濯スペースは共用。壁は厚くない。深夜になって静まり返ると、誰かが寝返りを打つ音や、ドアを開ける音まで聞こえてしまう。


 琴音が何も言わない以上、こちらから聞くのも気が引けた。


 けれど泣き声は何日も続き、翌日は一限から授業だった。とうとう恵は我慢できず、彼女のドアを軽く叩いた。


「琴音、何かあるなら言って。そうやって抱え込まれると、こっちも眠れない」


 真奈と楽も部屋から顔を出し、口々に声をかけた。


 けれどドアの向こうから返事はない。聞こえるのは、ごく小さく息を吸い込む音だけだった。


 翌朝、恵はいつもどおり大講義室へ向かい、みんなのために前方の席を取った。


 真奈と楽は順にやって来たが、琴音はなかなか現れなかった。


「琴音は?」


 楽は眠そうに机へ突っ伏し、大きなあくびをした。


「体調悪いって。この授業、先生あんまり出席取らないし、休んでも平気でしょ」


 そう言って彼女は椅子にもたれかかった。その後頭部が、ちょうど後ろの机の縁にぶつかった。


「あ、ごめん。誰かに当たった?」


 後ろの席で、亮太が額を押さえながら顔を上げた。


「い、いや、大丈夫」


 楽は一気に目を覚まし、にやにやした。


「犬塚、こんな近くに座ってたの? もしかして恵と私の話、盗み聞き?」


「ち、違う」


 恵と楽は顔を見合わせ、笑いそうになった。


 私たちは陰で、亮太は犬塚というより犬そのものだと言っていた。ぼんやりしていて、純粋で、大きな犬みたいなのだ。


 授業後、亮太は珍しく自分から恵を追いかけてきた。


「藤崎、話がある」


 真奈と楽は空気を読んで、教科書を抱えたまま先に出ていった。


 恵は動作をゆっくりにし、筆箱を鞄へ入れてから顔を上げた。


「犬塚くん、何?」


 亮太は空っぽの教室に立ち、耳まで真っ赤だった。


「ごめん。俺のこと、好きにならないでほしい」


「は?」


 亮太はうつむいたまま、大きな決心をしたように言った。


「俺、白石が好きなんだ」


 恵の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。


 目の前の、どもりがちだけれど誠実そうな男子を見ながら、最初に頭に浮かんだのは、やっぱり自分の勘は当たっていた、ということだった。


「この前の鍋会のあとから?」


「違う。俺たち、一年のときから知り合いで、ずっとLINEしてた」


「でも琴音は、犬塚くんとは親しくないって言ってたよ。それに、彼女、一年のときは高校時代からの彼氏がいたでしょ」


 亮太の声は低くなったが、その表情には痛ましさが浮かんだ。


「知ってる。でも、その人は白石に優しくないし、遠くにいるからそばで支えられない」


 恵は数秒黙った。


 彼女の記憶にある琴音の元彼は、授業をサボってでも新幹線で誕生日を祝いに来るような人だった。小さなプレゼントやサプライズも欠かさなかった。楽が「琴音って本当に甘やかされ上手だよね」と冗談を言ったこともある。


 けれど恋愛のことは、外からでは見えない部分もある。


 恵は前半には触れず、後半だけを思わず突っ込んだ。


「もうすぐ二十歳でしょ。そんなに誰かの世話が必要?」


「白石の言ったとおりだ。みんな、白石のことを少しも大事にしない。あいつ、藤崎のことで何日も泣いてたんだ。今日は授業にも来られなかった」


 恵は彼を二秒ほど見つめた。


「どうして泣いたの?」


 亮太は鞄の持ち手を強く握った。


「白石は俺のことを大切な友達だと思ってる。でも藤崎が俺のことを好きなら、もう友達でいられないって。二年の友情が外から来た人のせいで壊れるかもしれない。それが俺に申し訳ない。けど、このまま友達でいたら藤崎にも悪いって。しかもあいつ、藤崎に頑張ってって言ってたんだ」


 聞き終えた恵は、一瞬だけ表情を失った。


 亮太はため息をついた。


「白石は優しすぎるんだ。自分では言えないから、俺が解決する。藤崎、俺のことは好きにならないでくれ。俺は白石が好きだ」


 彼は顔を上げた。目は澄んでいて、まっすぐだった。


 恵はその大型犬みたいな目を見つめ、しばらく何も言えなかった。


「じゃあ、琴音は君が好きだって知ってるの?」


「知らなくていい。俺は友達のままでいい」


 恵は白目をむきたい気持ちをこらえた。


「はいはい。お姉さん、もう君のこと好きじゃありません」


 亮太を好きではなくなることと、琴音が裏でこんな遠回りをしていたと知ることは、まったく別の話だった。


 それ以来、恵は琴音を見るだけで苛立つようになった。授業で一緒に座るのをやめ、廊下ですれ違っても見なかったことにした。


 けれど琴音は、その距離を別の意味に受け取ったらしい。


 秋が深まり、学生会館の共用洗濯スペースには柔軟剤と乾いた衣類の匂いが漂い始めた。


 恵が小さな踏み台に乗って衣替えの服を整理し、クローゼットを開けたところへ、琴音がちょうど近づいてきた。額が軽くぶつかり、琴音はそこを押さえた瞬間、目を赤くした。


「恵、そういうのやめて。もしまだ犬塚くんのことが好きなら、私、距離を置くから」


 恵は抱えていたセーターを落としそうになった。怒りを通り越して笑いそうになる。


「距離を置く? 私を何だと思ってるの。あなたがいたら私は勝てないってこと?」


 琴音は一歩下がり、声を弱めた。


「そういう意味じゃないよ。恵がすごい子だって、分かってるし……」


 恵は服を収納袋へ入れ、落ち着いた声で言った。


「分かってるならいいよ。安心して。人にしっぽ振ってる男を取り合う趣味はないから」


 真奈と楽が、ぽかんと立っていた。


 恵は普段、必要以上に人と関わらない。亮太と琴音のことも、二人には詳しく話していなかった。今回は琴音のほうから飛び込んできたので、恵は経緯を簡単に説明した。


「違うの、恵。私、本当に知らなかったの。犬塚くんのことは友達だと思ってただけで」


 恵はクローゼットを閉め、服を抱えたまま彼女の横を通り過ぎた。


「じゃあ、そのまま友達でいれば。誰も邪魔してないでしょ」


 琴音は壁に手をつき、うつむいた。声は今にも壊れそうなくらい細い。


「でも、私は恵とも仲良くしていたいの」


「ありがとう。でも、被害者ぶる人とは友達にならない」


 真奈が空気の悪さに耐えきれず、慌てて間に入った。


「恵、そんな言い方しなくても。琴音も謝ってるんだし、男の子のことで関係を悪くしなくてもいいじゃない」


 恵は服をベッドに放り、首だけを向けた。


「今、彼女は一言でも謝った?」


「ごめんなさい!」


 琴音のその一言は、やけに早く、やけに強かった。まるで正解の台詞をやっと見つけたみたいだった。


 彼女は顔を上げ、何かを必死に我慢するような表情を作る。


「私、犬塚くんとは絶交する」


 恵はようやく理解した。


 筋道をぐちゃぐちゃにしても、自分だけが傷ついたように見せることはできるのだと。


「最初から犬塚との関係を話してくれていたら、私は関わらなかった。ほんとにただの友達なら、どうして両方に泣いて回るの。楽、あなたも体育会にいたから、犬塚とは友達みたいなものだよね?」


「まあ、そうだね」


「じゃあ、私のために鍋会を組むとき、そんなに悩んだ?」


「悩まないよ」


 琴音は言葉に詰まり、ただうつむいて黙るしかなかった。


 真奈は彼女がこれ以上気まずい思いをするのを見ていられず、無理やり話題をそこで終わらせた。



2.実力だけが通じる場所


 あの口論のあと、恵は恋愛への興味を完全になくした。


 もともと男の子に全神経を注ぐタイプではない。琴音に一度うんざりさせられたことで、彼女はあっさり学業へ向き直った。来年、東京の有名大学院を受ける準備を始めるつもりだった。


 恵は地元では有名な明城高校の出身だった。


 大学入試直前に高熱を出し、本来の力を出せず、今の地方私立大学へ進学した。学校を見下しているわけではない。ただ、胸の奥にはずっと小さな悔しさが残っていた。大学院入試で、自分が本来行けたはずの場所へ戻りたいと思っていた。


 そんなとき、学生支援課の森下先生から、学生自治会の改選に出るよう名指しで声がかかった。


 恵は一年のとき、学生自治会総務局のメンバーだった。卒業生交流会を成功させ、段取りも資料も丁寧だったため、森下先生は彼女のことを覚えていたらしい。


 総務局長選に彼女が出ていないと知ると、森下先生は前任局長に電話をかけさせた。


「藤崎、学生支援課まで来て。森下先生が呼んでる」


 恵は行くしかなかった。


 面接教室の前には、スーツ姿の学生が大勢立っていた。みんな三、四人ずつ固まって、互いを励まし合っている。


 琴音と亮太もいた。亮太は体育会部門の候補者で、琴音は文化活動局に応募したらしい。


 琴音は恵を見ると、顔色を少し変え、反射的に亮太へ身を寄せた。


 恵は見なかったことにして、そのまま事務室へ入った。


 森下先生の隣には、上級生の男子が座っていた。


 目が合った瞬間、相手は軽く眉を上げた。


 事務室のドアは開いていた。外にいる人たちからは、恵が森下先生の向かいに座っていることは見えるが、会話までは聞こえない。


 恵は座るなり、自分の考えをはっきり伝えた。


「森下先生、評価してくださってありがとうございます。ただ、私は学業を優先したいです。来年の大学院入試の準備もあります」


 森下先生の声は穏やかだった。


「目標があるのはいいことだよ。でも学生自治会での経験も、研究計画に説得力を持たせてくれる。君はメディア社会学科だろう。総務局のイベント企画、学内広報、組織調整は、専門分野とまったく無関係ではない」


