Quatre-Quarts
結婚してから、週に一度はケーキを焼くことにしている。
小麦粉を1ポンド。バターを1ポンド。お砂糖を1ポンド。卵を1ポンド──。底の深い型で焼いた、断面が美しい台形の甘くてしっとりとしたパウンドケーキ。飽きないように毎回味を変えて、焼きあがって七日は寝かせておく。そうして食べ頃になったものが、常に二種類は戸棚に置いてあるようにしている。ココアやオレンジピール、胡桃にレーズン。ラム酒でドライフルーツを漬けることも覚えた。何も入れずに少し高級なお砂糖を使ってみたり、仕上げに塗るリキュールを変えたりもする。そうして作ったケーキを厚めに切って、コーヒーと一緒に毎日夕食の後夫に出すのだ。
「君のケーキは美味しいねえ」
夫は、ケーキを食べると毎日変わらず幸せそうに顔を綻ばせる。仕事で帰りが遅いときも、体調があまり良くないときも、実家との関係が芳しくないときも、それを私に隠しているときも、何も言わずに私のケーキを食べて、笑って息を吐く。
「君も一緒に食べてくれたら、もっと美味しいのになあ」
「焼くときの匂いだけでお腹いっぱいになっちゃうの。それに、あなたのために焼いているんだもの、全部あなたに食べてもらいたいわ」
そういうと夫は少しはにかんで「もう一切れ食べたいな」と小さく呟く。それに私は「喜んで」と微笑んでケーキを切る。
でも本当は、私は結婚してからパウンドケーキが食べられない。
結婚するまではケーキなんて作ったことがなかった。お菓子作り自体ほとんどしなかったし、そもそも付き合った人に手作りの何かを食べさせたこともなかった。でも甘いものは大好きだったから、相手の好みなど気にもせず連れ回して評判のお店を食べ歩いた。その中には、パウンドケーキが美味しいお気に入りの店もいくつかある。けれど今では、例えそれらの店に入ってもパウンドケーキを注文することはない。
「あなたがケーキを焼くようになるなんてね」
昔からの友人は口をそろえてこう言う。
「むしろ結婚する気になったことが不思議だけれど」
──あんな人と。
友人の言葉尻には、そんな台詞が灰色に滲んでいる。彼女たちからすれば、不思議でたまらないだろう。自分で言うのもおかしなものだが、私は男に不自由したことがない。それに胡坐をかいて多少婚期を逃してはいたけれど、周囲からちやほやされる程度にはまだ魅力があるはずだった。それが、夫のような垢抜けない十五も年の離れた男と結婚をしたのだから。
「また明日ケーキを焼くのよ。何が良い?バナナ?蜂蜜と檸檬の?」
「君が焼いてくれるなら何でも美味しいよ」
夫は、トースターで温めたチョコレートのパウンドケーキを食べている。本当に、まるでそれが至福の糧でもあるかのように一口一口大事そうに口に運ぶ。溶け出る熱いチョコレートに難儀しながらも、目を細めて頬張る。私はそれを見て自分も食べたいと思う。けれど、でも、いつも食べることはできない。
小麦粉を1ポンド。バターを1ポンド。お砂糖を1ポンド。卵を1ポンド。粉を振るって、バターを泡立てて──。
きっかけは些細なことだった。結婚をして仕事を辞めて、時間が有り余っていたのだ。打ち込むような趣味もなかったし、昼間のテレビの低俗さにも飽き飽きしてもいた。かといって、時間をかけて家事をするほどの真面目さも、一人で出歩くほどの奔放さもない。だから暇つぶしのつもりで、その時たまたま食べたくなったパウンドケーキを自分で焼いてみようと思ったのだ。
作り方は本棚に押し込んであった古い料理本に載っていた。それは、押し付けがましく義母から送られてきた沢山の料理本の中の一冊だった。
──なんて大量の砂糖とバターを使うんだろう。
今までまともにお菓子作りをしたことがなかった私は驚いた。
──この1/4が小麦粉、1/4がバター、1/4がお砂糖、1/4が卵。
初めてにしては難なく焼きあがって、味も何一つ欠点のないそれを、一口食べてはそんなことを考えた。
それから、食べ終わって義母に電話をした。面倒だったけれど、こういう機会に点数稼ぎをしておかないとさらに面倒になる人だった。
──お義母さんにいただいた本でケーキを焼いたんです。
──無駄にならなくてよかったわ。
──とても美味しくできたんです。今度また焼きますから、お義母さんにも送りますね。
──私を殺す気?
