第1部 第1章 第1話「木漏れ日の杜」
村の古老たちは、夢うつつに口の形だけを動かし、ときどき「昔は声に力があった」と意味の影を漏らすことがあった。
だが、誰にも正確には聞き取れないままだった。その記憶も曖昧で、誰も確かめようとはしなかった。
木々の隙間から、陽の粒がこぼれていた。まるで水が滴り落ちるように、やさしく、静かに。
その村では、それを「こもれび」と呼ぶ者は、もういなかった。
言葉を失った人々は、それをただの明るさとして感じるだけで、かつて「こもれび」と呼ばれていたことも、「光」と名づけることもできなくなっていた。
人々は、言葉を失ったように見えた。けれど実際は、深い眠りの底に封じられていただけだった。その目覚め方を誰も知らず、木漏れ日のようなものにも名づける術を失っていた。
けれどアサギは知っている。昨日、自分の声がそれを呼んだ。
「……こ、もれ、び……」
言葉の断片が、口の奥で転がる。重く、硬く、けれど心地よい。それはまるで、ずっと閉ざされていた箱を、少しだけ開けたような感覚だった。
「アサギ」
名を呼ばれ、彼女は振り向いた。
そこに立っていたのは、少女だった。年はアサギより少し上に見える。淡い栗色の髪を結い、手には小さな籠を抱えていた。
そして、彼女の目は、確かに「ことば」を持っていた。
「……ひさしぶり、かな」
アサギは、声を出そうとして、戸惑った。
この村では、長老以外の人々は言葉を使わない。いや、使えない。
口を開くのは、食事のときか、呼吸のときくらい。誰かと会えば、軽く手を挙げるだけ。意思疎通は、視線と動きだけで済ませるものだった。
けれど、その少女ナギは、違っていた。村の子どもたちの中で、幼いころから自然にことばを口にできたのは、ナギだけだった。
村でただひとり、彼女は断片的に「ことば」を思い出すことができる。それはまるで、遠い記憶の残響が彼女の中にだけ残っているかのようだった。
どうしてなのかは、誰も知らない。だが、古老たちは、それは沈黙の呪が広がる以前の名残をその身に宿したからではないかと感じ取っていた。
「……わたしのこと、覚えてるかな?」
彼女は静かに微笑みながら、アサギの顔を覗き込んだ。
アサギは、小さくうなずく。その動作には、確かな「なつかしさ」が滲んでいた。幼い頃、一緒に野でスミレを摘んだ少女。雨の日に手を引いてくれた、あたたかい指。
言葉がまだ当たり前に存在していた、ほんの短い時間の記憶。ナギの籠の中には、スミレの花が数輪、控えめに顔を覗かせていた。
「もうすぐ切られちゃうんだって、森の一部が。だから……」
彼女の言葉に呼応するように、スミレの葉がさわさわと揺れた。
アサギは、彼女の隣にしゃがみ込んだ途端、なぜか涙が浮かんできた。ナギが気づいたのか、そっと問いかけた。
「アサギ……ことばを出せるようになったの?」
彼女はゆっくりと口を開く。
「……まだ……うまく、話せ……ない」
けれどその声は、たしかに世界に響いた。それを聞いたナギの目が、丸く見開かれた。
「すごい……本当に戻ってきてるんだね、ことばが」
彼女は、泣き笑いのような表情を浮かべた。
その日、ふたりは黙って歩いた。ことばはまだ少ない。でも、風が木々を揺らす音が、ふたりの沈黙をやさしく包んでいた。
村の奥にある、封印の石碑へと続く小道。そこは、誰も近づかない禁足の場所だった。けれど、ナギは迷いなく進み、アサギもその背を追った。
「ここにね、昔、歌があったんだって」
彼女は、石碑の前で立ち止まり、そう言った。
「誰も読めないけど……わたし、少しだけ覚えてるの」
彼女は、震える声でつぶやいた。
――春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野をナツカシミ 一夜寝にける――
「子どものころにね、誰かが口ずさんでいた気がするの。顔も声も思い出せないけど……その調べだけは残ってて」
それは、アサギが夢で聞いた、あの和歌だった。