 恵は黙った。


 森下先生は、彼女が一年のときに作った活動報告を開いた。


「君は向いていないんじゃない。向きすぎているんだ。三十分あげる。着替えて、資料を整えて、面接に戻ってきなさい」


「分かりました」


 恵は急いで学生会館へ戻り、黒のスーツに着替え、髪をまとめた。


 さらに図書館で成績証明と昨年の活動まとめを印刷し、面接教室へ戻る道で、頭の中で選挙演説を組み立て直した。


 三十分後、彼女は時間どおり面接室に座っていた。


 前任会長と各局の責任者が、手順どおりにいくつか質問をした。恵の答えは簡潔で明瞭だった。数日かけて準備してきた学生よりも、よほど落ち着いている。


 高校二年間の学生会と放送部の経験は、やはり無駄ではなかった。


 急に加わったため、恵の面接は最後に回された。


 面接が終わると、先輩たちは次々に出ていった。結果は一週間後、自治会のホームページと学内掲示板で発表される。


 ドアを出ると、廊下の端に琴音が立っていた。誰かを待っているらしい。警戒した目つきからして、明らかに恵ではない。


 恵は視線を向けずに歩き出した。すぐ後ろで、琴音の声がした。


「野瀬先輩!」


「藤崎」


 恵は足を止め、振り返った。


 さきほど森下先生の隣に座っていた男子が、こちらへ歩いてくる。


 背が高く、足が長い。スーツの着こなしもきれいで、全体にどこか余裕のある鋭さがあった。


 面接で中央に座っていたから思い出した。彼は野瀬千尋。前年度の学生自治会会長で、現在四年生。改選後に正式に退任する。


 琴音が小走りで後を追ってきた。


 恵は礼儀として軽く頭を下げた。


「会長、何かご用ですか」


 千尋は近づき、両手をスラックスのポケットに入れたまま、少し笑いを含んだ声で言った。


「森下先生に直々に呼ばれた総務局長候補、悪くなかった」


 恵は、彼が最初はコネか何かと誤解していたが、あとから実力を認めたのだと受け取った。だから遠慮なく受け止める。


「ありがとうございます」


 千尋は彼女を一瞥しただけで、それ以上は何も言わず、横を通り過ぎていった。


 琴音が追いかけるとき、こちらを振り返った。目にははっきりとした警戒があった。


 恵は心の中で叫んだ。


 私は何もしていない。


 二日後、選挙結果が出た。新会長から恵に、公告文の準備をしてほしいと連絡が入った。


 恵と亮太は無事に選ばれ、琴音は落選した。


 学生会館の空気は、すぐに妙なものになった。


 琴音は共用リビングで小さく涙をこぼし始めた。言葉はぼかしているが、周りには十分伝わる言い方だった。


 もともと立候補していなかった恵が、面接直前に森下先生の事務室へ入ったこと。恵と揉めていた自分が、都合よく落ちたこと。


 隣の部屋の女子たちも、面白がって覗きに来た。


 恵が学生会館へ戻ると、複雑な視線がいくつも向けられた。


「みんな、うちのフロアに何の用?」


 気の強そうな女子が鼻で笑った。


「別にあなたに用はないけど。先生にかわいがられてると、ずいぶん偉いんだね」


 恵は状況が分からず、真奈と楽を見た。


 楽はうんざりした顔で両手を広げた。


「琴音が、恵は森下先生の口利きで自治会に入って、自分を押しのけたって言ってる」


「私にそんな力があるわけないでしょ。選挙に出たのは事実として、森下先生にその場で勧められたから。私はチャンスを受けただけ」


 彼女は正直に言ったが、聞く人によっては自慢のようにも聞こえた。


 誰かが小声でつぶやく。


「自治会にあれだけ人がいるのに、先生がわざわざあなただけ?」


 恵はスマホを開き、前任局長からの通話履歴と、森下先生から送られた資料を見せた。


 その場にいた女子たちは、しばらく何も言えなくなった。


 ソファの端に座った琴音は、ティッシュを指先で握りしめ、やわらかな声で言った。


「みんな、私のことで変な空気にしないで。やったならやった、やってないならやってない。そういうのは、みんな心の中で分かっていればいいから」


 一見、引いているように聞こえる。


 けれどその一言で、疑いはまた恵の上に戻ってきた。


 恵は自分で自分を証明する罠に落ちたくなかった。何も言わず部屋へ向かう。


 見物人たちも居心地が悪くなったのか、琴音を形だけ慰めて散っていった。


 真奈と楽はコンビニへ行くと言って出ていき、リビングには恵と琴音だけが残った。


 恵はドアの前で立ち止まり、振り返った。


「演技はもう終わった? 私の悪口をばらまいて楽しい?」


 琴音はティッシュで目元を軽く押さえ、ゆっくり顔を上げた。口元には、ほんの少し笑みがあった。


「恵、私は事実を言ってるだけ。もともと出る予定のなかったあなたが、急に森下先生の事務室に入った。もともと文化活動局に入れる可能性があった私が、あなたと揉めたあとに落ちた。みんな、コネが嫌いなの。それは私のせいじゃないよ。それに、野瀬先輩だって、あなたが先生に呼ばれて急に加わったって証明できる」


 野瀬。


 恵は彼を怒らせた覚えもないし、なぜ琴音の味方をするのかも分からなかった。


 けれど琴音が一番得意なのは、一つの事実を自分に都合よく切り取ることだ。


 恵は冷たく彼女を見た。


「そんなに手間をかけなくても、犬塚のためなら無駄だよ。私は彼と一緒に仕事をしたくて出たんじゃない」


 琴音はリップを塗り直し、玄関でヒールに履き替えた。


「説明すればするほど、後ろめたそうに見えるよ。でも大丈夫。犬塚くんは、もうあなたのことを見ないから」


 その夜、恵は琴音がなぜそんなに強気なのかをすぐに知った。


 楽が、琴音と亮太がキャンパスの小さな林の外にあるベンチで座っている動画を撮っていた。


 画面の中で、琴音は亮太の肩にもたれかかり、今にも消えそうな声で言っていた。


「亮太。こう呼ぶのは、これで最後にするね。私たち、やっぱり距離を置こう。あなたのことで、恵はずっと私を責めてる。あの日、彼女が事務室に入る前の目を見たとき、今回の落選はそんなに単純じゃないって分かっていたのに」


 亮太はどうしていいか分からない様子で、彼女の肩をぎこちなく叩いた。


「そんな。藤崎がそういうやつだとは思わなかった」


 琴音はさらに近づいた。


「あなたを責めてないよ。亮太は優秀だから、恵が好きになるのも分かる。少しでも一緒にいたくて、あんなことをしたんだとしても、彼女もつらかったんだと思う。ただ、私が彼女ほど器用じゃなかっただけ」


