表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国の鈴木さん  作者: capellini
第7章 埋み火編「甲斐の虎」
97/173

第89話 1529-30年「泉南同盟」◆◇

 九条家の日根荘の保護。

 鈴木重勝はそれを大義名分に掲げて、和泉国南部への介入を始めた。


「ふむ、九条の家礼(けらい)衆は、主家の荘園を差配するために、己が地財を質に入れて金銭を工面しておるのだとか。なんとも気の毒なことだのう。」

「荘園から収益を得るために借財して、得た収益で借財を返して、を繰り返しておっては何も生み出せませんな。」


 所領経営の話ということで、重勝は鷹見修理亮を呼び出し、意見を交換している。

 鱸肥後守永重が九条家から聞き出した現状はあまりにも残念なものであった。

 荘園に入るにも地元の者らが武装しており、奉行に護衛を付けて送らなければならなかったり、そもそも本拠地のある京と遠方の荘園の間で人や物をやり取りするだけで銭がかかったり。

 しかも九条家に対する貢納と結びつけられた田畑はあちこちに点在しており、それらからきちんと税が納められなかったり、押領されたり、質入れされたりで、経営は破綻していた。


「かくなっては当家で借財を引き受けて質を請け戻さねばならぬが、まずは……借財を踏み倒すところからであろうな。」

「元の銭を返せないまま利子が膨れ上がっておるようですからな。さすがにこれは正直に払っておられませぬ。三河はおおよそ片が付き申したゆえ、それがしが和泉に入るとしましょう。」

「よろしく頼む。それから、中条や肥後(鱸永重)にも頼んだが、上方に出た折にはおぬしも――」


 重勝は鷹見に一つ策の下準備を頼みつつ、500の兵を付けて和泉に送った。

 鷹見は利子を無視して元本に1分(10%)を加えた額を根来寺などに弁済し、質に入っていた土地を請け戻していった。その一方、徴税の手間がかからないよう、開発時にまとまった土地が使えるよう、飛び地を売って土地を整理していった。

 このとき、日根荘内の土地を買っていて弁済金を受け取った(めしの)多右衛門なる商人は、鷹見に自分を売り込み、三河屋の番頭に取り立てられた。

 ひとまず日根荘に関する九条家の借財は大きく減ったが、時間が経てばまた借財まみれになるのは自明であるから、重勝は日根荘を鈴木家が運営して九条家に一定額を上納することを提案した。

 荘園経営を担ってきた九条家家礼には、その空いた手と資金を各地に散らばる他の荘園の管理に集中させようというのだ。


「おお、おお!対馬殿(重勝)はなんとも太腹でおじゃる。この調子で他の借財も引き受けてはくれんかのう。」

「父上、それはあまりに無遠慮におじゃりましょう。日根荘はいわば代官請とするのであって、ただで借財を背負うてもろうたわけにはあらず。借財だけ被せるなどして対馬殿を怒らせれば、今度こそ日根荘はすべて失われるでおじゃる。」

「わかっておる。言うてみただけでおじゃる。」


 老いて弱気になっていたところで急に救い主が現れたため、九条尚経は鈴木家に縋りつくばかりの思いだったが、息子の稙通は釘を刺した。

 稙通は母方の祖父の三条西実隆の影響で文芸に対する興味は強いが、荘園経営には父や祖父ほどには重きを置いていなかったし、幼いころから貧乏を経験する中で現実を正しく理解していたのだ。


「さても麿は山科に行かねばならぬでおじゃる。三河の一向一揆は誠に痛ましいことでおじゃったが、対馬殿はこたび本願寺との仲を取り持ってほしいとのこと。麿もせめてこれくらいは礼を返さねばおちおち成仏もできぬでおじゃる。」


 日根荘の扱いに感謝した尚経は老身を押して山科へ赴き、自身の猶子である本願寺門主の証如に直談判した。

 重勝の側で用意していた歩み寄りの手段は、三河一向一揆の際に破却された上宮寺・勝鬘寺の再建と三河国内の一向門徒の特赦である。

 一揆の後、三河では一向門徒は罪人に堕ちていたが、これを赦して労役囚を解放し、改名したり改宗したりして隠れ住んでいた門徒にも元の名前と信仰で戸籍を申請することを許可したのだ。

