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言わなかったこと

作者: 神代奈々
掲載日:2026/03/21


「おい。またお湯、沸きっぱなしだぞ」

「あ、ごめんごめん」

 里香は急いで、ケトルの火を止めた。


 俺はため息をついた。

 里香と一緒に暮らし始めてからわかった。

 里香はお茶を飲み過ぎだ。

 沸かすのはいいけど、そのあいだに別のことをして、よく沸かしっぱなしになってる。


 沸いたら自動的に切れる電気ケトルを勧めたが、

「……わざわざ道具増やさなくてもいい」

と、頑固だ。


 沸かす回数を減らすために、大きなポットを買ったらと言ったけど、

「……沸かすのは苦じゃないから平気」

と頑なだ。


 お前が苦じゃなくても、俺は苦なんだよ。

 こんなに頭が固いなんて思わなかった。





「総務課にいた里香ちゃんだろ。三年くらいで会社辞めた。お前らつきあってたのか」


 友人の水橋に相談した。

 水橋は俺の同僚だったが、転職して今はカウンセラーになってる。


「ああ。偶然再会して、一緒に出かけたりしてるうちにな。一年前から一緒に暮らしてる」


「で、お湯を沸かしっぱなしなのが気になるってわけか」


「何度言っても直らないんだ。反省はしてるみたいだけど、直らない。電気ポットも大容量保温ポットも拒否する。なんでだ? 」


「……なんでだろうな」


「大体、お茶ばっかり飲みすぎなんだよ。お茶飲まないと死ぬ病気か。ペットボトルのほうが簡単だろ」


「……コスパは悪いよな」


「そうだけどさ。だったらお湯沸かしてんのを忘れるなよって感じだよ」


「……まあ、そうだよな。それは彼女が悪い」


「そうだよ。悪いんだから直すべきだ」


「ま、でもさ、お前にだって悪いところはあるんじゃないか? 田島」


「いや。俺はちゃんと気をつけてる」


「……ふーん。そうなのか」





 ふたりで暮らしてる部屋に帰ると、里香が先に帰っていた。

 玄関を開ける。


「おかえり。ごはん出来てるよ」

 里香が出迎えてくれた。


「……おう」


 里香は料理がけっこう上手い。

 けっこういろんなものを作ってくれる。

 俺はミネストローネとピカタが好きだ。

 今日はシチューだった。


「食べよ。いただきます」


「ん」


「うん。おいしくできた。ね? 」


「うん」


「……あのさ、いただきますとか、おいしいとか、あんまり言わないよね」


「ん? まあな……」


 確かに俺はそういう日常的な挨拶に慣れてない。

 照れくさいというかなんというか……。

 そもそも、言わなくてもわかるだろ。

 家に帰ってきたのは見ればわかるし、料理も美味いからこうして食べてるわけだ。


「今度の休み、水族館行こうよ」


「そうだな。行こうか」


 里香は水族館が好きだ。

 初めてふたりで行った場所も水族館だった。


 映画の好みも合うし、美術館にもよく一緒に行く。

 なんていうか、好みの方向が似ている気がする。


 普段の料理や家事、やることはしっかりこなしながら、子どもみたいに小さなことで喜ぶ。

 そんな里香が好きだ。





 ……けれど、

 これだけは、どうしても引っかかる。


 またお湯が沸きっぱなしだ。

 しゅんしゅんと白い湯気が勢いよくケトルの口から吹き出している。

 いちおう弱火にはなっているから、沸かしっぱなしになっても多少大丈夫なように、里香なりに気をつけてはいるんだろう。

 でも忘れてるなら、同じことだ。


 はあ……。


 火を止めようかと思ったが、やめた。

 これは里香の責任だ。

 放っておいたほうが里香のためだ。


 里香は三十分くらい経ってから、慌てて火を止めていたようだ。

 お湯をポットに移し、お茶を淹れていた。

 香りがほのかに漂ってきた。





 会社で、企画の早川から声をかけられた。

「これ、試作品のお茶引き機でひいたお茶です。田島さんも飲んでみてください」

 