 動画を見終えた恵は、顔をしかめた。


「私に罪があるなら、校則で処分してくれればいい。こんな被害者ムーブを聞かされる筋合いはない」


 楽は同情したように肩を叩いた。


「人を見る目が育ったと思うしかないね。犬塚、たぶんまた来るよ」


 予想どおり、亮太はすぐに来た。


 恵が自治会室で引き継ぎ資料を整理し、新メンバーの初回例会に備えていたとき、亮太は入口に立った。顔は真っ赤だった。


「藤崎。お前を断ったのは俺だ。白石は関係ない。どうしてあいつをいじめるんだ」


 恵は椅子にもたれ、まっすぐ彼を見た。


「落選のことなら黙って。私はそんな小細工をしていない。信じられないなら森下先生に聞けばいい」


 亮太は彼女の声に一瞬押されたが、それでも引かなかった。


「先生が味方なら、何を言うか分からないだろ」


 恵はペンを一本取り、指先で半回転させた。


「じゃあ、当日投票した前任幹部全員に聞いて。総務局、文化活動局、体育会、十数人いた。私が全員を操れると思う?」


 亮太は返す言葉を失った。


 翌日、新会長から恵へ、公告名簿を修正するよう連絡が来た。


 亮太が体育会担当の役職を自ら辞退したのだ。


 その夜、琴音はまたあの清純そうな顔でリビングに現れた。


「恵、迷惑かけてない? 亮太には、あまりわがままを言わないようにって、私からも言っておいたんだけど」


 恵は淡々と彼女を見た。


「私たちは誰が抜けても回るよ。むしろ彼のほうが、せっかく取ったチャンスを放り出してまで、それに見合う価値があるのか心配だけど」


 琴音の表情が一瞬こわばった。


 けれどすぐに、またうつむいた。



3.名前が招いた勘違い


 改選が終わって間もなく、自治会は秋の新入生説明会と大学祭関連イベントの準備に入った。


 恵は各部署と一週間ほど作業を詰め、企画書を持って学生支援課へ森下先生の確認を取りに行った。そこでまた、野瀬千尋に会った。


 彼は東京大学大学院の夏季入試に合格し、正式な手続きを待つだけらしい。今は学内実習をしながら、学生支援課の臨時補助もしているという。


 琴音の「証明してくれる」という一言があったせいで、恵は彼に少しだけ不満を抱いていた。だから、礼儀として軽く会釈するだけにした。


 森下先生は企画書をめくり、にこにこしながら褒めた。


「さすが、私が見込んだ学生だね。よくできている」


 恵は仕事用の声で答えた。


「みんなで作ったものです」


 森下先生は満足そうにうなずき、ついでのように彼女の高校を尋ねた。


「藤崎、出身校はどこだったかな」


「明城高校です」


「野瀬も明城だったよね」


「はい」


「高校でも学生会長をしていたんだったかな。藤崎も学生会と放送部にいたと言っていたね。二人は知り合い?」


 恵は記憶をたどった。


 高校時代、学生会、放送部、行事実行委員会には確かに接点があった。けれど彼女が二年で校内放送を担当していた頃、千尋はもう卒業間近だった。


 彼について印象に残っているのは、卒業式の日だ。


 その日、恵は親友の結城希と教室で式典の中継を見ていた。


「恵、見て。あれが学生会長だよ」


 恵は問題集から顔を上げた。


 ステージに上がったのは、高い位置で髪を結んだ、凛とした雰囲気の女子だった。校長から記念盾を受け取っている。


 恵は「きれいな人だね」とだけ言って、また問題集へ視線を落とした。


 けれど目の前の野瀬千尋は、背が高く、顔立ちは端正で、喉仏もはっきりしている。


 どう見ても、記憶の中の高いポニーテールの先輩とは一致しなかった。


 学生支援課を出ると、ちょうど昼休みだった。千尋も勤務を終え、二人は前後に並んで少し歩いた。


 恵はしばらく迷った末、ようやく口を開いた。


「野瀬先輩って……何か手術を受けたことがありますか」


 千尋は足を止め、困惑した顔をした。


「ないけど」


 恵の胸が沈んだ。


 そんな個人的なこと、本人が素直に認めるはずもない。


 その夜、恵はすぐに結城希へ電話した。


「希、今日、野瀬千尋に会った」


 希の声は一気に弾んだ。


「え、すごい。さらに格好よくなってた?」


 恵は探るように聞いた。


「希は、あのこと知ってたの?」


「あのことって?」


「彼が格好よくなったこと」


「恵、それは私が聞いてるんだけど」


 恵は少し遠回しに言った。


「つまり、前はそこまで格好いいって感じじゃなかったよね?」


「何言ってるの。野瀬先輩はずっと格好よかったよ」


「前は格好いいというより、凛々しいって感じだった」


「凛々しいって、女の子に使うこと多くない?」


「そうだよ」


 恵は当然のように言った。


「前は女の子だったでしょ」


 電話の両端が同時に静まり返った。


 希がゆっくり口を開く。


「藤崎恵。私が言ってるのは、明城高校のあの代の学生会長、野瀬千尋のことだよ」


「私も同じ人の話をしてる」


 沈黙がさらに長くなった。


 希の声が急に真面目になる。


「私たち、本当に同じ高校に通ってた?」


「通ってたに決まってるでしょ。希こそ記憶喪失?」


 希は声を張り上げた。


「記憶喪失はそっち! 野瀬先輩はずっと男。明城の男神、会長本人!」


「でもあの日、希が指さしたのは女の子だったよ」


「あれは副会長! 女子の副会長が前に歩いてたのは、司会が先に副会長を呼んだから!」


 恵は黙った。


 名前が中性的すぎるのが悪い。


「まさか本人に言ってないよね?」


「言ってない」


 恵の声はとても弱かった。


 手術したことがあるかと聞いただけなら、ぎりぎり露見していないはずだ。


 十月に入ると、大学祭準備は山場を迎えた。


 森下先生は学生の研究計画や奨学金資料の処理で忙しくなり、千尋に活動進捗の確認を任せた。


「恵、大学祭と秋の説明会の件は、野瀬と直接やり取りして。最後に押印が必要な書類だけ、私のところへ持ってきて」


 森下先生はその場で二人にLINEを交換させた。


 恵は不本意そうに口元だけを動かした。


 追加した直後、千尋からメッセージが来た。


『俺のLINEを追加するだけで寿命でも縮むの?』


 恵は画面を見つめた。


 琴音に関係する人間には、これ以上触れたくない。だから話題を仕事へ戻した。


『野瀬先輩、企画書のデータを先に送ります。修正点があればご確認ください』


 千尋から返事はなかった。


 翌日、恵が学生支援課へ行くと、千尋はすでに企画書を印刷していた。赤ペンの書き込みがびっしり入っている。


 恵が判断に迷って後回しにしていた部分まで、きちんと指摘されていた。


「十月は気温が下がりやすいし、雨も多い。屋外バスケ大会は、総合体育館を予備会場として押さえておいたほうがいい」


 恵は修正点を一つずつメモした。


「分かりました、野瀬先輩」


 千尋は彼女が背筋を伸ばし、自分と明らかに一腕分の距離を取って座っているのを見て、少しおかしくなった。


「実は、前にも会ってる」


「そうですか」


「君、一年のときに英語スピーチコンテストに出て銀賞を取っただろう。そのとき、俺は学生審査員だった」


 恵は顔を上げ、黙って彼を見た。


 千尋は彼女の目の疑問を読んだ。


「いい発表だったから覚えてる」


「ありがとうございます」


 彼女の表情は、今日の学食にカレーがあると聞いたときと同じくらい平静だった。


 千尋は少し拍子抜けし、同時に少し興味を持った。


 彼は知らない。恵の頭の中では、私が優秀かどうか、あなたに言われなくても知っている、という言葉が浮かんでいた。


 新学期は、県人会や地元出身者の集まりが多い。


 恵は社交に熱心ではなく、一年のときに一度行って以来、参加していなかった。本来こうした会は自由参加だ。けれど、わざわざ彼女を困らせたい人間もいるらしい。


 ある日、四年のグループ主催の先輩がLINEグループで恵をメンションした。


『藤崎、新入生歓迎会に来ない? 新しい後輩たちに、いい見本を見せてやってよ。俺たちみたいな適当な先輩に染まらないように』


 恵が返事をする前に、別の学生が反応した。


『何の見本? 先生の後ろ盾を使う見本? 藤崎局長は忙しいから、俺たちみたいな普通の人間の集まりには来ないんじゃない?』


 それは一年のとき、琴音と同じ文化活動局にいた男子だった。


 ある発表会で、彼は琴音のために何度も走り回っていた。琴音が衣装を持って立ち、やわらかく褒めれば、彼はまた喜んで働いた。


 恵は画面を見つめ、返事をせずに笑った。


 数行の嫌味で動揺するほど、彼女は優しくない。


 だがこれは機会だった。


「誰かが私を的にするなら、直接行って矢を返してあげる」



4.県人会での反撃


 歓迎会は、大学近くのファミリーレストランの個室で開かれた。


 未成年の後輩もいたため、無理に酒を勧める人はいない。みんなが頼んだのはソフトドリンクとセットメニューだった。


 恵はわざと十分遅れて行った。


 個室の扉は少し開いている。まだ入る前から、中の小さな声が聞こえた。


「そりゃいい話は全部あの子に回るよね。前期の特待生奨学金だって、コネだったんじゃない?」


「あの性格で誰が投票するんだよ」


 琴音はドアの隙間から恵に気づくと、すぐに声を少し高くした。


「恵、来たんだ」


 個室は一瞬で静まり返った。


 好奇心と軽蔑が混じった視線が、いくつも恵に向けられる。どうやら、前置きはもう琴音が済ませていたらしい。


 琴音は立ち上がり、恵の腕を取ろうとした。


 恵は自然に避け、一年生の女子の隣に座った。


 ひとりの男子が鼻で笑う。


「よく来られたな」


 恵は相手にしなかった。


 ゆっくりスープを一口飲み、それから新入生たちへ笑いかけた。


「大学に入ったら、半分は社会に出たようなものだから。先輩から一つだけ言っておくね。前に進むときは、後ろで吠える犬の声をいちいち気にしないこと」


 その男子が机を叩いて立ち上がった。


「誰が犬だよ。お前こそ森下の犬だろ!」


 恵はスプーンを置き、立った。


「ちょうどいいから、今日ここではっきりさせる。第一に、森下先生が私に立候補を勧めたのは事実。でも面接、答弁、投票、どの手順も省いていない。私が選ばれたのは私の能力。不満なら森下先生と前任幹部に聞けばいい。第二に、私は一匹のハエを叩くために自分の手を汚す気はない。第三に、私にも確かに間違いはあった」


 恵は琴音を見て、きれいに笑った。


「犬塚亮太を見る目がなかったこと」


 さっきまで怒鳴っていた男子が固まった。


「それと亮太に何の関係があるんだよ」


 琴音の顔色が変わった。


 外で彼女が話していた筋書きでは、恵は性格がきつく、付き合いにくく、先生を頼った学生というだけだった。亮太のことは出していない。


 彼女は、恵のようにプライドの高い人間が自分の失恋を公にするはずがないと思っていたのだ。


 けれど恵は気にしなかった。


 相手に十分傷を与えられるなら、少しくらい自分の格好が悪くても構わない。


 琴音はすぐに立て直し、その男子の袖を軽く引いた。責めるようで甘い声だった。


「女の子にそんなひどい言い方しちゃだめだよ。恵だって同じ大学の子なんだから」


 男子はたちまち怒りを引っ込め、座り直した。


「琴音は本当に優しすぎるんだよ」


 空気が気まずくなり、新入生たちは箸を伸ばすのもためらっていた。


 主催の先輩が慌てて場を取りなす。


「まあまあ。藤崎も来てくれたし、今日は顔合わせってことで。遅れてきた人はウーロン茶一杯、形だけでも飲んでよ」


 恵は場の空気に無理やり合わせるのが好きではない。


 ただ、その先輩には悪意がなかった。彼女はカップを取り、隣の人に飲み物を注いでもらおうとした。


 そのとき、入口から聞き慣れた声がした。


「藤崎」


 全員が振り返る。


 千尋がドアの横に立っていた。いつからいたのか分からない。黒いシンプルな上着を着て、いつもより真面目な表情をしていた。


 恵は眉をひそめた。


 琴音は彼まで呼んだのだろうか。


 琴音は誰より早く立ち上がり、耳元の髪を整えた。声は大きすぎず小さすぎず、部屋の中にいる人全員に聞こえる程度だった。


「野瀬先輩、偶然ですね。英語学科の皆さんもここで食事ですか?」


 千尋は鼻で小さく返事をし、主催の先輩へうなずいた。


「久しぶり」


 主催の先輩はすぐに立った。


「こちら、英語学科四年の野瀬千尋さん。うちの県人会の先輩で、かなり優秀な人。少し座っていきませんか?」


「いい。人を探しに来ただけ」


 彼の視線は恵に落ちた。


「藤崎」


 その一目で、今すぐ出ろと言われているのが分かった。


 恵は願ってもないとばかりに鞄を持った。


 千尋は周囲に軽く詫び、彼女と一緒に個室を出た。


 秋の夜は少し冷える。キャンパス外の街灯が、二人の影を長く伸ばした。


 恵が前を歩き、千尋は後ろからついてくる。


 半ブロックほど進んだところで、先に口を開いたのは彼だった。


「助け舟を出してやったのに、お礼はなし?」


「頼んでないです」


 千尋は言葉に詰まった。


 自分でも、さっきなぜあの部屋に入ったのかはっきりしない。


 通りかかったとき、恵が個室に入るのが見えた。そして中の声が聞こえた。彼女なら反撃できると分かっていた。けれど、ひとりで座っている姿を見たら、どうしてか胸の奥がざらついたのだ。


