クリスマスに・静かに森に佇む別荘で・濡羽色のカードを・指でそっとなぞりました。
おお、神よ。美しき麗しき神よ。我を救い、導かれし神よ。そう呟いた本食いに、寮長は首を傾げた。その作法は美しく無駄がない。
「あなた、神にお会いになりたいの?」
本食いは首を横に振った。
「私は神は信じておりません。あまりにも理不尽ですから」
「あらあら、どうして? そのように刺々しいお言葉は、その可憐なお顔に似つかわしくありませんことよ」
「・・・目の前に悪魔がいるからです」
本食いの言葉に、寮長はにっこりと微笑んでみせる。
「うふふ、悪魔はいるのに神は否定されるなんて、なんだか可笑しい子ね」
「寮長がそう仰ってくだされば、私だって信じましたわ。本物の寮長であったのなら」
「私は本物の寮長ですわよ? 偽物ではありませんわ」
「本物には角も翼も生えていませんから」
にべもなく本食いは言い放った。クリスマスには家族と過ごすのがこの国の決まりである。クリスマスには神を讃えた礼讃歌が至る所から聞こえるので、さぞ悪魔は居心地が悪かろうと本食いは考えていたのだが、寮長はどうにも平気な顔をして神への歌を聞き入っていた。彼女らがいるのは古めかしい教会の二階だった。教師の住まう場所ではなく、物置として今は使用されている。蜘蛛の巣が張られていたところに招かれた時は、本食いは心から嫌な顔をした。上流階級の娘であれば、他人の前で感情を露わにするのは下品だとされるのにも関わらず、悪魔の前ならばと彼女は感情をむき出しにする。だが悪魔は気にも留めず、ゆびを一振りで埃や蜘蛛の巣をいとも簡単にどこかに消してしまった。古めかしい木のテーブルに、忘れ去られたような椅子に腰掛け、二人はどこからか湧いたティーセットとクリスマスの菓子を楽しんだ。教会では、町の人間による礼讃歌の斉唱、教師によるありがたい説教が行われている。だが彼らは彼女たちに気付くことはない。これが悪魔の力というものなのだろう。本食いは知識を蓄えるのが好きでこの世を科学的に見るのを好んだが、この悪魔の前にいると、あまりにも無力である科学を愛すことが出来ず、ただ受け入れるばかりだった。
「神よ、おお神よ」
「悪魔も歌うんですね」
「歌いますわ。聞こえないだろうけれど、ここでなら大きな声で歌われてもよろしくてよ」
「お断りします。あなたの前で醜態を晒したくはないので」
「私は、あなたの歌声を聞きたかったですのに」
これが本物の寮長であったのなら、飛び上がって喜んで歌っただろうが今は寮長の姿をとった悪魔である。だから彼女の前で歌うなどの醜態を晒したくはない。
「仕方ない子ですわね」
「私にとっては、悪魔は敵ですから」
「その敵のおもてなしを受けるんですのね? 可笑しい子。この紅茶や菓子が毒入りじゃないなんてどうしてお分かりになるの?」
「悪魔は毒殺なんてしないでしょう」
悪魔は吹き出した。寮長はそんな笑い方はしないと本食いの中の憎しみは増すばかりである。
「その通りですわ。面白い子ね」
「あと、私の家から盗んでるんでしょう」
「拝借しているだけですわ。だって悪魔は神のように一から物を生み出せませんもの。このクッキーだって・・・小麦粉をどこからか取ってこなければ生み出せませんわ」
悪魔はクッキーを眺めながら少し寂しげに呟いた。その寂しさの意味を、人間である本食いは分からない。
「神はその点はすごいのよ」
「そうですか」
「そうですのよ」
悪魔がそう言ってクッキーを上品に口に運ぶと紅茶を口にする。
「あら、そろそろですわ」
「え?」
絹を裂くような悲鳴が下から聞こえた。見ると、教師の顔が奇妙に伸びてねじ曲がりながら上へ上へと伸び始め、教師の肩から下はまるで先ほどと同じように動かないのにい、首だけが伸びていくのだった。そのこの世と思えぬ様に、周囲は悲鳴を上げているようだった。
「あれは、妖怪ですわ」
「妖怪・・・?」
「人に取り憑いて悪さをするモノ、と言えばお耳に優しいかしら」
「妖怪は存じ上げています。小人族や妖精も似たようなものでしょう」
「残念ながらすこうし、違いますの。まあご覧になっていて? そうすれば分かりますわ」
「でも、教師が・・・あのままじゃ死んでしまいます!」
「取り憑かれた人間はもう助かりませんわ。肉を借りているだけですのに」