心臓が大きく跳ねた。石碑が、低く唸るような音を立てた。風がざわめき、鳥が飛び立った。
その瞬間、足元の地面から淡い光が広がった。
【ナツカシミ】――解放。
石碑の足元の土が、ふっと息を吐くように沈んだ。
淡い光が土の粒をひとつずつほどいていき、やがて、昨日根元から現れていた巻物の傍らに、指先ほどの板札があらわれた。札には古い文様と、かすかに浮かぶ【ナツカシミ】の文字。
アサギが触れた瞬間、札は小さく震え、温もりを手のひらに残した。
巻物は綴じられた和紙の束で、朱の封印が施されている。アサギがそっと手を伸ばすと、封は静かにほどけ、かすれた筆致が現れた。
「第一ノ詞――ナツカシミ、解放」
「封言札ノ一、継ギ手ニ渡ル時、旅始マル」
その中に刻まれた「旅」という言葉に、アサギの胸がざわついた。
村の木漏れ日が、いっそう輝いた気がした。
アサギは、言葉を持たない村で最初の「ことば」を解いた。
それが、すべての始まりだった。
光が揺れていた。木漏れ日が、葉の隙間からこぼれるたびに、アサギの胸の奥が震えた。
あれほど当たり前だった風景が、今は違って見える。いや、今まで見えていなかっただけなのかもしれない。
ナギの横顔が、光の粒の向こうでぼんやりと揺れていた。
「……やっぱり、あなただったんだね」
アサギはうなずいた。言葉にならない感情が、胸の奥で渦を巻く。それは、懐かしさと、ほんの少しの痛みだった。
ナギは籠を置き、しゃがみ込んだ。
「この森、切られるって……今朝、役人の人たちがやり取りしている気配があって……ことばがあったわけではないけれど……でも、そういう気配って、伝わってくるでしょ」
掲げられた木札の印、巻尺や杭の搬入、地面に残る白い粉の線。言葉がなくても、準備の合図はあちこちに置かれていた。
アサギは頷いた。
この村では、誰も言葉を交わさない。それでも不思議と、気持ちは通じていた。けれど、今彼女は「語りたい」と思った。言葉にして何かを伝えたいと思った。だからこそ、声にした。
「……もう、ことば……捨てたく、ない」
そっと声に出して言った。ナギがゆっくりと目を見開き、かすかに笑みを見せた。
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その夜、村は少しだけ騒がしかった。風の音が、耳に届くようになった。木戸の軋む音が、少しだけうるさくなった。
そして、誰かが泣いていた。小さな子が泣いている。その声は拙く、言葉にならない叫びだったけれど、村の皆がその方向を見た。誰もが、それを「声」だと理解した。
アサギは、長老の家に呼ばれた。灯りの乏しい囲炉裏の間で、老いた男が彼女を見つめていた。
「……語ったな、おまえ」
低い、擦れた声だった。だがその言葉には、怒りも拒絶もなかった。
ただ、どこか懐かしさを滲ませた響き。
「ナツカシミ……か。最初に戻るには、ふさわしい詞だ」
長老の目が閉じられた。囲炉裏の火がぱちりと弾けた。長老はしばらく何も言わなかった。音が、言葉よりも重く感じられた。
「……おまえが、継ぎ手となるのだな」
アサギは、口を開こうとしてやめた。そのアサギの表情を見て、長老はそれで十分だと頷いた。
「旅に出よ。失われた詞を拾い、語るのだ。これはもう、わしらではできぬ。おまえの役目だ」
アサギは、そっと巻物を懐にしまった。それが、自分の中に灯った新しい炎のように、静かに温かかった。
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夜明け前、森の梢に風が通った。朝靄の中で、スミレの花が揺れていた。アサギは、かつての幼なじみナギと向かい合っていた。
ナギは、アサギに小さな包みを手渡した。
「これ、お守り……ことばって、まだ怖いから。でも、アサギなら大丈夫、って思うの」
アサギは黙ってそれを受け取った。そして、言葉ではなく、ゆっくりと、しっかりとナギの目を見て頷いた。
それは、旅の始まりの合図だった。
そしてまた、ことばの再生の、最初の一歩でもあった。




