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音怪 〜乙葉ゆずるの事件簿〜

作者: 鳳 翔平
掲載日:2026/08/26

掲示板ログ:

1:名無し

あめがふる

つめたいあめが

おおきなおそらに

にじはみえるかな

おそとであそんだ

ろうふうふは

なかよしね


2:名無し

意味がわかると呪われるらしい


4:名無し

マジ?


30:名無し

マジ、俺タヒんだもん


141:名無し

>>30すげー、最近のあの世はネット完備


142:名無し

意味ワカンネ


3:名無し

縦読み?


356:名無し

鬼が暑いのか?


359:名無し

みんCをあげよう


361:名無し

ろうふうふ、だけ浮いてない?


5:名無し

「ろう」じゃなくて

「ろ・うふうふ」じゃない?


6:名無し

うふ♡


13:名無し

やめろ


16:名無し

今気づいた


26:名無し

>>16あ、タヒるぜ


57:名無し

   あめがふる

 つめたいあめが

おおきなおそらに

にじはみえるかな

おそとであそんだ

  ろうふうふは

   なかよしね


こうすればわかるような気がする


62:名無し

余計わかんね


64:名無し

あめがふる

つめたいあめが

おおきなおそらに

にじはみえるかな

おそとであそんだ

  ろうふうふは

   なかよしね


いやこの方がバランス良い


68:名無し

そういう問題か?



(以降書き込みなし)


   ◇


「この世には、科学では決して解き明かせない『未知の領域』が存在する…。今夜は、現代の闇に挑む論客たちが激突!果たして暴かれるのは真実か、それとも虚構か。タブーなきオカルト生討論会、まもなく開幕です。」


軽快なBGMと同時にテレビ画面に“オカルト討論会”のテロップが浮かび上がる。


次第にBGMのボリュームが下がると、カメラは司会のアナウンサーを映した。


「わたくし、本日の司会進行を務めさせていただきます、TPSアナウンサー原渉と申します。1時間という限られた時間ではございますが、最後までお付き合いをよろしくお願いします」


 スタジオの中に拍手の音が響いた。


「さて、本日お集まりいただいた、ご覧の皆様方の紹介をさせていただきます。

 まずはオカルト肯定派席の方々から。

 お一人目はこの方、日本を代表するオカルト雑誌、月刊ウーの編集長であります安達裕彦さん」


「よろしくお願いします」

 よれたスーツを着た、白髪頭の男性が頭を下げた。寝不足が続いているのか目の下のクマがひどい。


「続いて、ネット怪談や都市伝説の研究を行っている乙葉ゆずるさん」


「どうぞ、よろしく」

 艶のある黒髪を後ろへ長く流し、紫色のリボンでまとめた端正な顔立ちの女性。落ち着いた着物姿と眼差しは、どこか人ならざるものを見慣れた者だけが持つ鋭さが宿っていた。


 しかし、その瞬間音声さんだけが小さく首をかしげる。


(……今、子供の声がした?)


 スタジオの誰もが気づかない。

 ただ、乙葉だけが一瞬、視線をカメラの外へ向ける。


「そしてお隣。UFOとの遭遇経験を持ち、自ら宇宙人との接触を公言するUFO・UMA研究家の荒地(あらち)(あきら)さん」


「よろしくお願いしま〜す」

 まるでUFOに東京タワーが突き刺さったんじゃないかというような、独創的なデザインの帽子をかぶったおじさんが両手をあげて答える。


「続きましてはオカルト否定派といたしまして、サイエンスライターの才茂(さいも)一幸さん」


「よろしく」


「心霊現象の多くは偶然と科学で説明できる。トリックの専門家といえばこの方、世界が認めるマジシャン、ミスタートリックさん」


 黒髪に白いメッシュの入った特徴的なヘアと、サングラスがトレードマークである彼は、両手を開き無言でカメラに向かって突きだした。


「最後にオブザーバーといたしまして、芸能界一のオカルト好きを自称する、自身も多くの心霊現象を体験しているアイドル、TDFK47の中川桜叶さん」


「よろしくお願いしま〜す」

 アイドル中川が元気いっぱいで手を振る。


 その映像から、カメラが大きくズームアウトされ、ゲスト席全体を映す。


「以上の七名で本日お送りさせていただきます」


 再びスタジオに拍手が響き、BGMがフェードアウトした。


「さて本日の議題の一つ目ですが、猛暑が続く中、少しでも涼しくなろうということで、怪談をテーマにしていこうと思います」


 さっそく編集長、安達が手を上げた。


「最近SNSで話題になっている都市伝説で、『エレベーターの十三秒』というのがあるんですよ」


 デスクの上にフリップを置いた。


「近年、SNSで報告例が増えているんですが。

 マンションやホテルのエレベーターで深夜一時十三分ちょうどに乗り、誰も乗っていないことを確認したら、自分の部屋とは違う階のボタンを押すんです。

 エレベーターが動き始めたら、スマートフォンの画面を見ながら十三秒数え、十三秒経ったら顔を上げる、って手順を行うだけなんですが」


 モニターの映像が切り替わる。


「もしその時、エレベーターの階数表示が消えていたら、絶対に周囲を見回してはいけないそうです。

 そのまま目的階に着くまで床だけを見続けること。

 報告によれば、階数表示が消えた状態のエレベーターには、もう一人誰かが乗っているらしいんですよ。

 ただ、その人物を見たという証言はないんですよね。

 理由は簡単で、見た人は皆、自分が何を見たのか思い出せなくなってるらしいんです」


 スタジオの照明がわずかに落とされる。


「体験者の多くに共通してるのは、エレベーターを降りた後の異変で、

 玄関の鍵を開けようとすると、そこが自分の部屋なのか確証が持てなくなる、部屋番号だけが思い出せなくなるんですよ。

 自分の名前も住所も覚えている。

 家族の名前も覚えている。

 なのに、自分が何号室に住んでいるのかだけが分からなくなる」


「SNSでは、疲れていただけ、酔っぱらいの勘違い、とか言われてますが、報告者の中にはSNSで防犯カメラに記録された自分の映像を公開した者もいるんですね。

 映像には、自分の部屋の前を何度も行き来しながら、三時間以上廊下を歩き続ける本人の姿が映っていた。

 動画の最後、午前四時二十七分。

 映像の端に、エレベーターから降りてくる人物が映るけど、顔は確認できない。

 ただし投稿者は後にこう書き残しています。

 あの日以来、エレベーターの中で誰かとすれ違った気がする。でも、その人の顔だけは思い出せない」


(SE:キャーという女性の悲鳴)


「いやー、怖いですね」


「でも話題になってる割には、その話初めて聞いたんですが?」

 乙葉ゆずるが言った。


「知らなくて当然です。

 実はこれ、さっきAIで作ったフェイクの都市伝説なんですよ」


 客席から小さなどよめきが起こる。


「フェイクなんですか?」

 という乙葉に続いて、

「確かに最近、本当なのかフェイクなのかわからないのがかなり増えたなという印象はあります」

 アイドル中川も続いた。


「生成AIの性能が上がり、身近な存在になるにつれて、本物以上に本物らしい心霊写真や、説得力のある恐怖体験、都市伝説なんてのは明らかに増えてますね」

 

 そういう安達に司会者、原がため息をつきながら言う。

「それは一編集者としては由々しき事態ですね」

 

「うちの雑誌も100%真実を書いてるとは言えないです。

 具体的な数字は言及しませんが、一部はフェイク記事ですよ。

 でも読者に、そうなのかって、信じてもらえるような説得力のあるフェイクを作るために、実際にあった事件を調べたり、噂話を探したり、現地に実際に取材にも行ったりします。

 でも最近、どっかの誰かがAIで作ったフェイクの方が都市伝説として明らかに完成度が高いんですよね」


「そうですね」

 乙葉が頷く。

「海千山千という言葉がありますよね。

 海で千年、山で千年生きた蛇は龍になる。

 私はあの“年”を“念”に置き換えて考えることがあるんですが」


 出演者たちが顔を向ける。


「昔の怪談や民間伝承は、長い時間をかけて多くの人に語られました。

 恐れられ、信じられ、語り継がれた結果、一つの怪異として形を持って行ったんです。

 でも今は違います、SNSがある。

 一万人が一晩で同じ話を見て、同じ話を語る。

 千年分の念なんて、数日で集まってしまう」


「つまりフェイクでも怪異になると?」

 という才茂に対して乙葉は

「なる可能性はあります」


 才茂が続く。

「いやぁ、我々もそうですがオカルト肯定派の皆さんには厳しい時代になったと思いますよ。

 私も小説の資料集めにAI使うようになったんですが、存在しないところから存在しない資料を持ってくる時があるんですよ。

 私はその資料の信憑性を確認してから使ってますけどね、中にはそれを信じてソースのない資料を元に創作してる方もいらっしゃる。

 正直、ここまでフェイクが多くなってくると、オカルトとフェイクの境界線も曖昧になってきてるんじゃないですか?」


「これもフェイクだと思うんですが、最近ちょっと気になっている都市伝説があるんですよ」

 安達はそう言うと、テーブルの上に置かれたフリップをめくった。


あめがふる

つめたいあめが

おおきなおそらに

にじはみえるかな

おそとであそんだ

ろうふうふは

なかよしね


「私は勝手に『あつおにおろな』と呼んでるんですが、今ネットで話題になっているものです。

『意味が分かったら呪われる』なんて言われてましてね」


「呪われる、ですか」

 司会の原が苦笑する。


「はい。でも私はこれを見た時、真っ先に思いました。

 典型的な言葉遊びだな、と」


 それに才茂が食いついた。

「なるほど。つまり、縦読みとか暗号とか、そういう類のものだと」


「おそらくは」


「最近よくありますよね」


「ええ。意味深な文章を置いて、『意味が分かったら怖い』と煽る。ネットでは定番です」


 ここで乙葉を映す。

「乙葉さんはどう思われますか?」


「そうですね」

 乙葉はフリップを見つめた。


「確かに、言葉遊びです。

 ですが――」

 一拍。

「怪異というものは、案外そういうところから始まるんですよ」


 スタジオの空気がわずかに張り詰める。

 先ほどまで笑みを浮かべていた出演者たちも、自然と口を閉ざした。


「昔は百人の信仰があれば神が生まれると言われました。ですがこのSNS時代、百人ところか千人だって当たり前じゃないですか」


「それは、より強力な怪異が生まれるという事にも繋がりませんか?」


「そうですね、その可能性もあります。ただ、心配するほどじゃありません」


「そうなんですか?」


「ええ、現代の怪異は寿命が短いんです。

 一過性のブームで、昔の神を崇めるような信仰心もありませんし、そもそも昨日のトレンドを覚えている人なんて、ほとんどいませんから」


「一般的に怪異に対する手段って、封印するとか、供養する、鎮魂するというのが一般的ですよね」


「そうですね、それが一般的な方法だと思います。

 ただ、SNSの都市伝説から生まれた怪異は対処法が違うんですよ」


「そうなんですか?」


「炎上させるんです」


 あまりにも想像から外れた答えに、客席からは「えぇ?」みたいな笑いが起こり、司会者・原も「は?」と聞き返した。


「怪異は注目を食べて育ちます。

 だったら注目を食い尽くさせる、どうせネットの人間は三日で飽きますから」


 才茂が腕組みしながら頷いた。

「確かに⋯⋯人の噂は七十五日なんて昔は言ったようですけど、現代の飽きっぽい若者たちの間に七十五日間も存在し続ける噂話なんてないですよ」


   ◇


 裏路地にある、古びた八階建ての雑居ビル。

 一階には焼き鳥屋があり、昨夜の営業を終えた赤提灯が軒先で静かに揺れている。甘辛いタレと炭の残り香が、朝の路地にわずかに漂っていた。

 その二階に、『乙葉私立探偵事務所』はある。


『乙葉私立探偵事務所』


 その看板の下に書かれた小さな文字。

『怪音、異音の調査承ります』


「おはよー」


 半分眠たげな声とともに事務所へ入ってきたのは、艶のある黒髪を後ろでひとつに束ね、白いシャツの袖を無造作にまくった長身の女性――乙葉ゆずるである。

 

 ゆずるは入ってきて早々。

 自分の席につくと、そのまま机に突っ伏した。


「ゆずるさん、昨日はお疲れさまでした」

 助手の白鞘(はくそう)莉里葉(りりは)が、事務所机の上にうなだれる乙葉ゆずるの前に、湯気が立ちのぼるコーヒーカップを差し出した。

 やさしいコーヒーの香りが、ゆずるの脳を覚醒させていく。


「やっぱり慣れない仕事は受けるものじゃないわね。

 しかも生放送で討論会なんて、狂ってるとしか言いようがないわ。普通収録でやるでしょ。

 おかげでとても眠いわ」


 コーヒーカップに口をつける。

 その様子を見ていた莉里葉。


「どうですか?いつものブレンドのブラジルをコロンビアに変えてみたんです」


 少し首をかしげ、ゆずるは

「香りはこっちの方が良いけど、味はいつもの方が好きね。いつもの通りエチオピアとブラジルとグアテマラのブレンドに戻してちょうだい」

 と言った。


「わかりました、明日からブレンド元に戻しますね」

 そう言いながら莉里葉はテレビの電源を入れ、新聞をゆずるの前に差し出す。


 テレビでは、ちょうど朝の連続ドラマが終わり、二人組のお笑い芸人が、おはようございますと挨拶をしたところだ。


「な〜っ」

 おもむろに鳴いたのは、その様子を書類棚の上から見ていた、黒ぶちのデブ猫。

 ゆずるがどこからか拾ってきて、そのまま事務所に住み着いてしまった野良ネコである。ネコはおもむろに棚の上から降りてくると莉里葉の脚に擦り寄る。


「にゃんたさんもおはようございます。ご飯ですね」

 莉里葉が餌皿にカリカリを入れた。

 それに勢いよくかぶりつくにゃんた。


 まるでカリカリが敵と言わんばかりである。


「そういえば、ネットで相談が一件来てますよ。

 放課後の音楽室で誰もいないはずなのにピアノが鳴るそうです。それが怖いから何とかしてって」


「誰から?警備会社かしら」

 怪訝そうな顔をしてそれに答えるゆずる。


「いえ、小学生の女の子です」


 それを聞いて、ゆずるの目元がピクッと反応した。


「今どき警備会社任せで当直もないっていうのに、誰が深夜の学校に入り込んでピアノの音を聞いたのかしら。

 どうせ友達の友達から聞いたパターンでしょ?

 夜ふかししないで早く寝て、って返しといて」


「それが、近々学校の行事で、体育館お泊りキャンプをするそうで。しおりの中に校内肝試しがあるそうです。

 去年のお泊りキャンプでも先輩が音を聞いたとかで、かなり怖がってるみたいで」


「それは重要案件ね。キャンプがいつあるのか聞いておいてね。

 もしかしたら前もって、校内の掃除をしないといけないかもだから」


「掃除って、ヤンキー的なあれですか?

