第80話 1528年「堺会合衆」◆
堺の町は、会合衆という10人ほどの豪商の合議で運営されてきた。
しかし今、情勢の急激な変化を受けて会合衆の中での権力争いが激化していた。
野遠屋、つまり三河鈴木家と懇意の阿佐井野宗瑞の属する商家もその一角を占めていた。
「雪庭殿(阿佐井野宗瑞)の宿願であった『医書大全』のつつがなき出版、まことにめでたくてございまする。」
阿佐井野宗瑞のもとに相談に訪れた浜嶋新太郎が挨拶を述べた。
浜嶋は三河屋の大番頭としてすっかり貫禄がついており、今や剃髪して三河屋鉄斎と名乗っていた。
「これも対馬殿(鈴木重勝)のご支援あればこそにございます。かつて鉄斎殿がわたくしのもとに参られて字書を請われたことを思えば、世の移り変わりの激しさが身に沁みるというものです。」
「いやはや、あの時から雪庭殿にはよくしていただき、こうして一端の商人となることがかない申した。」
「今となっては、あのときのわたくしの先見の明には、我ながらよい眼を持っていたと褒めてやらねばなりませんね。さても、今日はいかなるご用向きでしょうか。」
鉄斎はその問いかけに、姿勢を正して用件を切り出した。
「はい。実は先ごろ、堺公方様より三河屋に公事銭を300貫文納めるように、というお達しがございました。」
「ほう、公方様から、三河屋に直にですか。」
「はい。急な上に不可思議なる仕儀にて、鈴木様との間になにやら揉め事あったのではと思いて問い合わせ申したところ、『300貫文は当家が近江に支払ったと同じ値ゆえ、近江と同じ扱いを求めたのであろう』とのお返事がございました。しかし、もしそれのみならば、鈴木様に直にお伝えすればよいことにて、堺の雑公事につきて公方様が三河屋に申し付けるというのは……。」
「ふむ、なるほど……。」
鉄斎の相談はまだ話の触り部分であったが、宗瑞は一言発すると静かになって思索にふけってしまった。鉄斎はそれを邪魔しないように口を噤み、やがて宗瑞が再び口を開いた。
「堺の公方様が堺の商家に公事銭を求めるというのは、一見するとおかしくないように思われますが、これは軽く見てよいことではありません。」
そう言って宗瑞は鉄斎を一瞥して頷くと、話を続けた。
「野遠屋は堺の地下衆(町人連中)を取りまとめてまいりましたが、近頃は何かと騒がしくてかないません。貴殿もずいぶんと大店になりましたし、わたくしももう余命幾ばくもないでしょう。そろそろ始末をつけねばなりませんね。」
鉄斎は宗瑞の寿命の話への反応に困って眉を寄せたが、それと同時に話の筋が見えずに、頭巾をかぶった愛嬌のある禿頭を不思議そうに傾けた。
宗瑞はそれを笑顔で見やりながら、書状をいくらか認めるのだった。
◇
堺の開口神社には町有数の大商人たちとその護衛が集まった。
「雪庭殿、こたびの招集はいかなることにございましょうや。いただいた文には用向きが書いてありませなんだが。」
阿佐井野宗瑞に呼び出された者らが出そろったとみるや、天王寺屋の津田宗伯が挑発的に尋ねた。
津田は大坂天王寺から移ってきて天王寺屋を名乗り、九州との独自の縁をテコに急速に堺での影響力を増していた。寄合においても新興商人をまとめて古株の野遠屋に対抗する一派を形成している。
この頃は、禅宗の茶礼(喫茶の礼法)、唐物人気、連歌の枯淡の美(あっさりした趣)などが合わさって、堺では四畳半の方丈間での茶の湯が人気を博しており、天王寺屋はこの新しい流れを牽引する立場になろうとしていた。
芸事は禅僧への帰依と表裏一体であり、堺の有力者はこぞって南宗庵の古岳宗亘と宗套(大林宗套)という名僧師弟と交流していた。
野遠屋・阿佐井野宗瑞も信心から宗套に帰依していたが、彼は儒学や医学など学問を好んで保守的に振る舞っており、両者は嗜好的な面でもそりが合わなかった。
「本日集まっていただいたのはほかでもありません。こちらの三河屋の鉄斎殿のことについてです。」
「三河の方が堺の会合に何用というのでしょう。」
「公方様は先ごろ三河屋に公事銭をお求めになりました。300貫文です。」
「ほう、では素直に支払えばよろしいのでは?」
「本当にそう思いますか?」
津田が食って掛かると、宗瑞は澄んだ瞳で津田を射すくめた。
宗瑞はもう56歳。体はやせ衰え、阿佐井野家の学業は一族の宗信に引き継ぎ、店の経営は野遠屋兵庫なる者に引き継いで、ほとんど隠居の身であったが、大商人としての鋭さに衰えはなかった。
「公方様が堺の商家に公事銭を求めるのを黙って受け容れることは、すなわち公方様が堺の地下衆からあまねく銭を集めるのをよしとするということに他なりません。」
「いや、そうはなりますまい。そこなる三河者は、どうせ国許の都合でかくなる仕儀となっただけでしょう。公方様が我らにも銭を求めるのを当たり前と思うというのは、話が飛び過ぎておられましょう。」