 ところが助け出した小さなハリネズミは、真っ先に針を立ててきた。


 千尋は話題を変えた。


「ちゃんと食べられなかっただろ。夜食でも行く?」


「いりません」


 彼はため息をついた。


「藤崎。君、どうして俺にそんなに敵意を向けるわけ?」


 恵は足を止め、振り返った。


「敵意があるのはそっちでしょ」


「企画書を直して、さっき場を止めた。これが敵意?」


 恵はずっと我慢していたことを、とうとう口にした。


「あなたは、私が森下先生に急に呼ばれて面接に入ったことを知っていたのに、どうして白石のために変な証言をしたんですか」


 千尋の表情が冷えた。


「俺が彼女に何を証言したって?」


「私がコネを使ったって。野瀬会長も証明できるって彼女は言っていました。今日ここに来たのも、彼女の味方をするためじゃないんですか」


 千尋は眉を寄せ、記憶をたどるようにした。


 恵はこれ以上時間を無駄にしたくなくて、踵を返した。だが手首をつかまれた。


「あの日、彼女が追いかけてきて、確かに俺に聞いた。森下先生が君の途中参加を認めたのかって。俺は、認めたと答えた。それのどこが間違ってる?」


 恵は詰まった。


 それだけなら、千尋の答えは間違っていない。自分でも同じように答えただろう。


 千尋は彼女の表情を見て、声をさらに冷たくした。


「信じられないなら、今から戻って本人と突き合わせてもいい」


 恵は急に居心地が悪くなった。


 初めて千尋に会ったときから、彼を琴音側の人間だと決めつけていた。琴音が事実を切り取っただけなのに、確認もせず、彼まで敵扱いした。


 けれど素直に謝るのは、恵の得意分野ではない。


「いいです」


 彼女は数歩進んで、また止まった。


「何を食べるんですか」


 千尋は話の飛び方についていけなかった。


「何が?」


 恵は顎を上げた。


「夜食に行くって言ったの、そっちですよね。私がおごります」


 千尋は思わず笑った。


「この時間の学食、焼きそばパンと焼きおにぎりくらいしかないよ」


「じゃあ焼きおにぎりで」


 恵の口調は冷たいままだったが、足はすでにコンビニの方向へ向いていた。


 暖かな街灯の下、女子はむっとした顔で先を歩き、男子は両手をポケットに入れて後をついていく。


 千尋の口元から、笑みはしばらく消えなかった。



5.また彼女の芝居が始まった


 新入生たちの大学生活が少しずつ軌道に乗り始める頃、十月は秋の説明会、サークル勧誘、大学祭準備が一番立て込む時期だった。


 各学科では慣例として、新入生向けの経験共有会を開く。活動、学習、進学計画などについて、さまざまな分野で成果を出した先輩を招いて話してもらうのだ。


 千尋は前自治会会長として複数の学科から招かれていた。恵の所属するメディア社会学科も例外ではない。


 学科事務室に頼まれ、恵がその橋渡しをした。


 当日、千尋はきっちりしたスーツではなく、黒のカジュアルジャケットに白いハイネックを合わせていた。ほかの先輩たちが上下スーツで固めている中、彼だけは少し力が抜けていて、こういう交流の場にはむしろ合っていた。


 恵は教室の後方で受付を手伝いながら、悔しいけれど、距離感の取り方がうまい人だと認めた。


 千尋が壇上に立ち、自己紹介を数言しただけで、教室の緊張はふっとゆるんだ。


 彼は片手でスタンドマイクに触れ、目元に笑みを浮かべる。


「学生自治会に入りたい人の中には、会長という肩書きが目当ての人も多いと思います」


 図星を突かれた一年生女子たちが、下を向いて笑った。


「今日の話が、その期待を裏切らないものになればいいんですけど」


 教室に軽い笑いが広がる。


 恵は、自分の堅い話し方では絶対にこうはならないと思った。


 共有会が終わっても、千尋はすぐに帰らなかった。教室のドアの横にもたれ、後輩の質問に答え続けた。


 恵が出席表を整理して出ようとしたところで、彼は人の間をすり抜けて近づいてきた。


「藤崎局長。俺、君の顔を立てて来たんだけど。芸術学科のかわいい後輩からも誘われてたのに断ったんだ。ご飯くらいおごってくれない?」


「講師謝礼、申請してありますよね。二千円。おごるならあなたのほうでは? 私が外貨を稼ぐ機会を作ってあげたんですから」


 千尋は妙に真面目にうなずいた。


「一理ある。じゃあ藤崎局長、俺にご飯をおごらせてくれる?」


「恵、もう終わった?」


 琴音がいつの間にか近くに来ていた。声は甘ったるい。


「野瀬先輩、偶然ですね。これから一緒に食事ですか?」


 恵は心の中で冷笑した。


 何が偶然だ。彼の講演を聞くために来たのは明らかだった。


「暇じゃない」


 琴音は一秒だけ固まり、すぐに少し酸っぱい顔をした。


「恵は人付き合いが上手だから、食事に誘ってくれる人もたくさんいるんだろうね。野瀬先輩まで軽く扱えるなんて。私だったら、こんな素敵な先輩のお誘いは断れないな」


 千尋は興味深そうに恵を見た。


 恵は、この二つの粘着質な何かをどう振り払えばいいのか分からなかった。


「じゃあ、この素敵な先輩に自分で聞けば。私に言ってどうするの」


 琴音は頬を赤らめ、千尋のほうへ向いた。


「じゃあ、野瀬先輩、私たち……」


 千尋はすぐに笑みを消した。


「ごめん、用事を思い出した。藤崎、また今度」


 言い終えると、彼はすぐに去っていった。まるで最初から練習していたみたいに手際がよかった。


 琴音は悔しそうに恵をにらんだ。


 恵は肩をすくめた。私のせいじゃない。


 各学科の共有会が終わると、自治会の新規募集が発表された。


 面接会場には多くの人が集まり、教室前のスタッフが順番に名前を呼んでいる。待っている新入生たちの顔には、緊張と期待が浮かんでいた。


 恵は面接卓の後ろに座り、彼らが慎重にお辞儀をするのを見ながら、一年前の自分もこんな感じだったのかもしれないと思った。


 面接が終盤に差しかかり、最後の後輩が退室すると、恵はようやく息を吐いた。


 二時間以上、先輩らしい顔をして座っていたのだ。さすがに疲れる。


 誰かがファイルで軽く後頭部を叩いた。


 恵は眉をひそめて振り返る。


「感慨深い?」


 千尋が彼女の前へ回り込み、机の上のプロフィールを手に取ってめくった。


「どうしてここにいるんですか」


「どんな部員を採るのか見に来た。彼らを見てると、若いっていいなって思わない? 怖いもの知らずで、かわいいよね」


 恵はじっと見つめられ、妙に落ち着かなかった。


 どうにも自分のことを遠回しに言われている気がする。


「あなたよりはかわいいです」


 千尋は笑っただけで、否定しなかった。


「歓送会、行く? 一緒に行こう」


 新歓面接が終わると、前年度のメンバーは正式に退任する。


 新会長は退任する局長や旧メンバーも交えて食事会を開いた。いわば送別会だった。


 料理はまた鍋だった。人数が多いと、各部署ごとに座るのが自然な流れになる。


 恵はこういう場が得意ではない。自分の部署の一番端に座り、料理を待っていた。


「恵」


 琴音の声が耳元で聞こえた。


 恵が席を変える前に、琴音はもう隣に座り、逃げ道をふさいでいた。


 恵は顔を上げ、形だけ笑った。


 視界の端では、亮太が琴音を席まで送り、名残惜しそうに体育会の席へ向かっていく。


 最初の鍋会を思い出し、いい気分ではなかった。


 恵の表情が少し冷えたのを、琴音は見逃さなかった。口元を軽く上げ、他の人へ挨拶する。彼女は一周見渡し、すぐに千尋を見つけた。


 千尋も、琴音が恵の隣に座ったことに気づいていた。反射的に恵を見たが、恵は亮太の去っていく方向を見ているようだった。


 千尋は面白くない気分になり、もう一度視線を確認した。そのとき、琴音の目とぶつかった。


 亮太は琴音の視線を追い、千尋がこちらを見ていることに気づいた。


 一瞬、四人の視線がぐちゃぐちゃに絡まった。


 恵は思った。


 最悪。


 千尋は思った。


 まだあの大型犬が好きなのか。


 琴音は思った。


 亮太は私のもの。野瀬先輩まで彼女の味方にさせない。


 亮太は思った。


 琴音、やっぱりかわいい。


 その食事会は、誰にとっても味がしなかった。


 料理が半分ほど進むと、参加者たちは席を移動して話し始めた。


 琴音は見た目がいいので、もともと人の目を引きやすい。すぐにほかの人に連れられ、あちこちを回り始めた。


 千尋は何気ない顔で恵の隣に座り、彼女のカップに豆乳を注いだ。


「あの犬塚ってやつ、まだ好きなの?」


 恵は口を開け、驚愕した顔で彼を見た。


「私の目が節穴だと思ってるんですか。それとも頭が悪いと?」


 千尋の機嫌は一瞬でよくなった。


 彼は自分のカップにも豆乳を注ぎ、彼女と軽く合わせる。


「就任おめでとう、藤崎局長」


「退任おめでとうございます、野瀬会長」


 二人のやり取りが琴音の目に入った。


 彼女は顔を少し白くし、すぐに戻ってきた。


「野瀬先輩、私を探してたんですか? 戻るのが遅くなってすみません」


 千尋は一瞬きょとんとし、ここがもともと彼女の席だったことを思い出した。


 立って場所を譲ろうとしたところで、琴音が呼び止める。


「野瀬先輩、一杯だけ。これまでたくさんお世話になりました」


 彼女は果実酒をほんの少し口に含んだ。薄暗い照明の下で、頬が赤く染まり、確かにきれいに見えた。


 千尋の表情は変わらない。


「世話というほどではないよ。みんな、お疲れさま」


 琴音は彼が離れていく背中をうっとり見つめ、それから恵へ小声で言った。


「野瀬先輩はここで私を待っていたの。あなたと話していたのは、ついでだよ」


 恵は危うく、顔いっぱいに疑問符を浮かべそうになった。なんとか礼儀正しい笑顔を保つ。


「目が悪いの? それとも耳?」


 琴音の顔がこわばった。


 彼女は立ち上がり、亮太のほうへ歩いていく。


 恵は呆れた。


 この手、いったい何回使うつもりなんだろう。



6.恋に落ちる音


 新歓が終わると、新しい学生自治会にとって最初の仕事が始まった。


 秋の新入生交流会と、大学祭の合同ステージだ。


 恵が前もって周到に企画を組んだおかげで、準備は一か月近く慌ただしく進んだ。


 当日、琴音はピンクの舞台衣装でモダンダンスを踊った。身のこなしは軽やかで、照明が落ちると確かにきれいだった。客席からは拍手と歓声が上がる。


 公演が終わっても、琴音はなかなか衣装を着替えなかった。


 多くの人が写真を撮りに来たり、LINEを交換しに来たりする。彼女は人の間を行き来し、ほどよく恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。