 俺の会社は小さな家電メーカーだ。

 このお茶引き機には、俺も関わった。

 通常のお茶葉を、これで細かく砕き、葉ごと栄養分を飲めるというものだ。


「いや、俺は……」

 お茶はいい、と思ったが、商品に関わった者として、飲んでおいたほうがいいか……。


(うん。普通にうまい)


「粉末は溶け切らないけど、茶葉の量は少なくてすむし、茶殻よりゴミも出ませんね」

「そうだな」


 そういうコンセプトだし。

 普通に茶葉で淹れたお茶と、どっちがうまいかはわからないが。


(里香、欲しがるかな)

 いや、あいつは、道具は増やしたくないと言ってたな。


 



 週末、俺は体調が悪くてずっと寝ていた。

 熱も少し出た。

 軽い風邪だろう。


 寝ている部屋に里香がそっと入ってきた。


「……大丈夫? 」


 具合悪くて寝てるんだから、大丈夫なわけあるか。


 俺は返事をしなかった。


「おじや作ったから、お腹すいたら言ってね」

 里香はそう言うと行ってしまった。


 おじやか。

 どうりでなんかいい匂いすると思った。

 でも今は、食べる気しない。

 そんなことを思いながら、眠ってしまった。


 ふと目が覚めると、もう暗くなってる。

(なんか、スッキリしたな)


 熱が下がったのかもしれない。

 体温を計る前に、トイレに行った。


「あ、どう? 熱、下がったっぽい? 」

 里香が聞いてきた。


 俺はイラっとして言った。

「そんなのわかるわけないだろ」


 まだ計ってないんだから。

 どうしてそんな当たりまえのことを、いちいち聞いてくるんだ。





「もうお風呂入れるよとか、ちょっと出かけてくるとか、いちいち言うんだよ。あいつ」

 俺はまた水橋と話をしてた。


「里香ちゃん、実家ではそういう感じだったんだろうな」


「まあ、そうかもな」


「俺んちも母ちゃんがけっこう言ってくるよ。もうお風呂沸かすねとか、出かけようとするとどこ行くの、何時ころ帰るの、とか」


「なんで知りたがるんだろうな。人のこと」


「母ちゃんに聞いたら、それが普通でしょって言ってた。それに俺が留守の時に誰かが訪ねてきたりすると困るから、とか。あとは、なんとなく把握しておきたいって言ってたかな。母ちゃんは、家族のことをずっと見てきた人だからな」


「でも冷静に考えれば、いちいち言わなくてもいいことだよな。もう大人なんだし」


「家にもよると思うけどな」


「それと、里香のやつ、水分が足りなくなるとぐったりしちゃうとか言うんだ」


「そういう体質なのかもしれないぞ」


「そんなわけあるはずないだろ」


「もしかして、お茶ばかり飲んでるのも、水分補給なのかもな。そういえばお湯の沸かしっぱなしは直ったか? 」


「最近は減ったかな。でもまだ時々ある」





 週末に観る映画を、一緒に借りに行った。


「あ、このシリーズの新作、安くなってる」

 里香の好きな映画だ。


「でもほら、こういうのもあるよ」

 里香が好きな俳優が出ている映画の最新作を見つけたから、教えてやった。


「ああ、これも観たい。でも内容はこっちがいいかな。ねえ、どっちがいいと思う?」


 え? えっと、俺は……。


「今回はお前が選ぶことになってただろ。お前はどう思うんだよ」

 そう言うと、里香の表情が消えた。


「そうだね。わかった」

 ぼそっと言ってどちらかを選んでた。

 なんだよ。変な空気になったな。


 部屋に帰ると、テーブルの上に紙袋が置いてあった。

 里香が新しいお茶を買ってきたらしい。


「映画見ながら飲もうと思ってさ。あなたにもちょっといいコーヒー買ってきたよ。コーヒー好きでしょ」


 渡された小瓶のコーヒーは、確かに美味しそうだ。


「おう」


「一緒に飲まない? 私もコーヒー飲みたい」


「いや。今はいい」

 そう答えると、また妙な空気になった。


「……そう。コーヒー、要らなかった? 」


「は? 」


「迷惑だったら、飲まなくていいから……」


 なに言ってるんだ?

