表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国の鈴木さん  作者: capellini
第6章 停滞編「剣が峰に立つ」
90/173

第82話 1528-29年「関春光」◇

 信濃にて。

 小笠原長高は、三河からの兵と借款により、美濃国土岐郡・恵那郡まで広がる松尾小笠原氏の旧領を素早く継承し、十分な兵力を用意できるようになっていた。

 しかし、兵を率いる地侍や松尾小笠原の旧臣と長高家臣との間の絆が深まっておらず、徴兵の仕組みも三河より整っていないため、長高は得意の軍事においても言葉にならない小さな苛立ちを度々覚えていた。


「苛立って仕方ない。」

「まあまあ、殿。『戦場にて心を乱すはよろしからず』とは、殿のお言葉にござりまするぞ。」


 長高のぼやきに側近の伊奈熊蔵が答えた。

 いま、小笠原軍は松岡氏の家臣・龍口氏の原城に集結して、東の大島城を包囲している。

 天竜川に後ろを守られた台地の上にある大島城は、正面からしか攻められない堅固な立地にあり、川を使った物資輸送にも有利である。

 それゆえに長高は城を召し上げようとして戦になったのだった。


「関の入道(春光)はずいぶん気落ちしておるようだな。」

「すっかり気合を失い、気の毒ですらありまするな……。」


 関春光は先ごろ出家し、今はさながら憑き物が落ちたかのようであった。その最大の理由は、この年に嫡男が急死したことだった。

 そのうえ、関家当主で甥の春仲が、後見人だった春光の専横を嫌い、早々に家督を子の盛永に譲ってこれを後見するようになっており、春光は関家での実権も失っていた。

 今までの春光であれば、下条氏らの敵意を買いながらも強引に勢力を拡大したように、春仲を滅ぼして実権を取り戻していたかもしれない。

 しかし、関家を含めた下伊那の諸家が小笠原の傘下に入って緊迫した情勢にも終止符が打たれたことで、春光自身の闘志が燃え尽きてしまっていた。


 大島城を攻めているのは下伊那の旧松尾小笠原領の兵250で、大将の関春光を坂西伊代守の一党が与力として支援している。

 するとそのとき、原城の長高のもとに、北方を警戒していた物見が駆け戻ってきて、大島城救援のために城主・大島氏と同族の片切一党(片切・飯島・上穂・赤須)が南下してきていると伝えた。


「やはり出てきたか。片切の諸家は合わせてもせいぜいが2000貫文の知行であろう。さっさと降伏すればよいものを。一度戦ってからでは遅いのがなぜわからぬのだ。」

「我らは信濃に戻ったばかり。しばらくは武威を見せつけねばなりますまい。」


 片切党はそれぞれの家が数百貫文、合わせても2000貫文かそこらであり、集めた兵も300ほど。

 その数倍の勢力を持つ小笠原長高家との差は明らかであり、伊奈熊蔵も国衆が戦わずに従属するのを願っていたが、「まずはひと当て」と考えるのは武人にとっては致し方のないことだった。


「まあよい。城攻めは関入道に任せ、我らは北に向かい、松川を挟んで対陣する!松岡党に『ついてまいれ』と伝えよ!」

「承知!」


 松岡党200に加えて美濃兵300から成る小笠原軍は500で急いで北上した。

 長高家臣・柴田政忠が騎馬で先駆けして松川南岸の集結地点を確保し、残りの兵は駆け足で続いた。

 原城から松川までは駆けて四半刻(30分)。北からやって来た片切の兵が松川北岸の船山城に集まるころには、小笠原軍の布陣は完了し、両者は川を挟んで睨み合いとなった。

 敵は救援のための兵であり、ここで渡河せねばいずれ大島城が落城するのは間違いない。

 しかし、すでに目の前には敵が待ち構えており、渡河中に攻撃を受けては兵数不利の片切党に勝ち目はなかった。

 片切の諸家は今頃降伏すべきか話し合っていることだろう。そう思いながら冷めた目で敵城を見やる長高に、伊奈熊蔵は話しかけた。


「関殿がよく従ってくれるは、坂西伊代守殿に加えて得難い御仁を得られ申して、よいことにございまする。」

「関が大人しくなったは意外であったが、他がだめだ。下条(時氏)は遠山(江儀遠山氏)や熊谷(左閑辺熊谷氏)を従えて下伊那の盟主のような面をしておって苛立たしい。松岡(大蔵少輔時貞)もなにかにつけて腰が重い。知久は頑なに従わぬ。すべてが苛立たしい!」