 深夜の学校に殴り込む⋯⋯」


「違うわよ、ちゃんと納得して成仏してもらうわ」


 コーヒーをすする。


「えーっ、いつもやってることって成仏ってよりは屈伏させるって感じじゃないですか。

 この前だって、ベートーヴェンの胸ぐら掴んで顔面にパンチ食らわせてませんでしたか?」


「あれはあのジジィがセクハラかましてきたのが悪いのよ。だいたい、音楽室の霊と来たら十中八九、肖像画に取り憑いた低級霊よ?

 そんな性悪ザコどもに、せっかくの楽しい思い出邪魔させたくないじゃない」


「ゆずるさんって、子供にはやさしいんですよね」


「そう、特に女子にはね」


 莉里葉がため息。

「また問題発言ですね」


「何よ」


「期待しても、百合の花なんて咲きませんよ」


「安心しなさい、私の守備範囲はもっと年上よ」


「でしょうね……」


「もちろんその中にあんたも入ってるから」


「うわぁ……」


「その反応は傷つくわね」


「セクハラで訴えますよ」


 その間にも、掃除機をかけたり、書類を整理したり、せこせこと動き回る莉里葉。

 その様子を見ながらゆずるは新聞を開いた。


「ところで今日の予定はどうなってたかしら」


 観葉植物に水をあげながら莉里葉が答える。

「アパートの異音調査と、迷子の猫探し、あと浮気調査が一件ですね」


「浮気調査は、依頼書いつものとおり七階のポストの

中に入れといて」


「わかりました。

 あとご実家から顔を出すように言われていますが」


「それはパス。どうせ早く結婚しろって話でしょ?

 いやよ私、男と結婚するなんて」

 明らかに顔をしかめるゆずる。


「ですが今のご当主は一応ゆずるさんです。

 先代への体裁というのもあるのですよ?」


「いいのよ、私が結婚しなくても、姉か妹がするでしょ。それともあなた、私と結婚する?」


「結構です。それに制度上無理じゃないですか」


「制度が変われば結婚してくれるのね?」


「しません」


「融通がきかないわね」


「あくまで私はお目付け役なんです。

 あとで先代様に責められる私の身にもなってください」


「別に頼んでないわよ」


「先代様から頼まれているんです」


「そう。じゃあ『そのうち帰る』って伝えといて」

 というゆずるに莉里葉は、

「先月も同じことを伝えました」


 少し考えてゆずるは

「じゃあ『近いうちに』って伝えといて」


 莉里葉は、はあっ⋯とこの日一番のため息をついた。


   ◇


 テレビでは、朝の情報番組が終わり、国会中継が始まった。今日も似たような議論が続くらしい。


「そういえば、さっき言ってたアパートの異音調査。

 時間の指定はあるの?」


「いえ、午後であればいつでも大丈夫だそうです」


にゃんたの餌皿とコーヒーカップを洗いながら莉里葉は答えた。


「じゃあ十四時に伺うって返事してちょうだい」


 少し考えたあと、時間の指定をするゆずる。


「わかりました。でも十四時って何かあるんですか?」


「ちょうどいい機会ね。あなたにも教えてあげるわ」


ゆずるは机の引き出しから白紙を取り出すと、大きな円を描いた。


「怪異が一番活発になる時間って知ってる?」


「丑三つ時……ですよね」


「そう。じゃあ、どうして丑三つ時なの?」


「……それは分かりません」


「昔の人にとって、時間と方角は別々じゃなかったの。」


円に東西南北を書き込み、さらに十二支を書き加える。


「子は北であり、真夜中。

 卯は東であり、日の出。

 午は南であり、真昼。

 酉は西であり、日暮れ。」


莉里葉が目を丸くした。


「時計と方位が同じなんですか?」


「ええ。そして、その境界には意味がある。

 丑の刻っていうのは午前一時から三時までの間。

 それを四分割したうちの三つ目だから丑の刻の三つ時ってことね」


指先が丑と寅の間をなぞる。


「北東は鬼門。

 つまり丑と寅にまたがる午前二時から四時ごろ。鬼門に対応する時間帯ね。だからここは怪異が最も活発になる。」


今度は反対側を指した。


「その反対にある南西は裏鬼門。

 未申の刻。午後二時から四時。」


「だから十四時に行くんですか。」


「ええ。そこが昼間で怪異の動きが最も活発になる時間。昼間だから安心なんて思ってる怪異ほど、この時間に尻尾を出すことがあるの。」


さらに西を指差す。


「そして酉、西は太陽が沈む方角。

 昼と夜が入れ替わる刻。

 これを逢魔時とも呼ぶ。

 鶏の鳴き声が昼と夜の境界を引くって聞いたことがない?」


「はい。」


 ゆずるは東と西の間に一本の線を描き入れた。


「これが東西を結ぶ卯酉線。

 乙葉家ではね、この線を鶏の声が作る霊的な境界とも考えるの」


「昼と夜の境界……ですか?」


 ゆずるは微笑んだ。


「だから酉の刻は、昼が終わり夜が始まる刻。

 人と怪異、現世と幽世、その境界が最も曖昧になる。それを昔の人は、逢魔時と呼んだのよ。」


「少し勉強しなさい」と、その紙を莉里葉に渡したゆずる。


「この考え方は陰陽道がベースになっていると私は考えているわ。

 でもね、陰陽道は中国から伝わった思想や学問が基になっていると言われるけれど、それだけじゃないのよ。

 日本にはもっと昔から、常世長鳴鳥のように、昼と夜の境界を守るという考え方があった。

 陰陽道は、それを取り込みながら日本独自のものになっていったんだと思うわ。」


 ゆずるは椅子から立ち上がると、大きく欠伸をしながら背伸びした。


「やっぱり午前中は休ませてちょうだい。

 昼食とったら異音調査に向かいましょう」


「わかりました」


 窓から差し込む日差しに「な〜っ」と、にゃんたがまた気の抜けた鳴き声を発した。


     ◇


 古びた木造アパートの前に、そこには少々不釣り合いなワインレッドの車が停まった。

 2021年式、光岡ビュート。

 運転席から白鞘莉里葉、助手席から乙葉ゆずるが降りる。


 二人がやってきたのは、築年数もかなり経っていると思われる二階建てのアパートだった。


 今回の依頼は異音調査。

 毎日、夜中になると聞こえてくるという。

 ギシ……ギシ……。

 壁や柱が軋むような音。


 それがしばらく続いたかと思えば、今度は、

 カン……カン……。

 どこか遠くで配管でも叩いているような音がする。


 管理会社へ問い合わせても、「建物が古いからでしょう」と言われるばかりで、まともに調査もしてもらえない。

 しかし、音は毎晩のように続く。


 とうとう痺れを切らした住人の一人が、ネットで見つけた『乙葉私立探偵事務所』へ調査を依頼してきたというわけだ。


「一応、管理会社の方も調査に立ち会うそうです。けど……まだ来てないみたいですね」

 車から降りた莉里葉が辺りを見回す。


「電話してみます」


「お願い」


 莉里葉が担当者へ電話をかけている間に、ゆずるは依頼人の部屋へ向かい、インターホンを押した。


「乙葉私立探偵事務所の者です。異音調査に伺いました」


 依頼人への挨拶を済ませて戻ってくると、莉里葉も電話を終えたところだった。


「あと五分ほどで来られるそうです。先に始めますか?」


「そうね」


 二人はビュートのトランクを開けた。


 まず取り出したのは、二枚の小さな看板。

『調査中 乙葉私立探偵事務所』

 車の前後、よく見える位置にそれぞれ置く。


 続いて莉里葉が二つのケースを取り出した。


 一つには指向性のパラボラ集音マイク。

 もう一つには、壁や床に直接当てて内部の音を拾うサウンドスコープが収められている。


「今日は出番ありますかね」


「ないに越したことはないわ」


 ゆずるはパラボラ集音マイクを手に、まず建物の周囲を歩き始めた。


 壁。

 軒下。

 給排水管。

 室外機。


 順番にマイクを向けていく。


「何か聞こえます?」


「今のところは何も」


 壁を軽く叩く。


 今度は外壁に手を触れながら、ゆっくり歩く。


「夜中に音がするからって、すぐ幽霊だ妖怪だって決めつけちゃ駄目よ」


「はい」


「古い建物なら温度変化で木材が収縮する。配管のウォーターハンマーや固体伝播音かもしれない。ネズミやハクビシンなんかが入り込んでる可能性だってある」


「怪異より先に科学を疑う、ですね」


「そういうこと。説明できるものまで怪異のせいにしてたら、ただのインチキ霊能者よ」


 そこでゆずるの足が止まった。

「……これね」


「何かありました?」

 莉里葉が駆け寄る。


 ゆずるが指差したのは、建物の基礎部分に設けられた床下換気口だった。そこを覆っているはずの金網が、片側だけ外れている。


「何か入り込んだ形跡がありますね」


「ありそうね」


 そこへ管理会社の担当者も到着した。

 依頼人と担当者の許可を得て、室内の調査へ移る。


 サウンドスコープを壁に当て、水を流してもらい、配管から伝わる音も確認する。

 天井裏に鼠などがいる形跡も探した。


 しかし、依頼人が訴えているような異音につながる原因は見つからない。


 最後にゆずるが目を向けたのは、キッチンに設けられた床下収納だった。


「ここ、開けてもいいですか?」

 収納ケースを持ち上げる。


 その下に現れた暗い空間から、湿った土と木材の匂いが上がってきた。


「私、下に入ってみるわ」


「気をつけてくださいね」


 懐中電灯を手に、ゆずるは床下へ身体を滑り込ませた。


 狭い。

 梁を避けながら這うように進む。


 懐中電灯の光が、地面を横切った。

 その時だった。


「……ん?」

 何かいる。


 光を向ける。

 小さな毛玉が、いくつも寄り集まっていた。


「猫……?」

 子猫だった。

 五匹。


 いや――。

 ゆずるの表情が曇った。

 二匹は、すでに動かなくなっている。


 残る三匹もひどく衰弱していた。

 そして、その子猫たちに寄り添うようにして――

 小さな鬼のようなものが座っていた。


 人間の子供よりもはるかに小さい。


 ゆずると目が合う。


「……家鳴りなんて珍しいわね。もう絶滅したかと思ったわ」


「なっ……!」

 小鬼が目を見開いた。


「あんた、オレっちのことが見えるのか?」


「見えるわよ」


 家鳴りは一瞬ゆずるを警戒したが、すぐに子猫へ目を落とした。

「……何日も母猫が戻ってこねぇんだ」


 その声から、先ほどまでの威勢が消える。


「見つけた時には、二匹はもう駄目だった。オレっちも食えるもの探してきたりしたんだけどよ……もう限界なんだ」


 痩せた子猫が、か細く鳴いた。


「こいつら、夜になると寂しいって泣くんだよ」

 家鳴りはゆずるを見上げた。


「頼む。こいつら助けてくれよ」


 ゆずるはしばらく家鳴りを見つめ、それから点検口の方へ振り返った。


「莉里葉!」


「はい!」


「床下に子猫がいるわ。生きてるのが三匹。保護するから、何か入れ物と包むものを用意して!」


「わかりました!」


 返事を聞いてから、ゆずるは再び家鳴りを見る。

「子猫は私が助けてあげる」


「本当か!」


「ただし――」

 ゆずるは家鳴りを指差した。


「あんたにも話があるわ。この近くに公園があったわよね。そこで待ってなさい」


「……オレっちに?」


「そうよ」


     ◇


 子猫を一匹ずつ抱え、床下から上がる。


 莉里葉が用意したタオルに包むと、三匹は小さく身体を寄せ合った。


「かなり弱ってますね……」


「すぐ病院へ連れていった方がいいわ」


 ゆずるは管理会社の担当者に、外で見つけた換気口を示した。


「異音の原因は、おそらく猫でしょうね。外の床下換気口の金網が外れていました。そこから入り込んだんだと思います」


「猫が……」


「金網は早めに直した方がいいですよ。猫だけとは限りません。別の動物が入り込む可能性もありますから」


 依頼人には、ただ一言。

「もう音はしません」

 それだけを伝えた。


 妖怪の話をする必要などない。


 異音は止まる。

 床下換気口は管理会社が修理する。

 それで依頼は解決である。


 管理会社へ必要な事項を引き継ぎ、二人は子猫を近くの動物病院へ運んだ。

 生き残った三匹は、そのまま病院で保護されることになった。


 助からなかった二匹も、そのまま床下へ置いていくことはしなかった。

 小さな身体を丁寧に包み、後ほど弔ってもらえるよう手配した。


 病院を出た頃には、太陽もだいぶ傾いていた。


「お母さん猫、どこ行っちゃったんでしょうね」

 莉里葉がぽつりと言う。


「育児放棄か、事故にでも遭ったか……」

 ゆずるはビュートのトランクへ機材を戻す。


「どちらにしても、あれだけ長く戻っていないなら、もう帰ってこないでしょうね」


「そうですか……」


 トランクを閉める。


「さて」

 ゆずるが振り返った。


「犯人さんとご対面しましょうか」


     ◇


 近くの小さな公園。

 夕方前の公園には人影も少ない。


 ベンチの端に、先ほどの小鬼――家鳴りがちょこんと腰掛けていた。


「待たせたわね」


「猫どもは?」


「三匹とも病院。まだ安心はできないけど、治療してもらってるわ」


「そうか……」


 家鳴りは、ほっとしたように肩を落とした。


「それで」

 ゆずるが腕を組む。


「あのアパートの音。あんたでしょ?」


「……半分はな」


「半分?」


「猫どもが鳴いても、誰も気づきゃしねぇ。だからオレっちが柱を鳴らしたり、配管を叩いたりしてた」


「誰かに気づいてもらうために?」


「そうだよ」

 家鳴りは鼻の下をこすった。


「でも、もう半分は……まあ、本能みてぇなもんだ」


「本能?」


「オレっちは家鳴りだぜ? 家に住み着いて、音を鳴らす怪だ。音を鳴らさねぇ家鳴りなんざ、何のためにいるんだよ」


「なるほどね」

 ゆずるは隣のベンチへ腰を下ろした。


 家鳴りはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと話し始めた。


「オレっちたちは、人間を怖がらせなきゃ消えちまう」

 その声は、床下で聞いたものよりずっと静かだった。


「ましてオレっちは家鳴りだ。マイナー妖怪もいいとこだ」

 古びたアパートを遠くに眺める。


「昔ならよ、柱をギシギシ鳴らしゃ『家鳴りが出た!』って大騒ぎになった。でも今はどうだ?」

 家鳴りは自嘲するように笑った。


「木造の家なんて減っちまった。マンションで音が鳴りゃ『配管かな』『建物が古いんじゃない?』で終わりだ」


 莉里葉が黙って聞いている。


「仮に誰かが気味悪がったって、『家鳴りだ』なんて言ってくれる奴はいねぇ。せいぜい、しわくちゃの婆さんが『そういや死んだ婆さんがそんな妖怪の話をしてたねぇ』って思い出すくらいさ」


