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モーリスを味方にすることに成功したセレスティーヌは、上機嫌で自分の部屋へと向かった。
時刻はちょうど正午。昼食は部屋で取ると伝えてあるので、もう準備は終わっているはずだ。
到着と同時に、付き従っていた二人のメイドが素早く両開きの扉を開く。
「セレスティーヌ殿下がお戻りになりました」
セレスティーヌが部屋に足を踏み入れた。
その途端。
「あの、セレスティーヌ様、お話が」
お付きのメイドを束ねるメイド長が、神妙な顔で言った。
セレスティーヌの顔があっという間に不機嫌になる。間違いなくメイドの誰かがミスをしたのだ。
「誰が、何をしたのですか?」
冷たい声でセレスティーヌが聞いた。
メイド長が、前で揃えた両手を強く握る。
覚悟を決めたその顔が、震える声で答えた。
「メイドの一人が、料理を運んでいたワゴンを倒してしまいました。改めて昼食の準備をしておりますので、どうか今しばらく」
「ワゴンを倒したのは誰ですか?」
セレスティーヌにごまかしはきかない。
ミスをした者をセレスティーヌが許すことはなかった。
「それは」
「その者を庇うというのなら、あなたも同罪とみなします」
氷のような視線がメイド長に向けられる。
メイド長が顔を上げた。
そして、悲壮な表情で答えた。
「ワゴンを倒したのは、私……」
「セレスティーヌ様!」
突然、メイド長の声を遮るように後ろから大きな声がした。
「急用がございます。こちらにお越しください」
声の主は、アンナだった。
「急用ですって?」
不機嫌さを増したセレスティーヌが、目を吊り上げてアンナを睨む。
誰もがひれ伏す強烈な視線。貴族でさえもその視線に耐えられる者はいなかった。
それを、アンナは真正面から受け止めた。
「急用です。とにかくこちらへ」
毅然と言い切るその顔は、アンナがこれまで見せたことのない表情だった。
「……分かりました」
メイド長をひと睨みし、ドレスを翻してセレスティーヌが向きを変える。
立ち尽くすメイド長にアンナが言った。
「昼食の準備は進めておいてください。お話が終わり次第、セレスティーヌ様はお戻りになります」
ついてこようとするメイドたちを手で制し、セレスティーヌを導くように、前に立ってアンナが歩き出した。
向かったのは、すぐ隣にあるアンナの部屋。セレスティーヌを中に入れると、しっかり扉を閉めて、アンナはセレスティーヌと向かい合った。
「で、急用というのは何なのかしら?」
相変わらずの不機嫌顔でセレスティーヌが聞く。
セレスティーヌに椅子を勧めることもなく、立ったままアンナが言った。
「先ほどのメイド長に対する振る舞いは、非常によろしくないと思います」
「何ですって!?」
セレスティーヌが甲高い声を上げた。
直後、ハッとしたように口を閉ざす。
慌てるセレスティーヌに、アンナが険しい顔で言った。
「メイドたちは、日々緊張感をもってセレスティーヌ様にお仕えしております。細心の注意を払い、一生懸命仕事をしているのです」
「そんなこと当たり前ではありませんか」
「最後まで話を聞いて下さいませ」
口を挟むセレスティーヌをアンナが黙らせた。
「全力を尽くしてお仕えする。それでも、やはりミスをすることはあるのです。それは、人である以上避けられないことです」
「だから許せと言うのですか?」
最後まで聞けと言われたのに、セレスティーヌはまた口を挟んだ。心に根付いた性質は、一朝一夕で変わるものではなかった。
「セレスティーヌ様、よくお聞きください」
アンナが粘り強く続ける。
「国の威信に傷を付けるとか、セレスティーヌ様に危害が及ぶとか、そういう大きな過ちは、きちんと罰する必要があるでしょう。また、何度も同じミスを繰り返す場合なども、罰を与えてよいと思います」
諭すようにアンナが言う。
「ですが、あの程度のミスを強く責めるのは、メイド長やミスをしたメイドを傷付けるばかりでなく、忠誠心を失わせてしまう可能性があるのです」
「あの程度ですって?」
やはりセレスティーヌは黙っていられなかった。
「わたくしの昼食の準備ができていなかったのですよ。それをあの程度で片付けるなんて」
「庶民の中には、貧しくて昼食が食べられない者たちもいるのです」
「!」
セレスティーヌが目を見開いた。
「一日三回食事を取ることができる。それがどれほど恵まれていることか、セレスティーヌ様はお分かりでしょうか」
アンナの言葉で、セレスティーヌは沈黙した。
「昼食を食べることのできない庶民でも、税金は払っています。その税金で王族の生活は成り立っているのです。セレスティーヌ様、あなたはこの事実をどうお考えになりますか?」
アンナがセレスティーヌに迫る。
「庶民の暮らしを守ることが王族の務めであると、常々セレスティーヌ様はおっしゃっています。そのあなたが、庶民の暮らしに思いを巡らせることもなく、たった一度の昼食のことで、日頃尽くしてくれているメイドを責め立てる。それは正しい行いなのですか?」
冷静な指摘にセレスティーヌが怯んだ。
「ミスはミスです。それを叱ることは必要でしょう。ですが、執拗に責め立ててメイドの心を折り、その忠誠心を挫くことは、王族としてあるべき姿なのでしょうか」
セレスティーヌが、うつむいた。
「セレスティーヌ様のお側にいる者の中に、素性の知れない者などおりません。貴族の身内や縁者、または信頼できる筋から推薦された者ばかりです。そのメイドたちを、セレスティーヌ様は取るに足らない理由で何人も解雇してきました。それがどんな結果を生むか、セレスティーヌ様はお考えになったことがございますか?」
