第86話 1529年「笹尾塁」◆◇
秋の収穫の後、甲斐攻めが始まった。
「三河よりようこそ参られた。それがしは山本菅助。伊那小笠原家の兵を預かりてこたびの甲斐攻めに加わることとなり申した。」
信濃国伊那郡の小笠原長高は、対武田同盟の一角として今川家に兵の供出を求められ、大将・山本菅助に片切・飯島・座光寺の者ら400の兵を付けて送り、諏訪勢との合流を指示した。
戦が好きなはずの長高自身が動かないのは、伊那郡の慰撫のためという建前だったが、実のところ乗り気がしなかったからだった。
鈴木家で長く世話になった彼の目には、今川家はかなりの吝嗇に映っており、所領経営の難しさを実感するようになった今や、タダ働きを求められるのだろうと思うとやる気が出なかったのだ。
さらに言えば、受け取った書状の長高本人の出陣を求めるくだりが何とはなしに鼻について、天邪鬼なところが出たのである。
「貴殿が山本殿であるか。お噂はかねがね。それがしは柘植總左衛門尉と申す。伊賀より移りて先年から対馬守様(重勝)にお仕えしておりまする。」
一方で鈴木家からは、今川家の要請に従って小笠原長高のもとに800の援軍が送られた。
今川からは1000の兵を求められていたが、重勝は出し渋って「200の差なら目で見ても気づかぬだろう」と削っていた。
その将として選ばれたのは柘植宗家だった。彼は伊賀国守護の仁木氏と争った後に、伊賀の平定に乗り出した六角定頼によって討伐され、船で東海へ落ち延びていたのである。
柘植は伊賀の山地でよく戦って仁木氏を翻弄し続けたことから、重勝は彼が山がちな甲斐でも用兵の妙を見せてくれることを期待して送り出したのだ。
山岳戦は伊庭と九里の得意でもあったが、彼らはいま対尾張戦の準備で身動きが取れなかった。
いま鈴木重勝は今後の今川家との関係や自家の戦略目標を考えるのに一人で頭を抱えているが、それがどのようなものに定まるにしろ、対尾張戦はいずれ必要になるだろう。
今川家にとって鈴木家は一従属国人として扱うには大きくなり過ぎた。従属大名として扱うにしても、もう少し規模を削らなければ離反が怖くていつまでも安心できないはずだ。
そのことは相手の立場になって考えれば、鈴木重勝にもよくわかることである。しかしだからといって大人しく土地を差し出すとか、臣従させた多くの家を分解するとかは納得できない。
今川家はいつになるにしろ、この勢いでは確実に甲斐を併呑する。そのときに彼らがどのように動くのかはわからないが、厚意や善意に期待する気持ちは、重勝の中にはもうなかった。
今川家が甲斐を獲った後の未来。対今川戦に備えるにしろ、今川と何らかの新しい関係を結ぶにしろ、目を東に向けるなら、鈴木家は背後の尾張は片をつけておく必要があった。
その手段が武力と外交のどちらになるせよ、何事も準備をしておかねばどうにもならない。伊庭と九里が従事しているのはそういう仕事だった。
そのため鈴木家の目下の優先事項は、尾張のこと、そして、東西で動きがあった場合の三河内部の安定であり、甲斐攻めに人手を割いている余裕はなかった。
それでもなんとか集めた甲斐遠征軍の陣容は次の通りである。
軍目付として宇津忠俊、使番頭として元小姓の鳥居忠宗。
長高の信濃帰還に随行した信州取次・伊藤貞久、信州の住人で鈴木家に仕官した夏目治武。
三河諸家からは深津重次、鴛鴨松平親康、阿知波定基、牧野平三郎・平四郎兄弟が集められた。
兵は出し渋ったが、兵が傷つくのはもっと困るため、なけなしの人材が選ばれていたのである。
重勝は「兵は温存するように」と諸将に言い含める一方で、せっかく甲斐に兵を出し今川と轡を並べるのならと、両家の軍兵の戦いぶりや甲斐の地形をよく記録するよう大将・柘植と目付・宇津に要請していた。
特に宇津は密命として甲斐の伊勢御師や熊野山伏と渡りをつけるよう言い付けられていた。
「うむ、よろしくお頼み申す、柘植殿。しかし、いきなり『大将を』などと、対馬様には驚いたことでござろう。」
いまだに日焼けが残る山本菅助がにこやかに話しかけると、いきなりの抜擢にずっと緊張してしかめ面をしていた柘植は少し気を緩めて笑顔を返した。
「いやはや、左様にて。」
しかしすぐにまた笑顔を引っ込めて言う。
「かような扱いは、それがしの器量を試しておいでなのでござろう。ここは何としてもそれがしの武をお認めいただかねばなりませぬ。よくよく気を引き締めねばと思うところにござり申す。」