 ちゃんと受け取ったじゃないか。


「そんなこと言ってないだろ。なんでそうなるんだよ」

 はーーーっと俺は長いため息をついた。


「勝手に人の気持ちを決めつけるな」


「……でも、だって、全然嬉しそうじゃないし。風邪ひいた時だって、様子聞いても答えてくれないじゃない」


「コーヒーは、今はいいって言っただけだ。風邪の時は具合が悪かったんだから、答えられるわけないだろう」


 里香は黙った。

 顔が歪んだ、と思ったら、さっとその場を去り、上着をひっかけて部屋から出て行った。


 バタン。

 玄関のドアが締まる音が響いた。

 ……どうしてこうなるんだ。





 里香は数日帰らなかった。

 実家にいる、という連絡だけが届いた。


「もうわけわかんねーよ。勝手に勘ぐりやがって。めんどくせー」

 俺はまた水橋に話を聞いてもらった。


「ちゃんとお礼は言ったのか? 」


「……言わなくてもわかるだろ」


 水橋はため息をついた。


「わからなかったから、そうなったんじゃないのか」


「……」

 ――水橋の言葉が刺さった。


「お前にとっては、ちゃんと言ってるつもりでも……」


「……なんだよ」


「相手には届いてなかったのかも」

 ぐ、と言葉に詰まった。


「里香ちゃん、俺のところに相談に来てたんだよ」


「……え? 」


「お前のこと、どう受けとめたらいいのかって」


「……俺は、伝えるべきことは、伝えていた」


「それは、お前の中での話だろ。里香ちゃんは、どうだったんだろうな」


「なんだよ。じゃあ、お前はどうなんだよ」


「……なに? 」


「お前は、相手が伝えてほしいことを、ちゃんとわかって伝えてるのか? 」


 水橋はまたため息をついた。


「相手の気持ちなんてわかるわけないだろ」


「そうかよ。それならどうやって、相手が伝えてほしいと思ってることを伝えるんだよ」


「お前こそ、どうなんだよ」


「……今度はなんだよ」


「お前が伝えたいと思ったことを、ちゃんと伝えてるのか? 」


「伝えたいと思ったこと? 」


「そうだ。伝えるべきことじゃないぞ」


「……なんだよ。それ」

 ムッときた。


「そういうの、やめてくれよ」

 その言葉で、水橋がすっと引いた。


「……そうだな。悪かった。頼まれてもいないのに」

 諦めたように、椅子の背もたれに寄りかかった。


「……」


 ふたりとも、黙ったままだった。


 水橋が動いた。

「俺、もう行くわ。悪かったな。……ただ、カウンセラーってのも俺の一部だから」





 ある日、仕事から帰ってくると、里香の荷物がなくなっていた。


 服も食器も、やかんもポットも。

 あの日のお茶も、コーヒーも。

 テーブルの上にメモがあった。


『ずるくて、ごめんなさい。

 お湯のことも、私、意地になってた』


「……本当に、ずるいな」

 メモをテーブルに落とした。


「いや、違うな……」





 ケトルがゴポゴポ音を立て、白い湯気が勢いよく立ち上っている。

 せいぜいコーヒーを飲むだけだった俺が、たまには紅茶や煎茶を淹れるようになった。


「こんなもんか……」

 淹れ方はよくわからないから適当だ。

 今日は、急須で煎茶を淹れてみた。


(……いいんじゃないか? )

「……うまい」





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