「でも、周りの方々も危ないのでしょう・・・!?」
本食いは下に降りようとした。それを悪魔は止める。
「どうしてお止めになるの?」
「危険だからです」
「そうね、臓腑をばらまくことが危険であるのならそうかもしれませんわね」
「止めてください! 止めて! 妖怪に取り憑かれた後はどうするのです?! 次の獲物を探すのではなくて?!」
「あなたは賢いわ」
悪魔はにっこりと笑った。
「じゃあ止めて差し上げてもいいけれど、交換条件がありますわ」
「何を・・・」
「本日夜に寝込んだと言って、家を抜け出してきてくださいまし。私の別荘にご招待
したいわ」
「分かりました。早くしてくだい」
「仕方ありませんわね。おーい」
悪魔が粗暴な声掛けをし始めたので、本食いはぎょっとした。この世界の女は、上流階級になるほど淑女であれと躾られている。このような声掛けをすることはない。それなのに一度ならぬ二度、三度と続けた。
「おーい。おーい。おーーーい」
教師の首がぐるぐると回り、ねじ切れる寸前になったときにぴたりと動きが止まった。いつの間にか、教会にいた者達は一斉に本食い達のほうを見ている。
「おーーーい」
それでも悪魔は続けた。すると、教師の首が途端に反対方向にねじを締めるようにぐるぐると回り始め、伸びきった首がそのままで床に崩れ落ちたと思うと、何か黒い固まりが悪魔めがけて飛びついてきた。
「寮長!」
危険と判断し、本食いは咄嗟に叫んだ。だが寮長は涼しい顔をしたまま口を大きく開けると、そこに黒い塊が突っ込んできたのだった。寮長はまるでねずみでもくわえたかのように、口に何かが残るのを厭わずにその長い尾を引っ張り出す。
「まあ、化けネズミですわ」
汚いと思わず口に出そうになり、本食いはぐっと口をつぐんだ。止めてくれと頼んだ手前、寮長の体でなんてことをと怒鳴りつけたいのを堪えたのだ。生きたネズミを口にくわえるなんて! と言いたいのはやまやまだったが、下から教師の死体に悲鳴を上げる人々の声でその憎しみからはっと覚めたのだった。
「もう見せていませんわ。私達のことは、すっかり忘れたことでしょう」
「・・・ありがとうございます」
「あら、御礼なんてよろしいのよ。それより今夜、お忘れにならないでね」
そう言いながら、人語でわめき散らす化けネズミを見てにこにこと寮長は笑う。その妖怪をどうするのかと尋ねたが、食べないですわと頓珍漢な答えが返ってきた。
「配下にでも加えて差し上げようかしら」
穏やかな口調でそう言ったのに、化けネズミはその言葉を聞いた途端にうなだれておとなしくなった。悪魔の配下になるというのは、名誉などは無いのだろうか。妖怪の世界のことはよく分からないが、悪魔に仕えないということだけを本食いは覚えた。
「逃がすんですか」
「ええ。いりませんもの」
「・・・また誰かが犠牲になるのですね」
わんわんと泣いている人々の声を耳にしながら、本食いは化けネズミを恨めしげに見つめる。この教会に縁など無かったが、見ず知らずの泣き声を聞きながら平然としているほどに令嬢の心は強くは出来ていない。
「そうですわね、妖怪も最近力を発揮できないと噂を聞いているものですから・・・どうしましょうか。念のため私の元に連れて参りますわ」
「そうしてもらえると助かります・・・」
「ネズミはお嫌い?」
「・・・いえ、でも少し怖くは思います」
「じゃあ姿でも変えてもらおうかしら」
悪魔がぱちんと指を弾くと、ネズミはどこかに消え失せた。ほっと本食いは安堵の息を吐く。だが悪魔が彼女の安堵を壊すように追撃した。
「それでは今夜に、よろしくお願いしますわね」
悪魔は自分の家に戻ってから、嬉しそうに身支度を整えていた。ネズミはぶつぶつと何かを呟いていたが、諦めたように与えられた姿で動き回っている。小柄な男性の姿を取っていた。
「どうせなら、もっと美形にしたくださぁ」
「言葉遣いがなっていないようね」
悪魔の冷たい言葉に首をすくめ、彼はすごすごと執事に引きずられていった。悪魔は着飾りながら、ああでもないこうでもないと服を変えていた。
「あの子のカードも欲しいわ。いつか、いつかね」
今手にしているカードを指でなぞった。そのカードには寮長の姿が描かれていた。今夜、別荘にて彼女をもてなすのだ。悪魔はうきうきと身支度を続けていた。