第87話 1529年「大井信業」◆◇
武田信虎。
清和源氏・新羅三郎義光より数えて18代目。
初めは信直と称し、永正4 (1507)年に数え14歳で父を喪い、祖父が叔父を贔屓したことで生じていた甲斐守護職と家督をめぐる争いを、自ら収めねばならなくなった。
しかし、この若武者は戦神の寵児であった。翌年には油川の叔父にぞろぞろと味方していた諸家を破って家督相続を固めた。
とはいえ、信虎は有力な豪族に取り囲まれていた。南西に穴山、西に大井、北西に今井、北に岩手、北東に栗原、南東に小山田。南にそびえる富士の高嶺だけが彼に加護を与えていた。
信虎は手始めに北条と通じる小山田を攻め、これに姉を嫁がせて手下とすると、弟・信友を勝沼において東に対する備えを固めた。
次は西。しかし、これが厄介であった。今井・大井・穴山は今川を呼び込んだのである。
今川に支援された国衆連合を追い払うのは、さしもの信虎といえども、まだそこらの国衆と横並びの勢力しかなくては難しかった。
しかし、彼には富士のご加護があった。永正14 (1517)年に西遠江で尾張守護の斯波氏の一党が蜂起し、今川家は信虎に和平を申し入れねばならなくなったのである。
こうなってしまえば、たかが2、3家が集まっただけの国衆には、猛き甲斐守護に抗うすべはなかった。大井は娘を信虎の正室に差し出して臣従し、今井も一戦して降った。
甲斐一国を平らげたという自信を得た信虎は、府中に躑躅ヶ崎館を構えて城下町を整えた。商工業が発展する甲府盆地の経済を掌握しようというのである。
彼はさらに牢人を呼び寄せ、直属の足軽衆を育て、国衆たちにも城下に住むよう命じた。軍事的・経済的に頂点に立って一国に号令をかけんとする野心が表れていた。
しかし、この集住の命令は、従属したとはいえ不承不承だった今井・栗原・大井の離反を招き、内部分裂の後に親今川派が勝利していた穴山も今川部将・福島助春の援軍を呼んで反抗した。
そのうち厄介だったのは穴山であり、三河鈴木家の支援も受けた今川家は永正18 (1521)年から実に3年にわたって河内地方の穴山領で頑強に粘った。
しかし、ここでもまた信虎は霊山の寵愛を受けた。今川家当主・氏親が大永3 (1523)年に卒中で倒れたのである。今川がやむなく撤退すると穴山は降伏した。
信虎は思った。己は神に愛されている、と。
覇気迸る甲斐の虎は、反今川・反北条で扇谷の上杉朝興と同盟し、東甲斐の猿橋に入り込んでいた北条氏綱軍をはじき返し、その勢いのまま武蔵に討ち入って関東管領山内上杉氏とも一戦交えた。
北条氏の拡大を警戒していた両上杉氏が同盟したことで武田は矛を収めることになったが、北条から奪った相模の津久井を支配し続けている。
そして大永6 (1526)年、今川氏親が死んだ。
信虎は確信した。己の振る舞いは神の霊験によって後押しされている。己の進む道は神のご威光によって照らし出されている、と。
彼は家臣を連れて富士山に登ってお鉢巡りをし、神に感謝を示した。
そして大永8 (1528)年、今度は信濃の諏訪氏を攻めた。
これは失敗に終わった。なるほど諏訪大明神のお怒りを買ったのやもしれぬ。神も少し休めというのだろう。信虎がふと見渡せば、侍も農民も貧乏に苦しんでいた。
信虎は民を憐れむとともに、彼らの不満を和らげてさらなる軍事行動を可能にするために徳政令を発し、それにより余裕ができたはずの者たちから銭を回収すべく、小山田に棟別銭の供出を命じた。
また、扇谷上杉朝興は、今川と強固な同盟を結ぶ北条氏綱の猛攻に苦しんでおり、北条包囲網の結束を固めるために、関東管領・山内上杉憲房の未亡人を甲斐に送って信虎に娶らせようとした。
