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十字架を背負って

「まだ売れないんだ、この子」

 ため息が口から零れ落ちた。ペットショップの店内には、ガラスケースが並んでいる。数にして二十以上はあるだろうか。その中に、生後一ヶ月未満の子猫が入れられている。アメリカンショートヘアー、ベンガル、ロシアンブルーなどの人気の子猫が、新しい飼い主を待っている。法律で八週目の子猫は販売できないことになっている。だが、守ったところで罰則もないので、証明できるはずがなく、ほとんどの販売店では守られていない。守っているところもあると思うが、二十年以上も前からの売り方を変更できないのだ。子猫は、小さければ小さいほど売れる。店としても、売れなければ商売は成り立たない。だから、小さな子猫たちを店に置くのだ。

 一番奥のショーケースの中に、ロシアンブルーの雄猫が体を丸くして眠っている。明らかに他の子猫とは一回り大きいのは、売れずに三ヵ月が経とうとしているからだ。人気品種なのに、なぜかこの子だけ売れ残ってしまった。

「そろそろ、ガシ、しなきゃかもね」

 時刻は午前九時になろうとしていた。午前十時が開店時刻なため、まだ誰もいない。ガシなんて聞かれたら、動物愛護団体に告発されるかもしれない。ガシとは餓死のことで、餌を与えず自然死をさせる。もちろん、従業員には内緒で、この子だけ別の場所に移す。半年を越した猫は売れ残ることが多く、この子も残念ながらそうなる確率が高い。

「ごめんね。次の子が来るから、空けなきゃいけないのよ」

 来週には、新しい子猫が届く予定だ。それまでに売れれば助かるのだが、可能性は限りなく低いだろう。

「ごめんね。こっちも商売だからさ、許してね」

 ガラス越しに寝ている猫に向かって謝った。

 幼い頃から憧れていたペットショップの店長になって、早五年が過ぎた。血統書の猫達を売ることは、華やかな世界だと勝手に思い込んでいた。けど、実際は華やかさなど微塵もない。一匹の猫をどうやって売ればいいかを、毎日のように考え続けなければならない。だから、客が来たらすぐに子猫を抱かせる。そうすれば、客は必ず購入を決めるからだ。

客をカモにする方法を初めて成功したのは、今から約二年前に遡る。この頃はまだ、子犬も販売していた。ある日、八十代の夫婦がやってきた。彼らはケージの中の子犬を目を細めて見つめていた。寂しさに植えていそうな姿を見て、夫婦が確実に子犬を購入するだろうと確信した。そして獲物を捕るハンターのように、夫婦に近づいた。

「どうですか、可愛いですよね」

「そうだね、かわいいねぇ」

夫の方に笑顔がこぼれた。

「一度、抱いてみますか」

 私はケージの中から子犬を抱くと、夫の方へと差し出した。二人は可愛いねぇ、と言い合いながら犬の頭を撫で続けた。

「でも、この子、大きくなるんでしょ」

「そうだよな、あんまり大きくなられると、散歩が大変になるんじゃないか」

 夫婦が不安を吐露し始めたところで、すかさずフォローを入れた。実はこの場面が一番重要で、相手の不安をすぐに打ち消すことで購買率を上げるポイントだ。

「そんなことないですよ。この子、思ったよりも大きくならないんで、散歩は無理なく出来きますよ」

 自信満々に言い切ったが、これは明らかに嘘だった。この犬種は、成長すると子犬の二倍以上になる。犬に強く引っ張られながら散歩している、老夫婦の姿が容易に想像できた。二人とも華奢な体格なので、散歩は苦労するだろう。それでも、こっちの都合の方が最優先だった。早く売りたい。早く売って、別の子犬を店頭に並べなければという思いが先行した。そうしなければ困るのはこっちの方なのだから。