守護と競ったという名声はあるが、柘植は落ち延びたという恥を雪ごうと意気込み盛んだった。
菅助は鼻息荒くそう言った柘植の様子に、「これは駄目かな」と思いつつ、三河の様子を聞いたり、信濃の様子について話したりしながら諏訪湖を目指して北上した。
◇
諏訪家の本拠・上原城にはすでに兵700が待っていた。
武田征討軍の規模を見て、勝ち戦に乗ろうとする土豪連中も集まってきており、総じて征討軍は2000を数えることとなった。
「お力添えかたじけなく!それがしは諏訪大祝家当主・刑部大輔頼隆と申す!」
諏訪家当主の頼隆が出迎えた。
そのそばには彼の父で豪勇の士と謳われる安芸守頼満と、次弟・満隣、三弟・満隆の姿もあった。
「主君・小笠原右馬頭の陣代、山本菅助高幸にござる。」
「鈴木対馬守の陣代として三河よりまかり越した。柘植總左衛門宗家にござる。」
いくらか供を連れて挨拶に出てきた菅助と柘植が答えた。
菅助は、伊那小笠原家と諏訪家の関係を良好に保つべく、にこやかに応対する。
「諏訪殿におかれては、先年には武田勢を見事押し返しなさって、その武威まことに頼もしきことなり。我らも諏訪大明神のご加護にあやかりたいものにござる。」
「うむ!いよいよこたびは諸家合力して甲斐へと攻め入り、武田の息の根を止めてくれん!そのためにもぜひとも方々揃いて戦勝祈願とまいりましょうぞ!」
頼隆は「甲斐武田家をいよいよ討滅するのだ」という意気込みと、前年の戦勝で裏打ちされた自信とに満ち溢れ、覇気ほとばしるようであった。
諸将は兵を連れて諏訪大社へ赴き、連名で願文を作って戦勝の暁には10年間にわたり銭1貫文を寄進すると約束して祈りをささげた。
願書
方々本意者、天下泰平武運長久、
特今度甲軍悉令退治候。存分得勝利、
十ヶ年毎歳、以銭拾緡、於諏訪
南方法性大明神、可奉寄進候也
仍立願状如件
享禄二年十一月廿日
諏訪前大祝神刑部大輔頼隆
方々の本意は天下泰平武運長久、特に
今度の甲(斐)軍悉く退治せしむるに候。
存分に勝利を得ば、十ヶ年毎歳、
銭10緡(100文刺し)をもって、
諏訪南方法性大明神へ、
寄進たてまつるべく候なり。
よって立願状くだんのごとし
かくして、意気軒高たる武田征討軍は、諏訪家と婚姻で結ばれている反信虎の今井信是・信元に助勢すべく、諏訪湖を背にして赤岳南の一本道を甲斐へ向けて進軍していった。
日暮れ頃には甲信の堺川(立場川)を越えて甲斐に入り、武田信虎が去年の諏訪侵攻時に拠点とした新五郎屋敷(先達城)に至り、この地で野営して一夜を明かした。
◇
あくる日、物見が徒歩で1刻先(2時間)の笹尾の砦に金刺家の旗が立っているのを発見した。
「ええい金刺め、しつこい者どもだ。いまここで滅ぼしてくれよう。者ども!城攻めぞっ!」
なんとなく総大将の座に収まっている諏訪頼隆は金刺氏への敵意をあらわにした。
金刺家は諏訪下社の大祝の家であり、上社の大祝である諏訪家とは長らく対立しており、永正年間にはついに諏訪家先代当主の頼満がこれを甲斐に追い落としていた。
下社大祝・金刺昌春は武田信虎の支援で諏訪復帰を目指しており、去年の信虎の信濃攻めは金刺復権を大義名分に掲げていた。
諏訪は仇敵をここで滅ぼすべく兵を進めた。
「御大将に取次願いたい。それがし、この地に住まう馬場外記と申す。」
笹尾の北の高福寺を通り過ぎたところ、この寺を開いた馬場外記なる者がやってきた。
諏訪頼隆はこれを本陣に迎えて事情を聴くことになった。
「武田のお屋形様は乱心して我らの頭領を手討ちにいたした。我らが一党をかくも蔑ろにするはゆめ認めること能わず、一戦して武威を示さんと欲するところにございまする。なにとぞ案内として参ずるをお許しいただきたい。」
「ふむ、今井殿よりその話は聞いておる。よかろう、働きに期待する!」
「であればまずは、この地の者らを説得し、退かせてまいりましょうぞ。そのためにもなにとぞ乱妨の御禁制をお約束いただけますれば。」
「ふむ、うまく退かせることかなえば、考えてやろう。」
諏訪頼隆は当初、この馬場何某が武田の間者である可能性を疑っていた。
しかし、頼隆は今井氏からの書状で「馬場の惣領・虎貞ほか何人かが武田信虎に諫言して手討ちにされた」と知らされていた。
そのため、馬場氏が信虎に楯突く理由も納得できたし、実のところ「掠奪をしない」という約束を取り付けるのがこの者の目的だとわかったことから、馬場を案内人として雇うこととなった。
