感情の欠片⑦ ー短編集ならぬ断片集ー
彼女は笑った。
なんて事のないように、おかしいのは僕だと言うように。柔らかく爪を刺された時のような、鳩が豆鉄砲を食ったかのような、そんな顔を、僕はしていたと思う。
それほどまでに、彼女の笑顔とそこに広がる風景が、噛み合っていなかったから。それほどまでに、僕には受け入れ難い風景が、広がっていたから。
君が手を差しだした。
それは手を取って仕舞えば、そのまま花畑に行けてしまいそうだった。だけどそこは、土という薄皮一枚を挟んだ向こう側に、どろどろとしたマグマがあることを、僕は知っていた。肌で感じていた。
彼女を恐れてはならない。彼女を疑ってはならない。もし、その手を取るならば。
忠告ではない警告ではない予告でもない。さも当然の事実かのような顔をして、それは僕の脳内に響き渡った。
やまびこのような子だと、前に誰かが言っていたのを思い出した。その時は多分、ぼんやりしていると言う意味で、彼女はやまびこと形容されていたのだと思う。…だけどその言葉は、確かに核心をついていた。その時その場にいた僕たちは、まるで気づいていなかったけれど。
彼女は、確かにやまびこだった。だけどそれは、おうむ返しだったり木霊だったりの意味で、だ。
彼女が僕に歩み寄る。
その目は、妖しい何かに魅入られたかのような凄まじい色気を感じさせた。魔力のような、そのまま食べられてしまいそうな、そんな壮大な何かを、感じさせた。
彼女が僕の前に立つ。そして、うっとりするほど綺麗に、ぞっとするほど艶美に、僕の頬をその両手で包み込んだ。
ひやり、と僕の心が急激に冷えた。まるで、生々しい何かを心臓に押し当てられているみたいだ。息を呑むほど美しいのに、吐き気がするほどに醜い。
何が原因なのかも分からない。彼女の何をみて、僕は彼女に醜悪だという感想を抱いた?
しかし突然、ぶつりと彼女の中で何かが切れた。断ち切られるようにして、唐突に。
僕は思わず後ずさった。
僕は弱い。どうしようもなく、弱い。救いようのないぐらい愚図で鈍間。…そんなこと、僕が1番わかっている。
僕はハッとして彼女の瞳を覗き込む。彼女はずっと、僕の目を見ようとしていた。目を逸らしたのは僕だ。
改めて彼女の瞳をまじまじと見る。思えば、そんなこと初めてだった。そして、その目はどこまでも伽藍堂で、ただ無感情に貧相な僕を映していた。
…あの妖しい魅力もまた、やまびこだったのだ。
どうしてか、僕の心に急に愛おしさが込み上げた。他ならぬ彼女に対して。
そっと僕の頬に添えられた彼女の手の甲に触れる。
彼女は呆気に取られたように、目を大きく見開いた。こぼれ落ちそうな大きい瞳は、僕を捉えて離さない。
僕たちはただ手を取り合ったまま、そこに立ち尽くしていた。お互いの手を振り解くこともできずに、お互いから目を逸らすこともできずに。
そうする間にも地面はひび割れていく。何かの肉が焼けた匂いが、すっかりあたりに充満していた。何の肉かは考えたくもないし、今更考える気もない。
「大好きだよ」
僕は笑った。目を細めて。彼女の瞳に映った僕は
「うん、私も」
僕と同じ顔をして、彼女も笑った。
ー・ー・ー
髪は三つ編み。ふわふわとした癖っ毛を引っ詰めるようにして結い合わせる。
夢見がちな私を、現実に足をしっかりつけさせるように。執拗なぐらいしっかり、丁寧に。
朝食はトースト。本当はおばさんの作るドーナツが好きだけど、食べすぎてたら太ってしまうから。きっちり、常日頃から、気をつける。
愛犬はまだ寝ている。トト、と声をかけても耳をぴくりと動かしただけで、なんの反応もなかった。
皺の伸びたワイシャツを着てプリーツが綺麗についたスカートを履いて、私は今日も学校に行く。
ふと立ち止まると、机の上には3つのぬいぐるみ。藁とブリキとライオンのぬいぐるみだ。どれも手作りで、3つとも真ん中にエメラルド色のビーズで留められたポンチョを着ている。
私はその3つを順番に撫でていく。それと同時に、酷く懐かしい気持ちに駆られた。
…あれから2年。
たった2年だけれど、もう2年もすぎてしまった。
私の背は…あまり変わらなかったけど、トトはすっかり年老いた。多分私も、確実に歳をとっている。
…もうあの頃のように夢の世界に飛び込むことをただ願うこともなくなった。
私は鞄の蓋を閉じると、慌てて自室から玄関へと続く階段を駆け降りた。
私はもう履き慣れたローファーに足を通す。片手に持った鞄をぎゅっと握りしめると、左足の踵に右足の踵を、コツンとぶつけた。
コツン、コツン、コツン。合わせて3回。その間に、私は強く強く願った。
…もう一度、彼らに会いたい。
私はゆっくりと目を開ける。そこにはいつも通りの玄関で、後ろからやっと起きた愛犬が頭を擦り付けてくる。
分かってはいたことだ。あの冒険は、きっともう訪れることはない。あちらの人々に会えることもない。
思い出は消えないもの、と言い聞かせるように唱える。唱えるのをやめて仕舞えば、きっと寂しくて堪らなくなってしまうから。
くぅんと、トトが泣いた。
「トト…」
