甲殻天使
甲殻天使というのがいる。F1カーやジェット機に似た鋭いラインを描く甲殻が一本、その一本から角のように突き出た甲殻が五本で頭部が構成され、色彩は蟹。見るも恐ろしい頭より下には、天使にイメージされるふわふわ真っ白ワンピースをすっぽり着込んでいて、しかし輪っかも羽もない。こんななりで町のあちこち浮遊し回り、路地裏なんかで殺しをはたらく。もちろんコイツは人ではない。
化け物だから、出くわし次第にその人は殺されてしまう。誰しも甲殻天使だけには出くわしたくないと思うわけだが、中にはなんだか、理屈なく出くわしようもないだろうという男がいるもので、ちょうどとある休日を自分の家で過ごしているのだった。
「あーなんてオレはダメな奴なんだ。あーちくしょう、でもダメなものは一生ダメなんだ。」
「アナタね、昼間からリビングでやめとくれよ。見てるとこっちまで参っちまいそうだよ。」
「でもよ、おっかあ。本当にオレってのはダメダメなんだよ。ほら、こんなこと口にしてうだうだしてる時点でダメってもんだ。ダメだからダメと言葉にしてみるとその言うってこと自体がダメ。言うのがダメならやっぱりオレはダメな奴で、そんな風に落ち込んでばっかりのオレは正真正銘のダメ人間だよ、ううう……ん、なんだ、いくらダメだダメだと重ねても、これ以上落ち込みようがなくなってきやがった。けっ、自己嫌悪ってのも底が浅いもんだねえ。よし、飽きた飽きた。」
「あきれた、PCみたいな人だね。まあいいわ、アナタ、吹っ切れたところ悪いけどおつかいを頼まれてくれないかい。」
「おつかいだぁ? バカやろう。我こそは底なしの底へタッチして還った地獄仙人であるぞ。頼む相手をわきまえやがれい。」
「なにが地獄仙人だよ。自己嫌悪なんてのはね、誰だって学生の時分に済ませるもんなの。アナタ明後日で三十を迎えるじゃない。」
「うるせえ、個人差、個人差だよ。個人差ってのも保健体育で習うからな、これで引き分けだな。よし、暇になったし行ってやるかな。何が欲しいんだ、え? なんでも買ってきてやるから、さあ、言ってみろい。言ってみろい!」
「そんなに張り切られても困るけどね、魚だよ。魚屋へ行ってきておくれ。」
「魚だぁ? あんな寝転がってビチビチ喚いてるだけの奴なんかなあ」
「さっきのアナタそっくりじゃない。」
「うるせえ、とにかく行ってくらあ。」
「ちょっと待ち……あの人ったら何も持たずに出て行ったよ。まったくどうしようもないね。まあでも、すぐ気づいて戻って来るでしょう。」
こんな風にして夫婦二人はしょっちゅうすれ違いを起こしている。旦那は気づくこともなく魚屋へ一直線、奥さんの方は「バカにも限度」と心に唱えて待つだけだから、魚一尾買うのにも余計に時間がかかってしようがない。この間にも甲殻天使は町を浮遊し、魚屋の店主とその娘、さらに遊びに来ていた友人二人まで殺してしまう。甲殻天使といえども、一応天使ではあるからバックには天界がついている。すぐに天空からロープがちょうど同じ数だけ垂れてくると、死体の手首足首喉ぼとけなんかに引っ掛け、そのまま四つとも空へ引っ張り上げてしまうのだった。甲殻天使は浮遊し続ける。
「ええ魚屋魚屋、たしか門前にポストのあるラーメン屋のとこを曲がるんだったかな……あれだあれだ。ポストの近くにラーメン屋台、ってこれは違うな。屋台に門前も不動産もあるかい。おい、紛らわしいぞ、おやじ。」
「へい、らっしゃい。」
「誰が食うかい。まったくよお、これだからアホにはこりごりだってんだ。ん、あの雲の隙間から何か垂れてるな。ずっと伸びて細くて色は茶、見間違いじゃねえ、あれはロープだ。」
「旦那、あれはきっと蜘蛛の糸ですよ。芥川芥川。」
「はあその線もたしかに……なんでお前が付いてきてやがんだ。屋台はどうした。」
「へい、屋台なら後ろに。」
「屋台手放す屋台引きがどこにいるんだい。帰れ帰れ。」
「あっしには麺が伸びてきてくれるのかな。なら太麺の方が丈夫かしら。」
「ああ太麺に変えちまえ。そんで落っこちればバカもマシになるだろうよ。」
屋台のおやじと別れてからほどなくして、目印のポストとラーメン屋が見つかった。また肝心の道の方もしっかり左へ入っていたから、旦那はとうとう魚屋へたどり着くことができた。はたまた甲殻天使は浮遊し、この曲道を通りがかると、すでに魚屋への用はないのだった。そのまま真っ直ぐ、甲殻天使は浮遊し続ける。
「よお魚屋、ちょっといいかい。あれ、誰もいないでやんの。おーい、本当に誰もいないのかーい。ちきしょう、店主がいないならどう買えばいいんだ。とりあえずお金お金。あれ、もう一つの方かな。あれ、こっちもだ。弱ったねえ、店主も金もないんじゃ客にもやりようがないなあ……いやまてよ。まず、オレは金を失くした、そんで、魚屋は魚屋を失くした、つまり、この状況はとんとんってことになる。で、互いにとんとんが商売の基本だから……オレは魚を買えるってわけだな! かあっ、賢いってのはこんなに便利なもんかね。じゃあどれにしようかな。よし、この丸々太った鯛なんて最高じゃないか。じゃあな魚屋。いないようだけどこの鯛買わせてもらうよ。」
「おっかあ、ただいま帰ったぞ。見てくれよこのデカい鯛を、オレが見極めたんだぜ。うまく料理してくれよな。あれ、おっかあ、おっかあ。ったくおっかあまでいないでやんの。しゃあねえ待ってるかね。」
「ああ、おっかあ遅いなあ。腹減ったなあ。ちきしょう、屋台のおやじでも恋しく思えてくるね。こう、じっともしていらんねえなあ、うよいしょと。いててっ、座りすぎて痺れてやがらあ。ったく亭主放ってどこぶらぶらしてやがるんだかね……なんだいこのロープ、家の前にこんなのあったかね、ずっと空から垂れてやがる、で、うまく輪っかができてて、ロープは天に伸びてて……。なるほどな、そうかそうか。」
旦那はすべてを了解したように己の片手でロープを掴むと、もう片方の手に持っていた鯛を縛り付けた。
「おてんとうさま、これでどうかおっかあをお願いします。おっかあ!」
駆けだすと永遠に町を回り続けたとさ。