勇気、グラッシアス!―(2)
「~~~~~!!」
彼女は声にならない叫び声を電車のホームで上げていた。
信じられない。
あんな事を言うだなんて。
今日は最悪。
彼に、検察官について訳も分からず捲くし立て、
挙句の果てにレストランで大声を出して、そして逃げてきてしまった。
一連の失態、いつもの冷静な彼女であれば、有り得ない。
何故こんなことをしてしまったのか。
自分の未熟さ?
自分の感情・・・
違う。
断じて違う。
それも、これも、あの人が全部悪い。
私は、だって、凄く悲しそうな顔をして、無理だ、駄目だ、なんて言うから、励ましただけ。
あんな言葉は待ってなんかいなかった。
今度は大きな溜息を付いた。
扉の開いた電車に乗り込む。
ドアよりに設置された長いすの、空いていた端の席に座り込む。
瞼を閉じると、その裏に映ったのは、あの笑顔。
キラキラ星のように輝く、あの屈託のない笑顔。
あの笑顔、良くない。
あんな笑顔、もう見たくない。
絶対に。
本当に体に悪い。
あの笑顔を見ると、一瞬だけだけど、心が熱くなって、それに、苦しくなる。
隣にある手すりにもたれ掛かった。
頭と肩を、そこに委ねる。
持て余すほどの嫌悪感に、彼女は苛まされた。
知っている。
見ないふりをしている彼女自身が、今どういう「病気」にかかりそうなのかを。
一度侵されると、そう簡単に、治らない。
彼女は頭を振り、何かを吐き出すかのように、大きくため息をついた。
これ以上思考回路を動かしたくはなかった。
動かしてはいけない気がした。
これ以上動かせば、もしかしたら、悪化してしまうかもしれない。
ずっと前に治った筈の。
「・・・ふぅ」
もう一度大きな溜息を口から零す。
車窓からは昼の都会の喧騒が映り出されていた。
「・・・ごめん」
「・・・言うことは、それだけ?」
ひどい雨だった。
日照りが続いていた日々に、突然振り出した雨。
頭の上で開く傘に叩きつけられる音が、耳障りだった事を、覚えている。
「・・・良いのよ、これで」
心とは裏腹に、次から次へと飛び出してくる言葉たち。
それは、彼を攻撃するためなのだろうか。
それとも、自分自身を守るためだったのだろうか。
「私も、貴方も。これが正解だったんじゃないかしら」
不思議と、涙は出てこない。
閉まった門の前、他に誰もいない、真っ暗な夜の中に、街灯の光だけが、彼らを包んでいた。
「本当にごめん。謝っても、謝り切れないけど・・・」
彼女は左手の薬指にしていた指輪を外し、目の前に立つ男のスーツのポケットに押し込んだ。
「もったいなかったわね、これ。彼女には・・・あげられないか、こんなもの」
口だけが、笑っていた。
雨脚が、どんどん強くなっていく。
「・・・さよなら。その人と、幸せにね。私に望めなかったもの、その人なら叶えてくれる」
彼女は一目散にその場を走り出した。
胸が苦しい。
走っているからなのか、それとも他の何かなのか。
前が良く見えなかった。
愛用の眼鏡のレンズが雨で濡れているからなのか、それとも、瞳自体が濡れているのか。
どっちでも、良かった。
どうだって、良かった。
ただ、頬は、雨と他の生温かい何かで、濡れていた。
その何かは、よく知っているもの。
気が付いてはいても、気が付いていない振りをしていたかった。
聞こえてくる筈の無い足音に、最後の期待を掛けて、駅へと向かった。
「次は、吉祥寺。お出口は・・・」
車内アナウンスで、はっと目が覚めた。
到着するまではまだ時間があったが、思わず急いでその席を立つ。
その瞬間、ズキ、と体のどこかに痛みが走った。
体のどこが痛んだのだろう。
首が、痛かった。
変な姿勢で寝ていたせいなんだろう。
あと、もう1つ。
昔できた古傷が、心の奥で、ずっと昔から上げ続けてきた悲鳴に共鳴していた。
彼女は立ち上がり、ドアの前に立った。
ガラスに映る自分の顔が、いつもより情けなくて、弱そうで。
あの日の自分は、あの日でサヨナラしたのに。
彼女は右手で頬に張られたガーゼを少しめくった。
青紫に腫れた頬が、ガラス越しに見える。
彼女はそれを、ドアが開くまで見つめていた。
「勇哉。おはよう!」
朝7時。
撮影現場はいつものように賑やかだった。
「鈴木勇哉様」と紙が張られた控え室に向かうと、
コーヒーと煙草を嗜みながら、台本を読んでいる青年が一人、いた。
「おう、おはようさん。
・・・あれ?何か妙に元気だな。さては、あの検事と何か?」
にやり、と鈴木の口が動く。
「えへへ。まぁ、ね」
彼の隣に座り込む。
「僕、変わったから」
突然の花岡の発言に、彼は吸っていた煙草の灰を落としそうになり、慌てて灰皿を手に持つ。
「何だよ、突然」
灰皿に灰が零れ落ちた。
それらがくゆらせる煙が、鼻の先をくすぐる。
「僕、川上さんの事、諦めないから!絶対に」
隣の部屋までに聞こえそうな大きな声で、花岡は言った。
「・・・川上・・・。あぁ、あの検事さんね」
彼が灰皿をテーブルの上に置き、煙草を持っていた手を変え、銜え直す。
「・・・で、彼女の電話番号とアドレスは?」




