女の朝は祈りから始まる
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白み始める前のまだ薄暗い時間。
静寂の冷えた空気にシャッシャッと音が微かに聞こえる。
無精髭の生えた口元から白い息を吐いて、その音のする方に足音を立てずに近づくと、男は朽ちかけた教会の扉を開けた。
外の気温と変わらない寒さの中、扉が開く音に気がついた女は手元のほうきを動かすのを止め、男を見ると軽く会釈をし、何事も無かったかのように掃き掃除を再開させた。
男は無言で何時もの場所に何時ものようにあるバケツの中の水で雑巾を絞りベンチを拭き始めた。
無言の中、男はベンチを拭き終わると、雑巾をバケツに戻し、出口に近い一番後ろにあるベンチに腰を掛け、祭壇の拭き掃除を始めた女を眺めた。
女は掃除が終わると、再度祭壇の前まで行き膝をついて祈りを始める。
祭壇には申し訳程度に置かれている小さな女神像が1体、その上に小窓があるだけの薄暗い古い教会のその一室で女が何かを祈っている。
その姿を草臥れた男が暗い眼差しで見つめている。
男は女が何を祈っているのか知らない。
男は毎日毎日繰り返されるこの朝の祈りを5年の間ずっと見続けているのだ。
この女を監視すること。
それがこの男の仕事だった。
だった。
のだが、命令を下した上司が3年前に死んで、帰還命令が出た時点で男は帰らなければならなかった。
だが、男は女の監視を止めることが出来なかった。帰還命令がその1年前だったら何も思うこと無く帰っていただろう。
いや、わからない。
その頃にはもう疑っていたかもしれない。
王族に対しても、聖騎士になるために忠誠を誓った聖教会に対しても小さな疑いのひび割れが、日が経つにつれてどんどんと膨れ上がり、今では男にあった忠誠心は瓦礫の残骸が残るだけとなっていた。
帰還命令に従わずにこの場に留まると、給料を止められた。そして数ヵ月に1度、思い出したかのように、戻らなければ聖騎士の資格を剥奪すると連絡が届く。
先月もそのような手紙が届き、まだ資格を剥奪されてなかったのかと、驚き嗤ったのは男の記憶に新しい。
男は女と言葉を交わしたことは無い。
監視を言い付けられ、初めて女の顔を見てから5年間言葉を交わしたことも、体に触れた事もない。5年間一定の距離を保ち静かに女の動向を監視し続けた。
男が教会のベンチの拭き掃除を手伝うようになったのはここ1年程のまだ短い期間だ。
それまでは会釈を交わすこともなく、お互いに居ない存在として扱っていた。
女は、刑期が終わり此処を出るのがあと数日となっていた。
此処を出たあとこの女はどうするのだろうかと、男の思考はその事ばかりで日々頭が働かなくなっていった。
自分はこの後どうするのか、教会本部に帰るのか。
女の姿を目に写すことが出来なくなると思うと臓腑が絞られるような感覚に陥る。
女を視界から外したく無いと体が訴えるが、刑期を終えた女を命令もなく監視し続けるのには無理がある。
男は自嘲した。
監視など!
男は知っている。
女が冤罪であると言うことを。
女の行動を毎日見続けていれば人となり位は男にも解る。女に課せられた疑いも罪も調べてみれば確定するには不十分で全て噂噂噂、そして被害者の証言のみで終わっている。
そして女への聴取は一切行われておらず、一方的に押し付けられた罪だと、冤罪だと簡単に知れた。
ただ、女がやっていないという証拠が出ないのだ。他の疑わしき人間の悪事の証拠が出ないのだ。
そうやって男が女の冤罪を晴らすために証拠集めを行っている最中に女が襲撃された。
偶々側を離れていた為に直ぐに気がつく事が出来なかったが、男は嫌な予感に従い慌てて女を探せば大男に思い切り殴られ、吹き飛ばされた直後だった。直ちに男は襲撃者を返り討ちにしたが、女は殴られた頬を、傷を、庇うこともせずにほんの少しだけ困ったような表情を残しただけで、女子寮へ入っていった。
女はその後も何事も無かったかのように粛々と、ただ粛々と課せられた労働と、朝の祈りを繰り返し日々を過ごしていた。
しばらくの間女の顔には目を背けたくなるような腫れとアザがあったが、男はそんな女の顔から目が離せなくなっていた。
そして、冤罪だと言うことは本人が一番よく知っている筈なのだが、騒がず静かに刑期を全うしようとする女を見て男は動けなくなった。
そして男は証拠集めを止めた。
男は女の助けになることは何だろうと考え、悩む事が度々あったが、ついぞ思い付かなかった。
そうやって男は五年もの歳月をかけて無為にその日々を過ごしていった。




