1-2
これまでセレスティーヌは、相手が誰であろうとも恐れることなどなかった。
だが。
「我が儘とは聞いていたが、ここまでひどいとはな」
無礼な言葉を浴びせられても、セレスティーヌは言い返せない。
「子供に手を上げるなんて、お前、頭がおかしいんじゃないか?」
あり得ない侮辱を受けても、セレスティーヌは動くことすらできなかった。
この世の終わりに現れるといわれる悪魔。
世界を滅ぼす深紅の瞳。
幼い頃の記憶が甦る。
絵本を投げ捨て、乳母のアンナに泣きながらしがみついたあの夜。
セレスティーヌは震えていた。生まれて初めて感じる恐怖に、心も体も機能を失っていた。
そこに、突然大勢の足音が響く。
「殿下を放せ!」
店の中から、物陰から、路地の奥から一斉に騎士が飛び出してきた。
その数、およそ三十人。全員が武装をしている。
「やっと出てきたか」
囲まれた男がまったく動じることなく呟いた。
騎士たちの登場で、セレスティーヌの思考が動き出す。
「は、早くわたくしを助けなさい!」
腕を掴まれたままセレスティーヌが叫んだ。
耳元で叫ばれて男は顔をしかめたが、腕を放す素振りはない。それどころか、馬鹿にしたように笑って言った。
「お前、頭が悪いんだな。この状況で騎士が動けるはずないだろう?」
男の言う通り、取り囲んだ騎士たちはそこから踏み込んでこない。セレスティーヌが人質に取られている以上、下手なことはできなかった。
またも屈辱的な言葉を聞いて、セレスティーヌが男を睨む。
まだ恐怖はあった。
だが、それを越える怒りがセレスティーヌの心を奮い立たせる。
「無礼者! わたくしが誰かを分かった上で暴言を吐くのか!」
セレスティーヌは我が儘だ。
しかしセレスティーヌは、それ以上に勝ち気で負けず嫌いだった。
「お前ごときが触れてよい身ではない。今すぐその手を放して足下にひれ伏すがよい!」
王国の至宝と謳われるサファイアの瞳が光を放つ。
悪魔と同じ深紅の瞳を、燃えるブルーの瞳が睨み返した。
すると。
「ほぉ」
男が感心したように声を漏らした。
そして、ますますその顔をセレスティーヌに近付ける。
「な、何をするっ!」
顔を半分そむけ、だが気丈にも目だけはそらさずにセレスティーヌが声を上げた。
その耳が、謎の言葉を捉える。
「こりゃあ意外と」
何かを言い掛けた男の声が、騎士の怒声で遮られた。
「そのお方は、この国の第二王女、セレスティーヌ殿下であらせられるぞ!」
手の出せない騎士たちは、セレスティーヌの身分を明かすことで男を封じるつもりのようだった。
しかし、それを男は鼻で笑う。
「そんなこと最初から知ってるさ」
「何だと!」
動揺する騎士たちを悠然と見渡した後、男は再びセレスティーヌを見た。
「姫さんに、いくつか質問がしたい」
「あなたにそのような権限はありません!」
セレスティーヌは拒絶するが、構わず男は質問を始めた。
「今日の視察は、あくまで”お忍び”だったはずだ。それなのに、どうしてこんなにたくさんの騎士が隠れていたんだと思う?」
セレスティーヌは答えなかった。
だが、心の中では、その問いの意味することを考えた。
「もう一つ質問だ。ここは王都の中でも特に栄えている場所で、店もたくさんある。それなのに、どうして通りに馬車が一台もいないんだ? この国の物流を担っているのは、主に馬車だと思うんだが」
これにもセレスティーヌは答えなかった。
しかし、心の中では疑問が渦巻き始めていた。
「さらに質問だ。お前が着ている服と、頭に載っかっている帽子、それとブーツ。店で買ったら一体いくらすると思う?」
この質問には答えたくても答えられなかった。セレスティーヌは、これまで服の値段など気にしたことがない。
考え始めたセレスティーヌを男が見つめる。
見つめられたまま、セレスティーヌが考える。
セレスティーヌは世間知らずで我が儘だ。
しかし、セレスティーヌは馬鹿ではない。
庶民の生活を知るためのお忍び視察。
そのつもりだったのだが、もしかすると……。
黙り込んだセレスティーヌに、男が言った。
「お前にした質問に、俺が答えてやる」
セレスティーヌがピクリと震えた。
その答えは聞きたくなかった。その答えは、おそらく自分の誇りを傷付ける。
だが、男は容赦なく答えた。
「お前のお忍びは、この街の全員が知っているんだよ。道を清めよ、馬車は使うな、お前を見ても気付かぬフリをしろって、あらかじめお触れが出ていたのさ」
セレスティーヌの目が広がった。
「で、お前の着ているチュニックだが、素材はたぶんシルクだろう。おまけに、ベルトのバックルは純金製ときている」
そう言いながら、男がセレスティーヌの帽子に触れた。
「何をする!」
空いている左手でそれを払いのけるが、男はまったく気にしない。
「こいつは、東の高地に生息する山羊の毛か何かだな」
睨むセレスティーヌを無視して男が鑑定を続けた。
「そのブーツは、質感から見て仔牛の皮ってところか。だとすれば、結構な値段になる。貴族か大商人しか履くことのない高級品だな」
鑑定を終えた男が、セレスティーヌを見下ろした。
「お前が身に付けている一式を買う金で、庶民なら四人家族でも一年は暮らせるだろう。その服も帽子もブーツも、庶民に手が届かないどころか、見ることすらない別世界の品なんだよ」