 観客が少しずつ帰り、スタッフは打ち上げの相談を始めた。


 慣例として、出演者と自治会メンバーは一緒にファミリーレストランへ行って軽く祝うことになっている。


 人混みの中から千尋が出てきて、周囲を見回した。


「野瀬先輩、私を探してますか?」


 琴音がスカートの裾を持って歩み寄った。後ろにはまだ写真待ちの人が数人いる。


 千尋は公衆の面前で女子に恥をかかせるほど無神経ではない。素っ気ないが、礼儀は保った。


「いい演技だった。おめでとう」


 琴音の目が明るくなった。


「先輩にそう言ってもらえて嬉しいです。あとで打ち上げ、先輩も来ますよね?」


 千尋は、まだ片づいていない会場を見た。


「少し遅れて行く。先に行ってて」


 琴音はうなずき、笑顔で人の輪へ戻った。


 人の波が引くと、講堂は急に静かになった。


 床の上を箒で押される紙吹雪の音、しぼんでいく風船のかすかな音が、広い空間に妙にはっきり響く。


 恵はもともとこういう社交の場が好きではない。


 行かなくて済むなら行きたくなかった。何人かの一年生部員は打ち上げに行きたがっていたので、先に行かせることにした。自分は会場に残って片づける。


 舞台上のクラッカーの破片を掃き終え、顔を上げると、千尋が客席側で飲み終わったペットボトルを集めていた。


「まだいたんですか。誰も野瀬会長を誘ってくれないんですか」


 千尋はだるそうに返した。


「君だって残ってるだろ、藤崎局長」


 恵は答えず、ゴミ袋の口を縛った。


 ゴミは舞台裏にまとめれば、あとは後方スタッフが分別してくれる。


 ほぼ片づくと、恵は手を払った。


「もう行けます」


 彼女は両側の階段へ回るのを面倒がり、舞台の端からそのまま飛び降りた。


 千尋は自然に手を伸ばし、軽く支えた。


 二人は一瞬、どちらも何も言わなかった。


 千尋がふいに口を開く。


「そういえば、学生支援課で俺に手術したことがあるかって聞いたよな。あれ、何だったの」


 恵は足を滑らせ、危うく捻りそうになった。どうにか体勢を立て直し、腹をくくって言った。


「鼻がきれいだったので、整ってるなと思って」


 千尋は笑った。


「本物だけど」


 恵は乾いた声で返事をした。


「そうですか」


 千尋は近づき、悪い笑みを含んだ声で言った。


「うん、本物。触って確かめてもいいよ」


 普通の女子なら顔を赤くして彼を軽く叩き、「もう」とでも言ったかもしれない。


 けれど恵にはそういう経験がない。動揺した彼女は、反射的に千尋の顔を手のひらで押しのけた。音は大きくなかったが、力はしっかり入っていた。


 千尋は頬を押さえ、まるで世界の終わりみたいな顔をした。


 恵もさすがに少し気まずい。


「何ですか、その顔。そんなに強くは……」


 千尋は彼女をじっとにらんだ。


 恵は数秒黙る。


「……ごめんなさい」


 千尋はようやく背筋を伸ばし、妙に偉そうに言った。


「じゃあ、俺にも一回やらせるか、ご飯をおごって償うか」


 恵は顔をしかめた。


 やり返す? 幼稚すぎる。


 けれど食事をおごるとなるとお金がかかる。そう考えると、一度押されるくらい大したことではない気もしてきた。


 彼女は目を閉じ、首を少し伸ばした。


「いいですよ。どうぞ」


 しばらく待っても、相手は動かない。


 ただ、千尋の呼吸が少しだけ重くなった気がした。


「野瀬、やるなら早くしてください。痛かったら根に持ちます」


 そのとき、舞台裏のドアが開いた。


「まだいるのか? 講堂を閉めるぞ。早く出なさい」


 管理担当の先生の声がした。続いて主照明が落とされ、周囲は一瞬で暗闇に包まれた。


 恵は慌てて目を開けたが、何も見えない。反射的に前へ手を伸ばした。


「野瀬!」


 すぐに、誰かが彼女の手首をしっかり支えた。


「いるよ」


 その声で、恵は少し落ち着いた。


 彼に導かれて外へ出る。講堂を離れ、街灯が二人を照らしてから、彼女はようやく自分の手がまだ千尋に握られていることに気づいた。


 慌てて引き抜く。


「もう大丈夫です。別に暗いのが怖いわけじゃありません。さっきは急だっただけで」


 千尋は空になった手を見下ろし、首の後ろを軽く触った。


「そう。じゃあ、送っていく」


「いりません。この道、何度も通っています」


 千尋は無理に続けなかった。


 恵は数歩進み、どうしてか振り返った。


 千尋はまだ街灯の下に立っていた。白いセーターが暖かな光を受けて明るく見える。


 少し距離があり、表情までは見えない。ただ、彼が俗世に迷い込んだ仙人みたいに見えた。


 夜は静かだった。


 恵は自分の心臓の音を聞いた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 彼女は自分で驚いた。


 どうして今、胸が鳴ったのだろう。


 学生会館へ戻ってしばらくすると、琴音も帰ってきた。


 メイクはきれいに整っているのに、目だけが赤い。入ってくるなり、恵を見た。


「あなた、わざと私に仕返ししてるの?」


 恵は意味が分からなかった。


 琴音は一歩近づく。


「講堂の前で、野瀬先輩と手をつないでるのを見た」


「それは事故」


 まさか、暗くなって驚いたとは言えない。


 琴音の声は少し尖った。


「わざとでしょ。亮太があなたと付き合わなかったから、今度は野瀬先輩に近づくの? どうしてそんなに根に持つの」


 恵はとっくに亮太の話をする気などなかったのに、またその古い話を持ち出されて、心底うんざりした。


「あなたと違って、男なら誰でもキープしたいわけじゃない」


 琴音は無垢そうな大きな目で彼女を見た。


「そんなことしてない。みんな友達だよ」


 友達。彼女が一言、新作のミルクティーが飲みたいと言えば二時間並ぶ友達。生理の日を覚えていて、温かいお粥を時間どおりに届ける友達。バレンタインにプレゼントを贈る友達。


 恵は白目をむきそうになった。


「じゃあ、私と野瀬も友達でいいでしょ」


 琴音は怒りで顔を赤くした。


「私が野瀬先輩を好きだって知ってるくせに、わざと近づいてるんでしょ」


「は?」


 恵は本気で驚いた。


 考えてみると、琴音は確かにいつも千尋の前に割り込んできて、小さな家の娘みたいな恥じらい顔で彼を見ていた。


 ただ問題は、彼女がどの男子に対してもだいたい同じ態度を取ることだ。


 教員から「舞台衣装で教室に来るのは控えて」とやんわり注意されたときもそうだった。入学直後、先輩にLINEを聞かれたときもそうだった。亮太の前では、さらにそうだった。


「あなた、どの男子にもそうじゃない」


 琴音は唇を震わせた。


「藤崎恵。今はっきり言う。私は野瀬千尋が好き。あなた、私から取らないで」


 恵は呆れて笑った。


「好きなら本人に言いなよ。なんで私に文句を言うの。誰があなたと恋愛競争なんかする暇あるの」


 琴音はまだリビングで怒っていた。


 恵は考えれば考えるほど面倒になり、千尋へLINEを送った。


『野瀬会長、あなたの桃が咲きました。摘むなり剪定するなりしてください』


 千尋から返事はすぐに来た。


『俺の桃は四季咲きなんだけど。どの花の話?』


 恵は入力欄を見つめ、「私」と一文字打った。


 だが琴音の言葉を思い出した瞬間、自分がこそこそしているみたいで嫌になった。長押しで消し、そのまま風呂へ行った。


 けれど彼女は気づかなかった。


 その一文字が、すでに送信されていたことに。



7.俺のこと、好き?


