あ、既視感
「イングリッド、お前との婚約を破棄する!」
静かな図書室に、一人の男子生徒の声が響いた。
婚約破棄? たしか意味は……結婚の約束を無かったことにする、だ。
しかし、破棄とは穏やかではない。どちらかが有責になってしまう。
「慰謝料は高いぞ」
それは素晴らしい。破棄すると宣言して、高い慰謝料を払うと公言するとは。
わたしは読んでいた本から顔を上げた。
「お幾らぐらい、いただけますの?」
ようやく相手をしたわたしに、婚約者がホッとしたのも束の間、憤怒の相を見せる。
「お前が払うのだ。当たり前だろう?」
「なぜですか?」
「お前が、僕に相応しくあろうと努力しなかったからだ。
地味だ地味だと指摘してやったのに、華やかに装うこともしない。
お茶会に誘っても、地味さを助長するようなドレスで来る。
勉学の成績がいいからといって、貴族らしさをおざなりにするとは。
じゅうぶん、慰謝料の請求理由になるはずだ」
「はて? 確かにお茶会に誘っていただきましたが、貴方からドレスを贈られた覚えがございません。となれば、不足と思われようと、手持ちのものを着るしかありません。
学園在学中という、言ってみれば脛齧りの身分でお茶会に出席するというのも、そもそも身の丈に合っていないと思いますけれども。
貴方もわたしも実家は子爵家で、お互い裕福な懐事情ではないのです。
無理な付き合いはしないと、婚約の時に家同士で決めたはずです。
貴方も、その場にいらっしゃいましたよね?」
「相変わらず、女のくせにぺらぺらと!」
婚約者は言い訳の在庫が不足してくると、キレて誤魔化そうとする。
語彙力が足りないと思うが、面倒なので指摘は控えた。
「それはともかく、慰謝料を得たとして、それをどうなさるおつもりですか?」
「それを資金にして、もっと上を目指すのだ。伯爵家以上の家へ、婿入りを目指す」
「その成績で? そのルックスで? その剣技の腕で?」
ほぼ、条件反射で言葉が出てしまう。
「うるさいうるさいうるさい!!!」
「申し訳ございません、ここぞというツッコミどころだったので、ちょっと言い過ぎました」
「かなり言い過ぎだ!」
「そうですか? 単なる事実を並べたのみですが」
「まったく、可愛げのない女だ!」
「それは自覚しております」
そこまで言った時、司書の一人が歩み寄って来た。
「お二方とも、続きは学園長室でお願いいたします」
「学園長室?」
婚約者はギクリとした。
図書室では静かに、という常識を忘れていたようだ。
時と場所を弁えろと言いたいところであるが、今回はわたしも共犯。
「わかりました。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
売られた喧嘩を買ったわたしにも、半分は責任がある。
大人しく学園長室を目指すべく、図書室を出た。
ところが発端の婚約者は卑怯にも、廊下に出たところで無関係な振りで去ろうとする。
「失礼、学園長からご案内するよう申しつかっておりますので」
しかし、待ち構えていた学園長の秘書に阻まれた。
秘書は若い男性で、しなやかな身体つきは細マッチョの騎士のごとし。
まったく隙が無い。
「学園長からの呼び出しを無視すると、長期休暇に反省合宿に放り込まれますが、よろしいですか?」
「……し、従います」
地獄の反省合宿は有名だ。
どんな問題児も人が変わったように従順になるとか。
そして従順になれなかった者は、学園に残れないとか。
学園の入学は貴族として必須ではないが、入ったのに卒業できないとなれば社交界の噂に上ってしまう。
嫡男であれば、その座から下ろされることもあるらしい。
わたしたちは大人しく連行され、学園長室に到着。
学園長は、これまた文系のくせに身体鍛えてる系のイケオジである。
「図書室で、婚約破棄を言い出したんだって?」
「え、その、僕は……」
婚約者はしどろもどろ。
仕方なく、わたしがフォローする。
「わたしが地味すぎて、彼に相応しくないそうです。
わたしの有責で破棄し、慰謝料を請求すると言われました」
「ドグラス君の方が婿入り予定だと記憶しているが?」
「……はい」
「婿入り先の家風に合わせるのが常識かと考えていたが、最近は違うのかな?」
「当家も彼の家も、質素倹約を旨としておりますが、彼はそれが不満なようで」
「なるほど。よくわかった。
ドグラス君は、自分の気質と合わない生家の方針に感じた鬱憤を、婚約者のイングリッド嬢で晴らそうとした、というわけか」
学園長は、実に端的にまとめてくれた。
「い、いえ、そんなことは……」
「では、私の誤解が解けるように、しっかり説明してもらえるかな?」
何も考えていなかった婚約者は脂汗を浮かべるのみで、一言も申し開きが出来ない。
良い笑顔の学園長は、匙を投げた。
「ふむ、仕方ないね。今日のところは寮に戻り給え」
「……失礼します」
翌日は、学園の休日だった。
ゆっくり寝ていたかったけれど、朝の眩しい日差しに目が覚めてしまった。
あまり色気はないけれど、肌触りの良いネグリジェに揃いのガウンを羽織ってテラスに出る。
ぐーっと伸びをして、爽やかな空気を吸い込んだ。
手摺まで進んで下を見れば、庭を歩く従兄と目が合う。
「お早うございます、ヴィンセントお従兄様。
今朝も鍛錬に気合が入っていますわね」