享禄2 (1529)年のことである。
◇
加賀美虎光が信虎の身勝手な振る舞いを諫めた。
「うぬは何を言うておるのだ?」
「ですから、お屋形様!いま無理に小山田に銭を出さしむれば、万一のことがございまする!こうまで渋る様を見せてもなお強いては、かの者どもを追い詰めることになり申す!」
「よいか、甲斐守護の我が棟別銭を求めるのは当たり前なのだ。なぜ我が小山田の顔色を窺ってやらねばならぬ。そうすべきは小山田なり。守護の我が命じたことを相手がごねたからと引っ込めては我の、当家の、ひいては守護に任じた公方様の威を損なうのだ。その道理がわからぬか?」
「されど、いまは時機が――」
「えい、うるさいわ、たわけがッ!ものの道理のわからぬやつめ!」
「お待ちくだされ!上杉より嫁を迎えるのも、いま少し家中にて話し合いを!」
「何を話し合うというのだ!今こそ上杉との盟を固め、今川と北条を抑え込むときである!」
「関東管領様の後家ともなれば、室にお迎えなさるにしても大井のご正室を押しのけるかのごとく――」
「そのようなこと、するわけがなかろうッ!上杉のは側室にするに決まっておる!うぬは我を馬鹿にしておるのかッ!」
「いえ、ですからッ――」
「我がかの女を側室にすると決めれば、それですべてである!そも、我が我の奥のことを決めるのに、なぜ国人ごときに許しを求めねばならぬのだ!序を乱さず側室にすると言うておろうがッ!」
「ですから、その由、大井の者らに言い含める時が要ると申しておるのです!」
「その時がないのだ!今川と北条が動く前に婚儀を済ますのである!」
「なれど――」
「うるさいわァ!!!その口、二度と開かぬようにしてくれるッ!!!」
激昂した信虎は後ろに立てかけてあった槍に手を伸ばすと勢いよく振るう。
ひるんで胡坐を崩して片手を床についた加賀美は「なにを!」と叫んだが、信虎は過たずに槍の穂先を加賀美の開いた大口に突き込んだ。
「お屋形様ッ!」
「何をなさるか!」
「ご乱心!ご乱心ぞ!!」
加賀美とともに今回のことで諫言する側だった馬場虎貞・内藤虎資・山県虎清が口々に叫んで立ち上がるが、信虎の側近で帯刀を許されていた楠浦昌勝と曽根縄長はただちに彼らを討ち取った。
集まっていた諸将は突然の出来事に騒然となり、どさくさに紛れて広間から逃げ出す者もあった。
◇
やがて躑躅ヶ崎館に信虎の意に沿わない者の姿はなくなった。
混乱が収まるころには、今井・大井・飯富が府中を去って北巨摩に籠り、小山田が兵を集めていた。
信虎は諏訪攻めの口実に使った諏訪下社大祝・金刺氏を笹尾塁に入れたが、諏訪頼隆が思いの外、早くに進軍してきたため、笹尾の攻防は時間稼ぎにもならなかった。
しかし、反乱軍は若神子城に入って、しばらく様子を伺っているようである。
このひと月足らずの間に、信虎は直属の足軽を集めて忠心厚い牢人衆に割り当てた。
今井らは信虎が幾度となく叩き伏せてきた者たちである。「反乱した者は今回もお屋形様の武威の前にひれ伏すことになる」と兵は無邪気に信じており、その集まりと士気は十分だった。
「南部下野守殿より穴山が兵を集めておるとの由。とはいえ、兵を北に寄せてくるでもないそうで、おそらく駿河で今川に何やら動きあり、これに備えておるのやもしれませぬな。」
熟練の軍師・荻原常陸介昌勝が軍議を主導する。
南部下野守は武田一門で、南部氏の名跡を継いで穴山氏の南、今川氏に従属する井出氏の北の地で見張りの任に就いていた。
