運命の噛み合わせ。
「で、何でその女性を好きになったんだ?」
夜は更け、月の光が一番輝きを増す頃、二人は花岡のマンションの部屋にいた。
「うーん。別に、顔が好みとか、そういう訳じゃないんだよね・・・。
化粧っけは無いし、髪も僕と同じくらいの長さなんだ」
彼女の容姿を話している内に口が緩んできている花岡を尻目に、
鈴木は左手で持っていた缶ビールを口につけ、その中のビールを喉に流し込む。
「まぁ、お前は面食いじゃないのは知ってるよ。昔からそうだしな。
ただ、出会ったばかりの人を好きになるなんて、お前にしては珍しいな、て思ってさ」
花岡の手には、缶ボトルから注いだカクテルの入ったグラスが握られていた。
濃いオレンジ色に染まるグラスをじっと見つめる。
「何て言うのかな・・・。衝撃、だったんだよ。彼女の・・・」
痴漢を捕まえた時の彼女の顔。
そして電車から降りようとした時、手を離さないよう必死になっていた時の姿。
本当は自分も、痴漢の斜め後ろに立っていたから、痴漢の行為には、薄々気が付いていた。
でも、声をかける事は、なお躊躇われた。
自分の心の中であれこれ言い訳して、捕まえる勇気がなかった。
それなのに、あの人は、あの小さな体を捻じ曲げてでも、目の前の悪に、立ち向かっていた。
それは、彼に眩暈に似た何かを、感じさせた。
いや、何か硬いもので殴られたような衝撃、みたいなものだったかもしれない。
でも、どうやってこれを言葉にすれば良いのか、彼にはその術を見付ける事はできなかった。
そして、心臓が飛び跳ねる音。
自分でもこの感覚には経験がある。
これは、『恋』だ。
「また、会えば分かるよ。彼女の良さは」
彼は自然に生まれてくる笑いを隠すように、グラスを顔の前で傾け、その中身を飲み干した。
「・・・お前、相変わらず恋愛に関しては偏差値低いなぁ」
ビール缶をテーブルに置かれ、鈴木の手がおつまみの柿ピーへと伸ばされた。
「名前すら知らない人間に、どうもう一回会うって言うんだよ?」
「・・・あ」
今度は、その手があたりめへと伸びる。
「それに、彼女『秋霜烈日』なんだろ?
どう考えても、俺たちや周りに縁があるような人間じゃないよな。
もう絶望的だな。少しは勉強しろよな。
ったく、今まで俺がどれだけ女の子との関係を取り持ってやったんだよ・・・。
それなのにいつも・・・」
マヨネーズがたっぷりついたそれは、鈴木の口へと運ばれた。
「・・・あ~~~~~!!!!」
花岡は空っぽになったグラスをテーブルに乱暴に置いた後、額をテーブルに叩きつけた。
「おい、ビールこぼれたじゃねぇか。あ、それに柿ピーのカスが・・・」
鈴木が柿ピーカスを足で部屋の隅に蹴り寄せた事は、
その数日後、彼が部屋の掃除をする時に初めて気がつくのだった。
朝7時。
窓に吊るされた青色のカーテンの隙間から、
東の空から起き出した太陽の眩しさで目を覚ます。
・・・全く、付いてなさ過ぎる。
目を覚ました瞬間、昨日の記憶と自分の不甲斐無さを思い出し、
思わず呆れ、大きく溜息を付いてしまう。
ああいう女性を、探していたんだ。
自分の周りの同業者にはいない、ああいう、女性。
それなのに、それなのに・・・。
挙句の果てには勇哉に怒られる始末。
やれ、名前ぐらい聞け、やれ、それだからいつまでたっても彼女ができない、やら。
ブー、ブー。
枕元に目覚まし代わりに置いていた携帯電話のバイブレーションが部屋中に響く。
無視しようと布団をかぶるが、そのしぶとさに、彼はとうとう根を上げた。
「・・・もしもし?」
寝起き特有のゆっくりした低い声で、彼は答えた。