 これを十分な誠意と捉えた本願寺は和解に合意し、今後は九条家を介してやり取りすると決まった。


 ◇


 ところで根来寺がすんなり引いたのは、尚経の弟で醍醐寺三宝院と根来寺大伝法院の座主である義堯からの頼みがあったからだった。

 今でこそ根来寺は自立を強めているが、三宝院門跡は昔から根来寺僧の主人であり、義堯はその立場から根来寺の古の聖人・頼瑜に「僧正」号を追贈するよう朝廷に働きかけ、成し遂げた。

 義堯はこれにより名声を増して「東寺一長者」の宣下を受けたが、この追贈と宣下は全てがそのような高邁な話で済むわけがなかった。

 背後で鈴木家が賄賂をばら撒き、付き合いのある外記局・楽人・宿紙座の中下級貴族を動かして世論を形成したのである。


「しかし、こたびはずいぶんと散財したでおじゃるなあ。日根荘を買い上げて、贈物を配り、さらには『対馬守』まで返上なさって。」


 朝廷での工作に尽力した吉田兼満はくたびれた様子で言った。


「時をかけてはおられなかったのだ。それにこの『対馬守』は元々、(おおの)の者に返すはずのもの。遅いか早いかの違いにすぎぬ。」


 今川家と決裂するまでにどれほどの時間が残されているのか。焦る重勝は、しかし、時間がないとはいえ露骨な振る舞いをした自覚があった。

 それゆえ多くの敵意を買っただろうと判断し、対馬守の官職を返上して「宸襟を悩ませた」と朝廷に詫びを入れたのだ。

 多氏とは鈴木家に仕える楽人のことで、元々の約束として、対馬守はその一族に返すことになっていた。重勝は朝廷にもそう説明して辞官したのである。


 根来寺が厚意を見せたのは、真心から寺のために動いた義堯への信頼と、九条家の肩を持つばかりでなく寺のために身銭を切り名誉も犠牲にした鈴木家の姿勢があってこそだったのは確かである。

 なお、根来寺との交渉は、元は根来の住人だった金谷斎が現地に入って行った。

 この者は山本菅助が見出した軍配者であるが、なまじ未来の世界を経験してしまった重勝は、兵法はともかく、物の大事を決めるにあたって軍配者に占いや天気予報を聞くのに乗り気でなかった。

 そこで、せっかくの有能な人材を燻ぶらせておいてはよくないと、根来寺取次ならびに上方で活動する軍勢の助言役に抜擢したのだった。


「それよりも、根来寺に恩を売る好機であったのだ。これを逃す手はない。」

「これで雑賀衆のみならず根来衆もそう容易く敵となることはないでおじゃろう。日根荘はひとまず安全でおじゃるな。」

「うむ。ここに当家の兵を置いておくことは極めて大事なり。堺で万一のことがあっても、中条らは逃げてくればよいし、応援を送ることもできようゆえな。」


 重勝は九条家の荘園4ヶ村のうちまだ失っていなかった日根野村・入山田村に雑賀衆を巡回させた。荘園支配を固めつつ、かの地に鈴木の兵が入るというのを常態化させるためだった。

