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第1部 第1章 第2話「木漏れ日の杜」

 夜明け前の空が、ほんの少しだけ色を変えていた。朝焼けと呼ぶには早いが、確かに夜ではない光だ。

 

 アサギは、村の外れに立っていた。

 

 背中には小さな荷。懐には巻物と、封言札『なつかしみ』。手には、ナギから渡されたスミレの香り袋。


 冷たい空気が頬をかすめ、吐く息が白く揺れた。


 ――旅に出るんだ。


 これまでにない経験に、胸の奥が落ち着かず震えていた。この村の外へ出るのは、物心ついてから初めてだ。

 

 それだけじゃない。

 

 語る力を与えられた自分が、いま、確かに別の生き方を始めようとしている。


 昨夜、長老は静かに最初の目的地は『沈み橋の里』であることを告げた。

 

「本当に行くんだね」


 背後から聞こえたのは、ナギの声だった。いつものように穏やかで、でもどこか寂しげだった。


「……うん」


 それだけ口にすると、喉の奥に温かさが沁み込んでいくのを感じた。


 ナギは、アサギの隣に並んだ。二人は黙って、村の遠くを見つめた。霧に煙る山の向こうに、次の地である沈み橋の里があるという。


「ことばって、ほんとはこんなに……重たいんだね」


 ぽつりとナギが言った。


「アサギが『なつかしみ』を言ったとき、わたしの中の何かが動いたの。忘れてたはずの、昔のこと……小さいころ、笑った顔とか、一緒に駆け回った記憶とか」


 彼女の目に、うっすらと涙が滲んでいた。


 アサギは何も言わなかった。けれど、そっと懐から封言札を取り出し、ナギに見せた。札には、かすかに光る古文字と、ひとつの詞が刻まれていた。


「第一ノ詞:ナツカシミ」


「これが、『ことば』なんだね……」


 ナギは、そっと手を伸ばした。けれど、触れる寸前で止めた。止まった指先がかすかに震えていた。


「……だめだね。本当は、これはアサギだけのものだもん」


 アサギは、ゆっくりと首を横に振った。一度解いた詞は持ち主に縛られない。響きは継ぎ手の胸に刻まれると。そんなことが、巻物の余白にそう記されていた。


 独り占めにすれば、きっと早くは進める。けれど、声は分け合うほど強くなる。そんな風に思った。


 ――言葉は一人のものにしてはいけない。


 そう思った。村に残る誰かの中で、失われた響きが芽を出すなら、そのほうがきっと早い。


「……預ける。守って」


 初めて、自分の意思で、誰かのために『ことば』を差し出した瞬間だった。


 ナギの目が見開かれ、そしてふっと笑った。


「うん、絶対に」


 二人の間に何も語られない約束が結ばれた。


 ――――――――――――――――


 村を出るには、東の山道を越えねばならない。細く、ぬかるんだ道。雨が降ればすぐに崩れる、あまり使われていない古道だった。


 長老は、門の前で待っていた。その手には、小さな木彫りの護符が握られていた。


「これを持っていけ。語る者が、まだ受け入れられぬ地もある」


 アサギは、それを両手で受け取った。木肌の感触が、手のひらに温もりを残す。


「わしらはもう声を失ったが、古の記録にはこう記されている……語ることは、奪うことでもある。だが、『伝える』ことは、救いにもなり得る。おまえがどちらを選ぶか……それを、わしは見届けたい」


 アサギは、深く頭を下げた。


 長老の背後、村人たちが静かに集まっていた。子どもが母の袖を握り、若者が唇をかみしめ、年老いた者が杖を支えに目を細める。声を出すことのできない彼らの視線には、確かな祈りが宿っていた。

 

 ことばを持たない彼らが、確かに送り出してくれていると、アサギは感じた。心の奥に、小さな火種が確かな熱となって広がった。


 一歩、また一歩と、村を背にして歩き出す。


 道の先には、何が待っているかはわからない。だが、『なつかしみ』の言葉が蘇った今、アサギの中には確かな予感があった。


 まだまだ、言葉は、この世界に残っている。


 風が木々を揺らし、その音がこの世界のことばとして静かに響いた。


 アサギは振り返らず、ただ前へ進んだ。


 ――――――――――――――――

 

 朝霧の中を、アサギは歩いていた。

 

 村を出てから、歩いた時間の感覚はすでに曖昧だったが、陽の高さからすれば、まだ午前のはずだった。けれど、体の感覚は、ずっと遠くに来たようだった。


 ひとりで歩く道は、思っていた以上に静寂が深かった。


 鳥の声、風のざわめき、足音。

 

 昨日までの村では聴こえなかった音たちが、容赦なく耳に届く。それは心を癒すようでもあり、胸の奥を締めつけるようでもあった。


「ことばって……何なんだろう」


 ぽつりと、口に出してみる。懐かしいのに、知らないものみたいに感じられる。


 声が空に消えていく。返ってきたのは、木々の葉擦れと、自らの足音だけだった。


 たった一人で語る『ことば』は、思っていたよりもさびしいものだった。懐の小さな包みから、かすかなスミレの匂いが立った。ナギの体温の名残が、指先に戻ってくる。


「……ナギ」


 ナギの名を呼ぶ。つい昨日まで隣にいた彼女が、もう遠い記憶の向こうにいる気がした。


 旅立ちは、得るものと失うもの、その両方を抱えることだった。

 

 アサギはそれを、ひとつずつ、覚えていくしかなかった。

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