「今起きたばかりのくせに、なぜ、私が気合の入った鍛錬していたとわかるんだ?」
彼の視線をたどり、自分の頭に手をやれば、とかしていない髪はくしゃくしゃのまま。
取り繕っても今更なのでスルーする。
「……シャツの袖を思いっきり捲り上げていらっしゃるし、胸のあたりが若干、汗ばんで張り付いているように見えます。そして今朝は、そこまで気温が高くないので」
「正解だが、お前には少々恥じらいが欠けているな」
従兄の指摘は悪意からではない。あくまでも事実を述べている。
「可愛げもないらしいですわ」
「そうなのか? 私はお前を可愛いと思うが」
「身内の慰めは、余計傷つきます。お気遣いは無用ですから」
「そうではないんだがな……」
従兄は頭脳明晰なのだが、時折わたしのことを可愛いと言うのが玉にキズ。
きっと、子供の頃によく遊んでもらったからだ。
読書で夜更かしした後の早起きだったので、のんびり過ごしていた午前中。
婚約者が先触れも無く訪ねて来た。
応接室に迎え入れられた彼だが、そこに居たメンツにさぞ既視感を覚えたことだろう。
「………」
「やあ、お早う。昨夜はよく眠れたかな?」
まず挨拶したのは、わたしの伯父。
「お、お早うございます学園長。
あの、どうして貴方が、イングリッドの家にいらっしゃるのですか?」
「確かに、彼女の家でもあるが、そもそもここは私の家だ」
「は?」
「君は、知らなかったのかな?
自分の婚約者の伯父が、学園長の私であることを」
「え……」
文字通り、婚約者の目が点になっている。
「君は、こう思ったんじゃないかね?
自分は寮生活なのに、婚約者は家から通っている。
婿入り先の子爵家は質素倹約と言いながら、王都に屋敷を構えるほどの余裕があるのだと」
「は、はい」
素直に返事してから、彼は慌てて口を押えた。
「茶会に誘った日に、一度でも迎えに来ていれば気付いたはずだ。
私も楽しみにしてたんだよ。可愛い姪の婚約者に、伯父として挨拶するのを。
それはともかく、今日は何の用で来たんだね?」
居心地悪そうにしながら、婚約者はわたしに話しかけてきた。
「昨日、寮に帰ったら父から手紙が来ていて。
婚約解消になるようなことをやらかすな、としつこく書かれていたんだ。
そういうわけだから、イングリッド、済まなかった。この通り謝る。
今後はなるべく気を付けるから、どうか許して欲しい」
そう言って、頭を下げる。
だが、手遅れだ。
「謝罪は要りません。
婚約解消して頂ければ十分です」
「そんな……父からは何としても婚約を続けろと」
強力な親戚を持つ娘と縁付かせたかった親心はわかる。
だが断る!
「いえ、他の方もいる場で婚約破棄を望まれたわけですし、今更取り消すのも難しいでしょう。
わたしたちは価値観が合いませんから、無理をする必要は無いと思います」
「僕がこれだけ頼んでも駄目なのか?」
彼の言葉に、わたしの心を動かす力は無い。
「ご縁がありませんでしたね」
学園長がいる手前、威圧感も出せず、婚約者はそのまま沈み込んでいく。
「どうやら、これ以上話しても時間を無駄にするだけだ。
この話は一旦、私が預かろう」
「はい……失礼しました」
婚約者はそのまま、すごすごと帰っていった。
「彼の父親は、学園長の影響力を理解した上で、イングリッドと婚約させたんでしょうね。なかなか抜け目がない」
今まで黙って控えていた学園長の秘書こと従兄のヴィンセントが、口を開く。
学園長の人脈はすごい。わたしと婚姻する相手の実家も、その恩恵を受けることになる。
「そうなんだろうね。息子には伝わっていなかったようだが。
イングリッドは、本当に婚約解消でいいんだね?」
「はい」
「君の父親から、いろいろ代理の権限を預かっている。
婚約解消も、それに含まれているよ」
「では、わざわざ領地に連絡を取らなくても、婚約は解消できるのですね」
「そうだ。ついでに、新しい婚約者を探すかね?」
「婚約よりも……出来れば勉強を続けたいんですけど」
「続けたらいいんじゃないかしら?」
扉から、新たな登場人物が現れた。
学園長夫人である。
「伯母様、お帰りなさい」
「母上、お帰りでしたか」
「話はだいたい聞かせてもらったわ。
イングリッド、跡取り娘の代わりはいても、自分がやりたい学問を代理でやってくれる人はいないのよ」
「はい」
実家には妹が二人いる。
どっちも領地大好きっ子だから、わたしが降りれば跡継ぎの座を巡って、熱いバトルを繰り広げることだろう。
女の子だから、主に舌戦で。
後は、枕投げとスリッパでのたたき合いぐらいはするかも。
「実は、伯母様と同じ地学の道に進みたいのです」
「地学か。大事な学問だが、出張が多いな」
伯父は溜息をついた。
ふっと微笑んで、伯母が夫の頬にそっと触れる。
彼女は帝国での研究発表会から帰ってきたところだ。
「地学研究所なら、わたしからも推薦できるわ。
そうしたら、この家に、このまま住めばいいし」
「わぁ、ありがとうございます!」
「いっそ、この家の子になっておしまいなさい」
「え、いいんですか?」
「すぐにでも養女の手続きを……」
意外にも、伯母は速攻で話を進めようとした。
そこで、なぜか慌て出したのは従兄。
「ちょっと待った!」
「ヴィンセント、何かしら?」
「養女の前に、私の婚約者の座が空いてます!」
「お従兄様!?」
わたしはポカンとしてしまった。
だって有り得なくないかしら?
