男の朝は祈りから始まる
男の朝は祈りから始まる。
小さな小屋の中の小さな手作りの祭壇にある歪に彫られた女神像に男は祈りを捧げる。
その後朝食を食べ、掃除をする。
女の入った棺のガラスの蓋は特に念入りに磨く。
紅茶を入れガラスの上に置き、自分はその隣に座って珈琲を飲む。
ゆっくりと珈琲を飲むひととき、男は女を眺めて過ごす。
昔はガラスを開けて、時たま女の頬をそっと撫でてみたこともあるが、ある時、自分の皺の刻まれた枯れ木のような手に気がついたときから、女のなめらかな肌に触れることは一切しなくなった。
その頃からガラスを開けることも無くなった。
女はずっと腐らなかった。
ずっとずっと変わらず、若く美しいまま時が止まっている。
季節の変わり目には必ずこの小さな小屋に訪れて女を綺麗に整えていた妹も、寄る年波には勝てず此処まで来ることが難しくなったと言っていた。
男は小さな木片に守りの紋様を彫ったお守りを作って生計を立てていた。
有り難いことに男の作るお守りは、効き目があるようだと、ある程度の人気があった。
3日に一度物資を運んでくる人足にそのお守りを商会に運搬してもらっている。
その人足や、季節ごとに現れる妹が客に聞いたと教えてくれた。
眉唾ではあるが、馬車の事故にあうも軽い怪我ですんだとか、家族全員風邪をひいたのに自分だけ元気だったとか。
何かを回避した後はその木製のお守りが半分に割れていることから、身代わり守りと言われているようになったらしいことも。
男は自分にそんな物を作る能力があるとは思わない。
助かったという色々な事象は偶然だと思っている。
だが、それを持つことで安心出来るのならそれに越したことはない。
信じるのは個人の自由である。
お陰で男はこうして生活が出来ている。
男は自分がもう長くないことを知っていた。
最近では立つこともやっとで、目も悪くなってきた。
生業にしていたお守りも数を作れなくなってきた。
家族には前々から帰ってこないかと言われていた。
男は、女が綺麗で美しいと感じたこの場所を離れることは少しも考えられなかった。
だが、男が最近考えるのは、自分が死んでからこの女がどうなるかと言うことだった。
妹も年寄りだ。もうこの小屋を訪れることは無いだろう。
3日に一度訪れる人足は代替りしていて、女を託すにはまだ不安がある。
女を娘のように見つめた、あの前の代の人足なら悪いようにはしないと思うが、彼はもう亡くなってしまった。
会った時から中年であったから仕方のないことだ。
もう先延ばしも出来なくなり、妹に手紙を書いた。
その返事が先日届き、諸々の準備をする為5日後迎えの馬車が小屋に着くとの事だった。
男もその手紙を受け取ってから少ない荷物を整理しながらも、長年続けた代わり映えの無い同じ日々を送っていた。
そして、迎えが明日に迫った今日。
いつもと同じように女神像に祈りを捧げ、掃除をして朝食をとった。
そして夕食の前には女神像に祈りを捧げる。
何時もと違うのは仕事をしない事だけである。
珈琲を飲んで、女を眺めていた時にそう決めた。
そして今日は女の傍で1日を過ごす。
毎年、春の3日間は青色の野花の絨毯を眺めるため、女の傍で何もせずに過ごしていたから、特段どうと言うこともない。
言葉をかける訳でもない。
ただ、景色を見て、女を眺め、たまにガラス越しに撫でる。
それだけである。
同じ繰り返しの生活の中
男は幸せであった。
触れ合うことも、話すことも出来ないが、愛する女と生涯を共にすることができた。
心残りは女を置いて先に逝かねばならないことだった。
実家に帰れば、妹が悪くはしないだろうことは分かる。妹は女に大恩がある。死にそうに弱い身体は丈夫になり、婿を迎え、沢山子を産み最近孫も生まれたという。
両親は死んだが、大きくなった商会を、子供達と切り盛りしている。
妹の子や孫達にも、ずっと女を守ってくれるようにお願いしなければならない。
会ったこともない、家を捨てたような男の願いは聞いてもらえるのか。
最後の最後で妹に頼らなくてはいけない現実に男は情けない気持ちにもなる。
色々と思うこともあるが、自分はどうあれ、女が大切にされることを願うばかりである。
男はガラス越しに女の頭を撫でた。
そうして久し振りに、本当に久し振りに、ガラスの蓋を開けた。
此処での暮らしも最後だと思ったからだろうか、しかし男にも自分の行動が分からなかった。
ただそうしなければならないと思った。男は女の手を取って自分の手のひらにそっとのせた。
繋ぐでもなく、握るでもなく、ただそっとのせた。
初めて触る女の手は細くか弱かった。
だが、ここにあるという重みを感じることができた。
男は思う。
黄泉の世で君と会うことは出来ないのだろう。
君は女神様のもとでゆっくりとその御魂を休ませているのだろうから。
きっともう2度と会うことは叶わないのだろう。
寂しいなぁ。
寂しいよ。
「アナベル」
男の瞼が閉じる。
身体が弛緩して古い椅子の背もたれがギッと鳴いた。
男と女の手は重なったまま。
小さな祭壇の前で歪に彫られた女神像が倒れている。
───チリン
と、微かに鈴の音がした。
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