 恵が風呂から戻ると、スマホの充電はほとんど残っていなかった。


 画面には千尋からの不在着信とLINEメッセージが並んでいる。


 学生会館はもう消灯時間を過ぎていた。


 彼女は受話口を手で押さえ、小さな声で電話に出た。


「もしもし? こんな時間に何ですか」


 千尋の声には、明らかに焦りが混じっていた。


「なんで今まで出なかった」


「お風呂です。スマホの電池ももうないので、用があるなら明日にしてください」


「藤崎、君――」


 最後まで聞く前に、スマホは自動で電源を落とした。


 恵は暗闇の中で充電器を探した。


 すると琴音が、ドア越しに不機嫌そうな声を出す。


「藤崎、少し静かにして」


 すぐに楽が自室から言い返した。


「白石こそ静かにして! 今ちょうど夢に入りかけてたんだから!」


 恵は笑いをこらえながらスマホを充電し、ベッドへ潜り込んだ。


 翌朝、スマホを開いた恵は、昨夜の不在着信が十数件になっているのを見た。


 千尋に何があったのか聞こうとしたとき、目がトーク画面の最後の一文で止まった。


『俺の桃は四季咲きなんだけど。どの花の話?』


『私』


 恵は危うくベッドから跳ね起きるところだった。


 自分はいったい野瀬千尋に何を送ったのか。


 何度見ても、その一文字はそこにあった。


 彼が昨夜あれほど慌てていた理由が分かった。きっと告白だと思ったのだ。


 完全に誤解だとも言い切れない。


 まったく好きではないかと聞かれたら、そうではない。けれど、こんなタイミングで告白するほど気持ちが固まっていたわけでもない。


 まして昨日、琴音にあれだけ絡まれたばかりだ。あの泥沼に飛び込みたい気分ではなかった。


 けれど千尋は、簡単には見逃してくれなかった。


 恵が学生会館を出ると、門の前に黒い顔をした千尋が立っていた。


 彼女は腹をくくって歩み寄る。


「私……」


「昨日のは誤解です!」


 二人は同時に口を開いた。


 千尋の言葉は、彼女に遮られた。


 空気が冷えた。


 千尋は苦笑し、怒りを押し殺した声で言う。


「人をからかってる?」


 恵は後ろめたそうに説明した。


「違います。打った文字が、うっかり送られただけで」


 千尋は急に背を向けた。


 恵はすぐ口を閉じた。


 数秒後、彼は振り返った。表情はかなり落ち着いていた。


「分かった。じゃあ今ここで聞く。俺のこと、好き?」


 恵は固まった。


 直球すぎる。


 昨夜のあれが本当に恋だったのか、それとも暗闇で手を握られた吊り橋効果なのか、自分でも判断できない。


 だから正直に答えるしかなかった。


「まだ、分かりません」


 千尋の目が少し冷めた。


「じゃあ、分かったら来て」


 彼は言葉どおり、その後数日、恵に連絡しなかった。


 恵は数日間、どうにも気分が上がらなかった。


 見かねた楽が、彼女を英語スピーチコンテストの事前講座へ無理やり連れていった。


「今年こそ金賞を狙うんだから。付き添って」


 席についてから、恵はようやく聞いた。


「これ、何の講座?」


 楽は呆れた目で見た。


「英語スピーチの事前講座。入口にあんな大きなポスターが貼ってあったのに、見てないの?」


 恵の胸が嫌な音を立てた。


 次の瞬間、司会が壇上に上がった。


「それでは、第八回、第九回英語スピーチコンテスト金賞受賞者、野瀬千尋先輩にお越しいただきます」


 千尋が壇上に立った瞬間、恵と彼は最前列越しに目が合った。


 ほんの一秒だけだった。彼はすぐに視線を外し、自己紹介を始めた。


 その後の講座中、彼は一度も恵を見なかった。


 恵はうつむき、妙な寂しさを覚えた。


 気にしているのは自分だけなのだろうか。


 講座の最後には、慣例どおり発表者の連絡先が映された。


 楽がQRコードを読み取ろうとすると、恵は彼女の腕をつかんで外へ引っ張った。


「あれが野瀬先輩なんだ? ほんとに格好いい!」


 楽は何度も振り返った。


 恵は気のない声で答える。


「まあ、普通でしょ」


「藤崎局長は目が肥えてるね」


 冷たい声が横を通り過ぎた。


 千尋だった。


 恵はその場で消えたくなった。


 その後の数日、恵は自分がおかしいことに気づいた。


 どこへ行っても、千尋の影が見える気がする。


 食堂で振り返った隣のカウンターの人も似ている。図書館の観葉植物の横の席にいた人も似ている。教室で自習しているとき、窓の外を通った後ろ姿も似ている。自治会室で会議をしていたとき、前のグループで出ていった人の中にも似た影があった。


 夜、ベッドに寝転びながら希へ電話した。


「希、どうしてどこに行ってもあの人の影があるの」


「ちゃんと見たの?」


 恵はスマホを持ったまま、ベッドの上でごろごろした。


「見てない。眼鏡してなかったし。だから余計に嫌なの。絶対に本人じゃないって分かってるのに、似てると思っちゃう」


 希は意味ありげに言った。


「案外、本人かもよ」


「まさか。学校こんなに広いのに、食堂だけでもいくつあると思ってるの。彼、瞬間移動でも練習してるの?」


「終わったね、恵。恋がしたくなってる」


「ありえない」


 恵は勢いよく起き上がった。


 口では否定したが、胸の中は少しも落ち着いていなかった。


 千尋と連絡を取らない数日間、琴音は逆にやけに機嫌がよかった。


 毎日きれいに着飾って出かけていく。


 ある日、戻ってきた彼女は甘い声でボイスメッセージを送っていた。


「先輩、スピーチ原稿を見てくださってありがとうございました。さすが二回も金賞を取った方ですね。私、まだまだ追いつくには時間がかかりそうです」


 送ったあと、彼女はわざとらしく恥ずかしそうに付け足した。


「あ、追いつくって、そういう追うじゃないですよ。誤解しないでくださいね」


 真奈と楽はリビングで同時に吐きそうな顔をした。


 恵の胸にも、少し酸っぱいものが湧いた。誰とやり取りしているのか、足の指で考えても分かる。


 けれどその夜、琴音は泣きながら帰ってきた。


 目を真っ赤にし、リビングへ駆け込んで、まっすぐ恵を見た。


「満足? 野瀬先輩に振られたよ。嬉しい?」


 恵は意味が分からなかった。


「振ったのはあの人でしょ。私じゃない」


「どうして? どうしてあなたはいつも私より上なの? 私だって徹夜で勉強してるのに、どうして成績はあなたより低いの? 私は幹部になれないのに、あなたは簡単になった。真奈も楽も、前は私と仲がよかったのに、今はあなたの味方。私が一年も好きだった人まで、あなたが奪った」


 恵はようやく理解した。


 琴音はずっと、恵を勝手にライバルにしていたのだ。


 彼女はこめかみを押さえた。



「あなたが部員だったとき、自分の出番に一番いい照明を当てることばかり考えて、進行表も覚えてなかった。私が徹夜で広報原稿を書いている間、あなたは自撮りを上げていた。徹夜で勉強しても、昼に勉強していないんじゃ意味がない。私は誰とも比べるつもりはないし、恋愛の競争相手にされるのも迷惑」


