1%の本音と、99%の後悔―(2)
「川上さん」
正午8分過ぎ、ガードマンが立つ出入口を出た瞬間、
彼女の3つ目の願いは木っ端微塵に打ち砕かれた。
「・・・花岡さん」
あぁ、やっぱり来ていた。
あれだけ来ないでって願ったのに。
顔だけ出して、直ぐに中に戻ってしまえば良かった。
「はい、これですよね」
飛鳥は渋々、黒い革の鞄から、黒く光るボディーの携帯を取り出した。
「あ、ありがとうございます」
彼女の手から携帯を受け取り、彼はそれを着ていたジャケットのポケットにしまった。
「それではこれで失礼します」
彼女は足早にその場を離れようとした、その時だった。
「あ、あの・・・。失礼ですが、・・・お昼、まだ・・・ですよね?」
彼の声が急いで彼女の背を追いかけて来る。
「・・・もし宜しければ、一緒にお昼でも・・・いかがですか?」
正直な彼女にとって、理由が無い以上、絶対に拒むことが出来ない、その文句。
「・・・え、あぁ、でも・・・」
嘘をつけば良い。
忙しい、これから裁判所へ行く、いくらでも断る嘘はあるのに。
こういう時に、彼女は自身の馬鹿正直さに腹を立てるのだった。
かくなる上は、彼女がとれる手段は1つ。
彼女は立ち止まり、出来る限り愛想の無い素振りを見せた。
無言によるプレッシャー。
それが、彼女なりの、精一杯の対抗手段。
「よかった。僕、良い所知ってるんですよ。この前、撮影で行った所で・・・」
しかし、彼はそんな彼女の様子を気にかける様子もなく、
いや、もしかして気が付いていないだけなのかもしれないが、
嬉しそうに彼女の隣に歩み寄る。
大きなため息が口から零れそうになったが、慌ててそれを飲み込んだ。
あぁ、やっぱり止めとくべきだった。
電話さえしなければ・・・。
後悔という名の津波に飲み込まれそうになっているのに、
それなのに、どうしてこうやって彼と一緒にいるのだろう。
ここから走って逃げて帰ってしまえば良い。
そうすれば、それで終わり。
もう2度と会う事はないだろう。
そう、そうなのに。
彼女は無視しようと思っていたもう一人の自分が、こう言っているのに気が付いていた。
会えなくなるのは、嫌だ、と。
・・・何故?
完全に溺れていないのは、この手に本音という浮き輪を掴んでいるから?
だから、私は必要以上に・・・。
――違う、違う、違う。
彼女は急いでその考えを打ち消すために、自らの右頬軽く2度叩いた。
「川上さん、どうされたんです?」
彼が彼女の顔を覗き込む。
「あ、何でも無いです」
彼女が慌てて答えた。
「・・・こういう風に隣に立ってみると、川上さんって、案外小柄でいらっしゃるんですね」
花岡が上から見下ろすようにして言った。
「身長、152cmしかありませんから」
「え、そうなんですか?もっと高い印象でした」
彼がにこ、と笑う。
まるで太陽のような眩しい光を放つように。
彼女は思わず目を細めた。
――素敵な笑顔。
感嘆のため息をつきそうになる。
そう彼女は思うと同時に、どこかでそれを怖いと感じていた。
笑顔は時に素顔を隠すからだ。
「ところで、検察官をされてどれくらいになるんですか」
「・・・今年で3年になります」
「そうですか。お仕事、大変じゃないですか」
彼にとっては、会話のつなぎでしかない質問だった。
「全く大変ではありません」
きっぱりと、彼女はそう言い放った。
突然の彼女の口調の変化に、彼は少し戸惑った。
「あ、そうですか。いや、あまり詳しくないので、
知識とか増やそうかなぁ、とか思ったり・・・」
先ほどまで少しうつむき加減だった彼女が、きっと彼に顔を向けた。
そこには、さっきとは違う、真剣そのものの表情が浮かんでいる。
そしてその視線は、彼の瞳をしっかり掴んでいた。
「検察官には、全ての刑事事件を捜査する権限、そして起訴という重大な権限を任されています。
いくら犯罪の嫌疑がかかっている被疑者、被告人であるとはいえ、
捜査をして起訴をするという事は、一歩間違えればその人の基本的人権を侵害しかねない、
いえ、侵害行為それ自体なのです。
しかし、私達は真実発見、社会正義の実現という任務故に、
このような強大な権限を任されています。
その権限を公平、適正に行使する為には、常に慎重で、且つ自分に厳しくなければならないのです。
まさしく秋霜烈日。
この言葉の示さんとする意味の通りです。
仕事が大変と言うのは怠慢であることの証拠です。
そういう者に検察官と名乗る資格は無いと私は思います」
何時の間にか、彼女は肩で息をしていた。
行き交う人々は、そんな彼女を不思議そうに見ている。
彼は黙って、彼女の話を聞いていた。
その時、彼の脳裏に思い出されたのは、あの日、電車で見た勇姿。
今も、その時と同じ、キラキラしている彼女がここにいる。
そして一言、呟いた。
「素晴らしいです」
いつの間にか、彼は両手でぱちぱちと拍手を送っていた。
その、「素敵」で輝くような笑顔で。
彼女はそんな彼の一言に、我に帰ったのか、
真っ赤になって耳を抑えながら下を向いて小走りを始めた。
「あ、川上さん。そちらでは・・・。おーい」
手に滅多にかかない軽い汗をかきながら、彼は彼女の歩調に合わせた。