「そう、じゃあ、飼ってみようか」

「そうね、わぁ、可愛いわぁ」

 夫から許可が出て、妻は嬉しそうに子犬の頭を撫でた。

これで何とか首が繋がった。そう感じたことを、今でも鮮明に覚えている。とにかく売れればいいのだ。その後、相手がどういう状況になろうと私には関係ないことだ。

「武田店長、おはようございます」

 従業員の浅野夢子が出社してきた。時刻は、九時四十分になろうとしていた。

「おはよう。今日も、よろしくね」

 私はその場から離れると、足早に奥にある事務所の方へと足早に向かった。理由は、ポケットの中の携帯のバイブレーションが鳴っていたからだ。

「もしもし? 今仕事中だから、手早くしてね」

〈何だよ、つれないな。そんな言い方しなくてもいいじゃん〉

「ちょっと、ふざけないで。何なの? 用は」

 電話の相手は、恋人の拓海だ。年齢は、私の三つ下の二十七歳。ネットサイトで知り合った。

〈じゃあ、怒らないで聞いて欲しいんだけど。また、足りなくなっちゃった〉

「また? 昨日五千円あげたばっかじゃない」

〈そうなんだけどさ……〉

 拓海の口調が重いのは、何かを隠している証拠だった。

「またやったの? パチンコ」

〈あれ? バレちゃったか〉

 拓海の笑い声が耳元で聞こえた。普通なら怒りがこみ上げるのだろうが、何故か私の場合はその逆だった。彼のことは、手のかかる弟のような感じがしてしまう。

「仕事、探してるんじゃないの?」

「探してるさ。毎日、面接に行ってるし。でも、ちょっとは息抜きしないと」

「もう……分かったわ。帰ったら用意しとくから」

〈サンキュー。いつもすまないね。恩に着るよ、武ちゃん〉

 彼は、私の名前を呼んだことがない。「武ちゃん」と苗字を茶化して呼ぶことに、今はもう慣れてしまった。電話を切ると、鞄の中から財布を取り出し現金があるかを確かめた。中には、昨日降ろしておいた五千円札しかなかった。これで、明日からの食糧や日常雑貨を買おうと思っていたのに 。

「はぁ。またおろしておかなきゃ」

 この間もこんなことがあったばかりだ。その時は、客と接客中だったので多少イライラしたが、拓海の姿を見ると何故か許してしまう自分がいる。

「店長。店、開けますね」

 ドアの向こうから、浅野の声が聞こえた。ドキリと胸が高鳴った。まさか、今の会話を聞かれてはないだろうか。いや、そんなことないか。ドアを挟んで部屋の声が聞こえるわけがない。

「よろしく、お願い」

 声のトーンを上げて返事をした。拓海の存在は、両親にも話していない。友人にも、妹にさえ話していない。何故だろう、誰にも知られたくなかった。それは、二度と失敗したくないという気持ちが強いから。何とか結婚まで漕ぎつけたいという、慎重な思いが心の中で混ざり合っているからだろう。

 店の中に入ると、既にシャッターが開き、浅野がガラス窓を拭いていた。店は繁華街に近い場所にあり人通りも多いので、週末になると多くの客で賑わう。

ケージの中の子猫たちはというと、丸くなって寝ていたりおもちゃで遊んでいたり様々だ。

 今日も多くの猫を売らなければならない。それは、自分のためでもあるし拓海のためでもある。彼が仕事を見つけるまで、それを続けなければならない。無事就職出来たら、今まで貸した金額を返済してくれるという約束だ。今まで彼に渡した金額は、約二百万円。もしかすると、それ以上かもしれない。だけど、後悔はしていない。拓海は必ず就職して私の借金を返済してくれる。そうに決まっている。

「いらっしゃいませ」

 珍しく、開店と同時に客が入店してきた。女の子と両親の、親子三人連れだった。

「うわぁ、可愛いー」

 女の子は、ショーケースの中のアメリカンショートヘアーを嬉しそうに見つめている。手に取ると壊れてしまいそうな体重の子猫は、本当は売ってはいけない。本来なら生後八週目を過ぎた子猫から順次販売することができる。だが、ここの子猫たちは、全てが生後五週目の猫しかいない。昨年、法律が制定されたので法律違反なのだがそれを守っていては商売が成り立たない。それに、今のところペナルティーどころか法で罰せられることもない。私の店だけでなく、他のペットショップも同様のことを行っている。暗黙の了解というわけだ。