 琴音は聞く耳を持たなかった。


「あなた、亮太が好きだったんでしょ。じゃあ亮太を好きでいてよ。亮太なら譲ってあげるから、野瀬先輩を取らないで」


 恵は頭が痛くなった。


「用があるなら本人に言って。私に何の関係があるの」


 琴音は声を張り上げた。


「あの人、あなたが好きだって言ったの! あなたが急に選挙に出て、毎日彼の前に現れたからでしょ。そうじゃなきゃ、どうしてあなたなんかを好きになるの」


「私を好きだって言ったの?」


 琴音は、自分の傷口に塩を塗られたと思ったのだろう。怒って走り出していった。


 リビングは静かになった。


 恵はその場に立ったまま、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。


 楽が横から顔を出し、彼女の隣に座った。


「で、恵。分かった?」


「私と野瀬って、今までせいぜい、彼が私を面白がって、私が遠慮なく言い返すだけだったよね」


「それを、いわゆる犬猿の仲からの恋って言うんだよ」


「それで、彼は妙に話しかけてきたり、ご飯に誘ったり、手をつないだり、私が帰るまで見送ってたりした」


「それはアプローチ」


「でも本人は言ってない」


「恵が扱いにくすぎるから、面子を失うのが怖かったんでしょ」


「つまり、私はあの人を相手だと思っていたけど、あの人は私を恋人候補だと思ってた?」


「やっと分かったね」


 恵は彼女の頭に軽く拳骨を落とした。


「横で神託みたいに解説しないで」


「感情線を整理してあげてるだけじゃん」


 楽は頭を押さえて、かなり不満そうだった。



8.本音と罰ゲーム


 夜、恵はまた希へ電話し、最初から最後まで話を整理した。


 聞き終えた希は、真っ先に核心を突いた。


「つまり、あなたも彼が好きだって認めるのね?」


 恵は長くもじもじした末、ようやく小さくうなずいた。


「……うん」


 電話の向こうで、希が大げさに驚いた。


「え、待って。藤崎恵、藤崎局長、藤崎女王が照れてるの?」


「私にも分からない。犬塚を好きだったときは、こんな感じじゃなかった」


「それ、本当に犬塚くんのこと好きだった?」


「たぶん」


「じゃあ、どこが好きだったの?」


 その話題になると、恵は一気に元気になった。


「腹筋。体育祭の高跳びの写真、希も見たでしょ。あの腹筋、二人で褒めたじゃん」


「よし。じゃあ今から野瀬先輩の腹筋を一枚撮って送って」


「何を言ってるの」


「ほら、それが普通の反応。あなた、犬塚くんのこと好きだったんじゃない。体に釣られてただけ」


「なるほど」


「今さら分かったの?」


「じゃあ、私はどうすればいいの」


「告白しなさい」


「でも、本人の口から聞いたわけじゃない。本当かどうか分からないし」


「白石さんが、わざわざ自分に恥をかかせる嘘をつくと思う?」


 恵は数秒考え、急に警戒した。


「もしかしたら、あれは罠かもしれない。私に告白させて、野瀬の前で恥をかかせて、その隙に自分が入り込む作戦」


「黙りなさい。彼女にそこまでの頭があると思う?」


 恵は考えた。確かに、なさそうだ。


 希はさらに一言付け足した。


「でも野瀬先輩ならあり得るかも。白石さんを使ってわざと伝えさせたっていうのは、ちょっとありそう」


 恵は黙った。


 それも、とてもありそうだった。


 とはいえ、二十年間恋人のいなかった恵にとって、告白は簡単なことではない。


 加えて試験期間が近づいていたため、彼女はすべてのエネルギーを復習へ投げ込んだ。


 琴音が振られた翌日、亮太はSNSに写真を上げた。


 顔は写っていなかったが、彼の肩に寄りかかる後ろ姿が誰なのか、誰もが分かった。


 楽はそれを見て楽しそうに笑った。


「白石の男友達ネットワークがどうなったか見てこよう」


 もう一度開くと、琴音の投稿欄は真っ白になっていた。


 数日もしないうちに、琴音は学生会館を出ていった。


 みんな、彼女が亮太と同棲を始めたのだと察していた。


 関係は悪くても、楽は一応だけ声をかけた。


「付き合ってすぐ同棲って、ちょっと早くない?」


 真奈も付け加える。


「せめて賃貸契約とか生活費の分担とか、ちゃんと確認したほうがいいよ。一時の気分だけで動くと大変だから」


 琴音はひどく不機嫌になった。


「みんな、私が幸せになるのがそんなに嫌なの? 私たちは仲がいいんだから、一緒に住んでもいいでしょ」


 誰も余計なことを言う気はなかった。


 そう返されると、もう黙るしかない。


 最後の試験が終わると、ちょうど楽の誕生日だった。


 三人は学生会館でのんびり一晩過ごすことにした。琴音が「おしゃれして、映える店へ行こう」と要求しないだけで、とても気楽だった。


 楽は缶ビールを数本買ってきた。三人ともすでに二十歳を超えている。


 彼女はプルタブを開けながら、悪い笑みを浮かべた。


「今日はちょっと遊ぼうよ」


 食べ終わり、飲み終わると、ゲームは自然と本音と罰ゲームになった。


 ボトルの口が恵を向いた瞬間、楽と真奈の目が同時に光った。


 楽が課題を宣言した。


「連絡先の一番最後にいる人に電話して、本音を一つ言う」


 恵は反射的に許しを請おうとした。


 真奈が彼女を押さえる。


「今日は主役が一番偉い。楽の言うことがルール」


 恵は観念して連絡先を開いた。


 二人は左右から覗き込み、試験監督より厳しく急かしてくる。


 楽は壊れたように笑っていた。


「一番最後だよ。早く早く。どうしてそんなに番号が多いの」


 野瀬千尋の名前までスクロールしたところで、画面が止まった。


 恵は目を閉じ、通話ボタンを押す。


 電話はすぐにつながった。向こうは一瞬、黙った。


 千尋が小さく息をついた。


「分かったの?」


 恵の喉が詰まった。


「違います。室友の誕生日で――」


 楽が素早く彼女の口をふさぎ、首をぶんぶん振った。


 ゲームのルール上、罰ゲームだと相手に知らせてはいけない。


 千尋はどうやら察したらしい。


「分かった。言って」


 恵は深く息を吸った。


「好きです」


 楽と真奈は声にならない悲鳴を上げ、抱き合ったままスマホを凝視している。


 しばらくして、千尋の声が冷えた。


「罰ゲーム?」


 恵はスマホを握りしめ、どんどん声が小さくなった。


「……そうです。でも、そうじゃないです」


「藤崎。どっち」


 受話口の向こうの怒りは低く抑えられていた。


 恵は腹をくくるしかなかった。


「罰ゲームです。でも課題は、連絡先の一番最後の相手に本音を言うことでした」


 最後のほうは、自分でも声が聞こえなかった。


 千尋の側が二秒ほど静かになった。


「十分待って。いや、五分」


 電話は切れた。


 楽と真奈は、さっきまで一生分の声を我慢していたかのように、ようやく叫んだ。


 五分後、恵は学生会館の前で千尋を待っていた。


 彼はほとんど走ってきたらしい。男子寮からここまで、遠回りすれば少なくとも二キロはある。さらに階段もあるはずだ。


 普段は身だしなみの整った彼が、そのときは髪の先を少し濡らし、息を切らしていた。片手を膝につき、もう片方の手で恵の腕をつかむ。体からはまだボディソープの匂いがした。


 恵は小さく言った。


「髪、乾いてませんよ」


 千尋は顔を上げた。目に少し恨めしさがある。


「藤崎、今、ちゃんと正気?」


「正気です」


 彼は背筋を伸ばし、まっすぐ彼女を見た。


「よし。聞いて。俺も好きだ。俺の彼女になってくれる?」


 その言葉には、ためらいが少しもなかった。


 何度も心の中で練習したみたいだった。


「はい」


 千尋はようやく力を抜いたように、彼女を抱き寄せた。


「よかった。走ってきた甲斐があった」


 恵の顔が熱くなる。


「そんなに急がなくても」


 千尋は彼女を見下ろした。


「急ぐよ。前みたいに、一晩寝たらなかったことにされそうで怖い」


「前のは誤解だって言いました」


 語尾は、彼のキスに塞がれた。


 冬の夜風は冷たかった。学生会館の入口の自動灯は、点いては消えた。


 恵は数秒固まったあと、ゆっくり手を上げ、彼の服の裾をつかんだ。



9.ちゃんとした告白のあとで


 冬休み、恵と千尋は一緒に地元へ帰った。


 高校の同級生たちとの集まりで、二人が付き合っていると聞いたみんなは、口々にお似合いだと言った。


 結城希は特に、千尋を連れてきて近くで見せてほしいと強く迫った。実際に本人を見ると、表情を抑えきれない様子だった。


「わあ、本当に野瀬先輩だ。昔からステージの上で見ても格好よかったけど、近くで見るともっとすごいね」


 千尋は目を細めた。


「昔? 高校のときから俺を知ってたの?」


「もちろん。明城のあの辺の代で、野瀬会長を知らない人なんていないですよ」


 千尋は笑いながら恵を見た。


「へえ。知らない人もいたみたいだけど」


 恵は乾いた笑いを漏らした。


「恵はあの頃、先輩のことを女の――痛っ」


 恵が希の足を踏んだが、間に合わなかった。


 希を見送ったあと、千尋は逃げようとする恵をつかまえた。


「説明して。どういう流れで俺を女だと思ったの」


 恵は彼の喉仏を見て、しどろもどろになった。


「名前が中性的すぎるのが悪い」


 千尋の顔がさらに暗くなった。


 恵は反応が早かった。彼が何か言う前に、つま先立ちして軽くキスをする。


「ごめんなさい」


 けれど声は堂々としていた。


 千尋はつい笑ってしまった。


「謝ってるのに偉そうなところ、ほんと好き」


 新学期が始まり、二人が付き合っているという話が琴音の耳にも入った。


 彼女の顔は少し青ざめていた。


 授業前、わざと恵の横を通り過ぎる。


「亮太が私と付き合ったあと、あなたは野瀬先輩と付き合ったんだ?」


「ああ、そうそう」


 恵は説明する気がなかった。


 本当はもう琴音と関わりたくない。けれど同じ学科である以上、授業で顔を合わせることは避けられない。


 琴音は亮太の腕に絡みつき、恵の前を通り過ぎた。その顔は、羽を広げた孔雀みたいだった。


 時間はすぐに四月になった。卒業シーズンが近づき、各学科では卒業記念の試合が始まっていた。


 亮太はメディア社会学科のバスケチームの主力として、卒業杯で目立った活躍をしていた。


 琴音は正式な彼女として、笛が鳴るたびに駆け寄り、汗を拭いたり水を渡したりしている。


 恵は本来どうでもよかった。けれど琴音は毎回わざわざ彼女の目の前を通り、得意げな視線を投げてくる。


 楽は見ていられない様子だった。


「あの子、何に勝ち誇ってるの? 誰もあのぼんやり大型犬を欲しがってないのに」


 恵は思わず笑った。


 亮太は確かに大型犬に似ている。ぼんやりしていて、顔立ちはいいのに少し抜けている。


 あちらにはハスキーがいて、こちらにはシェパードがいる。お互い、自分の犬を散歩させればいいだけだ。


 そんなことを考えているうちに、恵の視線は自然とコートへ流れていった。


 認めたくはないが、亮太のバスケ姿は確かに見栄えがした。特にジャンプして三ポイントを打つとき、場内の悲鳴は何度も上がる。


 恵はふと、希の「体に釣られてただけ」という言葉を思い出した。


 たぶん、その通りなのだ。みんな見た目には釣られる。


 ぼんやりしていると、頭上に大きな手が降ってきた。


 彼女はそのまま体ごと向きを変えられ、千尋の似笑いを正面から見ることになった。


「何をそんな真剣に見てるの」


「犬塚の腹筋」


 千尋はコートを一瞥し、口元をわずかに歪めた。


「あれくらい、普通でしょ」


 彼は身をかがめ、声を低くした。


「来週土曜、午後五時。第六コート。見るべきものを見に来て」


 恵はぼんやりうなずいた。


「うん」


 千尋は彼女の体をもう一度コートの方向へ戻した。


「今のうちにたくさん見ておきなよ。あとで優劣を比べられるように」


 恵は心の中で思った。


 この男、どうしてこんなに自信満々なのだろう。


 だが、彼女は千尋を甘く見ていた。


 これまで恵の中で、千尋はいつも高い場所から余裕を持って人を見ているような人だった。


 けれど彼がバスケをしている姿を見て、彼にも野性的な一面があるのだと初めて知った。


 千尋は相手の守備の間をすり抜けていく。


 相手チームは何度も叫んでいた。


「野瀬を跳ばせるな!」


 三人が違う方向から囲みに来た。


 千尋は体を低くし、フェイントで守備を一人ずらした。そこから反転して跳び上がる。ボールは彼の手を離れ、きれいな弧を描いた。


 ネットに吸い込まれた瞬間、周囲から歓声が上がる。


 彼は真っ先に恵を見た。


 そして眉を上げて笑った。


 恵は胸を押さえた。


 頭の中には三文字しか残らない。


 押し倒したい。


 試合終了の笛が鳴ると、彼女はほとんど駆け出していた。


 千尋がコートから出た瞬間、恵は彼に飛びつき、首に腕を回して何度もキスをした。


「すごい! 野瀬、どうしてそんなにバスケ上手なの!」


 近くにいた英語学科のチームメイトたちが一斉に悲鳴を上げた。


「見てられない!」


「目がつぶれた!」


 千尋は笑いながら恵を下ろし、振り返って一喝した。


「見るな。店を予約してこい」


 卒業杯の後、チームには打ち上げがあった。


 千尋は恵を見下ろし、声を少しやわらげた。


「先にあいつらと食事してくる。戻ったら一緒にいるから」


 恵はふと悪戯心を起こした。


 わざとかわいそうな顔をする。


「でも、今すぐくっついていたい。一秒も離れたくない」


 千尋の喉仏が動いた。


 恵は悪そうに笑った。


 チームメイトへ店の予約を任せたあと、千尋は彼女を体育館横の人気のない階段室へ連れていった。


 夕日は沈みかけ、廊下の光は薄暗い。


 彼は恵の腰を抱き、低く顔を寄せてきた。


 恵も負けじと応えた。指先で彼のユニフォームをつかむ。


 長い時間が過ぎ、首がだるくなり、つま先立ちもつらくなってきたところで、ようやく解放された。


 千尋は親指で、赤くなった彼女の唇の端をなぞった。


「満足した?」


 恵は息を整えた。


「満足。あなたの勝ち」


「打ち上げが終わったら戻る」


 卒業杯の打ち上げが終われば、チームのメンバーはそれぞれの進路へ進んでいく。


 恵はわざと困らせる気はなかった。


「何時?」


 千尋は挑発するように見た。


「十一時」


 卒業シーズン中、大学は四年生が遅くまで騒いで事故を起こすのを避けるため、寮の門限を十一時にしていた。


 あえてその時間を言った意味は明らかだった。


 恵は顎を上げた。


「分かった。過ぎたら待たない」


 学生会館へ戻ると、恵はまず着替えを簡単にまとめた。


 楽がにやにやしながら近づいてくる。


「何してるのかなあ?」


 恵は笑って見返した。


「想像に任せる」


 そのとき、琴音が白い低めのヒールを鳴らして入ってきた。


 すでに学生会館を出ているが、まだ正式な退去手続きは済んでいない。時々荷物を取りに戻ってくるのだ。


 彼女は恵の手にある服を見て、鼻で笑った。


「人って本当に二枚舌だよね。他人がやると説教するくせに、自分がやると堂々としてるんだから」


 楽が反論しようとしたが、恵は彼女を制した。


 今日は気分がいい。言い争いたくなかった。


「私は今年二十歳。野瀬は二十二歳。二人とも、自分の選択に責任を持てる年齢だよ。彼は東京の大学院へ進むし、私も来年そちらを受ける。目標も、この先の進路も同じ方向を向いてる」


