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「どうしても行かれるのですか?」
「行くわ。王族たるもの、庶民の暮らしを見ておく必要があるもの」
「ですが」
「いいから早くその帽子をよこしなさい」
「……かしこまりました」
乳母から帽子を受け取ると、それを得意げに被ってセレスティーヌは鏡を覗き込んだ。
庶民がよく使うストローハット、つまり麦わら帽子なのだが、形を模しているだけで、素材は高級な天然繊維だ。飾りリボンまでついているそれは、とても庶民が持てる代物ではなかった。
その身に纏うのはカーキ色のチュニック。こちらも庶民がよく着るものだが、素材はシルクで、しかもベルトのバックルは純金製。帽子と同じく特注で作らせた一点物だ。
ブーツだけは持っている中から選んでいたが、セレスティーヌの持ち物に安物などあろうはずがない。上から下まで合わせた値段が一体どれほどになるのか、想像することすら難しかった。
「これで私も庶民に見えるわよね」
「……」
乳母のアンナが目を伏せるが、セレスティーヌはそれを見ていない。
「じゃあ行ってくるわ」
優雅に微笑んだセレスティーヌは、メイドたちを引き連れて意気揚々と部屋を出ていった。
大陸西部にある商業国家、ベルクール王国。セレスティーヌはその第二王女として生まれた。
建国から五代目となる父王の寵愛を受けて、セレスティーヌは健やかに、そして我が儘に育っていく。
今年で十七才になるのだが、政略の道具にされるのはごめんだと言って、お見合いすらしたことがない。第一王女の姉が十五才で隣国に嫁いだことを考えれば、いかにセレスティーヌが甘やかされているかが分かる。
ブロンドの髪とブルーの瞳。大陸西部の人々が持つ一般的な特徴だが、その煌めく髪は絹のようだと称えられ、サファイアのように透き通る瞳は王国の至宝と謳われている。
きれいに整った顔立ちと、きめ細かく滑らかな肌。長い手足と均整の取れた体のラインの前には、どんなドレスも霞んで見えた。その美しさは近隣諸国にも鳴り響いていて、他国の王子から恋文が届いたこともあるほどだ。
皆がセレスティーヌを称えた。皆がセレスティーヌを賞賛した。
成長するにつれて、セレスティーヌは思いのまま振る舞うようになっていった。
セレスティーヌが歩けば誰もが道を空ける。使用人たちが壁にへばりつくようにして腰を折る中、セレスティーヌは前だけを見て歩いた。
「ところで、馬車の用意はできていて?」
セレスティーヌが後ろに続くメイドに聞いた。
「は、はい。仰せの通り、庶民が使うものに近い馬車を用意するよう申し伝えてあります」
メイドの一人が答えた。その声は怯えるように震えているが、いつものことなので、セレスティーヌは気にしない。
王宮の裏口から裏門に向かうと、メイドの言葉通り、そこには馬車が用意されていた。
一頭立てのタウンコーチ。キャビンの塗装が剥げてはいるが、屋根も扉もついている立派なものだ。それを曳く馬の毛並みは艶々と輝いていて、庶民が飼う荷馬とは似ても似つかない。
それなのに。
「いいわね。いかにも庶民的だわ」
セレスティーヌはとても満足そうだった。
御者に扮した騎士が恭しく扉を開ける。その手を借りてキャビンに乗り込むと、セレスティーヌは上機嫌で言った。
「出してちょうだい」
「はっ!」
服の下に皮鎧を着込んだ騎士が、素早く御者台に乗り込んで、馬に鞭を入れた。
セレスティーヌが街に出るのはこれが初めてではない。以前にも視察と称して何度か街には来ている。だが、いずれも数十人の騎士に守られて、決められた場所を見て回るだけだった。
これでは民の本当の姿が分からない。
そう思ったセレスティーヌは、前回の視察の時、騎士の制止を振り切って裏通りに足を踏み入れた。そこで、セレスティーヌは路地にうずくまる少年を見付けた。
着ている服はボロボロだったが、顔立ちはきれいだった。話し掛けると、思いのほかしっかりした返事が返ってくる。聞けば、もとは大店の子供だったが、父が商売に失敗して破産し、一家共々スラムで暮らしていたという。
その家族が次々と病で亡くなって、今は天涯孤独の身とのこと。
話を聞いたセレスティーヌは、その少年を連れて帰ることにした。そして、専属の小間使いとして側に置くことにした。
それが今回の”お忍び”を決めたきっかけだった。
「セドリックみたいな子が街に溢れるのは困るもの。国民には幸せになってもらわなければ」
乳母のアンナに拳を握って見せるセレスティーヌの顔は、真剣そのものだった。
きれいに掃き清められた大通りの真ん中を、誰にも邪魔されることなく馬車は進んでいく。
これまでの視察と違って、セレスティーヌが乗る馬車に人々が注目することはなかった。店では商人が声を張り上げ、客が商品を物色している。
「これが庶民の生活なのね」
小窓から外を覗くセレスティーヌの目が輝いた。
「やっぱり”お忍び”でなければ本当の事は分からないわ」
店頭に並ぶ見たことのない品々。
何を売っているのか見当も付かない商店。
セレスティーヌの心が昂ぶっていく。その昂ぶりが、セレスティーヌを大胆にした。
「馬車を止めて。少し外を歩いてみたいの」
街はいかにも平和そうだ。危険なことは何もないように見える。
しかし、御者台の騎士は慎重だった。
「外は危険です。殿下にもしものことがあったら……」
その言葉で、セレスティーヌは一気に不機嫌になった。
「わたくしが歩きたいと言っているのです。あなたはそれに従えないと言うのですか?」