「パパ、触りたーい」

 娘は、父親の右腕を引っ張りながら小刻みにジャンプして甘え続けている。困った表情の父親に対してすかさず声を掛けた。

「ご希望ならお持ちしましょうか」

「えっ、いいんですか」

「いいですよ。少々お待ちください」

 私は微笑みながら、扉の中へ入ろうとした。ノブを回したところで、家族の方へと一瞬だけ視線を向けた。

「よかったなぁ。抱っこ出来るってさ」

「やったー、うれしー。ねぇ、ママも嬉しいでしょ?」

 娘は、母親の方へ向かって喜びを爆発させた。しかし、当の母親の方は、腕を組んだままソッポを向いている。どう見ても、女の子の気持ちに同調しているとは思えなかった。というより、ずっと不機嫌そうに口をへの字に曲げていて怒っているように見えた。夫婦仲は冷え切っていると読んだ。そこから一つのストーリーが浮かび上がってくる。

 何れ親子はバラバラになるだろう。

 こんなことを思ったのは、今回の親子だけではない。半年前にここに来た三十代夫婦もそうだった。妻がアビシニアンを嬉しそうに抱いている傍で、夫の方が終始眉間に皺を寄せていた。明らかにペットを飼うことが好きではないという印象を受けた。その後一ヶ月もしない間に夫の方から電話があった。離婚が成立したので、ペットを引き取って欲しいとのことだった。売買が成立してしまったので出来ないというと、返金はしなくていいからそれでも引き取って欲しいと懇願された。私は無理ですと断り続けると、諦めたのかそのまま電話を切った。ペットを手放す理由として、離婚するという理由は思っている以上に多い。他にもリストラなど経済的な理由や病気になったなど、止む負えず手放すこともある。

その後、猫がどうなったか知る由もない。ほとんどが県が管轄する動物愛護センターに相談する。最近は断られてしまうことも多いので、山奥に遺棄してケースも少なくない。

 でも、手放した動物のその後がどうなろうと、私には関係のないことだ。冷たいようだが、これがビジネスというものだ。ペット業界は必ずしも安泰ではない。少子高齢化で、ペットを飼う人は減っていくのは目に見えている。その中で生き残らなければならない。ライバルのペットショップから、いかに客を奪えるかが勝負の分かれ目になる。この先、厳しい生競争を勝ち進むためには、多少の不幸は見逃さなければならない。

 拓海へのお金。結局はそれに繋がっている。それと同時に、自分は何のために働いているのだろうと考える。毎日のように自問自答するけど、答えの出る日は訪れる気配すらない。

「すみませーん。この子、買います」

 父親が財布からクレジットカードを出すと、私の方へと向けた。娘はアメリカンショートヘアーの子猫を両手で大事そうに抱えている。猫が飼えることが相当嬉しいようだ。

しかし一方で、母親に対して相当気を配っていることがヒシヒシと感じる。先ほどから母親の顔をチラチラと見て、ご機嫌を伺っているからだ。当の母親はというと、携帯をいじりながら一向に顔を上げようとはしない。どんな顔の表情をしているのか見えないことが、女の子の不安を掻き立てているに違いなかった。それは、傍にいる私にも伝わってきた。私は重たい空気を打ち切るように、言葉を発した。

「ありがとうございます。支払回数は、どのようにしますか?」

「支払回数は……どうしようか」

 父親は、母親へと視線を向けた。相変わらず母親は携帯を見つめながら、父親と視線を合わせようとはしていない。父親は、わざとだと思うが苦笑いを浮かべながら言葉を続けた。

