プロローグ〜エミリアとニゲル〜
空は少し薄曇りの。朝晩はまだ肌寒いくらいだが、日中はぽかぽかと陽射しも暖かく、公園の中を歩いていると、身体も火照ってくるくらいの春のはじめのある日のこと。
「いい香りがするよ、エミリアさん」
それは街の中の一泊宿の一室だった。レンガ造りの2階建てのしっかりした建物で、レンガのそのままの色ではなく、薄いベージュの色に塗装がされていた。部屋の中の壁紙は小さな花柄模様で、部屋は大きなベッドとサイドテーブル。その横に小さな化粧台があるくらいで、浴室や洗面は別室にあった。
「この香りはカモミールって言うのよ、ニゲルくん。嗅いでいたら凄く落ち着くでしょ?」
エミリアと僕が呼んだ女性が言うように、その香りは爽やかな林檎のような香りで、それでいて、その香りに包まれるとなんだかホッとした。ちなみに2人はベッドの上で寄り添って寝ている。カモミールの香りは彼女の身体からだった。
「うん、ほんとに落ち着く。エミリアさんの属性って光だったっけ?この香りだけでなくて、エミリアさんの光のオーラが、癒してくれてるのかもしれないね」
「もぉ、そんなお世辞ばっかり。他の女性にも言ってるのかな?ニゲルくん、キミは悪い子ですね〜」
僕に軽くキスをして、そうやってふざけたように言う彼女も可愛くて好きだった。
そう、彼女は僕よりひと回り以上も歳上だった。でもね、そんな年齢の差も感じないくらい可愛らしくて、とても素敵だった。
「僕は、そんな誰にでもそんなこと言わないよ。それに僕の属性は闇だ。ただでさえみんなに疎まれているのに、これ以上嫌われるようなことはしないよ」
僕は少し拗ねた顔で、彼女の方を向く。
「わかってるわよ。キミがそんなことしないって、私が一番良くわかってる。あ、あともう少しで出勤だから行かなくちゃ。ごめんねバタバタして…」
彼女は、ほんとに名残惜しそうな顔をして、僕を見る。そんな瞳で見つめられると、僕は…
「ううん、大丈夫。僕も、もう少ししたらここを出るよ。明日も、また会える?」
「んーと…明日は少し用事があるから…次は明後日かな。またいつもの場所でね。正午に待ってるね」
「わかった。またね、バイバイ」
彼女は素早くバスローブを羽織って、別室に行き、そこで着替えを済まし、ドアを開けて顔だけ出して僕に言う。
「ニゲルくん、愛してるよ」
僕はベッドで寝転がったまま、手を振った。彼女が出ていったあとも、爽やかなカモミールの香りは残っていて、僕の心を穏やかにした。
「愛してる…か」
少しぼーっとしていたら、ふいに頭の中にコンタクトの呼び出し音が鳴った。僕宛の個人回線だ。
「はい、ニゲルです。どうしたの?」
『ニゲルさん、ひとつ依頼がありまして…。今って大丈夫ですか?』
「うーん…今ちょっと体がだるいんで。ごはん食べて元気出してからかけ直していいかな?うん、うん。ごめんね」
全然今でもよかったんだけど、お別れのあとに聞く気分ではなかった。それこそ、少し食事を取って、気分転換をしてからがいい。
そう。僕がこの街で、彼女…エミリアと出会ったのは、2ヶ月ほど前のことだった。