「諏訪もそうだが今川も動きが早い。示し合わせてのことやもしれぬ。常陸(荻原)よ、大井の富田城を奪って南に備えてはくれぬか。」
「承知。」
富田城は大永年間の今川家の侵攻時に敵味方双方の重要拠点となった城で、大井氏の勢力下にあった。獲って獲られての中で大いに破損していたが、信虎は大井氏に命じて修築させていた。
大井氏が北巨摩の若神子に籠る今、信虎は彼らの本拠地を支配下に置き、富田城で今川軍の侵攻を食い止めようと目論んだのだ。
「兵はあまり回せぬが、一撃して諏訪を追い払ったのちには後詰に駆け付けよう。」
信虎が諏訪勢に対する勝利を微塵も疑わないような確かな声音で言うと、諸将も大きく頷く。
神仏への信心と、その神仏に認められたという確信は、信虎に揺るがぬ自信を与えていた。
荻原もその様を頼もしく思って「この老骨に代わってせがれの敵をとってきてくだされ」と言った。彼は先の諏訪攻めで嫡男の備中守を喪っていたのである。
老軍師は主君も己も去った後の府中の動きについて、馴染みの老将・下曽根出羽守に任せるよう主君に進言した。
「お屋形様が北巨摩にご出馬なさって、儂が富士川の方を見ておる間は、府中は出羽守殿にお任せいたすのがよいでしょう。」
「うむ、出羽ならば後顧の憂いはない。頼むぞ!」
「ははっ!」
「出羽守殿、相模には五郎殿(勝沼信友)が入っておられまするが、小山田が動けば府中との道が塞がれ、東は北条の勝手に任すままとなり申す。府中に残る者を使って岩殿山に砦を築き、これをよろしくお守りなされよ。」
「心得た。」
先の出兵で信虎は相模の津久井まで進出しており、この地の守りに弟の勝沼五郎信友を置いていた。
岩殿山は甲相国境にほど近く、府中と津久井を繫ぐ甲州街道を見張る要害の地にあって、さらには小山田氏の勢力範囲の北端にあるため、ここをよく守ることは甲斐東部の安定に直結していた。
信虎は、東部防衛には府中の兵だけでは足りないと感じ、「ううむ」と難しい顔で唸ると、武蔵国秩父との境を守る叔父・松尾信賢を呼び戻して岩殿山に送るよう指示した。
「秩父口はこたびは気にせずともよいゆえ、松尾を岩殿山に送るがよい。道中、栗原の地があるが、やつばらは懲りもせずまたもや謀反に加担したそうだな。諏訪勢に合流したならば今は空き巣であろう。これも押さえておいてくれ。」
「承ってござる。」
「うむ!我には福慈の浅間大神の、そしてなにより代々の御旗・楯無のご加護がある!皆の者、我についてまいれ!えいえいえい!」
富士の霊峰、そして甲斐源氏の祖・新羅三郎以来の聖なる鎧と旗の加護を掲げた信虎の呼びかけに、諸将は力強く「おう!」と応えた。
◇
甲斐国人・諏訪勢・伊那小笠原勢・三河鈴木勢の連合軍3000は、武田信虎出陣の報せを受けて若神子城を出て、塩川の西岸を府中に向かって進軍した。
武田信虎が直々に率いる勇猛果敢な甲斐兵1500は、塩川と釜無川に囲まれた韮崎の河原の先端部に布陣してこれを待ち構えた。隊列の左右を川で守ることで包囲を防ぐ形である。
山本菅助は敵の布陣を見て直ちに「不吉なり。日を改めねば」と総大将の諏訪頼隆に伝え、頼隆もその見立てを評価したが、倍の兵で挑んで場所が悪いから戦わずに退却するというのは難しかった。
寄り合い所帯の諏訪方の兵はまとまりがよいとは言えなかった。反乱した甲斐国人衆は自領の様子が気がかりであり、信濃・三河衆は遠征ゆえに兵糧の運び入れに不安を抱えていたのだ。
共通なのは、早くに敵を片付けたいという思いだけであり、諸将は気が逸っていた。
「行くぞ者ども!狙うは大将首!」