「三十万だから、一括払いは無理だよねぇ」

「は? 何言ってんの」

それまで俯いていた母親は、突然顔を上げた。

「三十万円なんて、無理に決まってるじゃない」

 母親の言葉に、私も言葉を失った。凍り付いた空気を溶かすように、父親は苦笑いを浮かべながら答えた。

「そ、そうだよな。そりゃ、分割に決まってるよな。ハハハハハ……」

「ホントは払いたくないんだけど、あなたがどうしてもって言うから、仕方なく払うのよ」

「おい! この子の前で言うなよ。勉強頑張ったご褒美に、猫を飼うって約束してただろ」

「それは、あなたが勝手に決めたことでしょ。私は賛成してないわよ。大体、勉強頑張るのは当たり前のことじゃない」

 黙っていた母親は、怒りを爆発し始めた。

「勉強頑張った? この間のテストだって、百点満点じゃなかったし」

「おい、ちょっとやめろよ」

「この子の成績じゃ、私立は無理だって先生に言われたわ。私の子供なのに、どうして無理なのよ。私が入学できたのに、どうしてこの子は入れないのよ」

「おい! やめろよ!」

「大体、あなたが甘やかすから、物でつられるような人間になっちゃったじゃないの!」

「おい、やめろって言ってるだろ!」

 父親は、母親の頬を平手打ちした。キャーという叫び声と共に、母親は床に崩れ落ちた。同時に母親の携帯も、床を滑るようにして私の足先で止まった。

「お前がレベルの高い学校に入学できたとしても、自分の子に強制するのは間違ってるぞ!」

「冗談じゃないわよ! この子には、私みたいに苦労はさせたくないから言ってんでしょ!」

「お前……俺のこと、そんな風に思ってたのか」

「……それは、その……」

自分が言い過ぎたと気づいたのか、それとも娘が泣き出したことに動揺したのか、母親は急に黙り込んでしまった。そして、娘の泣き声が店に響き渡っていた。

「あの……どうしましょうか? 今日はキャンセルしますか?」

 さすがにこの状況でゴリ押しは無理だと感じた。しかし、父親の決心は固く子猫の購入を決めた。

「ありがとうございました」

 親子の背中に頭を下げた。母親は、支払い手続きをする前に、さっさと店を出て行ってしまった。その一方で、父親と女の子は嬉しそうに顔を見合わせて談笑をしている。まるで母親がいなくなって清々したという雰囲気さえ感じる。そして、二人の姿を見てホッとする自分がいる。二人の間には、もう母親は必要ないのではないか。そんな思いにもさせた。

「お買い上げ、ありがとうございました」

 猫が入った段ボール箱を手渡すと、女の子は嬉しそうに両手で抱え父親に向かって笑顔を浮かべた。そして、二人は顔を見合わせながら店を出ていった。

「大丈夫ですかね」

 二人の後ろ背中を見ながら、隣で浅野がつぶやいた。

「そうね。あの母親、本気で怒ってたものね。娘さんと仲良くして欲しいわよね」

「あっ、いや、そっちじゃなくて、猫のことですよ。可愛がってもらえますかね」

 浅野は、子猫の行く末を本気で心配しているようだった。あの様子だと、母親は動物が苦手なはずだ。

「女の子がきちんと世話するわよ。しっかりしてそうだもの」

「じゃあ、両親が離婚したらどうするんですか。もしかしたら、母親の方に女の子は付いていくかもしれないですよ」

「それが問題なの?」

「奥さんの方に子供が引き取られたら、猫は置いて行かれますよ。きっと」

「でも、そうなったら父親が育てるでしょ」

「いや、そうとも言い切れないですよ」

「何で?」

「父親は、娘さんのために買ったんですよ。猫に興味なきゃ、捨てますよ」

 浅野は名探偵のような推理をし始めた。でも彼女の想像は強ち間違っていない。ペットを手放す理由として、病気になったとか高齢で育てられないなどの他に、離婚したからというのも少なくないからだ。