「いえ、そういう訳では」
「では、どういう意味で言ったのですか? 王族に逆らうことがどういうことか、あなたには」
「申し訳ありませんでした!」
騎士が慌てて馬車を止める。そして御者台から飛び降りると、急いでキャビンの扉を開けた。
「なぜ最初からそうしないのですか」
「申し訳ありません」
騎士は震えている。それがセレスティーヌを一層不機嫌にさせた。
「ここはベルクール王国の王都。国王陛下の直轄地です。その街で、馬車を降りて歩くことがそれほど危険なことなのですか?」
「いえ、そのようなことは」
「先程のあなたの言葉は、国王陛下の治政を否定することと同義です。今日のことは、騎士団長に伝えておきます」
うつむく騎士を一瞥すると、セレスティーヌは一人で馬車を降りた。そして、目を伏せたままの騎士に言い放つ。
「わたくしが馬車を降りるというのに手も貸さないとは、騎士団長も人選を誤りましたね」
厳しい言葉に、騎士は何も答えない。
セレスティーヌの言葉で相手が黙り込むのはいつものことだ。不愉快極まりないが、これ以上何を言っても相手が無言を貫くことを知っているので、セレスティーヌはそれ以上の言葉を飲み込んだ。
せっかく気分が良かったのに、すっかり興醒めしてしまった。街の景色まで色褪せて見える。
それでも、せっかく馬車を降りたのだ。少しは店を見て回りたい。
「ここで待っていなさい」
「かしこまりました」
顔を伏せたままの騎士を置いてセレスティーヌは歩き出した。
通りの両側にはたくさんの店が並んでいる。そのうちの一軒に歩み寄ると、セレスティーヌは商品棚を覗き込んだ。
売られているのは野菜や果物だ。それは分かるのだが、名前の分かるものがほとんどない。
気が付くと、先ほどまでいた数人の客がすべていなくなっていた。なぜか店員まで奥に引っ込もうとしている。
それをセレスティーヌが呼び止めた。
「ちょっといいかしら?」
「はい」
店員が伏し目がちにやってくる。
「これは何という野菜なの?」
穏やかに聞いたつもりだったが、店員はおそろしく畏まって答えた。
「こ、これは、ニンジンでございます」
「これが?」
ひょろりと細長く不格好なそれは、たしかにニンジンのような色をしている。
「ニンジンって、もう少し太くて短いものではないのかしら。それと、もっと鮮やかなオレンジ色ではなくて?」
「そういう高級品は、当店にはちょっと」
意外という顔のセレスティーヌに、店員が慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません!」
そのまま顔を上げずに黙ってしまったので、セレスティーヌは諦めて店を離れた。
セレスティーヌの前で、人々が顔を伏せて黙り込む。それはセレスティーヌが日常的に目にする光景だ。
メイドも護衛も、料理人も庭師も、場合によっては貴族でさえもそうなる。相手が女の場合は泣き出してしまうことすらある。
目を見て話してくれるのは、父と母、兄と弟と姉、そして乳母のアンナだけだ。
笑顔を向けてくれるのも、父と母、兄と弟と姉、そしてアンナだけだった。
「この国の人間は、本当に礼儀知らずばかりだわ」
不機嫌さが増していく。
無性に腹が立ってくる。
「もう帰りましょう」
誰に言うともなく呟いて、セレスティーヌは踵を返した。
その時。
ドン!
突然何かがぶつかってきた。よろけはしたが、大した衝撃ではない。何事かと足下を見れば、一人の子供が地面に転がっている。その手にはよく分からない食べ物が握られていた。
食べ物に夢中で前を見ていなかったのだろうか。
「あなた、ちゃんと前を見て……」
言い掛けたセレスティーヌが、自分のチュニックに目を止めた。ベルトの下、足の付け根の辺りに、茶色のソースがべったりとついている。
それがセレスティーヌの怒りに火を点けた。もともと不機嫌だった顔が、鬼の形相へと変わっていく。
「何ということをしてくれたのですか!」
子供がビクリと震えた。
「ごめんなさ……」
「謝ってすむことではありません!」
謝罪の言葉を切って捨てる。
子供の目にみるみる涙が溢れていった。その涙に、セレスティーヌの理性を取り戻す力はなかった。
「泣けば済むとでも思っているのかしら。そんな訳ないでしょう?」
怯える子供に容赦ない言葉を浴びせる。
子供がうつむいた。涙を堪えてじっと地面を睨む。
気に食わなかった。
こんな子供ですら自分を見ることがない。
相手の態度がどんなに気に入らなくても、これまでセレスティーヌは、手を上げることだけはしなかった。
だが、今のセレスティーヌは過去のどんな場面よりも怒っていた。
理性が吹き飛んでいく。
強烈な衝動が心を支配していく。
セレスティーヌが右手を振り上げた。
それを、子供に向かって強く振り下ろす。
だが、その手が子供を打つことはなかった。
「そこまでだ」
声と痛みに驚いてセレスティーヌが振り向いた。
そこにいたのは、右手をがっちり掴んで自分を見つめる一人の男。
セレスティーヌより頭一つほど上にあるその顔は、怒っているようには見えなかった。
しかし、男の瞳を見た瞬間、セレスティーヌは体を震わせた。
今までに見たことのない瞳の色。
それは深紅。
それは、この世の終わりに現れるといわれる、悪魔の瞳と同じ色。
「我が儘とは聞いていたが、ここまでひどいとはな」
恐ろしく間近から、深紅の瞳がセレスティーヌを見据えている。
セレスティーヌの心が凍り付いた。
恐れを知らない我が儘姫が、生まれて初めて恐怖というものを知った瞬間だった。