 さらには現地の協力者として、鈴木家に仕える日根野九郎左衛門の実家も取り込んだ。

 和泉国が紀伊守護畠山氏や根来衆の収奪に晒され、堺公方と近江公方の争いにも巻き込まれる中で、日根野家の方も身の振り方に悩んでおり、鈴木家の後ろ盾を求めたのである。


「さてもこれよりは、対馬殿とはお呼びできぬでおじゃるな。今川の先代殿からは『長門守』の名乗りを許されたのだとか?」

「されど、かの家と不和のさなかに『長門』と名乗るわけにはいくまい。」

「なれば、麿が決めて進ぜよう。ふうむ、『三河守』は――」

「いや、憚りあろう。」

「と仰せと思うたでおじゃる。なれば、『刑部大輔』はどうでおじゃる?」

「うむ、それでよい。」


 重勝が対馬守の官職をあっさり手放したことに加えて、仮名にも頓着しない様子に、吉田は呆れたような表情でため息をついた。


 ◇


 和泉守護は上下2人。

 上守護・細川五郎晴宣は、近江幕府の管領・細川道永に味方する紀伊守護の畠山稙長の弟。

 下守護・細川九郎勝基は、その道永の従甥。

 一見すると和泉は近江幕府方で固まっているように見える。

 しかし、下守護は紀伊畠山氏とこれに味方する根来寺の侵入に悩まされてきた。稙長の父・尚順がその死の少し前まで和泉に乱入をしていたのである。

 つまり下守護家にとって、畠山系の上守護家は味方とは言い難かった。


 しかもややこしいことに、この微妙な関係の2人の守護所はともに堺にある。

 そしてその堺は、近江幕府と対立する堺公方の支配下なのだ。

 それゆえ上下の和泉守護にとって、すぐそばの堺方との関係をどうするかが喫緊の問題だった。

 現に五郎の守護代・松浦守はすでに堺方に接近し、居城の岸和田で自立の傾向を見せている。


 松浦の主君・細川五郎は、しかし実家の畠山氏から支援が見込めず、松浦を放置するしかなかった。

 五郎の兄・稙長は、紀伊国そっちのけで河内国の高屋城に詰め、堺方とずっと戦っていたが、堺方はいよいよ大和国にも勢力を築き、享禄元(1528)年にはこの高屋城も占領した。

 稙長の兵力の源は紀伊西端の自領とその東の被官の国人であるが、もともと父の代で国人一揆に反抗されてから国人勢力を十分に統制できていていなかった。

 その中での河内での敗戦である。こうなっては彼らを抑えておくことはできないだろう。

 それゆえ、上和泉守護は自力で和泉国人を抑え込まねばならない状況だった。

 では、できるのかと問えば、和泉国人はかつて惣国一揆で守護と対抗したほどであり、外から入った新参の守護の命令を唯々諾々と聞き入れるようなことはないだろう。


 一方の下守護・細川九郎は、この惣国一揆を片付けた3代前の下守護の跡を継いでいて、姉が近衛稙家に嫁いでおり、和泉で勢力を固めるのに役立つ背景を持っていた。

 地歩固めにはやはり細川道永を切り捨て堺公方に協力するのがいいのだろう。

 しかし、そうするには九郎の側にいる者が問題だった。伯父の細川尹賢である。

 尹賢は従兄の道永から絶大な信頼を寄せられており、言葉ひとつで道永を動かし、丹波勢の香西元盛を滅ぼしていた。この元盛の弟が、道永側から離反して堺公方政権を支える柳本賢治だった。

 つまり、九郎は堺方の重要人物の仇を自分の横に置いているのだ。

 

 身動きが取れない。

 上下の和泉守護、そして鈴木家の状況はまさにその一言に尽きた。

 特に鈴木家は外交関係が錯綜している。

 この家の外交方針を左右する前提としては、鈴木重勝が堺方に期待していないことがある。

 政権内部の対立を知るからか、夢で見た未来の知識で「三好は織田に滅ぼされる」という漠然とした印象に囚われているからか、ともかく距離を取っていた。

 少し前にも管領の細川道永と和解して、なるべく中立になるように振る舞ってきた。

 それでいて鈴木家は、近江方の畠山稙長と微妙に対立している。「微妙」というのは、両者は直接の交渉をまだ持っていないからだ。

 鈴木家は紀伊国東部に入り込んでいるが、その地、つまり熊野はそもそも守護のものではない。しかも彼らは熊野から外へは出ないようにしている。

 そして、守護被官でありながら反抗的な湯川氏を商人を使って密かに支援しているが、守護にはそのことはまだ知られていない。

 もうどうしようもない!この際、紀伊守護家は知らんぷりしておくのが一番。重勝の結論はこうだった。なまじ縁ができてしまえば「近江方なのだから稙長を支援せよ」と言われるに違いないのだ。