「店長は迷ったことないんですか?」

「迷うって、売ることを?」

「正直、売りたくないって思ってしまいました。さっきのお客さんに」

 浅野はすみませんと言って私に詫びた。気持ちは分からなくはない。私だって、似たような体験はしたことがある。

その中でも印象的だったのは、数年前に店に訪れたあるカップルの話だ。男性は化粧をしていたのでホストだとすぐに分かった。女性も派手な服装と髪型をしていたので、ホステスだろうことも分かった。

「ねぇ、この猫、かわいいねぇ」

二十代ぐらいの女性は、男にロシアンブルーの猫をねだっていた。二人が購入した子猫は、確か六十万前後だった。どうやら女性の誕生日のお祝いのようだった。その時の二人の表情が対照的だったので、特に記憶に残っていた。猫を抱いている女の表情はとても嬉しそうなのに対して、男は明らかに不満そうだった。二人の間にどんな約束事があったかは定かではないが、私の予想では女は男に相当なお金を貢いでいたのだろう。女からの頼みを断れない男は、仕方なく女に高額なプレゼントをした。一方で女も男から血統書付きの猫をプレゼントされたことで、「特別な女」という自己満足に浸りたかったのかもしれない。彼からこんなプレゼントされるのは私だけ。そう思いたいのだろう。

私と一緒だ、と心の中でつぶやく。男に貢ぐ理由は、特別な女でいたいから。困った時に彼を助けてあげられるのは私だけ。自己満足に溺れるのは、究極のエクスタシーなのだ。  

ロシアンブルーは女を見栄え良くするだけの道具でしかない。もし男に興味がなくなったら、女は簡単に猫を捨てるはずだ。女の横顔を見ながら、そう思ったことを今でも覚えている。そんな客を私は今までたくさん見てきた。

だからと言って、売れた猫の行く末を心配したことは一度もない。お金をもらえればそれでいい。

「さあ、仕事しましょう」

 私は両手を軽くたたくと、浅野に仕事に就くように促した。

「はい、分かりました」

浅野は相槌を打ちながら仕事につこうとした。だが足を止めて私の方をチラリと見た。何か言いたそうな表情をしていた。

「何?」

「いえ……何でもないです。今日も忙しくなりそうですね」

 浅野はそう言って、ショーケースの中をアルコールで掃除し始めた。何か言いにくいことがあるのか。もしかして、事務所の会話を聞かれていたのか。だとしても、誰と話していたのか浅野は知る由もない。彼女に限らず、私が男に貢いでいるなど想像するはずがないじゃないか。特に化粧や服装に気を配っているわけでもないし、むしろ地味な出で立ちなことを自覚している。彼女の前で男の話は一切したことがないので、私のことは男に疎い女だと思っているはずだ。


 仕事が終わってアパートへ帰宅すると、深くため息が出た。

「……今日もいないのか」

 拓海は今日も帰宅していなかった。拓海とは半同棲状態が三か月続いている。でも、深夜近くに帰宅する私とすれ違いでどこかに出かけていってしまう。私の帰宅が早い時は一緒に食事を取ることもあるが、最近はほとんどない。携帯を取り出すと、拓海へと連絡をとった。

「あー、もしもし、拓海君? 今どこにいるの?」

「あっ、武ちゃん。どした?」

「お金、必要なんでしょ」

「あっ、あぁ、そうだね」

「今どこ? どこにいるの?」

「今? 今は……バイト先」

「バイト? 何のバイト? そんなの聞いてないよ」

「ちょっと前に見つけたんだ、深夜のバイト」

 深夜のバイトが何なのか、頑なにしゃべらなかった。もっとしつこく問い詰めればいいのに、私はここでいつも折れてしまう。

「いつ帰れるの?」

「うーん、そうだな……朝には帰れると思う」

「そう。じゃあ、テーブルの上にお金、置いとくから」

「悪いね、武ちゃん。今度、晩飯おごるわ」

 そう言うと、拓海は電話を切った。なぜだろう、彼の声は少しだけ弾んでいるように感じた。彼は何の仕事に就いたんだろう。どうして私に一言いってくれないの? そうやって言いたかった言葉を、心の中で反芻する。なんでいつも電話を切ってから後悔するのだろう。いつもそうだ。拓海は一方的に電話を切ってしまう。自分の話だけして気が済んでしまうのだ。だけど、こっちはそうはいかない。独り言のように愚痴が口をついて出てくる。どうして拓海に対して強い口調で反論出来ないのだろう。