甘利虎泰は配下の曽雌定能ら手勢に呼びかけて突撃態勢に入った。
しかしそれに先駆けて、一人の若武者が飛び出して諏訪勢に突っ込んだ。
「長坂左衛門!一番槍!」
「あの者を死なせてはならぬぞ!者ども続け!」
面頬を被り直した甘利は騎馬の上で矢をよけるために頭を低くし、馬上槍をしっかり脇で抱えて突撃した。これに曽雌らが続き、歩卒は彼らに送れじと全速力で駆け、諏訪勢の槍衾に果敢に突撃した。
少なくない者がその穂先にかかって脱落する中、馬の勢いで隊列の一角を突き崩した甘利はそのまま暴れまわり、突破口を得た従兵は我先にとその綻びめがけて群がる。
「今井何某、甘利九衛門が討ち取ったり!」
あっという間に諏訪方の最前列の一隊が崩れ、これを率いていた今井虎甫が討ち取られた。
第二列は己こそが甘利を食い止めんとばかりにしっかりと槍を構えて待ち受ける。
同じ光景は塩川に近い東側の隊列でも見られた。そちらで突撃しているのは小畠虎盛である。
甲斐の猛将たちは2組にまとまっていたが、その様はあたかも2本の大槍がごとくであり、諏訪勢の隊列に食い込み、突き破り、ひたすら前進を続けていた。
第二列の隊にぶつかってさらに手勢を減らしつつも甘利は止まらず、4町(約400m)ばかりも敵陣に食い込んでいた。
「板垣、室住はあれらを独りにするな!」
信虎は甘利の突出を許さず、板垣信方に後を追わせた。もう一方の隊列では小畠の援護のために室住虎光が長弓隊を率いて後を追っており、進撃する甘利と小畠の行く手に矢の雨を降らせた。
ひるんだ諏訪方の兵は瞬く間に甘利隊と小畠隊の餌食となった。
第三列は三河勢の夏目治武・鴛鴨松平親康・深津重次が守っていたが、ぶつかる前から兵が浮足立っており、恐怖から思わず甲斐兵をよけてしまい隊列が乱れた。
しかし、諏訪方も黙ってやられているわけではなかった。
「それ今ぞ!者ども、敵に横撃を食らわせてやれ!」
山本菅助は、突出する甘利隊を寄せ集めた兵で側面から攻撃した。
武田方の無理な突撃に討ち破られた諏訪方の第一列と第二列の残兵は、まだ十分な兵数を残しながらも戦場の中心から外れて遊兵となっていた。
山本はこれらをまとめ直して甘利隊を横と後ろから包囲したのである。
「もはや勢いも止められた。そのうえ囲まれてはかなわぬ。下がるぞ!」
甘利は引き際を弁えていたが、すでに手勢の多くが散り散りになっており、引くとはいってもそれは敗走だった。200の兵で攻めて、最後までついてきていたのは100だけだった。
武田方では、西側が崩れたことで東側で踏ん張っていた小畠隊が一手に諏訪方の攻撃を受けることになり、大きな被害が出た。
諏訪方の総大将・頼隆はすかさず後列の飯富虎昌隊を小畠隊と向き合う今井信元隊の増援に送る。
そして一から三列までの兵たちの収拾を山本菅助に任せると、本陣近くの大井信業の隊を反撃のために進軍させた。
鈴木家に取り立てられたばかりで功名に焦る三河勢の大将・柘植宗家も、目付・宇津忠俊から「兵は温存にござるぞ!」と忠告されたが、「今こそ好機!」と叫んで大井隊に続いて逆撃を仕掛けた。
大井・柘植隊は良く戦い、小畠隊は壊滅。傷だらけの小畠虎盛はなんとか信虎本陣に逃げ戻った。
その後ろで弓を使っていた板垣と室住の隊は大井と柘植の突撃の勢いをまともに受けてしまっていくらか組頭を失ったが堅実に後退し、その間に武田方は伸びきった隊列を整理することができた。
2つの川が交わる地点を背にする武田方はいわば背水の陣を敷いており、ずるずると押されてきた兵たちも、これ以上は引けないとなると腹をくくって熱心に槍を突き出した。