そして電話は切れた。
義母は長年糖尿病を患っていた。その所為で、自分の好きなものを食べられないことと死への恐怖にいつも苛立っている人だった。私は確かに不用意だったかもしれないが、もちろん他意はなかった。
私は面倒でたまらなくなった。全てを投げ捨てたくなった。これまで感じて来た怒りや不安がその時一斉に襲い掛かってきて、私は受話器を握ったまま泣いていた。
思えば披露宴も私の好きにできなかった。式場も招待客の席順も引き出物も全部義母が決めた。呼びたかった男友達がいたけれど、「花嫁の男友達なんて」と吐き捨てられた。少し胸の開いたウェディングドレスを選んだら義父に「この家の嫁なら弁えろ」と怒鳴られて白無垢と色内掛けしか着られなかった。それを夫はただにこにこと笑って見ているだけだった。
──君ならどんなものでも似合うよ。
一事が万事そうだった。一事が万事、そうだった。
──いつまでもお幸せにね。
──今が一番いいときね。
結婚に際してそんな言葉をかけられるたびに、私は自分の表の笑顔から引き離される気がしていた。
“幸せ”でないわけではない。それが分からないほどの愚か者にはなりたくない。けれど、私は夢を見すぎていたのだろうか?それとも、私が打算で夫を選んだことがそもそも間違いだったのか?そんなことをずっと、どこか遠い荒涼とした場所で私は考えていたような気がする。そうしたものが、あの電話をきっかけに意識の奥底からどろどろと溢れ出て、何もかも押し流していった。
一度抱いた疑念の芽は、もう二度と摘み取ることはできない。夢なら夢で現実を見てはいけなかった。現実なら現実で夢など見てはいけなかった。何も、気付いてはいけなかった。何も、考えてはいけなかった。だがそう気付いたときにはもう遅かった。
かと言って、世間体や先々のことを気にして夫との結婚を決めた私には、今更夫と別れることなどできるはずもなかった。
生地を型に入れてオーブンをセットしたら、私はいつも珈琲を用意する。家の近くにある小さな珈琲店で買ってきた豆を挽いて、じっくりとお湯の一滴一滴を確かめながら時間をかけて淹れる。カップ一杯の珈琲が落ちる頃には、お台所に甘い香りが満ちている。味と同じでその時々ケーキに入れたものによって香りも変わった。私はその香りに包まれながら珈琲を飲むためだけに、お台所に小さなカウンターチェアを置いている。今日は蜂蜜と檸檬を入れた。
生涯で二度目に焼いたパウンドケーキに入れたのも蜂蜜と檸檬だった。義母ではなく、夫に食べさせるつもりだった。砂糖とバターのたっぷり入ったケーキをそれから毎日毎日毎日毎日──夫に食べさせると、決めていた。
──この1/4が小麦粉、1/4がバター、1/4がお砂糖、1/4が卵。
あの日もそう呟きながら味をみた。すると、その檸檬と蜂蜜のパウンドケーキを口に入れた途端、それは魔法が解けるようにケーキではなくなってしまった。私は思わず口に入れたものを吐き出したくなった。
──小麦粉とバターとお砂糖と卵液、それから檸檬と蜂蜜が少々。
私は驚いてもう一度同じケーキを食べた。けれど、やはり同じだった。私の口に入った途端、ケーキはぐずぐずと崩れて元の材料に戻ってしまい、一方でねっとりと一方でさらさらと口中にへばりついた。甘いのか苦いのかも分からない不快なそれを、私はやはり吐き気を覚えながら飲み下した。
その時、お台所には西日が射し込んでいた。私は何が起こったのかわからず椅子の上で呆然としていた。
──私が何を間違ったというの。
秋になったばかりのまだ強い陽光が、蔦模様の小さな飾り窓を通して私の左手に落ちていた。その左手がじわじわと膨らんだような気がして、私は窓から離れた。それ以降薬指の指輪が擦れて痛むようになった。少し前までは難なく外せていたものが、抜けなくなってしまった。
──酷いのよ、前はうまくいったのに。
帰宅した夫にそう訴えると、夫は夕食前にケーキを摘んだ。私は、左手のことは黙っていた。
──とても美味しいよ。
──粉や砂糖に戻ってしまうじゃないの。
夫は目を丸くして口をぽっかりとあけた。その中でやはりケーキはケーキではなくなっていた。
──ほら。
──何言ってるんだ。そういうものじゃないか。
夫は何事もなかったかのようにそのケーキを平らげて、満足げに微笑った。
それから、私がパウンドケーキを食べることはなかった。
「最近職場でからかわれるんだよ」
「どうして?」
「『幸せ太りか』って」
夫は結婚してからどんどん太っていく。まるでオーブンの中の生地のように膨れていく。
「幸せじゃないの?」
卑怯な私はそう尋ねる。
「幸せだよ」
優しい夫は私の出したパウンドケーキを頬張りながら、そう答える。
私は──結婚してからパウンドケーキが食べられない。