「はぁ……もういいや。お風呂入ろう」

 体がクタクタな時は、熱めのお湯に入って早く布団に入って寝る。それが一番のストレス解消法だ。

「あっ、そうだ」

忘れないうちに澄ませておこう。財布から五千円札取り出し、テーブルの上にそっと置いた。

 

 翌朝、テーブルの上の五千円札はなくなっていた。いつ、取りに来たのだろう。拓海の帰ってきたことに全く気付かなかった。そのことを確かめたくて、携帯に手を伸ばそうとした。

「……まあ、いいか」

こんなこと、今に始まったことじゃない。連絡を取ったとしても、仕事が終わったばかりで寝ている可能性が高い。やっても無駄だ。

「さて、コーヒーでも飲もうかな」

 重い腰を上げて流し台へと向かった。ポットに水を灌ぐと、ボタンを押してお湯を沸かす。食器棚の扉を開けて、花柄模様のコーヒーカップを取り出した。右手の親指が隣の青色のコップに当たって少しずれた。それは拓海のコップだ。私が拓海のために買ったのだが、いまだ一度も使われていない。でも、私はそのことを咎めたことはない。そんなこと気にするほど軟な女ではない。

 着替えてアパートを出ると、徒歩で店まで向かう。徒歩二十分ほど掛かるが、健康のためにそうしている。と言いたいところだが、バス代を浮かせるためにそうしている。拓海のためにそうしているのか、と問われればそうかもしれない。でも、そうですと胸を張って言えない自分もいる。私は何のために働いているのだろうか。そんなことを考えながら歩いていると、アッという間に店に着いた。ガラス窓に目をやると、中で浅野が箒で床を掃除しているのが目に留まった。

「おはよう」

「あっ、店長」

「何? 何かあったの?」

 浅野が何か言いたそうなのはすぐに察知できた。箒を床に立てかけると、小走りで私のもとに来た。

「昨日、子猫を買いに来た親子いたじゃないですか」

「あぁ、あの喧嘩してた親子ね」

「さっき、父親を駅で見かけたんですけど、携帯に怒鳴ってたんですよ。多分、奥さんと口喧嘩だと思います」

 父親は昨日とは打って変わってスーツ姿だったという。

「あの感じだと、すぐに決着つきそうですね」

「決着って、離婚するってこと?」

 浅野は自信満々にうなづいた。

「私、そういう勘、当たるんです」

「そう、なんだ」

 人の不幸を喜ぶようで複雑な気持ちになった。

「店長」

「何?」

 浅野は何時にも増して、真剣な表情をしている。何かシリアスな頼み事だろうか。まさか、店を辞めるとか言い出すのだろうか。

「店長にも、いいことあるといいですね」

「え? どういう、意味?」

「いえ、そんな深い意味はないです」

「……それも、勘?」

 浅野はそれには答えよとはせず、そそくさと箒を持って奥に引っ込んでいった。

私は胸に手を当てその場に佇んだ。一瞬、心の中を見透かされているようでドキリとした。拓海のことで悩んでいたので、それが顔に出ていたのだろうか。思わず、右手を頬に当てた。確かに、自分でも笑顔よりも眉間に皺を寄せることの方が多くなっている。お客様の前では自然と笑顔が作れるのに、どうしてプライベートではそれができないのだろう。やはり、お金のためなのだろうか。自分でも分からなくなる。