 琴音の顔色が変わった。


「私は彼と高校の同窓だし、実家も近い。長期休みに帰る方向も一緒。私たちはその場の勢いじゃない。あなたと犬塚は? 男の子に囲まれることしか考えていない人と、その周りを回ることしか考えていない人。学業、能力、生活設計、そのどれを考えたことがあるの」


 琴音は怒りで何も言えなくなった。


 数枚の服を乱暴につかみ、背を向けて出ていった。


 十時になる前に、千尋から電話が来た。降りてきて、という短い連絡だった。


 外へ出ると、彼は清潔な白いシャツに着替えていた。髪の先が少しだけ濡れている。


「十一時って言ってませんでした?」


 千尋は自然に彼女の鞄を受け取った。


「早く戻ってきたかった」


 恵は昼間のコートで見た野性的な千尋を思い出し、目の前の清潔な姿を見て、まだ物足りなさを覚えた。


「わざわざシャワー浴びたんですか」


「汗かいたから」


 恵は近づき、ボディソープの清潔な匂いをかいだ。


 額には細かな汗が浮かんでいる。たぶんまた小走りで来たのだろう。


 彼女は彼の耳元へ近づいた。


「そんなに疲れてて、あとで体力残ってます?」


 千尋は彼女の真似をするように、耳元で噛み返した。


「試してみれば」


 その夜、恵は初めて、針を立てなかった。


 窓の外には白い月の光があった。カーテンの隙間から差し込む光が、ベッドの端に落ちている。


 千尋の腕の中で眠りに落ちた恵は、静かな寝息を立て、唇の端にかすかな笑みを残していた。



10.ハリネズミを追いかける計画


 千尋は恵より早く目を覚ました。


 窓の外はまだ完全には明るくなっていない。部屋には淡い朝の光だけが差していた。


 恵は彼の腕の中で眠っている。いつもは誇らしげに上がっている顎も、今は静かに落ち着いていた。まつ毛が、小さな影を頬に作っている。


 昼間の彼女は鋭く、冷静で、簡単には頭を下げない。


 けれど今は、ようやく針をしまって、やわらかな腹を少しだけ見せているみたいだった。


 千尋は彼女を見つめ、思わず小さく笑った。


 これまで追われる側だった自分が、まさかこんなに近づきにくい小さなハリネズミを追いかけることになるとは思わなかった。


 彼が恵に初めて注目したのは、一年生の英語スピーチコンテスト決勝だった。


 その日、彼女は高いポニーテールで舞台に立っていた。目は明るく、スピーチの構成は美しく、リズムも安定していた。


 千尋の採点表では、彼女が最高点だった。けれどほかの審査員の先生たちは、専門性や表現スタイルの違いから、最終的に英語学科の女子に金賞を与えた。


 結果発表のとき、恵は失望した顔をしなかった。無理に祝福することもなかった。


 ただ静かに立っていた。その姿は、私は自分のできることをやった。あとはどうでもいい、と言っているように見えた。


 千尋はそのとき、彼女の名前を覚えた。


 二度目は、森下先生の事務室だった。


 改選面接の前、森下先生は候補者リストをめくりながら、ふとため息をついた。


「できる子が一人来ていない。惜しいな」


 千尋は思わず聞いた。


「誰ですか」


「藤崎恵。総務局の二年生だよ」


 千尋はスピーチコンテストで見た、あの冷静な顔を思い出した。


「ああ、彼女ですか」


 森下先生が目を上げる。


「知っているのかい?」


「前にコンテストで見ました。能力はあります」


 森下先生は考え込むようにした。


「面接はまだ始まっていない。本人にその気があるなら、間に合うね」


 千尋はリストを見て、口元をほんの少し動かした。


「前任局長から電話してもらえばいいんじゃないですか」


 藤崎恵が事務室へ入ってきたとき、その顔にはいつもの傲気があった。


 彼女と目が合った瞬間、千尋はうまくいったという笑みを隠し、ただ眉を上げてみせた。


 これで、彼女と関わる機会は増えるはずだった。


 ところが、その件は妙な方向へ転がり、逆に彼女が彼を嫌う理由になってしまった。


 その後、千尋は何度も何度も遠回しに近づいて、ようやく彼女の警戒を少し解いた。


 彼女に告白された夜、千尋はほとんど眠れなかった。


 翌朝、「誤解です」の一言で片づけられたときは、さすがに腹が立った。


 自分は学内でもそれなりに知られた先輩で、好意を向けられることに困ったことはない。


 初めてこんなふうに宙づりにされ、腹立たしくて、それでも放っておけなかった。


 しばらく冷たくしようと思ったのに、彼女のことを考えると、やはり会いたくなる。


 幸い、英語スピーチ講座の日、千尋は三浦楽のLINEを手に入れた。


 その交換条件として、彼は楽のスピーチ原稿を直し、コンテストの助言をした。楽はその代わり、あまり多くを暴露しない範囲で、恵の行き先を教えた。


 食堂、図書館、教室、自治会室。


 恵が自分の見間違いだと思っていた影の多くは、本当に千尋だった。


 千尋はもともと、こういう探るような小細工をするのが好きではない。


 けれど恵はあまりにも誇り高く、彼自身も「誤解です」の一言で面子を傷つけられていた。自分から告白するのは、どうにも悔しかった。


 突破口になったのは、むしろ琴音だった。


 琴音は一年のときから彼のLINEを追加していた。理由は仕事上の連絡だという。


 しかし彼女は当時、文化活動局を実際に担当していた副会長のLINEは追加せず、千尋だけを追加していた。


 千尋はとっくに彼女の気持ちに気づいていたが、同じ大学の学生という関係もあり、直接はっきり拒むことはしなかった。


 あの日、琴音は英語スピーチの指導のお礼をしたいと言って、彼に食事を申し込んだ。


 千尋は断るつもりだった。けれど考え直した。


 彼女を使えば、もしかすると恵の耳に自分の気持ちが届くかもしれない。


 だから彼は了承した。


 洋食店で、琴音の耳は、皿の上のミディアムレアの牛肉みたいに赤くなっていた。


「先輩、男の人と二人で洋食を食べるの、私、初めてです」


 千尋は淡々と返した。


「俺は初めてじゃない」


 琴音の笑顔は一瞬こわばり、すぐに元へ戻った。


「先輩みたいに優秀な人には、どんな女の子が似合うんでしょうね」


 千尋はナイフとフォークを置き、彼女を見た。


「好きな人がいる」


 琴音はゆっくり顔を上げた。目には期待が浮かんでいる。


 千尋はわざとゆっくり言葉を続けた。


「一年のときから知ってる子」


 琴音の顔がさらに赤くなる。


「舞台の上で、すごく目立ってた」


 琴音は唇を噛んだ。


「学生自治会にもいる」


 その目には、隠しきれない期待があった。


 千尋は少し間を置き、困ったような顔を作った。


「ただ、向こうが俺を好きかどうか分からない。メディア社会学科の――」


「先輩、私も――」


「藤崎恵」


 千尋は容赦なく遮った。


 琴音の顔は、一瞬で真っ白になった。


 目的を果たした千尋は、会計を済ませて店を出た。


 外に出たとき、彼の頭の中にあったのは一つだけだった。


 この食事代が、どうか無駄になりませんように。


 結果として、十分に価値はあった。


 琴音はやはり、恵のところへ行った。


 その後は試験期間だった。


 千尋は恵が学業を大事にしていることを知っていたから、邪魔をしないよう我慢した。


 最後の試験が終わるのを待って、彼は楽にもう一度手を貸してもらった。


 枕元の恵は、今も深く眠っている。


 自分が隣の男にどれだけ長く計算されていたのか、まったく知らない顔だ。


 千尋はそっと彼女の頬をつまんだ。


「ほんと、追いにくいな。小さなハリネズミ」


 恵は夢の中で眉を寄せた。邪魔をされたのが不満らしい。


 千尋は笑って手を引っ込め、布団を彼女の肩まで引き上げた。


 空が少しずつ明るくなっていく。


 千尋は彼女を見下ろしながら、ふと思った。


 恵が東京の大学院に合格したら、大学に近い小さな部屋を借りてもいい。一人暮らしには少し広いくらいの、ワンルームではない小さな部屋。


 本棚は彼女に譲る。キッチンは自分が片づける。彼女が夜遅くまで論文を書いていたら、コーヒーを淹れてやる。疲れたと言わないなら、机の前から抱えてベッドへ連れていけばいい。


 もちろん、今はまだ言えない。


 小さなハリネズミは、すぐに針を立てるから。


 千尋は身をかがめ、彼女の額に軽くキスを落とした。


「これから、ゆっくり行こう」


 恵はぼんやりと身じろぎし、指先で彼のシャツの端をつかんだ。


 その瞬間、千尋はふと思った。


 もう、自分は勝っているのだと。




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