 下条氏と松岡氏は下伊那で一、二を争う勢力を誇っており、言うことを聞かせるのは骨が折れた。

 下条氏にはかつて家系が途絶えた際に小笠原氏から養子が入っており、その血筋を誇っているのか、対抗意識が見え隠れしていた。

 一方の松岡氏は田中(牛牧)・坂牧・吉村・吉田・宮崎・龍口・座光寺といった城持ち土豪を配下に持ち、所帯が大きすぎて勢力としてまとまりに欠け、非協力的でもないのに何事にも時間がかかっていた。


「木曽殿(義在)は街道を整え材木を売ってと内治に励んでおられ、歩みをともにするに値する御仁とそれがしは思うており申すが。」

「木曽谷はそれでよい。問題は伊那谷よ。どうにも重い鎧を着こんでおるがごとく動きづらくてかなわぬ!」


 何を話しても不機嫌になってしまう主君に、さすがの熊蔵も閉口して黙った。

 そうこうするうちに船山城からは使者がやってきて、一戦もせずに片切党は降伏した。


 ◇


 長高は大島城を明け渡させ、降伏した片切党と今回参戦を渋った下条氏に対し、さらに北の小田切氏と宮田氏の討伐を命じた。彼らもまた片切党と同じく従属命令を無視したのである。

 結果、激しく抵抗した小田切氏は見せしめに滅ぼされ、宮田氏勢力下の表木城が没収された。

 宮田氏には代わりに荒廃した小田切城が与えられ、長高の勢力圏の北端にある表木城には守将として関春光が配置された。


 天竜川西岸に大規模な勢力を確立できたことから、長高はすかさず配下の坂西伊代守と対立する知久頼為に降伏勧告を行った。

 知久氏は同盟していた諏訪氏を頼みに思ってこれを突っぱねたが、折しも諏訪氏は甲斐の武田信虎に攻め込まれており、援軍を出せる状況になかった。

 武田信虎は甲斐国衆の度重なる反抗に悩まされてきたが、これらを叩いて大人しくさせ、大永年間の今川家の乱入も押し返し、一国の守護の地位を確立したかにみえていた。

 先年には信濃国佐久郡に干渉しており、今回の諏訪への侵攻も信濃進出の野心の表れだった。

 それゆえ諏訪氏は武田氏を強く警戒しており、すでに反武田・親今川とみなされている長高に協力することを選択していた。つまりは知久氏は孤立無援だった。

 長高が搦め手も使って知久氏家臣の小林氏・桃井氏・虎岩氏などを懐柔し、知久氏の守る知久平城と神之峰城を丸裸にしたところ、知久頼為は抗戦を諦め、伊那の山間に姿を消した。


 長高は知久氏旧領の一部を関盛永に任せ、その代わりに関家領・新野を取り上げた。

 新野は三河とつながる街道沿いにあることから直轄にして往来の安全を確保し、また、信濃南端では嫌われ者の関氏を下条・遠山・熊谷らから遠ざけることで不和の種を減らしたのである。

 かくして小笠原長高は従属家を含めて南信濃と東美濃に7万石ほどの勢力を短期間に築き上げた。

 今川家はこれを頼もしく思い、この年の武田信虎の侵攻を退けた諏訪氏とともに、小笠原長高を反武田同盟の一角として迎え入れることとなる。


 ◇


 享禄2 (1529)年。


「ずいぶんとご無沙汰いたし申して、まことにかたじけなく。わずかな間にかくもお家を大きくなさったはまこと祝着にござる。殿の武略、熊蔵殿の内治、これ相合わさってこそというものでござろう。」


 真っ黒に日焼けして磯の香りが匂い立つかのような海の男が、きらりと白い歯を見せて言った。

 なぜか頭は剃りあげられている。


「よくぞ戻った、菅助!もうどこへも行かさぬぞ!」

「すっかり黒くなって。対馬殿(鈴木重勝)には何やら大きな土産あったと聞きまするぞ。我らには何があるのでござるかな?」


 長高と熊蔵はにこやかに山本菅助を出迎えた。

 菅助は2年ほど鈴木重勝の頼みで西国との伝手を作り、かの地あるいは海外との直接の商売の道を開くべく交渉して回って、ようやく帰還したのだった。


「もちろん土産はあり申す。まずは方々に紹介したき人物ござりまする。こちらは相良民部大輔殿(長定)、肥後は相良氏のご嫡流にございまする。こちらは犬童刑部左衛門殿(長広)、相良殿の一の忠臣にござる。」