 そうすると、稙長の弟である上守護・五郎とは挨拶すらするわけにはいかない。

 それでも和泉での勢力を固めたいとなれば、選択肢は細川九郎を相手とする以外なかった。


 ◇


「いかがであるか、九郎。九条様から文があったそうだが」と細川尹賢が甥の九郎に声をかけた。

「はい、伯父上。日根荘の扱いを鈴木家に任せるとの由。また、その鈴木が我らに挨拶を望んでおるとか。されど、かの家の旗幟は鮮明でなく、目論見がわからぬゆえなんとも……。」


 九郎は尹賢に意見を聞きたげな様子で返事をした。


「ふむ、鈴木は九条の借財をだいぶ引き受けたという。また、朝廷が根来のことで騒がしかった折には、その方の姉御が『近衛様にも三河の吉田三位殿(兼満)よりお口添えあった』と知らせてきた。つまり鈴木は九条と根来との誼を求めておるわけだ。」

「九条だけならば、当家がかつて押領した荘園のことにございましょうが……。とはいえ、かの地はずいぶん前から守護領となっておれば、不知行20ヶ年、今さら『返せ』は通りませぬ。」


 不知行20年とは消滅時効のことで、20年実効支配をできていないと所有権を失うという法である。


「相手は公家ぞ。武家の道理は聞き入れぬということやもしれぬ。しかしそこに根来も絡むとなると、我らも九条もやつらの乱入に困っておるところなれば――」

「やはり鈴木の振る舞いはわかりませぬな」と、困惑する伯父の言葉を引き継いで九郎が言った。

「先の辞官も不可思議なり。そも辞官は、公家が己が子に官位を早く与えるためにするものではなかったか?ただ『対馬守』を返すのみとは。」

「近衛様から伝え聞くに『もとより多氏に返すはずだった』と申しておるとか。」

「ほう、殊勝なのかなんなのか、やはりよくわからぬ。……思い当たる節もないところ、いっそ挨拶を受けて聞いてみるもよかろう。」


 かくして鈴木家の堺雑掌・中条常隆は守護所に参って贈物をし、主君からの書状を渡した。


「ふむ、上守護被官の日根野又二郎と我らの仲を取り持ちたいと。」

「九条とも根来とも違う用件でございましたな、伯父上。」


 日根荘に残る日根野一族は、かつて反近江幕府の上和泉守護・細川元常に味方していたが、元常が堺方に追われてこの地を離れると立場を失っていた。

 そこで鈴木重勝は、配下の日根野九郎左衛門に一族を説き伏せさせ、下守護被官に鞍替えしてもらって彼らを通じて下和泉守護の細川家と長期の友好関係を築こうとしていたのである。


「また、佐竹何某の件も手伝うとの由。いったいどこで聞きつけたのでしょうなあ。」


 九郎が呆れて言った。

 佐竹云々とは、九郎に対して近江公方が「下守護細川氏が押領している佐竹氏の所領を還付せよ」と命じた件のことである。

 重勝は九条家の日根荘を調査した際に、荘園を構成する4ヶ村の1つ鶴原村が、足利義満の頃にその弓の師であった佐竹氏に与えられ、今は細川九郎の支配下にあると知った。

 歴代の下守護はここ数十年で、日根荘4ヶ村の1つ井原村のみならず佐竹氏の手に移っていた鶴原村も押領していたのだ。

 この佐竹氏の末裔は、今代は基親というが、近江の将軍・足利義晴に近侍する奉公衆となっており、昨年には将軍から細川九郎に鶴原村の還付が要請された。

 鈴木家は元々は九条家のものだった鶴原村の現状を知るべく、佐竹基親に直接問い合わせてそのことを知ったのだった。

 代々の下守護はその南の六斎市開催地である佐野も直轄化して、その地の住人・多賀氏を被官としており、佐野や鶴原は重要な経済基盤となっている。

 そのため、いくら公方の命令といえども、これらの地で影響力を後退させるようなことは受け入れがたい。

 そこで重勝はなんとかするのを手伝おうと話を持ちかけたのである。


 ◇


「鶴原村は諦め、日根野・入山田・井原の3ヶ村で手を打ってくれとな……。」

「これまでは日根野と入山田すら満足に領しておれなかったのでおじゃりまするぞ、父上。まだ質に取られている土地も鈴木家が徐々に請け戻し、武を以て守ると約してくれておじゃりまする。これ以上はあまりに欲深というもの。」