「だからって、人を脅かしていい理由にはならないわ」

 ゆずるが静かに言った。


「分かってるよ……」

 家鳴りは俯く。


「でも、消えるのは怖ぇんだ」


 その言葉に、莉里葉がわずかに目を見開いた。


「それでもオレっちが今まで消えずにいられたのはな、大昔の絵師がおいらの姿を残してくれたからさ」


「絵師?」


「ああ。水墨画に、絵巻に、浮世絵に……家鳴りって名前ごとな。ああいう人たちが、オレっちを次の時代へ渡してくれたんだ」

 少しだけ誇らしそうに笑う。

 だが、それもすぐに消えた。


「それでも、もう長くはねぇ。もうすぐオレっちには、人を怖がらせる力すらなくなる」


「消えるのが怖い?」


「怖ぇよ」

 家鳴りは即答した。


「妖怪だって、死ぬのは怖ぇ」


 ゆずるはしばらく何も言わなかった。


 やがて、静かに口を開く。

「安心しなさい。あなたたちは忘れられても、完全には消えないわ」


「……なんでだよ」


「人間は物語を残す生き物だから」


 家鳴りが顔を上げる。


「むしろ大変なのは、今の怪異かもしれないわね」


「今の?」


「今の怪異は、生まれるのも早ければ、消えるのも早いの」


 ゆずるは空を見上げた。

「昔は一つの怪異が生まれるまでに、何世代もの人間が必要だった。噂が村から村へ伝わって、親から子へ、子から孫へ語り継がれて、少しずつ形を持っていった。

 でも今は違う。一晩で何万人が同じ噂を知ることだってある。

 その代わり――」


 ゆずるは指を一本立てた。


「明日には誰も覚えていない。

 今の人たちは、噂に飛びつく速さは昔よりずっと速い。でも、それ以上に飽きっぽいのよ。

 デジタルから生まれた怪異なんて……百年後には名前すら残っていないでしょうね」


「そうかい」


 家鳴りは、少し考えてから笑った。

「じゃあオレっちは、運が良かったのかもしれねぇな」


「そうね」


「何百年も、人間に覚えててもらえたんだからな」


 しばしの沈黙。

 その時、ゆずるが何かを思い出したように家鳴りを見る。


「そういえばあんた、子猫が寂しいって泣いてるって言ってたわよね」


「ああ」


「もしかして、猫と話せる?」


「猫だけじゃねぇぞ」

 家鳴りが胸を張る。


「カラスも、鼠も、雀も話せるぜ。昔ぁ人間より、あいつらといる時間の方が長かったからな」


 ゆずるの目が光った。


「決まりね」


「何が?」


「あんた、うちに来なさい」


「……へ?」


「新しい住処と食事を用意してあげる」


「いや、ちょっと待て。なんでそうなる」


「うち、探偵事務所なのよ」


「知るかよ」


「猫探しだけじゃなく、カラスや鼠から情報を集められるなら便利じゃない」


「オレっちを何だと思ってんだ!」


「優秀な調査員候補」


「妖怪だよ!」


 横で聞いていた莉里葉が、また一つ大きなため息をついた。


     ◇

 

「すっかり遅くなっちゃいましたね」


 帰り道。

 ワインレッドのビュートが、街灯の並ぶ夜の街を走っていた。


「でも、莉里葉おすすめのラーメン屋さん、美味しかったわ」


「ですよね。あそこの醤油ラーメン、私好きなんです

よ」


 後部座席では家鳴りが、途中のコンビニで買った黒豆煎餅を一枚、パリパリとかじっている。


「それ美味しい?」


「うめぇぞ。最近の煎餅は」


「気に入ったなら、事務所にも置いてありますよ」


「そいつぁいいな」

 どうやら新しい職場への不安は、もうないらしい。


 莉里葉がふと思い出したように言った。

「そういえば、この車って事故車だったんですよね?」


「そうよ」

 ゆずるは前を見たまま答える。


「運転してるとルームミラーに光る目が映るとか、誰もいないのに話しかけられるとか、ハンドルが勝手に動くとか。色々あったらしくてね。だから格安で譲ってもらったの」


「でも私、運転してても変なこと起こったことないんですけど」


「当然よ」


「え?」


「この車に取り憑いてたものは、私が車から引きずり下ろしたから」


「うわぁ……」

 莉里葉が嫌そうな顔をする。


「普通、事故車に取り憑いてるのって地縛霊みたいなものだから、祓うの難しいんじゃなかったでしたっけ?」


「別に祓ったわけじゃないもの」


「……はい?」


「引きずり下ろしただけ」


「その言い方が一番怖いですよ」


「今だって定期的にお供え物あげてるわよ」


「それは知りませんでした……」

 ゆずるは何も答えず、小さく笑った。


 車内に、しばらくエンジンとロードノイズだけが響く。


「なんか寂しいですね。ラジオでもつけますか?」

 莉里葉がカーステレオの電源を入れた。

 軽快なジングルが流れる。


『パーソナリティの、水萌奈々です! 皆さん、夜更かしは駄目ですよ〜!』


「あっ、水萌奈々さんですね。この声優さん好きなんですよ」

 莉里葉が嬉しそうにボリュームを少し上げた。

 ゆずるは助手席で目をつむりながら、何気なくその声を聞いていた。


     ◇


(SE:夜の静けさを連想させるBGMがふんわりと流れる)


「みなさん、こんばんは! 火曜日の夜、いかがお過ごしですか?

 さぁて、今夜も始まりました『ナナナイト』。

 パーソナリティの、水萌奈々です!皆さん、夜更かしは駄目ですよ〜って、このラジオこんな時間にやってる時点で、そんなこと言うなしって感じですよね」


(SE:パチパチパチ……というささやかな拍音)


「今週も私の秘密基地、ナナランドからお届けしていますよ〜。

そういえば、北海道の方では8月7日が七夕なんですって、知ってました?

忙しくて短冊書けなかったって人もまだチャンスがありますよ〜って、そんな北海道からもお便りもたくさん届いていて、本当に嬉しいです!」


(SE:BGMのボリュームが少しアップする)


「この番組は、忙しい日常にちょっとだけ、ゆる〜い時間をお届けするプログラム。今夜も30分間、私と一緒にゆる〜くお付き合いくださいね。

それでは今夜のオープニングナンバー、まずは私の最新シングル『七夕乙女』を聴いてください!」


(楽曲:『七夕乙女』/ 水萌奈々)


【CM明け】


(SE:静かで爽やかなジングルが鳴る)


「『ナナナイト』、お送りしているのは水萌奈々です。

ここからは、リスナーのみなさんからいただいたメッセージをご紹介するコーナー!」


(SE:ポストに手紙が投函されるような効果音)


「ラジオネーム『しろちゃん』さんからいただきました!

『ナナさま、こんばんは! もうすぐお盆ですね、1年で一番怪談が旬を迎える時期です。

わたしは怪談が大好きなんですが、ナナさまはどうですか?最近気になる怪談とかホラーとかありますか?

……というメッセージです。しろちゃんさん、ありがとうございます!」


「実は私、オカルト大好き人間なんですよ。

 コンビニの雑誌コーナーによくある怪しげなオカルト雑誌あるじゃないですか。

 ナナ、そういうのを見ると反射的にカゴに入れちゃいます」


(SE:スタッフの笑い声)


「あとはYouTubeのオカルト動画とか。

 このラジオ番組でも、たまに言うじゃないですか。

 おわかりいただけただろうか、って。

 あのフレーズが大好物でございます」


(SE:ピロロン♪ というメール受信音)


「おっと、ここでリアルタイムのメッセージも届いています。

ラジオネーム『麺in黒胡椒』さんから!

『ナナさま、こんばんは! 今週も夜更かしして聴いてます。最近ネットで話題になってるあつおにおろなって知ってますか?』

 って、知ってますよ〜。あつおにおろな。

 こないだオカルト討論会で安達さんが紹介してたやつですよね。って、そうなんです。わたくしナナも、あの番組のヘビーな視聴者でございます」


(SE:スタッフの笑い声)


「でも、これ不思議ですよね。文字でしか見たことなかったから、私も今、初めて声に出したかもしれない」


「あ・つ・お・に・お・ろ・な」


 一文字ずつ確かめるように、水萌奈々が読み上げる。


「なんかこうやって声にすると、妙に語呂がいいですね」


(SE:スタッフの声「確かに」)


「あつおにおろな。あつおにおろな……

 んー、ナナ的には、このイントネーションかな」


 もう一度、今度ははっきりとした抑揚をつけて口にする。


「あつおにおろな」


「はい、決定! 今日からこのイントネーションということで!」


(SE:スタッフの笑い声)


「勝手に決めちゃ駄目ですけどね。

 でも『意味が分かったら呪われる』って話なんですよね。私、まだ意味分かってないから大丈夫かな?」


(SE:スタッフ「たぶん」)


「たぶんって何! 怖い怖い!」


(SE:笑い声)


「もし私、来週この番組にいなかったら……」


 一瞬、声を低くする。


「――あつおにおろなの呪いです」


(SE:キャーッ!)


「なんちゃって!」


(SE:笑い声)


「はいはい、縁起でもないこと言うのやめましょう。皆さんも意味が分かっても、ナナには送ってこないでくださいね。絶対ですよ!」


「さてさて、番組ではまだまだ皆さんからのメッセージを大募集しています。

日常のちょっとしたハッピーな出来事や、お悩み相談、私へのふつうのお便りなど、何でも送ってくださいね!

 メールアドレスは、nana@nana-radio.com です。

番組の公式SNSでは、収録のオフショットや、私のつぶやきも更新中なので、ぜひ『#ナナナイト』でポストして、感想を教えてくださいね!」

 それでは、ここで一曲聴いてください。水萌奈々で『ミックスジュース』!」


     ◇


「……今の、ちょっと嫌ね」


助手席のゆずるがそっとつぶやいた。


「何がです?」


「あつおにおろなよ」


「ただ読んだだけじゃないですか」


「そうね……」


 莉里葉が赤信号で車を停める。


「ただの文字だったものに、声がついた」


「それって、まずいんですか?」

 莉里葉が首をかしげる。


「さあね」


 信号が青に変わる。

 莉里葉はアクセルに置いた足に力を入れた。


「嫌なことにならなければいいけど」


 ゆずるは、街灯の続く道路をまっすぐ見つめる。

 車内には、水萌奈々の歌声が流れている。

 ――ただの思い過ごしならいい。

 そう思いながら。


     ◇


 翌日。


 エレベーターが七階に到着し、軽い電子音とともに扉が開いた。


「こっちですよ」

 

