第五話(後編)
所は変わり、三日月山の中腹に移る。
雄大な中元山脈の一角を占める三日月山はその実、複数の山々が組み合わさったような無数の尾根で構成されている。中腹付近はまるで虫に食われた葉のように削り取られ、小さな湖や傾斜の低い河川が蟻の巣のよう
に張り巡らされている。
故にテンジ国の誰も三日月山を踏破しようと試みるものはいない。容易ならざる難易度であるのは無論のこと、彼らは幼い頃から中元山脈を見上げて育つ。広大無辺な山壁に何かが坐すと確信しているのだ。
山岳信仰の根は深く聖地を冒涜しようなどという輩は現れない。
いるとすれば、それは外来種に他ならない。
一粒、また一粒と種が手からこぼれ落ちる。
つまんで覗いてみると、種は無彩色の硝子球のように透き通っていた。その実は固形化された薬液のようなものらしいのだが、種を撒いた女兵士はよく分からない。
ぽとん、と水面を揺らすと種は割れ、湖畔に透明な根を広げ始めた。親指ほどの大きさだった種から瞬く間に一尺、二尺、三尺と広がる主根はやがて巨人の脊柱へと変態していく。
貧しかった頃、果糖を水に溶かして飲んだ。溶け切れなかった透明のうねりがこれによく似ていたような気がする。
主根からまたさらに細かい根が伸び始めて、ものの数秒で眼下の景色が塗り替わっていく。あれは神経か、血管か、太いものは骨になるのか、色がないからよくわからない。
ただ、水中に突如現出した硝子の森林に目を奪われたのは確かだった。
「首尾はどうだ」
「日暮れまでに3体は形成が終わるかと」
「上々だ、この湖なら良いオミワタリができる。出来次第、他の部隊に引き渡す」
山伏の格好をした隻眼の男は女兵士の所属する部隊の隊長だった。
同様の装束に身を包んだ男たちが林の奥で輪を作り、懐から握り飯を取り出して腹拵えをしている。
「ここを動かなくて良いのですか?」
「今のところ、そのようだ。さる御方の護衛だそうだが、なんともキナ臭い」
「キナ臭いですか」
「恐らく、これは索敵陣形なのだろう。同様の指令を受けた部隊が十重に二重に護衛の御方を囲んでおるはずだ。いずれの部隊が会敵してもすぐ情報が共有されるよう部隊間の距離も調整されている」
「それは……キナ臭いですか?よく練られた布陣では」
「本腰が過ぎる、ということだ」
何かが起きると云っているようなもの、そう呟いて隊長は歩み寄ってきた。
隊長はほとりでオミを見守る女兵士の横に立つと、目線を合わせるように腰をかがめる。無愛想だが気を遣う人なのかも知れない。初顔合わせで父と子ほども離れている年齢差だったが、女兵士は不思議と居心地が悪くなかった。
「たまに思うのですが……オミワタリという兵器は何なのでしょうね」
「好かんか」
「まさか。これ以上ないほど強大で利便性の高い乗り物です」
取り繕うように両手をしばしばと大振りする。任務中だと云うのに何をとりとめのないことを喋っているのか。ましてや隊長を相手に雑談などご法度だろうと、我に返る。
「失礼しました。つい……」
「ふん。まぁ言わんとすることは分かる。俺もどきどき『これ』は随分不条理な代物ではないかと思う」
今まさに眼前で進行している巨人の変態を見守りながら隊長は呟いた。
木の根のように広がる網が、今は薄っすらとヒトの輪郭を捉え始めている。その光景に得も言われぬ畏怖を覚える。
種粒ほど大きさで持ち運び、一度撒いてみると一日そこらで巨人の姿に変じ、
人を乗せて動いてみると韋駄天のように水面を走り、
大の大人が5人がかりでやっと持ち上げるほどの大太刀を棒切れのように扱う。
女兵士が生家で磨き上げてきた武芸など巨人の一振りに比べれば砂上の楼閣に過ぎない。
戦争でオミワタリが主役になるのも当然の帰結といえよう。
だからこそ、なんだこれはと思う気持ちも湧いてきて……。
不意に木々が大きく揺れた気がした。
「搭乗しろ。今すぐに」
「え?どうしました?」
「気配がする」
弾かれたように、後方で控えていた男たちが飛び出す。
既に形成されたオミワタリに搭乗すると、太刀を手に取って襲撃者に備える。
聞こえてくるのは木の葉の擦れる喧騒のみ。
数秒の静謐が空間に充満し、やがて兵士たちは緊張を解き始める。
どうやら、何もない。
「待て、4番機は何処へ消えた!?」
隊長の怒声で再度硬直する空気。
そして、女兵士は大木の幹に何かを見た。
細く長い白い布を。
ぼとぼと、と巨人の四肢が地面に落ちる音が聞こえる。
透明なオミワタリの腕に、足に、鮮血がこびりついている。
「伝令!伝令を!」
隊長のオミワタリから拡張された発生音が響き渡る。
応えるものは居ない。二番機と三番機もまた、音もなく糸に釣り上げられた。
大木の木ノ葉に紛れて姿が見えないが彼らは樹上の襲撃者に持っていかれたのだ。
その瞬間を女兵士は見ていた。
見上げると幾重にも重なる木ノ葉の奥に垣間見えた。オミワタリよりも白く小さな物の怪の姿。
女兵士は自分の命運を悟った。
擦れ合う木ノ葉に紛れて聞いたこともない咀嚼音が耳に届いたのだから。