セレスティーヌの顔が強張った。
動揺を隠せないセレスティーヌに、男が追い打ちを掛ける。
「高額な衣装を身に纏い、大勢の騎士に見守られ、街の人間にとんでもない負担を掛けて、お前はお忍びの視察をしていたわけだ。さてお姫様、今のお気持ちを聞かせてもらおうか」
男の言葉が胸をえぐった。
真っ青になってしまったセレスティーヌを、男がさらに叩きのめす。
「俺はこの国の民じゃあないが、そんな俺でも噂を聞くくらいお前は有名なんだぜ。第二王女は、とんでもなく世間知らずで、とんでもなく我が儘だってな」
王族に対してあり得ない暴言だ。不敬罪では話にならない。国家反逆罪の中の最高刑、火あぶりですら生ぬるい。
それほどの屈辱を受けて、だが、セレスティーヌは男を憎む気持ち以上の強い感情を抱いていた。
セレスティーヌの体が震える。
唇を強く結んで歯を食いしばる。
饒舌だった男が、それを見て黙った。
深紅の瞳がセレスティーヌを静かに見つめる。
やがて、男が言った。
「この国の南で反乱が起きたのは知っているな?」
かすかに残るセレスティーヌの理性が、男の声に耳を傾けさせた。
「小規模な反乱が二回。いずれもすぐ鎮圧されてはいるが、おそらく反乱の動きは国中に広がっていくだろう」
「何を分かったようなことを!」
怒りの声を無視して男が言った。
「あちこちで反乱が起きるっていうのはな、国が滅びる前兆なんだよ」
「なっ」
セレスティーヌの息が止まった。
「もう一つ言っておくと、お前みたいに愚かな王族が現れるっていうのも、国が滅びる前兆の一つだ。お前は、典型的な亡国の姫君なのさ」
「!」
言葉が出なかった。
驚きと悔しさで頭が混乱を極める。
「で、その亡国の姫君にいちおう言っておこう」
ふいに男が声を落とす。
「お前が王族としての責務を果たす気があるなら、だが」
そう言うと、男は急に顔を近付けた。
思わずセレスティーヌが目を閉じる。
その耳元で、男は驚くようなことを言った。
目を閉じたまま、セレスティーヌがそれを聞く。
聞き終えた途端、セレスティーヌは激しく男に顔を向けた。
「ふざけないで!」
目をカッと開いてセレスティーヌが叫んだ。
「まあ、お前の好きにすればいいさ」
にやりと笑うと、男はセレスティーヌの腕を放した。
「じゃあな」
セレスティーヌに背を向けて、突然男が走り出す。
「貴様!」
剣と槍が一斉に襲い掛かった。
それを、男は信じられない身軽さでかわした。そしてあっさり囲みを突破すると、風のように逃げていった。
「逃がすな!」
騎士たちが男を追う。
ちょうどそこに、応援の騎士がやってきた。
「殿下、お怪我は!?」
声を掛けたのは騎士団長だ。
冷静沈着で知られる男が、見事なまでに慌てている。
「わたくしは大丈夫です」
「それは何よりでした」
胸を撫で下ろした騎士団長が、ふと足下を見た。
そこには、あの子供がいた。動くに動けず、逃げるに逃げられず、子供はずっとそこにいたのだ。セレスティーヌも完全にその存在を忘れていた。
子供は、まだ潰れた食べ物を握り締めていた。それを見て騎士団長が気付いた。
「こやつ、殿下のお召し物を」
襟首を掴んで騎士団長が子供を立たせようとする。
それを、セレスティーヌが止めた。
「服が汚れたのは不可抗力です。子供を放しなさい」
「はっ!」
驚く騎士団長に、セレスティーヌがさらに驚くことを言う。
「その子が持っている物と同じ物を買って与えなさい。もしその子が怪我をしているようなら、手当をするように」
騎士団長が目を丸くする。
「わたくしは王宮に戻ります。今日の出来事は騎士たちのせいではありませんので、誰も罰する必要はありません。もちろん、あなたもです」
「か、かしこまりました」
日頃の言動からは考えられないことを告げて、セレスティーヌは乗ってきた馬車へと向かった。
数人の騎士が素早く付き従う。その騎士たちにすら聞こえないほどの小さな声で、セレスティーヌが呟いた。
「わたくしが亡国の姫ですって!?」
唇を噛み、地面を睨みながらセレスティーヌは歩く。
ふと気が付くと、馬車の前まで来ていた。
顔を上げた途端に扉が開く。扉の前では、御者に扮した騎士が、うつむいたまま手を差し伸べていた。
それをセレスティーヌが黙って見つめる。
騎士の手は震えていて、うつむく顔は恐ろしく強張っていた。
セレスティーヌの嫌いな姿だ。
感情がまたも暴れ始めた。
それを、セレスティーヌは必死に押さえ込んだ。
周囲の者が心配するほど長い時間セレスティーヌは黙っていた。
やがて、無言のまま、セレスティーヌは騎士の手を取った。そしてゆっくりと馬車に乗り込む。
扉が閉まる直前、騎士に向かってセレスティーヌが声を掛けた。
「ご苦労様」
隙間から見えた騎士の顔は驚いていたように思えたが、はっきりとは分からない。
動き出した馬車の中で、セレスティーヌは拳を握る。
「あの男、絶対に許さない」
握った拳で膝を叩く。
「許さない。絶対に許さない」
揺れる馬車の中で、滲み出る涙を溢れさせないよう強く歯を食いしばりながら、セレスティーヌは何度も何度も自分の膝を叩き続けていた。