津田は堺公方陣営に楯突くような対応は避けたいと考えて反論した。
津田の天王寺屋は堺に移転してまだ数十年の新興勢力であり、野遠屋や湯川氏・池永氏らをはじめとする古くからの堺の豪商に対抗するために、堺の新しい支配者である三好家との関係構築を目指しているところだったのだ。
「そうでしょうか。近江と堺が相争う限り、これから矢銭を求められるといったことは十分にありうることです。津料やらなにやら次々と課されてはかないません。
しかし三河屋の例があれば、我らは公方様の言い分に抗いがたくなるのではありますまいか?」
「それはそうやもしれませぬが。」
「この堺はあちこちより流れてきた者たちが集まってできた町です。三河者だからというのは、我らの在り方に大本から反する物言いです。現に津田殿は堺で長らく商売をしてこられたとはいえ、この地の生まれではありますまい。」
津田はその物言いにむっとしたが、大商人らしく表には出さずにじっと黙っていた。
「数年来、三河屋は火消し人足の賄い銭や、催し事があればその支度もよく手伝ってまいりました。商いも三河のみならず伊勢・紀伊や東国の産品を扱う大店です。これを堺の商家と数えないのは傍目に見ても無理がありましょう。
これを会合衆に加え、『堺地下衆への公事や地子の申し付けは我らを通さねばならぬ』というのを公方様に知らしめねばなりません。さもなくば、この町はこの町でいられなくなってしまいます。」
天王寺屋を中心とする外来や新興の商人が力を増す中、宗瑞は堺の町の運営に長年携わってきた野遠屋の一員として、そうした勢力の意見が幅を利かせるようになることを危惧していた。
自分の命ももう長くない。世代交代を経ればその流れは加速するだろうし、彼らが果たして堺の自立を守ろうという信念を持ち合わせているかもわからない。ことによると、彼らが頼りとしている三好家や外の大名家の意向が町の政を左右するようになるかもしれない。
一方、三河屋は成り立ちからしてあからさまに鈴木家の紐付きであることから、これまで堺で大々的に活動していても、いつまでも他国者という扱いを受けてきた。
宗瑞ですらなかなか三河屋を堺商人とはみなしがたかったが、自らの死後を見据えるようになった今や、彼は三河屋を堺に深く結びつけようとしていた。
重勝と長年付き合ってきた彼は、鈴木家ならば堺の政に無暗に介入しないだろうと見込んでいた。その上で三河屋を堺の運営に関わらせれば、鈴木家は堺を他大名家の圧力から守らねばならない、と考えたのである。
これまでの庇護者である細川氏は長らく混乱し続けている。代わりに三好家を頼るかと言えば、それでは天王寺屋一派の勢力伸長を抑えることができず、しかも、地理的に堺を直接支配可能な三好家の介入を呼び込めば堺の自立性を損ないかねない。
そのため、宗瑞は複数の後援者を持つことが重要であると考えたのだ。
「いや、それとこれとは話は別でございましょう。」
津田は場の空気が宗瑞の支配するところになってきているのを感じ取り、慌てて反論した。
三河屋を堺地下衆の一員と認めて徴税権の独立性を守らなければならないというのは正しいとしても、明らかに野遠屋の支持者である三河屋を会合衆に加えるのは、それと対抗している天王寺屋としては認めがたかった。
「いえ、三河屋ほどの大店が会合衆に加わらぬのでは示しがつきません。かの商家を地下衆(堺町人)として扱うならば、これは必要なことです。
とはいえ、宗伯殿のお気持ちはわかっておりますから、どうでしょう、あなたもどこかの商家をひとつ会合衆に推挙するというのは。」
「いや、ううむ、そうは言うも……。」
「儂は雪庭殿の話に同心いたす。寄合も常に全員が集まれるとは限らぬし、町もますます大きくなっておるところなれば、人が増えるのも道理なり。」
言い淀む津田に対して湯川新五郎が声をかけた。
彼はかつて遣明船で巨利を得た古株の豪商・湯川氏に連なる者で、細川氏の後援を受けた遣明船派遣が困難になった今、海外へ商船団を派遣しようと計画している鈴木家と協力関係にあった。
鈴木家は派遣船団を堺商人の合同出資で賄うことを考えており、株式会社方式を準備していた。自前で船を用意できない中小商人からも出資金を集め、船団の帰還後に出資者に利益を分配するのである。
国持大名の出資に便乗できて損害を個人で被る必要がないこの取り組みは、すでに内密に参加を呼びかけられていた一部の中小商人の間で支持を集めていた。
その流れは会合衆に出席するような豪商にも確かに押し寄せていて、結局、三河屋鉄斎の会合衆参入はさしたる反対もなく受け入れられることになった。
それとともに急成長中の魚問屋・田中与兵衛が天王寺屋陣営として寄合に加わり、堺公方には会合衆の名義で三河屋から徴収した300貫文が支払われた。こうして堺の自治の気風が示されたのである。
【史実】田中与兵衛(1540年没)は千利休の父です。