うつむいたまま、セレスティーヌが目を見開く。
「今朝のセレスティーヌ様のお言葉を、私はとても嬉しく思ったのです。同時に、私は反省いたしました。これまで私は、セレスティーヌ様に正面から向き合ってこなかったのだと」
乳飲み子の時から、実の母親以上に長くセレスティーヌに接してきた。
そのアンナが、初めてセレスティーヌの心に踏み込んでいく。
「今のままでは、セレスティーヌ様の周りに敵が増えていくばかりなのです。どうか広い心をお持ちください。広い視野で世界をご覧ください」
アンナが、セレスティーヌの前で両膝を折った。
「セレスティーヌ様。私はあなたのことが心配なのです。私は、あなたのことが……」
続きは言葉にならなかった。
両手で顔を覆ってアンナが泣く。肩を震わせ、喉を引き攣らせてアンナは泣いた。
その姿を、セレスティーヌは呆然と見つめた。
頭をハンマーで殴られたような衝撃で、何も言葉が出てこなかった。
アルフォンスにも似たことを言われてはいたが、その何十倍も胸を抉られた。
激しい動揺と激しい後悔。
セレスティーヌは、自分がいかに愚かな行いをしてきたのかを思い知った。
同時に、どれだけアンナを心配させてきたのかも知った。
アンナと同じく両膝を折って、セレスティーヌが声を掛ける。
「アンナ。わたくしが間違っていました」
顔を覆っていた手を外して、アンナが顔を上げた。
「わたくしは、やはり世間知らずの我が儘姫なのですね」
目を真っ赤にしたアンナがセレスティーヌを見つめる。
「アンナ。これからも遠慮なくわたくしを叱ってください。わたくしも、アンナに心配を掛けないよう気を付けます」
「セレスティーヌ様!」
再び溢れ出す涙を、セレスティーヌがハンカチで拭った。
「アンナ。あなたがいてくれて本当によかったわ」
「セレスティーヌ様!」
アンナがセレスティーヌを抱き締める。
それを優しく抱き留めて、セレスティーヌは優しく微笑んだ。
「わたくしは部屋に戻ります。あなたは落ち着くまでここにいなさい」
アンナから体を離し、その涙をもう一度拭いて、セレスティーヌが立ち上がる。
瞬間、なぜか唐突にアルフォンスの顔が思い浮かんできた。
その顔をセレスティーヌが睨み付ける。
「見ていなさい、アルフォンス」
小さく小さく呟いて、セレスティーヌはアンナの部屋を出ていった。
「あ、お戻りです!」
扉の前に控えていたメイドが慌てて中に声を掛ける。
「おかえりなさいませ」
メイドが恭しく扉を開けた。
中に入ると、メイド長以下セレスティーヌ付きのすべてのメイドが並んでいた。食事の準備はすでに出来ていて、食べ物には保温用のフードカバーが被せてある。
「セレスティーヌ様!」
突然メイドの一人が前に進み出た。
「ワゴンを倒したのは私です。メイド長は何も悪くありません。罰するなら、どうか私だけにしてください!」
深く深く頭を下げてメイドが言う。
あまりに深く下げているので、顔がまったく分からない。
「あなたは」
セレスティーヌが話そうとした瞬間、別の声がした。
「いいえ、私が事前に注意しなかったせいでございます。責任は私にあります」
メイド長も深く頭を下げた。こちらも表情が見えないほど大きく腰を折っている。
ほかのメイドたちも、二人にならうように頭を下げた。
恐れと怯え。
そして、そこに混じる不満の気持ち。
その感情に気付くことができたのは、まさにアンナのおかげだろう。
メイドたちに覚られぬよう、セレスティーヌはそっと深呼吸をした。
そして、慎重に声を掛ける。
「皆、顔を上げなさい」
なるべく穏やかに言ったつもりだったが、染みついた性質はすぐに変わらない。思ったより低い声が出てしまった。
ビクビクしながらメイドたちが顔を上げる。
コホンと咳払いをしてから、セレスティーヌが言った。
「ここにいる皆は、いつもよくやってくれています。わたくしは、それに感謝をしています」
全員が目を丸くした。
あまりの驚きに、何人かは口を半開きにしている。
「メイド長。先ほどは厳しいことを言ってしまいましたが、わたくしは、あなたの忠誠を疑ったことはありません。これからも、皆を束ねて仕事に励んでください」
「は、はい!」
まるで新人のようにメイド長が返事をした。
「そして、あなた」
「はい!」
ワゴンを倒したメイドが全身を硬直させる。
「名は何というのですか?」
「オ、オレリアと申します!」
名乗ったメイドの顔を、セレスティーヌがじっと見つめた。
これまでセレスティーヌは、メイドの顔も名前も気にしたことがなかった。
はじめてまともに向き合うその顔は、見事なまでに悲壮感で溢れている。
威圧感を与えぬよう、努めて静かな声でセレスティーヌが言った。
「オレリア。食事を無駄にしたことは、決してよいことではありません。ですが、あなたもわざとしたのではないのでしょう?」
「もちろんです!」
大きな声でオレリアが答える。
「ならば、あなたを罰する必要はありません。これからは気を付けなさい」
オレリアの口が、ポカンと開いた。
「これでこの件はおしまいです。わたくしはお腹が空きました。冷めないうちに食事をいただくことにします」
「かしこまりました!」
メイドたちが動き出した。
椅子を引き、ナプキンを用意し、フードカバーを外し、ワゴンの鍋からスープをよそう。
戸惑いと緊張が満ちる部屋の中で、スープを一口飲んだセレスティーヌが、ふいに言った。
「このスープ、とても美味しいですわね」
そこにいる全員が、驚愕の表情を浮かべて固まった。




