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第1部 第1章 第3話「沈み橋の里」

 昼を過ぎたころ、山道の先に、ぽっかりと空が開けた。


 やがて太陽は頭上を離れ、影の角度がいつのまにか変わっていた。


 谷だった。木々の間を抜けるようにして道が続き、その先に、一本の橋が架かっていた。


 朽ちかけた古い木の吊り橋。橋の下には、幅の広い川が、音もなく流れている。ただの谷ではない。そこには、異様な空気の重さがあった。


 足を踏み出す前に、アサギは思わず立ち止まる。


 風が止まっていた。鳥の声も、川のせせらぎも、すべてが一瞬だけ消えた。


 いや、消えたのではない。


「……沈んでる?」


 なんとなく、そう感じた。


 この谷は、しじまの中でもとりわけ深い沈降域。意味だけでなく、音そのものの皮膚までが重みを帯び、底へ沈む。


 風は吹き、川は流れているのに、響きだけが水面を割らず、深みに吸い込まれていく。音も、気配も、記憶も。まるで水の底に沈んでしまったような、そんな感覚。


 小石を拾って谷に投げた。けれど、水音はひとつも返ってこなかった。

 

 「ぽちゃん」という軽い破裂音すら、生まれなかった。水面には細い波紋だけが静かに広がった。目には見えるのに、耳に触れない。


 まるで、石が音を吸い込まれたようだった。


 音の皮膚だけが谷底に落ちて、こちらには触れてこない。そんな気味の悪さを感じた。

 

 ――ここが「沈み橋の里」の入口?


 橋の名は、増水のたびに橋脚ごと沈むからだと聞く。けれどこの谷では、まず先に声が沈む。


 アサギは、懐から巻物を取り出す。

 

 第一の詞「ナツカシミ」が記された封言札は、ナギに預けたままだが、巻物の中には次なる地名が記されていた。


「第二ノ詞、沈ミ橋ノ里ニ在リ」


 やはり、ここだった。


 アサギは橋に向かって、一歩を踏み出した。板は細く、縄は痩せて、踏み板の間から音のない水面がのぞいた。その瞬間、目の端に何かが立っているのが見えた。


 小さな影。人の形をしていたが、輪郭が揺れている。顔は見えない。だが、まっすぐにこちらを見ていると分かった。人というより、谷に落ちて形をとった声の残り火――そんな気配だった。


 言葉では説明できない気配が、アサギの背筋を走る。


「……誰?」


 問いかけた声は、自分の耳にも少し震えていた。影は答えなかった。けれど、ほんの一瞬、何かを言った気がした。


 口は動いていない。音も出ていないが、アサギの中に、その『ことば』だけが確かに残った。


「……こえを……おとさないで」


 ――落とす?小さくする、ではなく、この谷に落としてはならない、ということ?

 

 言葉をここで沈めるなということだろうかとアサギは考え込む。しかし、いくら考えてもその言葉の意味を理解できなかった。それなのに、なぜか涙が滲んできた。


 影は次の瞬間、霧のように溶け、谷の下へと消えていった。


 再び風が吹いた。音が戻ってきた。鳥の声、川の流れ、葉のざわめき、すべてが一度に押し寄せてくる。


 アサギは、橋を渡る足を止めなかった。


 たとえ、声を落とすなと囁かれても、彼女はこれから『ことば』を探しに行く旅の途中なのだから。


 橋を渡りきったとき、遠くの山の向こうで、遠雷が重く轟き、空全体が低く唸った。遠雷は答えず、ただ谷の底だけが低く鳴った。

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