 莉里葉に続いて、家鳴りがエレベーターを降りる。

 短い廊下の左右には、それぞれ一つずつドアがあった。


「右が私の家です。家鳴さんは左ですよ」


「お前、ここに住んでんのか?」


「はい。事務所が二階ですから、通勤時間ほぼゼロです」


「そりゃ楽でいいな」


 莉里葉は左側のドアの鍵を開けた。

「どうぞ」


「お邪魔しまーす……って、誰ん家だ?」


「皆さんの家です」


「皆さん?」

 家鳴りが怪訝そうな顔をしながら中へ入る。


 ごく普通の玄関。


 靴を脱いで短い廊下を抜けると、その先にはキッチンがあった。


 二LKの、ごく普通の住居である。


「リビングとキッチンは好きに使ってもいいですけど、ほかの部屋には入らないでくださいね」


「なんでだ?」


「倉庫と資料庫です。大事な物もけっこうありますから」


「へぇ」


「それと、皆さんにはこの部屋のセキュリティもお願いしてます。知らない人が入ってきたり、何かおかしなことがあったら教えてください」


「オレっちたち、警備員も兼ねてんのかよ」


「家賃無料、食事つきですよ?」


「……そう言われると文句言いづれぇな」


「あと、お茶とお煎餅も出ます」


「悪くねぇな」

 そう言った家鳴りの足が止まった。


「……なんだ、こりゃ」

 キッチンの奥、リビングの壁際に、巨大な日本家屋が建っていた。


 それも二階建ての曲家である。


 高さは二メートルほどもあるだろうか。

 古い時代の日本家屋をそのまま縮小したような、精巧な造りだった。


 瓦屋根に柱、梁、格子戸、障子。

 縁側まで作られており、室内を覗けば小さな畳まで敷き詰められている。


 無造作に置かれた盆栽も、縁側から見れば風情なのだろう。


 それは玩具と呼ぶには、あまりにも本格的だった。


「こちらが皆さんの家です」


「これが?」


「十分の一くらいの大きさです。大工さんだけじゃなくて、畳屋さんや建具屋さんにも、本職の方にお願いして作ってもらったそうですよ」


 家鳴りが近づき、まじまじと眺める。

「……ずいぶん金かかってそうだな」


「相当かかったみたいですよ。ゆずるさん、こういうところだけは妙に凝りますから」


 その時だった。


 すっ――。

 二階の窓の障子が開いた。


「おっ、新入りかい」


「うおっ!」


 窓からぬっと顔を出したのは、トカゲのような姿をした妖怪だった。


 家鳴りが目を丸くする。

「しょうけらじゃねぇか」


「そういうお前は家鳴りか」


「まだ残ってやがったのか」


「そりゃこっちの台詞だ。家鳴りなんざ、もう百年くらい見てねぇぞ」


「勝手に絶滅させんな!」


「似たようなもんだろ」


「お前に言われたかねぇよ!」


 二匹のやり取りを見ていた莉里葉が首をかしげる。

「お知り合いだったんですか?」


「いや」

「初対面だ」

 二匹が同時に答えた。


「……それでその会話なんですか?」


「見りゃ分かるだろ」

「見りゃ分かる」

 また声が重なった。


 莉里葉が苦笑する。

「まあ、仲良くやれそうでよかったです」


「誰がこいつと――」


「はーい」

 突然、低い女の声が頭上から聞こえた。


「うおっ!?」

 家鳴りが飛び退く。

 同時に、数枚の書類が天井付近からパラパラと落ちてきた。


 莉里葉は驚く様子もなく、それを拾い上げる。

「あっ、もう浮気調査終わったんですか? 早かったですね、隙間女さん」


「はーい」


「隙間女までいやがるのかよ……」


 家鳴りが天井を見回す。

 しかし、どこにも姿はない。

 よく目を凝らしてみれば、壁と天井のほんのわずかな隙間から、女の目だけがこちらを見つめていた。


「それと家鳴りさん。ゆずるさんから伝言があります」


「オレっちに?」


「はい」


 莉里葉がポケットからメモを取り出す。

「『働かざる者、食うべからず。食い物と茶と煎餅と酒は保証するから、その分働け』だそうです」


「本当かよ!」


「猫だけじゃなくて、カラスや鼠とも話せるんですよね?」


「言ったけどよ!」


「猫探しとか、人探しとか、情報収集とか。仕事はいろいろありますから」


「昨日そんな話してなかったじゃねぇか!」


「新しい住処と食事を用意する、とは言ってましたね」


「騙された!」


 二階の窓から、しょうけらが笑う。

「諦めろ。慣れりゃ悪くねぇぞ」


「お前、すっかり飼い慣らされてんな」


「仕事さえしてりゃ、酒も出る。

 俺たち妖かしにとって酒は命の水だからな」


「違いねぇ」


「はーい」


「お前は何に返事してんだ!」

 家鳴りが天井へ怒鳴る。


「あっ、まだ伝言に続きがありますよ」


「まだあんのかよ……」


 莉里葉がメモへ視線を戻す。

「『いくら騒いでも構わないけど、夜中に私の眠りを妨げたら、二度と朝日は見られないと思え』」


「…………」

 家鳴りの顔が引きつった。


 莉里葉が何気なく天井を指差した。

「あっ、上の八階がゆずるさんの居所なんで。気をつけてくださいね」


「マジかよ……」


「特に家鳴りさん、音を鳴らす妖怪ですから」


「オレっちの存在意義を全否定じゃねぇか!」


「昼間ならいいんじゃないですか?」


「そういう問題か!?」


「はーい」


「だからお前は何に返事してんだよ!」

 七階に、しょうけらの笑い声が響いた。


     ◇


「案内してきましたよ。仲良くやれそうです」


 二階の事務所へ戻った莉里葉がそう報告すると、新聞を読んでいたゆずるが顔も上げずに答えた。

「でしょうね。古典妖怪なんて、みんな知り合いみたいなものよ」


「そういえば、隙間女さんも古典妖怪なんですか?」


「古典も古典。隙間から覗く女や目なんて、怪談噺の定番よ。少なくとも江戸時代には、似たような怪異の話はもうあったわね」


「へぇ。私、もっと新しい都市伝説みたいなものだと思ってました」


 ゆずるは新聞を折り畳んだ。

「怪異なんてそんなものよ。時代が変われば名前も姿も変わる。昔の人が語ったものを、次の時代の人間が自分たちなりに語り直す。その繰り返し」


「じゃあ家鳴りさんやしょうけらさんみたいに、昔の名前のまま残っている方が珍しいんですか?」


「むしろ恵まれてる方でしょうね。絵師が姿を描いて、書物に名前が残って、何百年も後の人間が知ることができるんだから」


「なるほど……」

 莉里葉が自分の席についた。

「そう考えると、あの人たちって結構すごいんですね」


「本人たちに言ったら調子に乗るから黙ってなさい」


「はい」


 書類棚の上では、にゃんたが大きな欠伸をしている。

「な〜っ」


 今日も、いつもと変わらない一日が始まった。


     ◇


 その日は、本当に何も起こらなかった。


 午前中に電話が二件。


 一件は、天井裏から毎晩音がするという相談。

 詳しく聞けば、どう考えても鼠だったので害獣駆除業者を紹介した。


 もう一件は、亡くなった夫が夢に出てくるという老婦人からの相談だった。

 ゆずるはしばらく話を聞いたあと、

「怖い夢じゃないなら、たまには会いに来てくれたと思ってあげたら?」

 そう答えた。


 午後には莉里葉が書類を整理し、ゆずるはソファで本を読んでいた。


 にゃんたは相変わらず書類棚の上で寝ている。


 上の階からは、一度だけ、

 ギシッ。

 と何かが軋む音が聞こえた。

 

 ゆずるが天井を睨む。

 それきり音はしなくなった。


「聞こえてるじゃねぇか……」

 七階で家鳴りが呟いたことを、二人は知らない。


 夕方。


 莉里葉が仕事を終え、机の上を片付け始める。


「今日は何事もありませんでしたね」


「そうね」

 ゆずるはコーヒーカップを片手に、パソコンの画面を眺めていた。


「昨日、あつおにおろなに声がついたとか言うから、ちょっと心配してたんですよ」


「私もよ。でも、考えすぎだったみたいね」


「ですよね」

 莉里葉がほっとしたように笑った。


 ゆずるも小さく笑う。

「――それとも、嵐の前の静けさだったりして」


 莉里葉の手が止まった。

「冗談はやめてくださいよ、ゆずるさん」


「冗談よ」


 窓の外では、いつもと変わらない街の明かりが灯り始めていた。

 何事もなく、また一日が終わろうとしている。

 

    ◇


「なにこれ……」


 朝。

 事務所へやってきたゆずるは、パソコンの画面を前に固まっていた。


 問い合わせフォームの未読件数。

 百二十七件。

 しかも、今この瞬間にも数字が増えている。


「ゆずるさん、依頼が百件以上来てます。そのほとんどが『呪われた』って相談で……」


「は?」


 莉里葉が次々とメールを開いていく。

「交通事故に遭った。財布を落とした。恋人に振られた。会社をクビになった……すごいですね」


「何がすごいのよ」


「ほとんどの人が、『呪いの動画を見てから起きた』って書いてます」


「呪いの動画って何よ」


「分かりません。私も今――」


 その時、電話が鳴った。

「はい、乙葉私立探偵事務所です」

 莉里葉が受話器を取る。


「はい。はい、そうですが……少々お待ちください」

 受話器を手で塞ぎ、ゆずるを見る。

「ゆずるさん、安達さんという方からお電話です」


「安達……?」

 一瞬考える。

「ああ、編集長。いいわ、繋いで」


「はい」


 受話器を受け取る。

「お電話代わりました。乙葉です」


『先日はお世話になりました。月刊ウー編集長の安達です』


「これはどうも。こちらこそ番組ではお世話になりました。それで、本日はどのようなご用件で?」


『いえ、大変なことになってるんじゃないかと思いまして』


「大変なこと?」


『依頼が殺到して、大騒ぎになってるんじゃないですか?』


 ゆずるの表情が変わった。


「……何かご存じなんですか?」


『ということは、まだ動画は見てないんですね』

 受話器の向こうから、カチカチとマウスを操作する音が聞こえる。


『今、YouTubeのリンクをメールします。見てみてください。おそらく、それが騒ぎの原因です』


 直後。


 莉里葉のパソコンからメールの着信音が鳴った。


「来ました」

 二人で画面を覗き込む。


 送られてきたリンクを開いた。


     ◇


【閲覧注意】


意味が分かると呪われる詩がヤバすぎる……

不気味なBGMとともに、黒い画面へ白い文字が浮かび上がる。


 あめがふる

 つめたいあめが

 おおきなおそらに

 にじはみえるかな

 おそとであそんだ

 ろうふうふは

 なかよしね


――ザザッ。


突然、映像にノイズが走った。


『みなさんは、お気づきだろうか……』


画面が暗転する。

そして、詩の最初の文字だけが赤く浮かび上がった。


【縦読み】

 あ

 つ

 お

 に

 お

 ろ

 な


『――あつおにおろな』


その文字列の中央に、再生を示す「▷」のアイコンが表示された。

流れてきたのは、昨夜のラジオ番組『ナナナイト』。

水萌奈々の声だった。


『あつおにおろな』


『そして――』

ナレーターの声が低くなる。


『これを逆から再生すると……』


画面の「▷」が反転する。


「◁」


再生された音声がスローで巻き戻されていく。


『――の〜ろ〜い〜の〜う〜た〜』


キャーッ!

女性の悲鳴。

そして――


ドンッ!!


【チャンネル登録お願いします】


     ◇


「…………」

 莉里葉が何とも言えない顔で画面を見つめていた。

「いかにもって感じのオカルト動画ですね」


「まずい」


「え?」

 ゆずるの顔から、いつもの気怠そうな表情が消えていた。

「これは、まずいわ」


「そんなにですか?」


「昨夜の時点なら、まだよかった」


 ゆずるが動画を巻き戻す。

 再び、水萌奈々の声。

『あつおにおろな』

 そして逆再生。

『の〜ろ〜い〜の〜う〜た〜』


「昨日までのあつおにおろなは、ただの文字だった」

 ゆずるが画面を指差す。


「それを水萌奈々が読んだことで、『あつおにおろな』という文字列に共通の発音とイントネーションが生まれた」


「昨日言ってましたね。声がついたって」


「でも、まだそれだけだった」


 今度は逆再生部分を指す。

「誰かがそれを逆再生して、『のろいのうた』という意味を見つけた」


「あ……」


「文字に意味が生まれて、音が与えられた。そして今度は、その音そのものに意味が与えられた」


 莉里葉が画面へ視線を戻す。


 再生回数は、すでに数万回。

 コメント欄は猛烈な勢いで流れていた。


「でも、ただの言葉遊びですよね?」


「最初はね」

 ゆずるは椅子の背にもたれた。


「現代のヲタク崇拝って、一種の信仰に近いところがあるのよ」


「また問題になりそうなこと言ってますね」


「茶化さないで」

 ゆずるは検索画面を開く。


「YouTube、二十万人。Twipper、八万人。Inostagram、二万人……」


「水萌奈々さんのフォロワーですか?」


「そう」

 ゆずるは昨夜のラジオ音声が切り抜かれた動画を次々と開いていく。


「声優本人が発した言葉をファンが聞く。それを切り抜く。共有する。真似して読む。何度も再生する」


 そして、問い合わせフォームを指差した。


「さらに何か悪いことが起きれば、『あつおにおろなの呪いだ』と言い始める」


「でも、財布を落としたとか、恋人に振られたとか、そんなの普通に起きることじゃないですか」


「そうよ。たぶん、この相談のほとんどは呪いでも何でもない」


「じゃあ……」


「関係ないからこそ厄介なの」


 莉里葉が黙る。


「交通事故も、失恋も、財布を落とすのも、それ自体はただの偶然。でも人間が『あつおにおろなのせいだ』と思った瞬間、その不幸はあつおにおろなの物語に組み込まれる」


 ゆずるは昨日の討論会で使われた言葉を思い出すように呟いた。

「怪異は、人の念で形を持つ」


 画面の再生回数が、また一つ増えた。


「今この瞬間にも、何万人もの人間が『あつおにおろなは人を呪うものだ』って認識し始めてる」


「それって……」


「百人の信仰があれば、神が生まれる」

 ゆずるは画面を見つめた。

「昨日、番組で私が言ったことよ」


 莉里葉の顔から笑みが消えた。


「……何万人だったら、何が生まれるんですか?」


「知らないわよ」

 ゆずるは即答した。

 そして、小さく舌打ちする。


「だから、まずいって言ってるの」


     ◇


「怪異は昔から『音』で人を驚かせてきた」

 ゆずるは椅子に深く腰をかけ、腕を組んだ。


「姿なんて見えなくてもいい」


 指を一本立てる。

「足音」


 二本目。

「泣き声」


 三本目。

「ノック」


 そして四本目。

「歌」


 ゆずるは指を閉じる。


「聞こえた瞬間、人は想像を始める。誰もいない廊下から足音が聞こえたら、そこに誰かがいると思う。窓を叩く音がすれば、外に何かがいるんじゃないかと思う」


「見えないからこそ、想像するってことですか?」


「そう。人間は、分からないものを分からないままにはしておけないから」


 パソコンから、もう一度あの声が流れる。


『あつおにおろな』

 水萌奈々の声。


「だから怪異は、音を欲しがる」


 莉里葉は画面に表示された動画を見つめた。


「呪いの歌の怪異って、実は珍しいものじゃないのよ」


「そうなんですか?」


「奄美の徳之島には、呪いから身を守るための民謡『蟹口説』があるし、奄美大島の『かんつめ節』は、実在した女性の悲劇を歌ったもので、夜に歌うと本人の幽霊が現れるなんて話もある」


「歌そのものに、怪異が結びついてるんですね」


「そういうこと。わらべ歌だってそうよ。『かごめ歌』や『とおりゃんせ』には、子供の間引きだの処刑だの、怪異からのメッセージだの、いろんな怖い解釈や都市伝説がくっついてるでしょ」