 九条尚経は、2ヶ村が簡単に復旧しさらにもう1ヶ村まで返ってきたとあって欲が出たらしく何か言いたげだったが、稙通はそれを宥めて父に代わって礼状を認め、中条屋敷に送った。


 とはいえ、返還された井原村は東三分の一の安松を切り離されており、その安松は守護領佐野の一部に組み込まれていた。

 また、鶴原村も名目上は佐竹基親に返されたが、その貫高はかなり低く見積もられ、下守護代・斎藤氏から代官が派遣されて守護請の形をとることになった。下守護家はこの少額の収益を佐竹氏に支払う代わりに土地の管理を確保するわけだ。

 そして、収益の減少した分を鈴木家が扶持として佐竹に送ってやり、その代わりに近江で将軍の側に控える佐竹基親には、鈴木家と幕府の仲介役の役割が求められることになった。

 細川九郎は佐竹への扶持を一部負担し、井原村半分を失うことになる。そのため、彼のために鈴木家から代替地が用意された。佐野の南の樫井の地である。

 かの地には樫井氏が住んでいたが、重勝は「三河船の沿岸航行が妨害された」と言いがかりをつけて襲撃し、彼らを追い出したのだ。しがらみのない余所者だからこそ可能な無遠慮さである。


「なんとも強引なことだ。されども、大伝法院(根来寺)の義堯殿とも長滝のことで和解いたして、鈴木・九条・幕府・根来とそれぞれ満足するところなれば、泉南は落ち着くやもしれぬ。」


 重勝からの手紙で始末のほどを知らされた細川尹賢はそのように感想を述べた。

 長滝は樫井と日根野の間にあって、九郎の一族と根来寺が奪い合ってきた土地である。

 重勝は日根荘復旧に際して穏便に済ませてくれた根来寺への礼として、この長滝を根来寺領と確認し、今後はその支配権を要求しないよう九郎に頼んだのだ。

 そしてそのうえで「根来寺とは対立するよりも協力して西紀伊の畠山所領を襲った方が割がよい」と囁いたのだった。

 九条尚経の弟が根来寺の座主である今のうちに、紀伊守護の味方をしてきた根来寺を切り崩そうというのである。


「さにあらば、こちらが紀伊に乱入することもかなうやも。鈴木は『和泉を平らかにせんがためならば、さらに近江に悟られずに三好との仲を取り持つ』とも申しておりまするが。」

「丹波の者らと三好や河内畠山は不仲と聞こえておるが、あるいは……。」


 道永はなかなか勢力を盛り返せず、尹賢の敵は三好ではなくあくまで柳本ら丹波勢である。

 言い淀む尹賢は、甥の目を気にして口元に笑みを浮かべ、「いやはや、そうなってはさすがに従弟殿(細川道永)に顔向けできぬわ」とおどけて額を叩いたが、その目は笑っていなかった。

 重勝の提案は悪魔の囁きだった。


 ◇


「本願寺・根来寺とのつながりを保ち、雑賀のご同族の方々とも結んでおれば、織田と今川でかかりきりとなっても上方はなんとかなりそうでありますな。」


 重勝お手製の極秘の全国地図を前に、軍師役の宇津忠茂が満足気に言った。

 この地図は重勝が夢で見た未来の知識を基に書かれたもので、山林や河川の情報こそ不足しているが、並の国絵図よりもはるかに正確であり、何よりも、見る者が全国を俯瞰して戦略を練るのを手助けしてくれるものだった。

 宇津の言葉に頷く重勝は「うむ。とはいえ、上方はややこしすぎるゆえ、まだわからぬが……」と、まだ不安げである。そして、自らを安心させるように手元の帳面を開いて確認を始めた。