 菅助の紹介に相良長定と犬童長広は揃って頭を下げた。


「ほうほう、これは遠路はるばるよくぞ来られた。」

「小笠原右馬頭殿の軍才と伊奈熊蔵殿の奉行働きにつきては道中、菅助殿より聞いており申す。尊家にお仕えいたしたくまかり越した次第。」

「それはそれは。当家は先ごろ所領を広げたばかりにて人手はいくらあっても足りませぬ。ぜひ当家に力添えを願いたい。ひとまずはこの松尾の城にて落ち着かれよ。」

「かたじけない。」


 くたびれた様子の相良長定は安心したように息をついた。

 長定は相良氏の嫡流であるが、不具だった父が家督を相続できなかったため、自分の代になって反乱を起こして強引に家督を手にしていた。しかし、その後、相良一門衆の逆襲にあって筑後国に落ち延びており、報復を恐れながら暮らしていたところだったのである。

 九州を船で一周していた山本菅助は、相良氏の騒動を聞いて筑後で長定と犬童一族に会い、暗殺におびえる彼らに三河・信濃への移住を勧めたのだった。


「それから、こちらは右馬頭様に土産にござる。明の海賊より入手した三つ筒の『銃筒』なる武器にござる。火を用いて飛礫を飛ばす火矢の変わり種がごときものとご承知くだされ。」

「ほう、なんとも面妖な。」


 銃筒を手に取った長高は、正面から3つの銃口を覗き込みながら言った。

 菅助が入手したのは三眼銃という火砲で、1尺(約30cm)ほどの3つの筒がひとまとまりで鋳造されて、棒の先に取り付けられている。筒の前から鉄弾を込めて火薬の力で射出する兵器である。

 これはすっかり錆びてしまっていて実用には耐えられないものだったが、それゆえに外国人である菅助でも購入することができた。

 頭を剃りあげて仏僧を装い、言葉も通じないのに通詞を雇って西海に漕ぎ出し、密貿易拠点である明国寧波沖の双嶼に辿り着いた菅助の尽力があったからこそ、得られたものである。


「その穴から石だか鉄だかを飛ばして兵を倒すのでござる。」

「ふむ、言われただけではいまいちわからぬ。使ってみてくれるか。」

「実のところ、それは壊れておりまする。また、飛礫を打ち出すにも特別な薬がいるそうで、それを調べるのもそれがしの務めでござい申した。それを基に三河で吟味し、数を増やした後には売ってくださるとの由。ただし『他家にはゆめ得さしむることなかれ』とのこと。」

「ふむ、そこまでひた隠しにするほどのものということか。まあ、対馬殿のことだ。悪いようにはなるまいが……。」


 長高はあごひげをいじりながら思案気に言うと、好奇心で輝く瞳を菅助に向けて言う。


「さてもおぬし、文にあったが、琉球に明まで行ってきたとかいうではないか。これよりは宴だ。道中のこと詳しく聞かせい。」


 ◇


 かくして、松尾城では菅助の帰還を祝って宴会が開かれた。

 宴の間、菅助は時折、物憂げな様子を見せていた。伊奈熊蔵は目ざとくそれを見つけ、尋ねた。


「いかがいたした、菅助。物憂げであるな。」

「いや……。おおそうだ、熊蔵殿におかれては御嫡孫が生まれたと聞き申した。それがしの居ぬ間に色々とあり申したことよなあ。」


 熊蔵の嫡男・忠基はすでに妾との間にたくさんの子を儲けていたが、菅助がいない間に正室との間に嫡男と次男を得ていた。


「いやはや、それがしもそろそろ隠居であるかなあ。」

「いま貴殿に隠居されては殿がお困りであろう。どれ、ここはお孫殿の健やかなるを願って杯をいたそうぞ。」

「うむ、では一杯!」


 菅助は気がかりを断ち切るかのように酒を浴びるように飲んで夜を明かした。

 人々は菅助の西国道中の武勇譚を語り継ぎ、それはやがて御伽草子となった。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 1529年ならば、明国へ西洋式の火縄銃(明で言う鳥銃、後の日本で言う種子島銃)が伝来する10年前になりますな フランキ砲だったら明国には1517年にポルトガルから入っていたようですが
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