「ああ、ありますね」


「陰陽師や祈祷師が場を清めたり、魔を退けたりするために唱える呪歌だって、広い意味では同じものと考えていい」


 ゆずるはコーヒーカップを手に取った。


「怪異は昔から『声』で受け継がれてきた。

 怪談。呪文。祝詞。わらべ歌」


 一口、コーヒーをすする。


「全部、音よ」


 莉里葉が何かを思い出したように手を叩いた。


「そういえば『千年呪い歌』って映画ありましたよね」


「丑三つ時に『かごめ歌』を聞いた若い女が、一人ずつ消えていくやつね」


「そう、それです。千年前に殺された女の悪霊の呪いで」


「創作だけど、発想そのものは同じよ。歌に怪異が宿り、それを聞いた者に何かが起こる。昔から繰り返し使われてきた怪談の形ね」


「じゃあ、あつおにおろなも……」


「そこなのよ」

 ゆずるがカップを置いた。


「この『あつおにおろな』は、少したちが悪い」

 パソコンには例の詩が表示されている。


 あめがふる

 つめたいあめが

 おおきなおそらに

 にじはみえるかな

 おそとであそんだ

 ろうふうふは

 なかよしね


「本当の意味を知った者は呪われる」


「今ネットで言われてるやつですね」


「ええ。でも、その『呪い』が何なのか、誰も知らない」


 ゆずるは画面をスクロールした。


 昨夜のラジオを切り抜いた動画。

 それをさらに編集したショート動画。

 逆再生した音声。

 速度を変えたもの。

 BGMをつけたもの。

 さらにそれを見た人間が、自分で「あつおにおろな」と読み上げた動画。


 似たようなものが、すでに大量に投稿されている。


「あの声優があつおにおろなの名を呼んでから、ラジオの切り抜きが拡散された。そこから音声化、逆再生、ショート動画。今じゃいろんな形のファイルがネット上に溢れてる」


「すごい勢いですね……」


「問題はここからよ」


 ゆずるが莉里葉を見る。


「誰かが、この都市伝説に後付けの設定をくっつけること」


「後付け?」


「例えば、『この歌は殺された子供が残した歌です』とか、『歌を聞いた異世界に迷い込みます』とか」


「ああ……ネットの考察でありそうですね」


「あるでしょうね。そして、その考察を一万人、十万人が見て、『なるほど、そういう怪異なのか』と納得する」

 ゆずるの表情が険しくなる。

「そうなれば、それは単なる考察じゃなくなる」


「……まさか」


「人間の認識が、あつおにおろなそのものを変える」


 莉里葉は黙り込んだ。


「今のあつおにおろなは、まだ形が定まっていないのよ。『意味を知れば呪われる』。分かっているのは、それだけ」


「呪われるっていっても、何が起きるのか分からない」


「そう」

 ゆずるが頷く。

「だから今なら、まだ間に合う」


「どうするんです?」


「生みの親を探す」


「この詩を最初に作った人ですか?」


「そう。誰が、何のためにこれを作ったのか。『呪われる』っていうのは、そもそもどういう意味だったのか。生みの親自身に語らせて、設定を確定させる」


「ああ。外野が好き勝手な設定をつける前に、公式設定を作っちゃうんですね」


「身も蓋もない言い方をすれば、そういうこと」


「じゃあ呪いの内容も、できるだけ軽くした方がいいですね」


「そうね」

 莉里葉が腕を組んで考える。

「財布を落とす、とか」


「それくらいなら上出来ね」


「タンスの角に足の小指をぶつける、とか」


「地味に嫌ね、それ」


「買ったばかりのアイスを開けた瞬間、棒から落とす」


「それは呪いだわ」


「でしょう?」


「でも――」

 ゆずるの表情から笑みが消えた。

「一つ、懸念してることがあるの」


「なんです?」


「今は『呪われる』って言葉だけが一人歩きしてる。その呪いが何なのか、誰も言及していない」


「さっき言ってましたね」


 ゆずるは指先で机を軽く叩いた。

「呪いと聞いて、財布を落とす程度のものを想像する人もいる。事故に遭うと思う人もいる。病気になると思う人もいる」

 そして、一拍。

「一週間後に死ぬ――そんな有名な映画の呪いを連想する人間だっているでしょうね」


 莉里葉の表情が固まった。

「……それ、まずくないですか?」


「まずいわよ。

 もし誰かがそれを動画にして……、

 十万人が見て、『あつおにおろなってそういう呪いなんだ』って信じたら」


「…………」


「昨日まで存在しなかったはずの設定が、本物になるかもしれない」


 事務所が静まり返る。

 聞こえてくるのは、パソコンの冷却ファンの音だけ。


 莉里葉が慌ててキーボードを引き寄せた。

「急いで生みの親を探しましょう」


「お願い」

 莉里葉が検索を始める。


 ゆずるも自分のスマートフォンを取り出した。

「……間に合えばいいけど」


   ◇


『はい、皆さんこんばんは。都市伝説研究家のもにもにです』


 画面の中で、いつもの挨拶とともに男が軽く頭を下げる。


『今回考察するのは――』


 画面が暗転する。

 不気味な効果音とともに、白い文字が浮かび上がった。


【のろいのうた――あつおにおろなの正体】


『いまネットで話題になっている都市伝説、あつおにおろなです』


 画面に例の詩が表示される。


 あめがふる

 つめたいあめが

 おおきなおそらに

 にじはみえるかな

 おそとであそんだ

 ろうふうふは

 なかよしね


『皆さん知ってるかと思いますが、もう一度、詩の方を確認してみましょう』


 一行ずつ、ゆっくりと読み上げていく。


『一見するとね、何も意味のない言葉遊びのようにも見えます』


 一拍。


『ですが――実はこの詩、本当に起こった悲劇を表してるんです』


 画面に最初の二行が大きく表示された。


【あめがふる】

【つめたいあめが】


『まず一行目からいきますよ。

 あめがふる。つめたいあめが。

 これはね、冬の雨に打たれて亡くなった子供の事件を暗示しているんですね』


 雨の降る夜道。

 傘も差さず、一人で立っている子供のイメージ画像が映し出される。


『なんで亡くなったことが分かるのか。それが次です』


【おおきなおそらに】

【にじはみえるかな】


『これは、亡くなった子供が天国へ行く描写だと考えられます』


 画面が切り替わる。


『そして、問題はこの次です』


【おそとであそんだ】


『これを文字どおり、外で遊んだと考えてはいけません』


 もにもにの声が少し低くなる。


『これはね、虐待によって家の外に出されたことを、子供自身は〝遊んでいた〟と表現しているんだと思います』


 そして最後。


【ろうふうふは】

【なかよしね】


『ここで急に詩のスタイルが変わるんですよ。

 それまで子供自身のことを語っていたのに、突然〝老夫婦〟という第三者が出てくる』


 画面に大きな疑問符が浮かんだ。


『この老夫婦とは誰なのか。

 私は、この子供の祖父母だと考えています。

 自分の息子夫婦が子供を虐待していることを知っていた。それでも止めることができなかった。あるいは知りながら、見て見ぬふりをした。

 そんな祖父母に対する――』


 一拍。


『〝おじいちゃんとおばあちゃんは仲良しだね〟という、子供からの皮肉なんじゃないでしょうか』


 画面が暗転した。


 雨音だけが流れる。


『もちろん、これは私個人の考察です』


 再び、もにもにが画面に映る。


『ですが私はね、これがこの詩に隠された本当の意味なんじゃないかと思っています。

 皆さんはどう思いますか?

 ぜひコメント欄で教えてください』


 明るいBGMへ切り替わる。


『今回の考察、面白いなと思ってくださった方は、いいねとチャンネル登録をお願いします。それでは、また次の動画でお会いしましょう』


     ◇


 そして――コメント欄。


【確かに!】

【自分もそう思いました!】

【鳥肌立った】

【これ知ったら呪われるって、子供が助けてって言ってるんじゃない?】

【祖父母じゃなくて保育士じゃない?】

【いや、「ろうふうふ」だから祖父母で合ってると思う】

【雨の日に子供が亡くなった事件、昔ニュースでなかったっけ?】

【この事件、○○県の未解決事件じゃない?】

【それ自分も思った】

【○○事件調べてみ。状況が似すぎてる】

【じゃあ、あつおにおろなって、その子の霊なの?】

【たぶんそう】

【意味が分かると呪われる=真相に気づいた人間のところに来るってこと?】

【怖っ】

【昨日これ見てから窓叩く音したんだけど】

【俺も】

【嘘つけw】

【でも雨の日に来るって設定ならありそう】

【設定じゃなくて本当にそうなんじゃない?】

【誰か検証して】


 誰かが考察する。

 誰かが同意する。

 誰かが否定する。

 誰かが新しい意味を付け加える。


 そしてまた、誰かがそれを拡散する。


 最初は、何の意味もなかった七行の詩。


 そこに――

 名前がついた。


 音がついた。


 呪いがついた。


 そして今、物語がついた。


     ◇


 それから数日が過ぎた。

 乙葉私立探偵事務所に届く依頼は、減るどころか増える一方だった。


「二百七十三……二百七十四……」

 莉里葉がメールボックスを更新するたび、未読の数字が増えていく。

「また来ました」


「もう数えなくていいわ」

 ゆずるは机いっぱいに広げた資料から顔も上げずに答えた。


 机の上には、印刷されたSNSの投稿や動画のスクリーンショット、古い怪異に関する資料が所狭しと並んでいる。


 電話も朝から鳴りっぱなしだった。


 交通事故に遭った。

 階段から落ちた。

 病気になった。

 仕事で失敗した。

 恋人と別れた。

 夜中に誰もいないはずの廊下から足音が聞こえた。

 窓を叩く音がする。

 子供の泣き声を聞いた。


 どこまでが偶然で、どこからが怪異なのか。

 もはや判別することすら難しくなっていた。


 ゆずるが顔を上げる。

「いいわ。この件が解決するまで事務所は休業」


「えっ?」


「新規の依頼は全部断って。今受けてる仕事も、急ぎじゃないものは事情を説明して延期してもらって」


「分かりました。でも……どうするんですか?」


「それを今考えてるの」

 ゆずるは苛立ったように髪をかき上げる。

「本家にも連絡した。同業者にも当たってもらってる。最初の書き込みまで遡ってるけど、転載、コピペ、スクショばっかり。出所が全然分からない」


その間にも、問い合わせフォームには次々と新しい依頼が届いていた。


「とにかく、早く生みの親を見つけないと……」

 ゆずるが資料をめくっていると、


「ゆずるさん」


「なに? 今忙しいの」


「その……」


「だから何よ」


 返事がない。

 ゆずるが顔を上げると、莉里葉がパソコンの画面を見たまま妙な顔をしていた。

「生みの親さんからの依頼……みたいなんですけど」


 ゆずるの手が止まった。


「……なんですって?」

 椅子を蹴るように立ち上がる。

 そのまま莉里葉の席へ駆け寄り、横からパソコンを覗き込んだ。


 問い合わせフォームから届いた一通のメール。


 件名には、

【助けてください】

 そう書かれていた。


 莉里葉が本文を読み上げる。


『昨日から、部室にずぶ濡れの子供の幽霊が出るようになりました』


 ゆずるの目が細くなる。


『最初は誰かの悪ふざけだと思っていました。でも、その子は鍵を閉めても部室の中に入ってきます』


 莉里葉の声が止まった。


「続けて」


「はい……」

 スクロールする。


『その子は、自分たちのことをパパ、ママと呼びます』


「…………」


『部室から逃げてもついてきます。家に帰っても、部員それぞれの後ろをついてきます』


 そして最後。

『自分たちが作ったものだということは分かっています。でも、こんなことになるなんて思っていませんでした。助けてください』


 差出人。

 ――○○大学民俗学研究サークル。


 ゆずるは画面を見つめたまま動かなかった。

「……見つけた」


「え?」


「生みの親よ」

 ゆずるは莉里葉の肩を軽く叩いた。


「すぐに返信して。今から行くって」


「今からですか?」


「今すぐよ」


 莉里葉が慌てて返信を打ち始める。

 ゆずるは机の上に広げていた資料をまとめると、立ち上がった。


「それと――にゃんたも一緒に行くわよ」


「な〜っ」

 書類棚の上から、なんともやる気のない鳴き声が返ってきた。


「ほら、行くわよ」


「な〜……」


 面倒くさそうに身体を起こしたにゃんたは、棚の上から飛び降りる。

 そのまま二人を待つこともなく、トコトコと事務所を出ていった。


 莉里葉がその後ろ姿を見送る。

「にゃんたさん、どうしたんですか?」


「万が一の保険よ」


「保険?」


「使わずに済むなら、それが一番いいわ」

 ゆずるはそれ以上説明しなかった。


     ◇


 ビュートが、大学へ向かって街中を走る。


 ハンドルを握る莉里葉の隣で、ゆずるは腕を組んだまま黙り込んでいた。

 いつもの気だるそうな様子はない。

 助手席の窓から流れていく景色にも目を向けず、何かを考え込んでいる。


「……そんなにまずいんですか?」


 莉里葉の問いに、ゆずるはゆっくり顔を上げた。

「メッセージ見たでしょ?」


「はい」


「部室から逃げてもついてくる。家に帰っても、部員それぞれの後ろについてくるって」


「それが何か?」


「一体の怪異が、同時に何人もの人間について回ってるのよ」


 莉里葉の表情が変わる。

「……分裂してる?」


「正確には分霊ね。本体から霊的な力を切り離して、複数の場所に自分の一部を存在させてる」


「そんなことができるんですか?」


「普通の低級怪異には無理よ」

 ゆずるは再び黙り込んだ。

「私が思ってたより、ずっと成長が早い」


 ラジオで声を得た。

 動画によって拡散された。

 誰かが意味を与えた。

 誰かが姿を与えた。

 そして、何万人もの人間が恐れた。


「それだけの力を持つようになったってことは……たぶん、知恵もつけてる」


「知恵?」


「ただ人間を怖がらせるだけの怪異じゃなくなってるかもしれない」

 ゆずるが小さく舌打ちした。

「まさかとは思うけど……」


「なんです?」


「自分の生みの親が誰なのか、分かってる?」


 莉里葉が思わず助手席を見る。

「あの学生さんたちが?」


「自分を生み出した人間。そして――」

 ゆずるの表情が険しくなる。

「自分を一番簡単に改変できる人間よ」


「…………」


「だから、あの子は部員たちを追いかけてるんじゃない?」


「自分を書き換えられないように?」


「それならまだいいわ」


「え?」


 ゆずるの表情が険しくなる。

「逆かもしれない」


「逆?」


「生みの親を殺すことで、自分の存在を確定させようとしてるのかも」


「……どういうことです?」


「作者がいなくなれば、もう正解を知っている人間はいなくなる」


 莉里葉の手が、ハンドルを握ったまま強張った。


「ネットに広まった噂だけが残る。それが事実になる」


「じゃあ……」


「あの子にとっては、生みの親が生きている限り、自分はまだ“作り話”なのよ」

 ゆずるが前を向いた。

「でも生みの親が死ねば――」


 一拍。


「怪談だけが残る⋯⋯莉里葉、少し急いで」


「わかりました」

 莉里葉がアクセルを踏み込む。


 後部座席では、連れてこられたにゃんたが丸くなって眠っていた。


「……あんたも、着いたら働いてもらうわよ」


「な〜……」


 寝言のような鳴き声だけが返ってきた。


     ◇


 ビュートが、大学の正門を抜けた。

 守衛所で来訪の手続きを済ませ、案内された駐車場へ車を停める。


 駐車スペースの脇には、一人の男子学生が立っていた。

 彼は車から降りたゆずるたちに気づくと、すぐに駆け寄ってくる。


「乙葉さんですか?」


「ええ。乙葉私立探偵事務所の乙葉です。こちらは助手の白鞘莉里葉」


「お待ちしていました。民俗学研究サークル部長の――です。案内します」


「その前にちょっと待って」

 ゆずるが後部座席のドアを開ける。

 シートの上には、にゃんたが丸くなっていた。


「にゃんたは車で待ってて」


「な〜」

 なんとも気のない返事。


「暑くないですか?」


「エアコンつけておくから大丈夫よ」


「な〜」


「じゃ、お願いね」

 ドアを閉める。


 その様子を見ていた部長が、不思議そうに首をかしげた。

「猫……ですか?」


「気にしないで。行きましょう」


     ◇


 案内されたのは、大学の学生棟だった。


 階段を上がり、廊下の奥へ進む。

 部長が一つの扉の前で足を止めた。


【民俗学研究サークル】


「ここです」


 扉を開ける。

 部室の中には、すでに数人の学生が待っていた。


 机の上には民俗学や都市伝説に関する書籍、ノートパソコン、録音機材などが置かれている。


 壁には、日本各地の妖怪や都市伝説についてまとめた紙が何枚も貼られていた。


「まず確認させて」

 椅子に腰を下ろしたゆずるが、例の詩を印刷した紙を机へ置いた。


「あつおにおろなを作ったのは、あなたたちなのね?」


 学生たちが顔を見合わせる。

 やがて部長が頷いた。

「……はい」


「どうしてこんなものを?」


「研究の一環だったんです」


「研究?」


「卒業論文のテーマとして、『現代社会における都市伝説の伝播実験及びSNSでの拡散実験』というものをやっていました」


 ゆずるは黙って続きを促す。


「何もないところから都市伝説を一つ作って、それをネット上に投稿する。掲示板やSNSを通じて、どのように広がっていくのか。それと、伝わっていく過程で内容がどう変化するのかを調べようと思ったんです」