それから一週間後、浅野の勘は見事的中することとなる。


それは、出勤途中の真っただ中に起こった。住宅街を歩いていると、赤い三角屋根の住宅の中から、突然女の子が飛び出してきた。

「……あれ? あの子、確か」

 アメショーの女の子だった。女の子は大声で泣きじゃくりながら、自宅の方を見つめていた。そして母親が出てくると、女の子の手を取り足早に大通りの方へと向かい始めた。

「ヤダぁ! パパと一緒にいるぅ!」

「ダメよ! ママと一緒に行くの!」

 母親は女の子を引きずるようにして、速足で歩いていく。女の子が抗って抵抗するたびに、母親は強く腕を引っ張り続けた。そしてタクシーを捕まえると、逃げるように去っていった。

 私は目の前での出来事に驚きを隠せず、しばしその場で棒立ちになった。家族の顛末を予想していたこととはいえ、まさかこんな形で状況を確認できるとは思っていなかった。だがさらに驚いたのは、その後のこと。なんと、女の子がこちらの方へと走って戻ってきたのだ。

「マミ!」

 自宅から出てきたのは、父親だった。

「パパ!」

 マミちゃんとお父さんは、私の目の前で抱き合った。二人とも大声をあげて泣き続けている。

「パパのそばにいる!……パパがいい……」

「マミ……ごめんな……パパが優柔不断だから……俺が悪かった」

「これからも、いっしょにいてくれる?」

 不安そうな娘の顔を見つめながら、父親ははっきりと答えた。

「あぁ、ずっと一緒だ」

 そう言って娘を抱きしめた。そして父親は娘の肩を抱きながら、家の中へと入っていった。その時だった。女の子と目が合った。そして私に向かって微かではあるが微笑んだのだ。その表情は全てを吐き出してスッキリしているように思えた。母親の前では素直な気持ちを言い出せず、ずっと我慢していたのだろう。勇気を持って自分の気持ちを表現したからこそ、幸せを勝ち取ったのだ。その時携帯が鳴った。

「もしもし。 武ちゃん?」

 拓海の声は弾んでいるように聞こえた。何かいいことでもあったのだろうか。

「ねぇ、武ちゃーん。またお金なくなっちゃった」

「……いくら?」

「えっと、2万円。そんで悪いんだけど、今すぐ欲しいんだ」

「今って、これから仕事に行かなきゃ」

「ごめん、こっちも急ぐんだ。後で取りに行くから、机の上に置いといて」

「えっ、ちょっと待ってよ!」

電話を切ろうとする拓海に向かって、思わず声を荒げてしまった。

「えっ? 何だよ」

私が抵抗したような反応を見せたことが気に食わなかったのか、拓海も少し怒気を含んだ声で尋ねた。その声に私は思わずたじろいだ。

「な、何時までに、置いておけばいいの」

「今すぐ。それじゃ」

今度こそ電話を切ろうとした瞬間、私のそれまで我慢していた心の声が爆発した。

「冗談じゃないよ! いい加減にしろよ! お前」

「……た、武ちゃん……ど、どうしたの」

「あんた、女のところにいるんだろ! 仕事してるって嘘つくんじゃねーよ! こっちは寝る間も惜しんで、朝も昼も夜も働いてんだよ! あんたのために、稼いでんだよ! お前、金を何に使うんだよ! 女に使うんだろ! 全部分かってんだよ! じょ……」

 冗談じゃないよ、と言おうとしたら電話が切れていることに気が付いた。

「……冗談じゃないよ」

 小声でつぶやき、ため息がこぼれ出た。

ふと視線を感じ自宅の二階窓へと向けると、猫を抱いた女の子と目が合った。私たちはしばらく見つめ合った。そして、女の子が微笑んだ瞬間、釣られて私も微笑んだ。女の子は私に向かって手を振った。

「……あっ、あの猫」

 女の子が抱いている猫が、餓死させようとしていたロシアンブルーの顔に変わった。ロシアンブルーは虚ろな目で私を睨みつけている。そして次には、別の猫の顔に変わった。それは、同様に餓死させた猫だ。同じように私を睨みつけている。次々と変わる猫は、私にとって十字架だ。私はこの先ずっと、十字架を背負いながら生き続けていくのだ。


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