企画課の星野さん
「セレスティア彩乃」の「急死」から3年後。彼女は本名である「星野彩乃」として、東雲商事の企画部企画課に勤めている。東雲商事の会長は、セレスティア彩乃のプロレス団体「エターナル。リング」の会長とも懇意であり、星野彩乃の過去に関しては、会社の上層部の、しかもごく一部しか知らない。
彩乃が東雲商事の企画課に働くことに決まったことを聞いたクイーン・ヴィクトリアこと高峰美紀は、
「彩乃さん、新しい道を見つけたのですね。きっと、向いてますよ」と賛同してくれた。
オープンカフェの一スぺ―スだ。今日の高峰佐紀は薄いイエローのブラウスにブラウンのスカート姿。星野彩乃はフチなしの眼鏡をかけ、シルバーのセーターに紺のパンツスタイルだ。この二人が、ヒールレスラーのクイーン・ヴィクトリアと、今は亡き伝説の女子レスラーとされているセレスティア彩乃だとは、誰も気づきはしないだろう。
「私も表向きは、パソコン関係の会社をしていますが、意外とレスラーって、ただ強いだけじゃなくて、チームワークや戦略が大事なんですよ。霧島恵美さんが、役員をされているのもそうですよ。ヒールのクイーン・ヴィクトリアを維持するために、高峰美紀としての生活が重要だったりするんです」
「そうなんですか、美紀さん、意外だなあ」
彩乃は少し驚きながらも共感を覚えた。
「だって、リング上でやっているみたいに、普段からあんな乱暴でわがままだったら、ヒール軍団自体が崩壊しちゃいますからね」と美紀は笑った。
「だから、彩乃さんは、リングからは離れましたけど、今までの経験はきっと生きると思いますよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」と彩乃は微笑む。
「でも、最初は不安でいっぱいなんです。新しい環境に馴染めるかなって」
美紀は頷きながら言った。
「私も最初はそうでした。でも、焦らずに自分のペースで進んでいけば大丈夫。仲間がいることを忘れないで」
彩乃はその言葉に勇気をもらい、前を向く決意を固めた。かつては強敵だった彼女から、こうした言葉をもらえるのも、自分が引退して生きるという選択をしたからだと実感する。
実際、企画課の仕事は彼女自身でも驚くほど合っていた。直観力や胆力、それに特にチーム力といった、リングで培った力は、意外な形で今の仕事に生きている。直属の上司の石井健一は、柔道をやっていたそうで体格がしっかりとして、頼れる人だ。同僚の黒川卓也は、お調子者ではあるが、企画力・決断力には目を見張る。横井恵子は経験豊富で、彩乃にとってはよいアドバイザーだ。新人の鈴木翔太は、素直でまじめでいつも頑張ってくれている。
スーツで過ごすという商社の文化も、彩乃にとってはありがたかった。現役は引退したとはいえ、彼女の体格は、普通の女性らしくない筋肉質だった。夏でもエアコンがよく効いた社内なら、一年中、長袖で過ごしても違和感はない。
「やっぱり、彩乃さんはすごいな!」と黒川が笑顔で言った。
「この企画、君が考えたって聞いたよ。さすがだね!」
彩乃は少し照れながらも、「みんなのアイデアがあってこそだよ」と応じた。チームの絆を感じながら、彼女は新たな挑戦に心を躍らせた。プロレスからは離れたが、今、彼女は新たな挑戦に挑んでいる。
「でも、彩乃さんがいなかったら、ここまで来られなかったよ」と横井が頷いた。彩乃は微笑みながら、ふと過去の自分を思い出す。あのリングの上での熱気、仲間との絆。それは今も彼女の心の支えだった。「これからもみんなで力を合わせていこう!」と決意を新たにした彩乃。彼女の未来は、まだまだ輝いている。
リングから完全に離れたことで、あの頃のことを冷静に考えることができるようになった。
もし、あの時、神崎真理子の説得を自分が受け入れなかったならどうなるのだろう、もう一度リングに立ちたい、引退なんて耐えられないと叫んだ時の自分。自分があの時、押し切れば、最終的には真理子は受け入れただろう。多分、1、2試合くらいは闘えただろう。観客席の歓声、リングの感触……。しかし、その次は……! その瞬間、彼女は心の底から戦慄した。クイーン・ヴィクトリアに勝利したゴングが鳴り響いた後の記憶がよみがえる。声がだんだん遠くになり、目に見えるものがぼんやりとしてきて…。自分は絶対にあそこに戻ってはいけないのだ。大切な家族、神崎真理子、霧島恵美、会長、今は戦友であるクイーン・ヴィクトリア…。引退を決意した後の、みんなの笑顔が思い浮かんだ。
「本当に大切なものを自分は失いかけていたんだな…」と彩乃は思う。それを守るのが今の自分の闘いだ。
「星野さん、大丈夫? 顔色悪いわよ」 同じ企画課の福原さんが心配そうにのぞき込んでいた。
「うん、ちょっと考え事してただけ」と彩乃は微笑みながら答えた。
「大丈夫ならいいけど、何かあったら頼ってね」と福原さんは優しく言った。
彩乃はその言葉に感謝し、
「ありがとう、福原さん。みんながいてくれるから頑張れるよ」
と心から応じた。机に戻り、次の企画案を考えながら、彼女は新たな挑戦への意欲を再確認した。あの時の選択があったからこそ、今、こうした仲間がいるのだ、と彩乃は再確認するのだった。