「お気を確かに、お従兄様!
貴方は顔良し、頭良し、おまけに剣の腕は騎士団員ともやり合えるレベル。
更には世襲でもないのに、将来の学園長就任はほぼ確定。
婚姻相手として、引手数多の超優良物件ではありませんか!
わたしのような傷物を引き取らなくても……」
「お前は、自分のことを卑下し過ぎだ。
自己分析を盛れとは言わないが、もっと冷静に評価しろ」
「これがわたしです。可愛げがないでしょう?」
「いや、何度も言うがイングリッドは可愛いぞ」
そう言う従兄の顔は、いたって真面目。
「……お従兄様」
「何だ?」
「目の検査をお勧めしますわ」
「お前な……よし、わかった。
これからじっくり、私の気持ちを説明しよう」
「え? わたし、伯母様のお土産話が聞きたいです」
「まあまあ、今日のところはヴィンセントの話を聞いてあげなさいな」
「伯母様」
「最初の告白って、とても勇気がいるの。聞いてあげて?」
「告白。……告白? …………えッ!?」
「お前は、そこからか。よし、じっくり行くぞ!」
「ごゆっくりね。
そうそう、お土産の焼き菓子がたくさんあるから、お茶を用意させるわ」
「伯母様……」
伯母はにっこり微笑んで、伯父のエスコートで部屋を出てしまう。
残されたわたしは、ちょっと怒った顔の従兄の前で竦んだ蛙のよう。
「お従兄様、お顔が怖いです」
「済まんな。だが、私の顔は、こんなもんだ。
第一、私がお前のように可愛らしく微笑んだら、むしろ気味が悪いだろう」
「試しに可愛らしく笑ってみてください」
「……………出来るか!」
「でも、今、ちょっとやってみようかと思ったでしょう?」
「当たり前だ。お前の頼みなら、どんなことでも最低限、検討はする」
「そう言えば、お従兄様は昔から、わたしが無理を言っても、すぐにダメとは言わなかったですね」
「昔から、お前が可愛いと思ってた。大事だと思ってた。
お前の話は、ちゃんと聞きたい」
「昔から……えッ!?」
あ、既視感。
「ほら、お茶の用意が出来たようだぞ。
ゆっくり食べながら飲みながら、昔話から始めよう」
「……お手柔らかに」
彼はメイドを下がらせ、自らお茶を注ぎ、お菓子を取ってくれた。
しかも、教えなくても、わたしの食べたいものを選んでくれる。
わたしが小さい頃も会うたび、側に居てくれた。
転びそうなところを支えてくれたし、お菓子の取り分けでも、迷わずわたしの好みのものを選んでくれたっけ。
……なんて、感慨に浸れたのも最初だけ。
伯母の土産である焼き菓子よりも、従兄のわたしへの想いは甘い甘い!
それからじっくり二時間、わたしはそれを味わった。
「……お従兄様、これ以上はもう。甘すぎて胃にもたれます」
「何を言うんだ。まだ、ほんの序の口だぞ。
わたしと婚約すると誓えば、今日のところは勘弁してやってもいいが」
「お従兄様……」
そんな言葉も、真面目顔でおっしゃるのね。
これはもう、覚悟を決めるべきかしら?
婚約解消など、まるで昔のことみたいだ。
従兄はぐいぐいわたしの心の中に入り込む。
そして、心の奥底に眠っていた幼いわたしを揺り起こした。
『お従兄様!』
会うたび、真っすぐ駆け寄ったわたし。
幼いあの子の心の底にあった恋。
それを、今、見つけた。