敵方のよく並んだ槍衾を前に、大井と柘植は足を止めることになる。
「横田備中!原美濃!ぬしらはあれを討ち取ってまいれ!」
「お任せあれ!」
「攻め手の大将首を持ってまいりましょうぞ!」
諏訪方の反撃の勢いが鈍るとみるや、信虎は虎の子の横田高松と原虎胤を解き放った。
横田と原は自軍の劣勢にひるむことなく、むしろ甘利と小畠ばかりに手柄をくれてやるものかとばかりに荒々しく大井隊・柘植隊と衝突した。
「大将首はいずこぞ!」
「美濃、あれではないか!」
少なくない騎馬武者がいる中で、横田は見慣れた武田大井氏の割り菱の旗と大将の位置を示す幟を見つけ、槍の穂先で指し示した。
「おお、あれぞまさに大井の大将に違いない!」
「あっ!おい、まて!あれはそれがしが見つけたのだぞ!」
抜け駆けした原とそれを追う横田は競馬がごとく競って敵兵の群れに割り入り、その勢いのまま慌てふためく大井信業を左右から挟み、槍を構えて追い抜きざまにこれを馬上から叩き落した。
横田は「このままでは美濃に手柄を奪われる!」と思って、鎧を着ているというのに駆ける馬から飛び降り、地面で昏倒している信業の首を掻き切った。
「大井の大将、この横田備中が討ち取った!」
「くそっ!馬から飛び降りるなぞ、無茶をしよるわ」横田の馬も引いて戻ってきた原は首を見て言う。「おお、これは大井次郎であるな。大手柄ぞ。」
こうしてあっけなく大井信業は討ち取られた。
信業は諏訪方の中心的な部将の1人であり、その戦死の報は大きな衝撃だった。
周囲の大井家の兵は恐慌状態に陥り、すぐ隣の三河勢にもそれは伝染し、そして後ろの諸隊もたちまち落ち着きを失った。
「なに、大井殿が!?それはまずい、一旦引くか!」
大井隊の壊滅を知った今井信是・信元父子は、ほとんど守備兵のいない自城・獅子吼城のことが気にかかり、柘植隊が潰走すると本隊から離脱して自城に撤退してしまった。
これにより完全に士気が崩壊した諏訪方は、我先にと若神子城に向けて逃げ出した。
かくして甲斐北西部で優位に立った武田信虎であるが、このとき東部と南部には危機が迫っていた。
【史実】大井信業の没年は史実だと1531年で、嫡男は1530年に生まれたものと思われますが、本作では1529年に反乱が始まったため、生まれないことになりました。
【史実】一番槍の長坂左衛門尉は長坂光堅という武将の若いころの姿です。
【史実】この反乱は史実の1529-31年の出来事が一気に押し寄せたものです。大永年間に今川氏親の甲斐遠征が史実より順調に進み、今川・北条が連携を強化したことが原因です。
史実は下記です:
〖1526年〗扇谷上杉朝興が山内上杉・武田と同盟して対北条包囲網構築。北条の支援を受ける古河公方・足利高基に反発して、弟の小弓公方・足利義明は真里谷・里見の支持を得て反北条。
〖1527年〗北条は小弓公方・真里谷・里見と和睦か?武田信虎、信濃の伴野氏・大井氏(甲斐の大井氏とは別)の争いに介入。
〖1528年〗信虎、諏訪攻め失敗。
〖1529年〗信虎、小山田信有に棟別銭を課して拒否され経済封鎖。小山田方は今川に執り成しを頼み、和解して棟別銭を支払う。信虎は馬場らの諫言が気に食わずに成敗。
〖1530年〗北条に小山田信有が敗北。扇谷上杉朝興が、関東管領山内上杉憲房の未亡人を信虎の側室として甲斐へ送る。
〖1531年〗上杉との婚姻同盟をめぐって飯富・栗原・大井・今井が反乱し、諏訪氏が合流。反乱軍は金刺氏の守る笹尾塁を攻略するも野戦で敗北。
〖1532年〗信虎、最終的に今井を屈服させ甲斐を統一。