しかも今日はそこに不機嫌という要素が絡まり、余計に感じが悪い聞こえだった。
昨日、鈴木と自棄酒をして、朝の3時ごろまで飲み続けたのである。
それもこれも、あの痴漢のせいだ。
あいつがあんな事しなければ、僕は彼女に会わずに済んで、こんな気持ちにならずに・・・。
あぁ、でも、出会えたことを後悔したくもないような・・・。
微妙な気持ちと思い出したくない昨日の記憶が蘇ってきて、彼はかなりイライラしていた。
「もしもし、花岡さん。僕です。今日の午後の撮影はキャンセルになりました」
朝7時、それはマネージャーからの電話だった。
「・・・何で?」
不機嫌さがますます加速する。
「東京地検から電話がありまして、昨日の痴漢の件で任意の取調べがあるみたいです。
ですから、そちらの方に行って下さい。昼頃マンションにお迎えにあがりますから」
「・・・え?」
眠気が一気に吹っ飛んでいく。
「それ、誰からの電話でしたか?」
「え~と、女性だったと思います。確か・・・って、花岡さん?もしもし?もしもし?」
彼は先ほどまでベッドで丸まっていた人間とは思えないほどに急いで起き上がり、
支度を始めた。
念入りに顔を洗い、タンスの奥にしまってあった、
特別の時にしか着ないスーツを取り出し、
そして9時頃、彼は足早に近所の美容室へと走って行った。
「・・・花岡さん、地検に行くのに、どうしてそんなにしっかりした格好を?
それも髪型も綺麗にされているみたいですが・・・」
マネージャーが、メガネを片手で直しながら、当然の質問をする。
隣で新品の黒いスーツを着こなした秀麗な青年が答えた。
「当たり前じゃないですか!検察庁に行くんですから!」
「・・・でも、取調べだし、それに花岡さんはただの目撃者ですから・・・。
普段もこういう風にしてくれれば良いのに・・・」
最後のほうはマネージャーの愚痴で終わっていたが、彼は特に気にすることも無く、
鼻歌を歌いながら、目的地へと向かっていた。
「お待たせしました。花岡さん」
通された部屋で暫く待っていると、待ち望んでいた声が聞こえてきた。
振り向くと、そこには顔に大きなガーゼを張った、黒のパンツスーツの女性の姿があった。
「先日はお世話になりました」
そう彼女は言うと、机の上にネームプレートを置き、椅子に座った。
隣には、もう一人、彼女より比較的大柄の中年女性が座っていた。
「自己紹介が遅れました。
私は検事の川上飛鳥です。こちらは検察事務官の田邊さんです。
よろしくお願いします」
パソコンを前にした大柄な女性が頭を下げる。
彼もそれに応じて頭を下げた。
紺色のフレームに囲まれた眼鏡の奥に潜む瞳に、彼女の強さを再び感じる。
「いえ、こちらこそ。まさか、貴女が検事さんだなんて・・・」
「すみません。あの時きちんと申し上げなくて」
彼女の胸に、あの時見たピンバッジが光る。
中央部の円を囲むように突き刺さる霜。
『秋霜烈日』と呼ばれるそれは、検察官の象徴をも意味する。
そう、鈴木が教えてくれた。
彼はもう一度、あの時彼女が言った言葉を思い出した。
「秋霜烈日、まさにその通りですね」
「はい?」
何かの書類に目を通していた顔を、彼女が上げた。
「いえ、僕はあまり検察官のお仕事は詳しくありません。
しかし、川上さんを見てると、秋霜烈日の意味を実感します」
「・・・光栄です」
彼女はにこりともせず、自分の前にある書類を再び見るために視線を落とした。
彼はすこしそわそわしながら、もう一度彼女に問いを投げか掛ける。
「それで、今日は何の・・・?」