「なるほどね」


「それで作ったのが、この詩です」

 部長が紙を指差す。


「最初に縦読みで『あつおにおろな』になるように文章を作りました。意味はありません。本当にただの言葉遊びです」


「じゃあ、雨も、虹も、老夫婦も?」


「全部、縦読みを成立させるために入れただけです」


「虐待されて死んだ子供は?」


「そんな設定ありません!」

 部長は即座に否定した。


「○○県の未解決事件がモデルだって話も出回ってるけど」


「違います。あの事件のこと自体、ネットで話題になってから初めて知りました」


「『意味を知ったら呪われる』は?」


 学生たちが一瞬、気まずそうな顔をする。

「……それは僕たちです」


「でしょうね」

 ゆずるがため息をついた。


「ただ詩を投稿しただけでは誰も興味を持ってくれなかったので、誰かが『意味を知ったら呪われるらしい』って書き込んだらどうなるか試そうって」


「最初は、あまり話題にもならなかったんです」

 別の学生が口を開いた。


「何人かが転載してくれたり、縦読みを見つけてくれたりはしたんですけど……その程度でした」


「ところが?」


「先月のオカルト討論会で、安達さんに取り上げていただいて」

 部長の表情がわずかに明るくなる。


「正直、その時はみんなで喜びました。自分たちが作った都市伝説がテレビに出たって」


「研究成果としては大成功ですもんね」

 莉里葉が言う。


「はい。そう思ってました」

 部長の顔が曇る。


「水萌奈々さんがラジオで話題にしたのを境に、変なことが起こるようになるまでは」


 ゆずるの目が細くなった。

「具体的には?」


「最初は音です」


「音?」


「はい」


 部長が部室の窓を見る。

「夜になると、窓を叩く音がするようになりました」


「何階?」


「四階です」


 莉里葉が窓を見る。

 当然、窓の外に人が立てる場所などない。


「どんな音?」


「子供が……」

 部長が一度、唾を飲み込んだ。

「小さな子供が、手のひらで叩いているような音です」


 コン。

 コン。

 コン。


「最初は木の枝か何かだと思いました。でも、この窓の近くに木なんてありません」


「それから、声が聞こえるようになったんです」

 女子学生が続けた。


「なんて?」


「……さむい、って」

 部室の空気が変わった。


「それから?」


「『入れて』とか……『おうちに帰りたい』とか」


 ゆずるは何も言わない。


「そして昨日、初めて姿を見ました」


「どんな姿?」


「子供です」


「男の子? 女の子?」


「分かりません」

 学生が首を振る。


「髪も服も全部びしょ濡れで、顔もよく見えなくて……」


「その子が、あなたたちをパパ、ママと呼んだ?」


「はい」

 部長の声が震える。


「僕たちが逃げると、ついてくるんです。大学から出ても」


「家まで?」


「はい。でも家族には見えないみたいで……」

 別の学生が自分の腕を抱いた。


「昨夜、私が寝てたら……」


「何があったの?」


「ベッドの横に立ってました」

 沈黙。

「ずっと、『ママ、さむいよ』って」


 莉里葉が息を呑んだ。

 ゆずるだけは、表情を変えなかった。


「一つだけ確認するわ」

 机の上の詩を指で叩く。

「この詩に、モデルになった子供はいない」


「はい」


「虐待もない」


「ありません」


「雨の中で死んだ子供もいない」


「いません」


「老夫婦にも意味はない」


「ありません」


「そして、あつおにおろなという言葉そのものにも、本来は意味がなかった」


「……はい」


 ゆずるは大きく息を吐いた。

「分かった」


「何がです?」

 莉里葉が尋ねる。


「完全な後付けよ」

 ゆずるは例の詩を持ち上げた。


「この子たちが作ったのは、ただの言葉遊びだった」

 紙を机へ戻す。


「でもネットの人間が、名前に意味を与えた。声を与えた。呪いを与えた。死んだ子供という過去を与えた」


「それじゃ、今出てる子供って……」


「誰でもないわ」

 学生たちを見る。

「そんな子供、最初から存在していない」


 部長の顔が青ざめた。

「じゃあ……あれは何なんですか?」


「あなたたちが作った空っぽの器に、何万人もの人間が想像を流し込んで作り上げた怪異」


 ゆずるは静かに答えた。

「それが、今のあつおにおろなよ」


「じゃあ、どうして僕たちをパパとかママって……」


「あなたたちが生みの親だからでしょうね」


「でも、僕たちはあんな子供を作ったつもりなんて!」


「親の思いどおりに育つ子供ばかりじゃないでしょ」


「…………」


「まして、この子を育てたのはあなたたちじゃない」

 ゆずるがパソコンを指差した。


「ネットよ」


     ◇


 その時だった。


 ぽつり。

 窓ガラスに、一滴の水が落ちた。

 ぽつり。

 また一滴。

 やがて、それは無数の水滴となって窓を濡らし始める。


「……雨?」

 部長が窓の外を見た。


 つい先ほどまで青空が広がっていたはずの空が、いつの間にか薄暗い雲に覆われている。

 雨脚は見る間に強くなり、大学の校舎を白く煙らせていった。


「今日、一日晴れる予報でしたよね?」

 莉里葉の問いに、ゆずるは答えない。

 窓の外をじっと見つめている。


「ゆずるさん?」


「来たわ」


 コン。

 窓を叩く音がした。


 コン。

 コン。


 四階の窓。

 その向こうに――

 子供が立っていた。


「ひっ……!」

 学生の一人が悲鳴を上げる。


 髪も服もずぶ濡れだった。

 俯いているため顔はよく見えない。

 小さな手のひらが、もう一度窓を叩く。


 コン。

 コン。


『ごめんなさい』

 幼い声。

『さむいよ……』


 ゆずるは黙ったまま、その姿を観察する。


『中に入れて』

 コン。

『もうしないから』

 コン。

『パパ……』

 コン。

『ママ……』


 ゆっくりと顔が上がる。


『許して』


「下がって!」

 ゆずるの声が飛んだ。


 胸ポケットから数枚の札を抜き取り、宙へ放つ。

 札は意思を持つように部室を飛び、窓、扉、換気口へと張り付いた。


 一瞬、淡い光が走る。


「これでしばらくは入ってこられないわ」


「い、今のが……」


「ええ」

 ゆずるが窓を見る。

「あつおにおろな」


 子供が窓に手をついた。


『……なんで?』

 コン。

『なんでカーテン閉めたの?』

 コン。

『意地悪しないで』

 コン。

『中に入れてよ』

 コン。

 コン。

 コン。


 ゴン。


 音が変わった。

 ゆずるの眉が動く。


 ゴン。

 ゴン。


 子供の小さな手ではない。

 拳でも叩きつけているかのような、重い音。


 ゴン!


 窓ガラスが震えた。


「ちょっと……」

 ゆずるが目を細める。


 窓の外に立っていた子供の身体が、ゆっくりと伸び始めた。

 腕が伸びる。

 脚が伸びる。

 身体が膨れ上がる。

 ずぶ濡れの髪の下から覗いていた幼い顔が歪み、その口が耳元まで裂けていく。


 ゴン!

 ゴン!

 ゴン!


 窓いっぱいに、巨大な顔が迫った。


『パパ』

 裂けた口が開く。

『ママ』

 その口は、人間一人くらいなら丸ごと飲み込めそうなほど巨大だった。

『ゆるさない』


「……は?」

 ゆずるが呆気に取られる。

「なんでそんなことになるのよ!」


「ゆ、ゆずるさん!」


「なに!」


「もしかしたら、これのせいかも!」

 莉里葉がスマートフォンを差し出した。

「今検索したら、こんなのが……」


 画面に表示されていたのは、都市伝説やネット怪談を誰でも編集できる投稿サイトだった。


【現代怪異図鑑】

 その中に、すでに項目が作られている。


【あつおにおろな】


 ゆずるが読み上げる。

「親の虐待のために亡くなった子供の霊……」

 眉間にしわが寄る。

「自分を殺した親を探して復讐するため、現世を彷徨っている……」


 ゴン!

 窓ガラスが大きく揺れた。


「大きな体躯と巨大な口は――」

 ゆずるの顔が引きつった。

「親を飲み込むためのもの……?」


 ゴン!!


 札が貼られた窓に亀裂が走る。

 ゆずるはスマートフォンと、窓の向こうの化け物を交互に見た。


「…………」


 そして叫んだ。

「どこの馬鹿よ! そんな後付け設定考えたのは!」


「そこ怒るところなんですか!?」


「怒るわよ! さっきまでただのずぶ濡れの子供だったのよ!」


 ゴン!!


「現在進行形で設定が追加されてるじゃない!」

 莉里葉が画面をスクロールする。

「あっ……」


「今度は何!」


「最初は誰も見向きもしなかったサイトのリンクを、誰かがTwitterに上げたのがきっかけのようです。コメントの中でも反応の多かった考察を、サイトの編集者が拾って追記してるみたいで」


「公式が設定を逆輸入してるってこと?

 たちが悪いわね。すでに不特定多数が認識してる設定ってことでしょ」


「『非常に凶暴で、怒ると手がつけられない』ってコメントにイイネがたくさんついてます」


「削除しなさい!」


「私に言われても!」


 ゴン!!

 窓ガラスに、さらに亀裂が走った。


 ゆずるは額を押さえた。

「……最悪」


 そして、異形と化した怪異を睨みつける。

「こいつ、ネットで設定が書き加えられるたびに――」


 裂けた巨大な口が、にたりと笑った。


「その通りに育ってる」


 ゴン!!


 窓ガラスが大きく揺れた。

 貼りついていた札の一枚が、端から黒く焦げ始める。


「……あなたたち」

 ゆずるは窓の外を睨んだまま言った。

「SNSのフォロワー、何人?」


「え?」

 部長が目を丸くする。


「こんな時に何を――」


「いいから答えて!」


「じゅ、十九人です」

「僕は七十二人」

「三十五人です」

「……六十四人」


「…………」

 ゆずるは深いため息をついた。

「はあ、ダメだわ」


「ひどくないですか!?」

「そんなんじゃ真実を書き込んだって、炎上するまで何年かかるのよ。いや、永遠に炎上しないわね。そのうち誰にも読まれない過去スレの収納庫に入って終わりだわ」


「別にインフルエンサーになるためのサークルじゃないんで……」


「だったら、なんでネットで怪異なんか作ったのよ!」


「そんなことになるなんて思わないじゃないですか!」


 ゴン!!

 激しい衝撃。


 窓ガラスに走った亀裂が、さらに枝分かれする。

 貼りついていた札が一枚、燃え尽きた。


「ゆずるさん!」


「分かってる!」

 ゆずるは胸ポケットに手を突っ込む。


 数枚の札をまとめて抜き取ると、指先で扇状に広げた。

「急急如律令――!」

 腕を振る。


 札が宙を舞い、窓へ次々と張りついていく。

 淡い光が走り、亀裂の広がりが止まった。


 ゴン!

 ゴン!


 それでも、あつおにおろなは窓を叩き続ける。


『パパ』

 ゴン!

『ママ』

 ゴン!

『いれてよ』


「莉里葉!」


「はい!」


「月刊ウーの安達さんに連絡つけて!」


「安達さんに?」


「今聞いた話を全部伝えるの。あつおにおろなにモデルなんていない。虐待された子供なんて最初から存在しない。大学の研究で作られた、ただの言葉遊びだったって」


「あっ!」


「ウーの公式SNSでも記事でも何でもいい。とにかく大々的に取り上げてもらって!」


「分かりました!」

 莉里葉がスマートフォンを取り出す。


「これがフェイクだってことを、ネットにぶち撒ける」

 討論会で自分が口にした言葉を思い出す。


 ――怪異は注目を食べて育ちます。

 ――だったら注目を食い尽くさせる。

 ――炎上させるんです。


「自分で言ったんだから、実践してやろうじゃない」

 しかし――


 ゴン!!

 結界全体が揺れた。

 窓に貼りつけたばかりの札の一枚に、黒い染みが浮かぶ。


 じわり。

 じわり。


 墨を垂らしたような黒が、札を侵食していく。


 ゆずるの表情から余裕が消えた。

「……いや」


「え?」


「それでも、きっと間に合わない」


 月刊ウーが記事を作る。

 公式SNSで発信する。

 それが拡散される。

 人々が読み、真実を知る。

 そして今まで信じていた物語を否定する。


 そこまでに、どれだけ時間がかかるか⋯⋯。


 ゴン!!

 また一枚、札が弾け飛んだ。


「くっ……!」

 ゆずるは追加の札を取り出し、投げ放つ。


 窓。

 壁。

 扉。

 天井。


 次々と札が貼りつき、部室全体を覆っていく。


「とにかく連絡して! 一人でも多くの人間に真実を知らせるの!」


「はい!」


『ママ……』

 窓の向こうで、巨大な口が開いた。

『なんでいれてくれないの?』


 ゴン!!

 結界が軋む。


「……まずいわね」

 ゆずるは残った札を確認した。

 もう、それほど多くない。


「このままじゃ――」


 その時。

 莉里葉のスマートフォンが震えた。


「あっ、安達さんにつながりました!」


「貸して!」

 ゆずるが手を伸ばす。


 だが――


 ゴォン!!

 それまでとは比較にならない衝撃が、部室全体を揺らした。

 窓に貼られた札が一枚、また一枚と黒く染まっていく。


「ゆずるさん、これ……」


「分かってる」


 窓の向こうでは、もはや子供とは呼べない異形が、巨大な口を開けてこちらを覗き込んでいる。


『パパ……』

 ゴン!

『ママ……』

 ゴン!

『ゆるさない……』


「……一般的にね」

 ゆずるが新しい札を指に挟んだ。

「怪異が生まれる条件って、多くの人間に認知されることなの」


「こんな時に講義ですか!?」


「こんな時だからよ。よく聞いて」


 札を放つ。

 窓へ張りついた瞬間、淡い光が走った。


「噂話が広まるにつれて、怪異の形も少しずつ変化していく。誰かが語って、別の誰かが付け足して、それをまた別の誰かが信じる」


 ゆずるは窓の向こうの怪物を指差した。


「こいつが、まさにそうでしょう?」


 最初は、意味のない七行の詩だった。

 そこに名前がついた。

 呪いがついた。

 声がついた。

 悲劇的な過去がついた。


 そして今では、人間を丸呑みにする巨大な口まで与えられた。


「昔の神だって同じよ」


 ゴン!!


「山を恐れた人間が、山に神を見た」


 ゴン!!


「海を恐れた人間が、海に神を見た」


 ゆずるは異形を睨む。

「だったら――ネットを恐れた人間は、何を作ると思う?」


 誰も答えられなかった。


「昔、人間が大勢集まって何かを願うなら、祭りをした。祈祷をした。供物を捧げた。時には生贄まで捧げた。でも今は違う」


 ゆずるが莉里葉の持つスマートフォンを見る。


「炎上、拡散、晒し、集団叩き、トレンド入り。

 何万人、何十万人という人間が、同じものを見て、同じ言葉を口にして、同じ対象に意識を向ける」


 ゆずるは小さく息を吐いた。


「考えようによっては、それだって現代の集団儀式よ」


 学生たちが青ざめる。


「最初は、誰も呪われてなんかなかった」


 机の上に置かれた、あの七行の詩。


「でも、『呪われた』と言った人間が現れた」


 スマートフォンの中では、今も誰かがあつおにおろなについて書き込んでいる。


「そして、みんながそれを信じた」


 ゴン!!