私は愛犬を抱き上げる。トトはあれからすっかり変わってしまって、今では立派に成年した犬だ。見たことのない街にはしゃいで走り出すこともなければ、無闇矢鱈にきゃんきゃん吠えることもなくなった。
「変わっていくのよね…あなたも、私も」
自分で言ったはずの言葉なのに、それは私の心へと染み渡った。温めるように強く、慈しむように優しく。
変わって行ってしまうのが怖くて、虹の向こうに手を伸ばした。でも私は、もうあの頃の世間知らずで好奇心に満ち溢れた子供ではなくなってしまった。
人は、変わる。動物も、変わる。…世界も、変わる。
変わらないものなんてないと、言葉でただ無機質に言われるよりも、こうして実感してしまう方がよっぽど辛い。だけどそれを知らないまま、周りが変わっていくのを頑なに拒むような子供のままでいるのはもっと辛い。
けれど、けれどそれ以上に…彼らに、優しくて気さくな彼らに会えないのは酷く、
「…」
悲しかった。
「早く行かないと遅刻するよー」
居間から顔も出さずにおばさんが叫ぶ。
そうだ、私は学校に行かなくてはいけないのだ。遅刻すれば怒られるし、勉強しなければ怒られる。それに、私の将来のためには勉強は欠かせないと、大人たちは言う。
トトをそっと玄関前のマットに降ろす。トトは数回足踏みをした後、その場に座って私を見上げた。
どこか伺うようなのにどこまでも純粋な瞳が私の目をまっすぐと捉える。
しっかりしなくては。私は小さく息を吐く。もうあの頃の私ではいられないし、もうあの頃の私でもない。
私は扉に手をかける。ぎゅっと力を入れて押すと、扉がゆっくりと開いていく。今日は快晴だ。眩しくて新しい光が、優しく私にあたる。
一歩足を踏み出す。その前に、私は両足のつま先とつま先を3回ぶつけた。確かめるように、コンコンコンと。もう大丈夫だと、しっかり私に言い聞かせるように。
しっかり編まれた三つ編みが、さわりと優しく風に靡いた。
「いってきます」
ー・ー・ー
雨が、降っていた。街はもうすっかり暗くなっていて、まばらに点滅する街灯が、墨色の空を少しだけ明るくしていた。
雫が、髪から落ちる。
手も足も、もう感覚なんてものはなく、ただ寒さを通り越して痺れたような感覚だけを雨に打たれるたびに感じる。
髪が濡れた。服も濡れた。だけどそこに立っていた。街灯の光に当たることもできず、ただそこに立っていた。
どこかの家の晩ごはんの匂いを隠すようにして、雨の、誰かのため息や思いや汚れが溶けた匂いが、あたりに漂っていた。
…それをたっぷりと浴びた私はどうなるのだろうか?
雨に打たれ続けたおかげで、もうすっかり体の全てが濡れていた。それに、濡れていないところなんてなかった。降った雨は果たして慈雨か豪雨か。私は綺麗になれるのだろうか。それとも、もっと汚れてしまうのだろうか。できるならこの心に溜まった汚れを全て押し流して、新しい私になりたいものだ。
アスファルトに雨が垂れる音に合わせるようにして、排水溝の穴を雨粒が伝って落ちるたびに、たぷりとした音が鳴っていた。
静寂ではないけれど、脳のノイズに近い音が脳みそを淡々と包み込む。ただそこにある汚いものに、目隠しの布をかけてしまうように。
だけど今は、その冷淡さが心地よかった。
音のないところに放り込まれるより、下手に柔らかいものを押し付けられるより、ただそこにある触れない何かが心地よかった。
雫が、目に入る。
それは、洗い流すというよりこの体の全てを雨にしてしまおうと言う何かのように思われた。…雨になれたら、雨になって排水溝やらなんやらに流れ出せたら、どんなにいいだろうか。
全身に鳥肌が立つ。纏っていた衣服の存在をさらに感じる。みじろぎもしていないのに、心臓の音がうるさくてうるさくて、思わず耳を塞ぎたくなった。もう、腕を動かすことすら億劫なのに。
…ああ、このまま倒れてしまいたい。
何かを気に留めることもしないで、自分の身すら気にしないで。ぐらぐらと体の揺れるまま、倒れてしまいたい。
腹が妙に膨らんでいて気持ち悪い。胃じゃなくて、下腹部。不思議に張ったそれは、腸のもっと奥底、得体の知れない何かがトグロを巻いている感覚がする。死体のように動かないのに、生きているように生温かい。
ここまで大きくなったのは、他ならぬ自分が温めていたからだと知る。ここまで我が物顔をするようになったのは、私が放置していたからだと、知る。
体の中に徐々に現れ始めたそれを、慈しむでもなく忌み嫌うのでもなく、ただ放置した。知らないフリをした。その結果がこれだ。
もう、何もかもが手遅れだった。徐々に細くなっていく道を、ただただ過信して歩を進めた。いや、何も考えていなかった。そこを歩くべきだと、最初に教えられたから歩いていたのだ。それを私に教えた人を、私はもう、覚えてすらないのに。
…一体今まで、何をしていたのだろう。
その問いに答えてくれる人はいない。私は答えを持ち合わせていない。そもそも、それに答えられうる答えを持っていたのなら、こんなことにはならなかった。
雫が、目から溢れた。