思わぬ再会の嬉しさで顔が緩みそうになるが、
仕事をする彼女の凛とした様子に、彼も背中を叩かれたような気がした。
背はかなり低いはず。
それなのに、どうしてこんなに大きく見えるんだろう、彼は不思議に感じた。
「説明が遅れました。
先日の痴漢の事件、逮捕に協力をしてくださったあなたの証言を調書に取っておき、
公判で証拠として提出させていただきたいのです。
その為、多忙だと思いますが、ご協力を、と思いまして」
短めの髪は、彼と同じ位、もしくは彼より短いだろうか。
しかし、前髪の長さは、彼女のほうが勝っていた。
「いえいえ!いつでも大丈夫です。俳優なんて仕事は、そんな忙しいものでは・・・」
こんな台詞、マネージャーが聞いたら怒られるな、そう彼は思った。
「それじゃ、始めますね。では一応確認ということで、お名前は・・・」
かちゃかちゃ、とキーボードが2度叩かれる音が聞こえた。
「・・・以上です。ありがとうございました」
気がつけば、既に夕方の5時になっていた。
「恐らくこれで貴方はもう私達に会わなくて済みますよ」
彼女がふふ、と笑い、何かを書き取っていた。
少し冷えた、しかしどこか寂しそうな笑い声だった。
「何で、そんな事をおっしゃるのですか?」
自分の名を署名し、押印し終わって、彼女にその調書を返す。
「はい?」
彼女が顔を上げた。
隣でパソコンを打っていた事務官も驚いたように、彼を見た。
そこには、冷静というものと、困惑が入り混じったものがあった。
「・・・僕はいつだって協力します。
川上さんに呼び出されれば、いつでも、仕事を放り投げてでも、協力しますから」
きょとん、とした様子で彼女は彼を見つめていた。
しかし、しばらくすると、彼女は少し表情を緩めて、言った。
「・・・花岡さん、貴方、面白い方ですね。
確かにあの女性が言っていたように、ひょうきんな所もあるのかしら」
「いや、ふざけてなんていません!」
彼は必死になり、自らのこぶしを振り上げて叫ぶように言った。
一方、彼女は冷静なまま、椅子に座り直した。
「普通の人はね、こういう事、嫌がられるんです。
時間は掛かるし、何のメリットにもならない。
だから、こう言えば、安心するかな、と思いましてね」
「何を言ってるんですか!貴方の仕事は凄いものですよ!
罪を罰する権力を任されているんでしょ?
そんな方に協力を要請されて、むしろ喜ぶべきですよ!」
彼女は呆気に取られたように、彼を見つめていたが、次第にその表情に笑顔が咲いた。
「そう言ってくださると、私たちも勇気付けられます。ね、田邊さん」
「えぇ。人気俳優っていばってたり性格が悪いと思っていましたけど、違うんですね」
中年の女性が、嬉しそうに言った。
「あら、人気だって知っていらしたのですか?」
意外だ、といわんばかりの表情で、田邊の方を見る。
「えぇ。娘が大ファンでしてね。
部屋中彼のポスター一杯で、掃除する度に会っていますから。
川上さんぐらいですよ。
花岡輝さんを知らなかったのは」
ははは、と部屋に笑いが響いた。
田邊と呼ばれた女性はパソコンの電源を切る準備をしていた。
「この事件の日、出勤された後、川上さん、私に聞いたんですよ。
『花岡輝って誰?』てね。
ここの支部の方、皆で驚いてしまって。
私、見ましたよ、映画。凄い感動しちゃった。あれ、上演延長なんでしょ?」
「えぇ。お蔭様で。ありがとうございます」
彼は軽く会釈した。
「あら、私も映画ぐらい見ますよ。ただ、最近は忙しかったから見てないだけです」
彼女が拗ねたように呟く。
その様子がまるで子供の様で、可愛らしく見えた。