 札が一枚、弾け飛んだ。


「だから――」


 ゆずるは窓の向こうを睨みつけた。


「あれが生まれた」


 異形が、巨大な口を開く。

『マァァァマァァァァ――!!』

 窓ガラスが激しく震えた。


「あれは、人間が作った神よ」


「神……」


「神様なんて呼べるような代物じゃないけどね」


 ゆずるは胸元へ手を入れた。


「それでも、人間の認識を糧に生まれたものなら、成り立ちは似たようなものよ」


 そして――


「……仕方ないわね」

 スマートフォンを取り出した。


「ゆずるさん?」


「あなたは安達さんに事情をに事情を話して。

 私は⋯⋯万が一の保険を使うわ」


 電話をかける。

 呼び出し音。

 一回。

 二回。


「にゃんた! 聞こえる!?」


『うるせぇにゃ。そんなにがならなくても聞こえてらぁ』


「…………」

 莉里葉の動きが止まった。

「……え?」


 電話の向こうから聞こえたのは、どう考えても人間の男の声だった。


「今すぐ大学の学生棟まで来て! トランクに装備が入ってるの。急いで!」


『猫扱いの酷いご主人だにゃ』


「いいから早く!」


『へいへい』

 電話の向こうで、あくびをするような声。

『いいぜ。あっしの走りはちょっと熱いがにゃ』


 一拍。


『途中で誰か轢き殺しても知らないぜ!』


 大学の駐車場のワインレッドのビュート。

 運転席にも助手席にも――誰もいない。

 その後部座席に寝そべっていた黒ぶちの猫が、ゆっくりと顔を上げた。


「ったく、人使い――いや、猫使いの荒いご主人だにゃ」


 金色の瞳が輝く。


 次の瞬間。

 カチャン。

 誰も触れていないドアロックが作動した。


 ヘッドライトが点灯する。

 メーター類に光が灯る。


 そして――


 ブルン!

 エンジンが目を覚ました。


「さて」

 にゃんたは後部座席で大きく伸びをする。

「久しぶりに走るかにゃ」


 アクセルを踏む者などいない。

 それでもエンジンが低く唸りを上げる。


 ギアが切り替わる。

 ハンドルがひとりでに回った。

 タイヤが悲鳴を上げる。


 キィィィィ――!


 ワインレッドの車体が駐車スペースから飛び出した。


 そして四輪から、

 ボッ――!

 青白い炎が噴き上がる。


 炎はタイヤを焼くことなく、車輪にまとわりつくように揺らめいていた。


 にゃんた。

 乙葉私立探偵事務所に住み着いた、ただの野良猫。


 ――ではない。


 はるか三百年の昔。

 江戸の町を騒がせ、人々から恐れられた古き猫の怪異。


 猫又にして――

 火車。


 かつて不覚にも交通事故に巻き込まれ、その魂は廃車寸前だった一台の車へと流れ着いた。


 その車こそが、乙葉ゆずるの愛車。

 ワインレッドのビュートだった。


 キィィィィ――!

 無人の車が大学構内を駆け抜ける。

 だが。


『ケケケ……』

『ヒヒ……』


 その行く手に、黒い影が現れた。


 一つ。

 二つ。

 五つ。

 十。


 あつおにおろなの放つ巨大な妖気に誘われ、周辺に潜んでいた低級怪異たちが集まり始めていた。


「ったく」

 にゃんたの耳がピクリと動く。

「どいつもこいつも、祭りだと思って集まってきやがって」


 車は速度を落とさない。

 むしろ――加速した。


「雑魚はどけっ!」


 ボンネットから炎が噴き上がる。

 その炎が形を変えた。

 耳。

 牙。

 巨大な二つの金色の瞳。


 燃え上がる巨大な猫の顔が、ワインレッドの車体に浮かび上がる。


「喰っちまうぞ!」


 ギャアアアア――!

 低級怪異たちが一斉に道を開けた。

 炎をまとったビュートが、その真ん中を突っ切っていく。


     ◇


 ビュートは学生棟の前で急停止した。

 四輪にまとわりついていた青白い炎が、地面を這うように揺らめく。


「着いたぜ」

 後部座席から、にゃんたが飛び降りた。

 目の前にあるのは、ごく普通の学生棟。


 だが――


「……こりゃまた」

 金色の瞳が細くなる。


 人間には見えない。

 建物全体を覆うように、薄い膜のようなものが張られていた。


 にゃんたが前足を伸ばす。


 触れた瞬間。

 バチッ!

「っと」

 青白い火花が散った。


「結界……いや、違うにゃ」


 もう一度、今度は爪を立てる。

 猫の前足から伸びた爪が、鋭い妖気を帯びる。


「ふんっ!」


 振り抜く。

 空間そのものを引き裂くような一撃。


 だが――


 ギィン!

「……硬ぇ」

 傷一つつかない。


 にゃんたは学生棟を見上げた。


 そこに建物はある。

 見えている。

 だが、ここにはない。


「完全に空間がズレてやがる」


 建物の周囲を歩きながら、鼻をひくつかせる。


「結界で閉じ込めてるんじゃねぇ。建物ごと別の位相にずらしやがったのか」


 いつの間にか二股に割れたにゃんたの尻尾が大きく揺れた。


「位相空間まで作り出す怪異なんざ、そうそういるもんじゃねぇぞ」


 つい数日前まで、名前すらなかった怪異。

 それが今では、人間の認識を喰らい、これほどの力を持つまでに成長している。


「ったく……」

 にゃんたが舌打ちする。

「ずいぶん大層な力を植え付けられたもんだにゃ」


 もう一度、爪を振るう。

 ギィン!

 やはり通らない。


「こりゃ、いくら外からやっても埒が明かねぇ」


 外と内。

 二つの空間は重なって見えているだけで、つながっていない。


「だったら――」

 にゃんたが耳を立てる。

「中から穴を開けるしかねぇにゃ」


 金色の瞳が妖しく輝いた。


     ◇


 その声は突然、部室に響いた。


『莉里葉!』


「えっ?」

 莉里葉が周囲を見回す。


『その中から異空断裂を斬れ! こっちからじゃ入れねぇ!』


 聞き覚えのない、低い男の声。

 だが――どこかで聞いたことがある。


「……もしかして」

 莉里葉の目が見開かれた。

「にゃんたさん?」


『話はあとにゃ』


 いつもの気の抜けた鳴き声ではない。

 低く、鋭い声だった。

『今、そこは外と完全に切り離されてるにゃ。

 こっちからいくら爪を立てても届かない。内側から裂け目を作るにゃ』


「そんなこと言われても……」

 莉里葉は何もない空間を見回した。

「どうやって……」


『斬るんだにゃ』


「無理です!」


 ゴン!!


 窓を覆う結界が激しく揺れた。

 札の一枚が黒く変色する。


 ゆずるがすぐさま最後の札を放った。


「莉里葉! にゃんたの言うとおりにして!」


「ゆずるさんまで!」


「早く!」


「だから――」

 莉里葉は叫んだ。

「私にはそんな力ありません!」


 一瞬。

 にゃんたの声が途絶えた。


 そして――


『……何言ってやがる』

 先ほどまでとは違う、静かな声だった。


『お前、白鞘だろうが』


「それが……何なんですか」


『鞘ってのはな』

 一拍。

『刀を収めるためにあるんだ』


「……え?」


『何のためにババアがお前をゆずるにつけたと思ってる』


 莉里葉は答えられない。


『監視するためじゃねぇ』


 ゴン!!

 また結界が揺れた。


『守るためだ』


 莉里葉の表情が変わった。


『乙葉が防人(さきもり)なら――』


 にゃんたの声が響く。


『白鞘は、それを守る為の刀だ』


「私が……」


『いつもそばにゆずるがいて、あっちがいて、他の妖かしどもまでいる。

 それだけの妖気に毎日晒されて、それでも何ともねぇと思ってたのか?』


「……え?」


『普通の人間なら、とっくに身体が悲鳴を上げてる』


 莉里葉の胸が、どくん、と鳴った。


『お前が平気だったのは――最初から、それに抗う力を持ってたからにゃ』


 にゃんたが自身の妖気を思念に乗せて莉里葉に叩き込んだ。


『いい加減、自分の中にある刀身に気づきやがれ!』


 莉里葉の胸が、どくん、と鳴った。

 同時に。

 右手に白い光が灯った。


「……なに、これ」


 指先から手首へ。

 手首から腕へ。

 淡い光が、脈を打つように流れていく。


「ゆずるさん……」


「落ち着いて」

 ゆずるが後ろから莉里葉の身体を支えた。


 震える右手に、自分の手をそっと重ねる。


「大丈夫。私がいるわ」


「でも……どうすれば……」


「目を閉じて」


「……はい」

 莉里葉は目を閉じた。


「呼吸して」

 ゆっくりと息を吸い、吐き出す。


「自分の中に、暖かいものがあるのが分かる?」


「暖かい……もの……」


「探さなくていい。感じるだけでいいの」

 莉里葉は意識を自分の内側へ向けた。


 どくん。

 心臓が鳴る。


 その奥。

 もっと深い場所。

 今まで一度も意識したことのなかった場所に――何かがある。


「……あります」


「うん」


「すごく……暖かい」


「それが、あなたの力よ」

 ゆずるの手が離れる。

「誰かに与えられたものじゃない。最初から、あなたの中にあったもの」


 白い光が強くなる。


「それを――外へ」


 莉里葉が右手を握ると、そこに光が集まり、指の間からあふれていた光が収束し、少しずつ形を持ち始める。


 柄。

 鍔。


 そして――刃。


 白い光が一本の短刀を形作った。


「これが……」

 莉里葉は呆然と、その刀身を見つめた。

「私の……刀」


『そうにゃ』

 にゃんたの声が聞こえる。

『それがお前の中に眠ってた刃にゃ』


 ゴン!!


 窓が大きく軋んだ。

 一枚。

 また一枚。

 札が黒く焼け落ちていく。


 残る札はあと一枚。


「莉里葉」

 ゆずるの声が変わった。

「前を見て」


「はい」


「何も見えなくていい」

 莉里葉は短刀を握りしめる。

「私たちと外を隔てている境界が、そこにある」


 何もない空間。

 だが――

「……分かる」

 莉里葉には、もう感じられた。


 空気の中にある、わずかな違和感。

 本来つながっているはずの空間を、無理やり引き離している何か。


 薄い膜のような境界。


『見えたにゃ?』


「はい」


『なら迷うな』

 にゃんたの声。

『白鞘の刃は――』

 莉里葉が短刀を構える。

『あらゆる障害を斬るための刃にゃ』


 息を吸う。

 足を踏み込む。


「――っ!」


 一閃。

 白刃が、虚空を走った。


 一瞬、何も起こらない。


 だが次の瞬間、莉里葉が斬った軌跡に沿って、一本の白い線が浮かび上がった。


 線はゆっくりと広がり――

 空間そのものに亀裂が走る。


 バキン――!