「尾張攻めの算段も付いた。甲斐攻めでは甲斐に手の者を潜ませることもできる。こうまで包囲されてはさしもの武田も抗し切れまいが、よく粘り今川ともども大いに血を流してくれよう。甲斐が片付けば今川はすぐにも当家に牙をむくであろうが、なんとか先延ばしにできれば。」

「例の……何と申すべきか、いわば流言の策でありまするな。鷹見殿にもお命じとか。」

「うむ。細川右馬頭殿(尹賢)との縁のみならず、望外に佐竹とかいう手駒も手に入った。これで策がなる見込みも大いに高まった。しかし、これは今川に向けたものなれば、堺と和泉は我らで何とか守らねばならぬのは変わらぬ。」


 宇津は「我が主君は心配性なことだ」と思いつつ、あれこれ書き込まれた和泉の国絵図を広げて考え込み、やがて重勝に進言をして裁可を得ると、鱸永重に宛てて書状を送った。

 その後、鈴木家に従属する和泉南端の海賊・淡輪因幡守は、仲の悪かった隣の箱作に住む真鍋貞行を攻めた。所領を荒らされた真鍋氏は、困って鈴木家に淡輪氏を抑えるよう泣きついた。

 淡輪氏は鈴木の執り成しで兵を引っ込めたが、真鍋貞行はその代わりに鈴木家に従属することを約束する羽目になった。宇津の策だった。

 宇津は他にも鱸に助言して、九条の荘園の管理のためと称して鶴原の北の貝塚に築城・在番させ、従属したばかりの真鍋貞行を貝塚の湊を守るための海賊衆として呼び出させた。

 それでもまだ重勝が不安そうだったため、さらに鱸の配下の雑賀衆を使って日根荘北東の熊取を支配する降井隆家と(なか)盛勝に圧力を加えたが、やがてこれらも従属させることになる。


 ◇


「なるほど、鈴木家はずいぶん儲けておるらしい。牢人衆が多く重用されておると聞こゆるし、近江は暇乞いして三河にでも移るとするか。」


 鈴木家のずいぶんと荒い金遣いを見て、細川道永に雇われていた伊賀出身の服部保長の一党は、給金未払いを理由に近江を去った。

 仕官の理由は服部のように銭ばかりではないにしても、上方で目立つ振る舞いの増えてきた鈴木家に興味を持つ牢人はこれから増えることだろう。

【史実】根来の金谷斎(大藤信基?)は北条家の軍配者です。第66話の後書きにメモがあります。

【史実】佐竹基親は足利義晴の奉行衆ですが、この押領などで困窮して、1537年に一族の常陸・佐竹氏のもとに下向し、幕府と佐竹氏の縁繋ぎを担います。

【史実】和泉は1550-60年頃には三好長慶政権下にあり、彼の弟・十河一存が監督します。九条稙通は荘園収入の維持のためにあちこち下向するほか、十河に娘を嫁がせます。三好には松浦氏や日根野氏が属しますが、根来寺・畠山氏との対立や十河の急死で和泉支配は安定しませんでした。


挿絵(By みてみん)

【右上拡大図】

 水色=鈴木

 山吹色=九条

 黄緑色=下守護・細川九郎

 紫色=根来寺

 赤色=上守護代・松浦

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] この時代の自称「~守」が幅を利かせていた時代に、朝廷から正式に認められていた官位を周囲を騒がせた反省として返上するのは、朝廷から見て敬わっているとみられるか変わり者とみられるかなかなか難し…
[良い点] 段々と面白くなってきましたね! [一言] 今回は情報が詰め込まれていて面白いなと思いながら読んでいたのですが、最後の近江を離れた方の名前を見て吹き出してしまいました…
[良い点] 畿内方面は深く首を突っ込むと泥沼化いたしかねないので、重勝にそのつもりがないなら、今回で取りあえず一段落というところですかね(あくまで「取りあえず」)。 [一言] 三条西実隆の1526年収…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