第五話(前編)
三日月山の山道は参拝客で溢れ返っていた。
祭りは翌日に執り行うのだが露店は七日ほど前から設営されており店売りは朝から始まっている。月の里は麓の街から徒歩にして一時間ほどで着くので近隣の住民たちはこぞって足を運んでいた。
娯楽の少ない辺境だ。子供にとってみれば良い息抜きとなる。
少年少女の笑い声で包まれていた山道が無音となったのは正午の頃合いだ。
漆を塗り金箔を貼られた豪華絢爛な馬車とそれに追従する兵士、オミワタリが山道に姿を表すと参拝客は一斉に脇道へとそれて平伏した。やがて一本道を黒い旗が埋め尽くした。テンジ国の、皇族の旗だった。
「殿下、お加減は如何ですか」
仮面の男が対面の、あどけない風貌の少年に訊ねた。
馬車馬の窓から清らかな風を浴びて、平伏する民を見を見下ろしながらテンジ国の第五皇太子シャオグンはあくびをしながら云った。
「良いよ。風も気持ち良いし、存外尻も痛くない」
「それはよう御座いました。御覧なさい。三日月山の尾根です。あれが見えてくると里は近いですよ」
「カラス。そこで頭を垂れてる平民どもは僕に平伏しているのかい?」
カラスと呼ばれた男は黒衣を身に纏い、縦縞模様の刻まれた仮面を被っていた。そんな重苦しい格好をしているので馬車馬の内部もまた重圧が生じていた。シャオグンは頬杖をつきながらカラスを横目に見ていると仮面の男がころころと笑った。
「無論に御座います。此度の禊下ろしは太陽を労う慰霊祭。月の部族と同盟関係にあるテンジ国としても必ず列席する行事ですので。我ら参加者も必然的に格が求められます」
「……それ、僕が参加するの誰も知らないってことだよね」
「まぁそこはそれ。下々の民はいずれの上位者にも平伏する定めですので。むしろ伏して殿下の如き天上人の威光に眼が焼かれぬ幸運を噛み締めることでしょう」
シャオグンは溜息をついた。要するに彼らは御旗に頭を下げているに過ぎない。都を出たときもどこぞの高官か将軍と間違われて、誰の眼にも止まらなかった。
つまり、誰も自分を認識していないのだ。面白くない。
「面白くないですか?」
「フン……その訊き方は気に入らないな。皇族を測っていると見える」
「滅相もありません。殿下におかれましても此度の祭事は貴重と存じます。危険を冒さずに功績を上げられるよい機会ですので」
「父上が……玄武帝がこんな物見遊山を評価するとは思えないけれど」
「とんでもありません。陛下は気にかけておいでですよ」
仮面から僅かに垣間見えるカラスの口元は笑っていた。帝都を出発したときから同伴しているこの男はずっとこんな調子でからかってくる。何処か嘲笑いながら、こちらの急所を突いてくると思いきや露骨な機嫌取りに走る。煽っている風でもない、ただ掻き回してくる。
端的に不愉快だった。
「それにしても、この辺りは本当に空気が澄んでおりますね。聖地と呼ばれるだけはある」
「そうだね。帝都に比べると、くすんだ匂いがしない」
「ええ。故に中元山脈にはアレら魔物も湧きにくいのです」
「魔物?ああ、例の黒い害獣か」
「黄泉御先之上と呼ばれています」
「随分手を焼いているそうじゃないか。来る途中一度ぐらい直に見れると思ったけど、護衛の出番もなかったね」
「重畳でございます。殿下にもしものことがあれば私の首一つでは足りませぬ故」
宮廷で聞き飽きた台詞をカラスは飽きることなく並び立てる。
本当にそう思っているのか、と問い詰めたくなる衝動に駆られながらシャオグンは平静を装う。
生まれた頃から嘘に囲まれて育ったシャオグンにとって虚言を見抜くのは造作もないこと。嘘の祝辞、嘘の報告、嘘の甘言。その全てが透徹して聞こえる。もっとも、その眼力を以てしても仮面の奥は測りようがない。
羽ばたき音が聞こえると窓に一羽の鴉が止まった。
カラスがそっと爪先からなぞると鴉はされるがまま大人しく受け入れていた。
「どうした」
「いえ、何も」
声の抑揚がない気がした。
伝令の遣いからなにか報告があったのだろうが億劫なのでシャオグンは何も言わなかった。
聞かなくて良いことは聞かなくて良い。知らなくて良いことは知らなくて良い。
その代わり、自分の役割に徹する。真昼の月のようにひっそりと生きる。
それがシャオグンの処世術であった。
所は変わり、三日月山の中腹。