 巨大なガラスを打ち砕いたような音が、学生棟全体を震わせた。


     ◇


『上出来にゃ』


 莉里葉が斬った空間に、一本の亀裂が走る。


『よくやったにゃ、莉里葉。これで、あっちの爪もかけられる』


 次の瞬間。

 巨大な猫の爪が裂け目へ食い込んだ。


 メリメリと空間そのものが引き裂かれていく。


『ゆずる!』


 外から、にゃんたの声。


『仕事道具だ。受け取るにゃっ!』


 駐車場に停められたビュートのトランクが開いた。

 中から一つのトランクケースが浮かび上がり、そのまま勢いよく放たれる。

 空間の裂け目を抜け、飛び込んできたケースをゆずるが受け止めた。


 床へ置き、留め金を外す。

 中に収められていたのは、着物と羽織。


「緊急事態だから帯は省略するわ」


 それだけ言って、ゆずるは着物に袖を通した。

 腰紐を結ぶ。

 羽織をまとい、襟元を整える。


 それだけだった。

 武器らしい武器はない。


 莉里葉が不思議そうにその姿を見る。


「ゆずるさん、道具は?」


「もう持ってるわ」

 ゆずるは、自らの髪を束ねる紫色のリボンへ指を添え、そっと解いた。


 いつも身につけているもの。

 事務所でコーヒーを飲んでいる時も。

 依頼人の話を聞いている時も。

 街を歩いている時も。

 決して外すことのない、銀糸の縫い込まれた紫のリボン。


「乙葉家の当主はね、いつ何時、怪異と相対することになるか分からない」

 指先が銀糸をなぞる。

「だから常に身につけ、少しずつ霊力を蓄える」


 ――リン。


 澄んだ音が鳴った。

 風などない。

 それなのに、紫のリボンがふわりと宙へ舞い上がる。


 ――リン。


 もう一度。

 銀糸が淡い紫の光を帯びた。

 その周囲に、一つ、また一つと光の音符が浮かび上がる。


 莉里葉は息を呑んだ。

 いつも見ていたはずの紫のリボン。

 だが今、その意味を初めて知った。


 紫は、乙葉家当主の色。


 そしてこれは――代々の当主が怪異と対峙するために受け継いできた法具。


 ゆずるの表情が変わる。


 いつもの気怠げな私立探偵ではない。

 乙葉家三十五代当主――乙葉ゆずる。


「ここからは――」

 宙を舞う紫のリボンへ指を伸ばす。

「乙葉家としての、私の仕事よ」


 銀糸へ、そっと指を這わせた。


 リィィン――。


 澄んだ音が部室を満たす。

 窓の向こうで、あつおにおろなの巨体がわずかに震えた。


 ゆずるはそれを見据える。

「――乙葉は隠し名」


 リィン。

 もう一音。


「乙葉とは、音の刃」


 銀糸に縫い込まれた音符が、一つ、また一つと紫の光を放つ。


「古来よりこの国の裏で、呪歌の乱用を取り締まり――」


 紫の光が、ゆずるの周囲を巡り始める。


「音と“歌”より生まれし怪異を屠ってきた一族」


 空気が変わった。

 それまで部室を満たしていた、あつおにおろなの妖気が押し返されていく。


 巨大な口から、初めて怯えるような声が漏れた。

『……ママ……』


「怪異――あつおにおろな」

 ゆずるは静かに告げる。

「乙葉家三十五代当主、乙葉ゆずるが――」


 紫のリボンを両手の間に張る。


「音刃の名において、あなたを滅します」


 指先を銀糸へ添えた。


「乙葉流葬演術式――」

 そして、弦を爪弾くように振り抜く。

「鎮魂回帰――《紫の音》」


 ――ポロン。


 たった一音。

 まるで竪琴を爪弾いたような、透き通った音色だった。

 莉里葉には、美しい音にしか聞こえない。


 だが――


『ギ……ッ!?』


 窓の向こうで、あつおにおろなの巨体が大きくのけ反った。


 音が、怪異の中を駆け抜ける。

 肉体ではない。

 骨でもない。


 人々の噂と恐怖によって形作られた、その存在そのものを震わせる。


 ――ポロン。

 二音目。


『アァァァァァ――!』


 絶叫。

 巨大な身体が揺らぎ、その輪郭が一瞬、ずぶ濡れの子供の姿へ戻った。


「効いてる……」

 莉里葉が呟く。


 しかし――

 ゆずるの表情は険しいままだった。


 ――ポロン。

 三度目の音が響く。


 あつおにおろなの右腕が霧散した。


 だが、黒い靄が集まり、再び腕を形作っていく。


「……嘘でしょ」

 莉里葉が声を漏らした。

「ゆずるさんの術、効いてないんですか?」


「違う」

 ゆずるの額に汗が滲む。

「効いてるわ」


 紫のリボンに指を這わせる。

 ――ポロン。


 再び巨体が崩れる。

「効いてるから、これだけ削れてる」


「じゃあ、どうして……」


「外から補充されてるのよ」


「外?」


「今この瞬間にも、何万人もの人間がこいつの話をしてる」


 呪われた。

 怖い。

 あつおにおろな。

 呪いの歌。

 虐待された子供。

 親を喰らう怪物。


 誰かが語るたびに。

 誰かが信じるたびに。

 誰かが恐れるたびに。


 削り取られた怪異の身体が再び形を得ていく。


「私が戦ってる相手……こいつじゃない」

 ゆずるが苦笑した。

「ネットの向こうにいる何万人よ」


「そんなの……勝てるんですか?」


「さあね」

 再び銀糸へ指をかける。

「でも、安達さんが間に合わせてくれるまでは――」

 ゆずるの目が鋭くなる。

「一歩も通さない」


 ――ポロン。


    ◇


 その頃、ネット上に、一つの記事が投稿された。


【緊急検証】話題の「あつおにおろな」――その“本当の意味”が判明


投稿元:月刊ウー公式アカウント。


 現在ネット上で「虐待によって死亡した子供を題材にした呪いの詩」として拡散されている「あつおにおろな」について、編集部ではその出所を確認した。

 結論から言えば――』

 この話にモデルとなった事件は存在しない。

 この詩は○○大学民俗学研究サークルが、現代社会における都市伝説の伝播を研究する目的で創作したものである。

 そして――

 “意味が分かると呪われる”という設定さえ、当初の創作者によるものではない。


    ◇


「ゆずるさん!」

 莉里葉のスマートフォンが鳴った。

「安達さんです! 記事、出ました!」


「――間に合った」


 その瞬間だった。


『マ……マ……?』


 あつおにおろなの動きが止まった。

 巨大だった口が、わずかに歪む。

 身体を構成していた黒い靄が、少しずつ剥がれ始める。


「効いてる……?」


「違う」

 ゆずるは紫のリボンから指を離した。

「私じゃない」


 スマートフォンの画面では、記事の数字が猛烈な勢いで増えていた。


 リポスト。

 引用。

 コメント。


『やっぱ創作だったのか』

『大学の実験だったってマジ?』

『虐待事件とか言い出した奴誰だよ』

『釣られたわ』

『解散』


 そして――


『もう飽きた』


 あつおにおろなの身体が、大きく揺らいだ。


「人間ってのは」

 ゆずるが小さく笑う。

「本当に飽きるのが早いわね」


     ◇


「安達さん、助かりました。正直、危ないところでした」


『いえいえ。こちらとしても興味深い記事になりましたから』


「それでもです。あの記事があと少し遅かったら、どうなっていたか」


 受話器の向こうで、安達が小さく笑った。

『ですが完全に拡散、収束するまでは油断しないほうが良いでしょう。

 まあ、あなたのお役に立てたなら何よりですよ。』


 そして、少し間を置く。


『あの収録の時から、乙葉さんは本物だと思っていましたから』


「……収録?」


『ええ。最初の出演者紹介の時です』


 ゆずるの表情が変わる。


『あの時、スタジオに子供がいたでしょう』


「…………」


『誰もいないカメラの横に立っていた、男の子』


 ゆずるは黙った。


『音声さんは声だけ聞こえたみたいでしたが、あなたはあの子の方を見た』


「気づいてたんですか」


『あれで確信しました。この人はテレビ用の自称霊能者じゃない。本当に見えている人なんだって』


 電話の向こうで、安達が笑う。


『現代に生きる“本物”を手助けできた。オカルト雑誌の編集者として、こんなに嬉しいことはありませんよ』


「……そうですか」


『では。また何か面白い話があったら、ぜひうちに』


「取材費、ちゃんと払ってくださいね」


『ははは。もちろんです』


 通話が切れた。

 ゆずるはしばらく、スマートフォンを耳に当てたまま動かなかった。


「ゆずるさん?」


「……莉里葉」


「はい?」


「あの人、やっぱり食えないわ」


「何がです?」


「あの子の姿を知ってた」


「え?」


「音声さんは声しか聞いてない。それなのに安達さんは――」

 ゆずるはスマートフォンを見つめた。

「『男の子』って言った」


「……あ」

 ゆずるは小さく笑った。

「なんだ。あの人も、本物じゃない」


     ◇


「それで、あなたたち」

 ゆずるが民俗学研究サークルの面々を見回した。

「今回の実験、これで終わりにするつもり?」


「……当然です」

 部長がうなだれる。


「もう二度とやりません。まさか、本当に怪異が生まれるなんて……」

「そう」

「大学にも報告しないといけませんし、卒論どころじゃ――」


「もったいないわね」


「……え?」

 学生たちが顔を上げた。


「私、興味が湧いたわ」


「何にですか?」


「現代怪異の伝播速度」

 ゆずるは彼らのパソコンを指差した。

「昔なら何十年、何百年とかけて形作られていた怪異が、ネットでは数日で生まれた。しかも途中で他人の考察を取り込みながら、姿も性質も変化した」


 虐待された子供。

 呪いの歌。

 親を探す霊。

 人間を飲み込む巨大な口。


 どれ一つとして、最初の「あつおにおろな」にはなかったものだ。


「正直、これほどとは思ってなかった」


「でも、もう実験は……」


「誰がやめろって言ったの?」


「え?」


「今度は私の完全監修でやりましょう」


「……はい?」

 莉里葉まで振り返った。

「ちょっと待ってください、ゆずるさん」


「何よ」


「今、私たち死にかけたんですよ?」


「だからよ。今回何が危険だったのか分かったでしょう?」


 ゆずるは指を一本立てた。


「人の死を連想させない。呪い、祟り、死、病気みたいな設定を使わない。拡散範囲を制限する。異常が確認された時点で即座に実験を中止できるようにする。そして――」


 学生たちを見る。


「私が最初から監視する」


「それなら……」


「現代怪異が、どれくらいの人数に認知された段階で形を持つのか。文字だけの場合と、画像や音声を与えた場合で違いはあるのか。否定情報を流した場合、どの程度まで弱体化するのか」


 ゆずるの目が、少し楽しそうに細くなる。

「調べてみたいこと、いっぱいあるじゃない」


「ゆずるさん」


「何?」


「ものすごく楽しそうですね」


「そりゃそうよ」

 ゆずるは当然のように答えた。

「何百年も怪異を相手にしてきた一族でも、ネットから怪異が生まれる時代なんて初めてなんだから」


「……また面倒なことになったりしませんよね?」


「大丈夫よ、今度は私がいるもの。だから卒論に外部協力者としてうちの事務所の名前載せてちょうだい」


「…………」


「ゆずるさん?」


「まあ――」

 ゆずるは笑った。

「少しは事務所の宣伝になるでしょう」


   ◇


「それじゃ、車に取り憑いていたのって、にゃんたさんだったんですか?」


 夕暮れの街を、ワインレッドのビュートが走っていた。


「そうよ。だから事務所の高いところにお祀りしてるじゃない」


「……あ。確かに、いつも書類棚の上にいますけど」

 莉里葉はハンドルを握ったまま、助手席へちらりと目を向けた。


 ゆずるの膝の上では、にゃんたが丸くなっている。


「それじゃ、ゆずるさんが定期的にお供えしてるって言ってたのは……」


「あなたが毎日してくれてるじゃない」


「あのカリカリ……お供え物だったんですか?」


「毎日の供養、感謝してるにゃ」

 にゃんたは満足そうに目を細めた。


「普通にご飯だと思ってました……」


「同じようなものでしょ」


「同じなんですかね……」


 莉里葉は苦笑し、再び前を向いた。

 西の空には、沈みかけた太陽が浮かんでいる。

 赤みを増した夕日を浴び、ワインレッドの車体がいつもより鮮やかに輝いていた。


 しばらく走ったところで、莉里葉がふと口を開いた。


「あつおにおろなが生まれたのって、本当に偶然だったんでしょうか?」


「今回のこと?」


「はい」


 ゆずるは窓の外へ目を向けた。

「偶然よ。いくつもの偶然が、最悪の形で重なっただけ」


「本当ですか?」


「莉里葉。あなた最近、八尺様やくねくねを超えるような現代怪異って、何か聞いたことある?」


「……そう言われると、ないですね」


「でしょう?」

 ゆずるは、にゃんたの背中をゆっくりと撫でた。

「ネットが広まって、怪異が消費される速度も速くなりすぎたのよ。新しい都市伝説が生まれても、一瞬で全国へ広がって、すぐに考察される。矛盾を指摘される。ネタにされる。下手をすれば可愛いキャラクターにまでされちゃう」


「ああ……見たことあります。やたら可愛い八尺様のイラスト」


「得体の知れないものって、分からないから怖いのよ。八尺様やくねくねが怖かったのも、情報が断片的で、想像する余地が大きかったから」


「なるほど……」


「でも最近は、何でも説明しすぎるのよね。由来があって、能力があって、出現条件があって、対処法があって……」


「設定資料集みたいな都市伝説、ありますよね」


「そういうこと。分からないものを分からないまま怖がるには、今は情報が多すぎるのよ」


 莉里葉が少し考える。

「じゃあ、討論会で言ってた『現代怪異の対処法は炎上させること』って……」


「ええ。大勢の目に晒すの。

 炎上させて、みんなで考察して、ツッコんで、ネタにして……そうしているうちに、恐怖の対象だったものが娯楽になる」


「怖くなくなっちゃうんですね」


「怪異にとっては死活問題でしょうね」


「なんだか、ちょっと可哀想になってきました」


「古典妖怪だって同じよ。人を驚かせるのも、一筋縄じゃいかない時代になったのよ」


 信号が赤に変わった。

 ビュートがゆっくりと停止する。

 フロントガラスの向こうで、夕日が街を赤く染めていた。


「昔は、一つの怪異が生まれるまでに長い時間が必要だった」

 ゆずるが静かに続ける。

「噂が村から村へ、人から人へ伝わって、少しずつ形を変えながら何十年、何百年とかけて育っていった。でも今なら、一晩で何万人にも知られることができる」


「今回みたいに」


「そう。でも――」

 ゆずるは膝の上のにゃんたへ視線を落とした。

「一週間後には、誰も覚えていないかもしれない」


「…………」


「情報が増えれば増えるほど、人は一つの怪異に執着しなくなる。生まれるのは早くなったけど、忘れられるのも早くなった。怪異にとって、今は生きづらい時代なのかもしれないわね」


「八尺様やくねくねも、ネットでは有名ですけど、口裂け女や人面犬みたいな社会現象にはなりませんでしたものね」


「時代が違うのよ」

 ゆずるは小さく息を吐いた。

「それは、人間も同じ」


「人間も?」


「昔に比べて、異能が発現する人間はずいぶん減った。今も残っているのは、私たちみたいに代々その血と技を守ってきた一族くらい」


 莉里葉は、自分の右手を一瞬だけ見た。

 つい先ほど、その手に現れた白い刃。


「……私も、なんですね」


「そうみたいね」


「他人事みたいに言わないでください」


「だって白鞘のことは専門外だもの」


「もう……」

 莉里葉が苦笑する。

「でも、ゆずるさんはいるじゃないですか」


「私一人じゃ時代には勝てないわ」


「だから先代様は、後継ぎ後継ぎって言うんですね」


「……そういうこと」

 ゆずるは少し嫌そうな顔をした。


 信号は、まだ赤い。

 西の空へ沈んでいく太陽が、街の輪郭を赤く染めている。


「怪異も、人も、神様も……」

 ゆずるはその光景を眺めながら呟いた。

「この世界は少しずつ、“不思議”を必要としなくなってるのかもしれない」


「…………」


「だから逆に、ネットロアなんてものが生まれたのかもしれないわね。人間って、不思議を否定しながら、新しい不思議を作るのが好きだから」


 莉里葉は何も答えなかった。


 信号が青へ変わる。

 ビュートが再び走り出した。



 夕暮れ。

 昼と夜の境界。

 人と怪異。

 現世と幽世。


 その境が、ほんの少しだけ曖昧になる――逢魔時。


 そんな中を、三百年を生きた猫又を乗せたワインレッドの車が走っている。


「ところで、ご主人」

 不意に、にゃんたが口を開いた。


「何?」


「いつもカリカリばっかりじゃなくて、たまには生タイプの缶詰が食いたいにゃ」


「贅沢ね」


「まぐろ一〇〇パーセントのやつがいいにゃ」


「分かったわ。帰りに百円ショップ寄って」


「せめてコンビニのにしてくれにゃ」


「同じようなものでしょ」


「全然違うにゃ!」

 にゃんたがむくりと身体を起こした。

「三百年生きてきたあっちに、百円の猫缶食わせる気かにゃ!」


「三百年生きてるからって、猫缶の値段にこだわらなくてもいいでしょう」


「長生きしてるからこそ、食にはこだわりたいにゃ!」


 莉里葉が吹き出した。

「ふふっ……」


「何がおかしいにゃ」


「いえ。さっきまで、不思議が消えていくとか、そんな話してたのに」

 莉里葉は前を向いたまま笑う。

「うちには当分、関係なさそうだなって」


「そう?」


「だって今、三百歳の猫又がコンビニの猫缶を要求してるんですよ?」


「確かにね」


「まぐろ一〇〇パーセントにゃ!」


「はいはい」


 夕日に染まる街の中へ、三人を乗せたビュートが走っていく。


 昼が終わり、夜が始まる。


 世界がどれだけ変わっても。

 人々が、どれだけ不思議を忘れても。


 ――この世界にはまだ、不思議が生きている。


    ◇


 数日後。


 とある小学校。

 誰もいないはずの音楽室から、ピアノの音が聞こえていた。


 ポロン――。

 ポロン――。


「やっぱり鳴ってますね……」


 莉里葉が恐る恐る音楽室の扉を開ける。


 誰もいない。

 だが、ピアノの鍵盤だけがひとりでに沈んでいく。


「ゆずるさん……」


「いるわね」


「やっぱり幽霊ですか?」


「ええ」


 ゆずるは音楽室へ入ると、壁に並んだ音楽家たちの肖像画を見回した。


 バッハ。

 モーツァルト。

 ショパン。

 そして――ベートーヴェン。


「……またあんた?」


 肖像画の中のベートーヴェンが、にやりと笑った。


『久しいな、いい女』


「…………」


『相変わらず素晴らしい胸を――』


 ガシッ。

 肖像画から半身を乗り出したベートーヴェンの胸ぐらを、ゆずるが掴んだ。


「ゆずるさん?」


「莉里葉」


「はい?」


「ちょっと教育してくるわ」


「え?」


「歯ぁ食いしばれ、このエロジジィ!」


 ゴッ!!

 渾身の右ストレートが、ベートーヴェンの顔面に炸裂した。


『ぐぼぁっ!』


「やっぱり殴ってるじゃないですか!」


     ――了

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― 新着の感想 ―
ネット怪異の生成過程を段階的に描く視点が、現代のネット文化をリアルに反映していておもしろいと感じた。
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