案内を買って出た馬場外記は、甲信国境を守る同胞の武川衆を説得し、侵攻軍が掠奪行為を抑制する代わりに、武川衆からはある程度の兵糧供出と不戦を引き出した。
信虎による度重なる戦により、甲斐はどこもかしこも困窮に苦しんでいた。それは武川衆も同じ。諏訪方の優勢な様子を見て、兵を退く口実もそろったならば、静観するのもやぶさかではなかったのだ。
おかげで信濃勢は大した抵抗もなく笹尾まで進出し、砦を見上げるように軍勢で取り囲んだ。
◇
砦に籠る金刺の兵たちから見れば、崖上からの開けた視界には、諏訪やら小笠原やら他にも見慣れぬ旗指物があまた揺らめき、ひしめく兵の数も自軍の数十倍。
さらには戦上手と名高い諏訪党が勢い良く向かってくるとなってはいかんともしがたく、笹尾の兵らは完全に戦意を喪失し、戦わずに自落した。
縄を打たれ猿轡をかまされた金刺氏の一族が諏訪頼隆の前に引き出される。
彼らはもがもがと口の中で罵詈雑言を唱えて憎悪にぬれた視線を頼隆に向けたが、頼隆は一顧だにせずに告げた。
「これでは潔く自害するとは思えぬ。それ、首を刎ねよ。」
かくして金刺の一族は滅ぼされた。
それを横目に菅助は考えを巡らせる。
城に詰めていた兵は100に満たない。これでは当然砦を守り切れるはずもなく、武田信虎は自らが府中で守りを固めるか、反撃の軍勢を用意するまでの時間稼ぎに、金刺氏を捨て駒にしたのだろう。
一方こちらは馬場氏のおかげで進軍は早いが、それゆえにまだこの寄せ集めの集団を戦場で馴らすことができていない。掠奪も満足にできない分、兵糧の輸送を急ぐ必要も出てきた。
現状に加えて占いの結果も踏まえた菅助はぽつりとつぶやいた。
「占卜は『坤為地』と出た。東北にては損害あるやもしれぬが、つまるところは吉か。我らは先んじず、節制して待つがよかろうとのことなれど、はて、どうなるものやら。」
◇
笹尾は諏訪党の千野何某が守り、征討軍は全軍で釜無川に沿って進む。
道中、獅子吼城を本拠とする今井信是・信元、大井信業とその弟たち、飯富虎昌が合流した。
「おお、かくも数多の兵が集まり、さらに駿河からも助太刀ありとなれば、いやはやなんとも心強い。誠かたじけないことにて。」
今井氏の当主・信是は、諏訪氏と結んだ婚姻を理由に彼らを甲斐に呼び込んだ張本人であるが、援軍の到来に心底安心した様子で諏訪頼隆に礼を述べた。
信是は続けて、甲斐国人側の事情として栗原氏のことに言及した。
「我らの側では、急なことなれど、栗原殿が先日、不慮に倒れた。縁起は悪いが、嫡男殿からは『急ぎ家中をまとめ、兵を集めて合流したい』とのことであった。」
栗原氏も今井氏や大井氏と同じく、たびたび甲斐武田氏に反乱してきた一族である。
当主・栗原信友は今回の反乱にも同心していたが、数日前に頓死しており、急遽家督を継ぐことになった子の信重は出遅れ、所領もやや離れて甲斐の北東部にあるため合流に失敗していたのだ。
それでも軍勢は3000近くになり、さらにこれに今川の援軍が南から押し寄せる。
反武田連合軍は、石高で言えば遠駿と南信濃だけで45万石を下らない。これに25万石強の三河鈴木家と、25万石弱の相模北条家が助力するとなれば、甲斐中心部の15万石ほどの勢力しかない武田信虎に太刀打ちできるはずもなかった。
◇
軍勢の目的地は甲斐北西部の要地にある若神子城である。
この城は北の甲川と南の鳩川に囲まれた山地に突き出すようにして存在し、その守りのために甲川の北、鳩川の南にそれぞれ砦を構えている。
先触れの者と門番が大声でやり取りをする。
「開門!開門!諏訪刑部大輔様よりの使いにござる!」
「うむ!城主様がお待ちだ!入られよ!」
若神子城主は逸見兵部大夫信親といった。
しかしこの逸見なる者、何を隠そうその妻は武田征討軍の総大将・諏訪頼隆の妹である。
つまり逸見は諏訪と通じており、その軍勢はすんなりと若神子城に迎え入れられたのだった。
周囲の土豪は、武田征討軍の勢いを目の当たりにして、なにより、この地の有力な武士団である武川衆が動かないこともあって、息をひそめて様子を伺っている。
これで他にも援軍が予定されているのだから、そうそうまずいことにはなるまい。若神子城内ではそのような弛緩した空気が流れる中、いよいよ武田信虎の反撃が迫ってきていた。




