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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第6章 停滞編「剣が峰に立つ」
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第79話 1528年「薬種商」◆

 享禄元 (1528)年。


 管領・細川道永(高国)はこの年の始めに京都奪還に失敗してより、書状を送るだけでなく自ら諸国を回って諸大名に帰洛のための援軍を要請していた。

 しかし、道永の無神経な発言のせいで、前年に兵を出してくれた朝倉氏とは関係が悪化しており、朝倉孝景にはにべなく派兵を断られてしまった。

 頼りの後援者である六角定頼にもやんわりと窘められ、娘婿の北畠晴具からも「1年待ってくれ」と言われてしまった。

 そのため、道永は西方に目を向け、実家である備中の野州細川家を継いでいた弟・晴国の協力を取り付けた。備中・備前から播磨・摂津へ向かって東進して堺方に対抗しようと考えたのだ。

 その計画の下で、道永は隣の備前の守護代・浦上村宗と同盟を結んだ。浦上は主家・赤松家の当主を殺してその遺児・赤松政村を傀儡としており、派兵に応じることで正当な支配者として認められようというのだ。

 しかし、赤松氏によって東播磨守護代に取り立てられていた別所就治は、赤松氏の権威を尊重しなければ自家の立場が崩れてしまうため、浦上の振る舞いに反発して堺方の柳本賢治と同盟した。


 そもそも播磨の東の摂津では、三好氏が河原林氏の居城・越水城を奪って支配を固めつつあり、道永派として最後まで抵抗していた伊丹元扶も三好方に降伏してしまい、ここを素通りして備中から進軍するのは無理だった。

 しかも、浦上氏に対する道永の対応は、近江幕府の屋台骨である六角定頼にとって後先考えない了見の狭さを物語るように見えただけでなく、下剋上を肯定するようにも見えて、両者の間の亀裂は広がった。

 こうした事情で焦りを募らせていた道永は、三河鈴木家からの関係改善の打診に飛びついた。

 三河勢は、世間では、近江幕府に参集しようとしていた信濃松尾の小笠原氏を滅ぼしたことから、反近江陣営とみなされていたのだ。

 鈴木家は300貫文の和解金の支払いと引き換えに先の失点を取り返し、近江と堺の間で中立の立場を回復させることとなった。


「今のところ近江方はうまくないように思われるが、鈴木様は三好様と堺公方様が天下を獲るには至らぬとお考えのようでござるな。」

「うむ。主上もこたびの改元にあたり、近江にのみお問い合わせなさったそうな。近江こそ正当なる公方様とのご意向をお示しなさったと見てよいだろう。」


 朝廷は元号を「享禄」に改めたが、その際に近江公方にのみ相談して、堺公方には相談しなかった。

 堺方はへそを曲げて「享禄」をしばらくの間使わなかったが、結局この一件は「近江の公方こそ正当な将軍である」というのが世間一般の理解であることを示していた。


「我らがこうして瀬戸内を行き来できるのも、鈴木様が内々に近江の管領様と結びて海賊(能島村上党)に話を通しておいてくれたがゆえなり。」

「されどそれでいて三好方の堺に重きを置いて琉球と交易しようと目論んでおられる。

 その動きは、目指すところを知る者でなくば極めて不可解にて、我らは己が振る舞いが相手の目にいかに映るかをよくよく気をつけねばなるまい。」


 安芸国厳島に向かう船上で堺の薬種商、小西弥左衛門行正と高三(たかさぶ)隆喜が話していた。

 彼らは大陸から輸入した薬種を扱う商人であるが、細川氏の後援を受けた堺船での交易が細川氏の分裂と大内氏による交易独占により難しくなってきたため、将来に不安を覚えていた。

 そんな中で2人は鈴木家の御用商である三河屋から、「薬効あらたか」と謳われるようになってきた三河庭野の薬種を扱わないか打診され、鈴木家の傘下に収まっていたのだった。

 今は、三河薬種を売り込むために、これまで大陸産の薬種を卸していた取引先である厳島に向かっているところだった。

 その航路上で讃岐と備中の間にある塩飽(しわく)諸島は、細川道永に仕える村上海賊にその管理が委ねられており、鈴木家は道永に頼んで村上氏に安全な瀬戸内の航行を保障させていたのだった。


 小西は舳先の向こうにあるだろう厳島を見やりながら、高三に言う。


「尼子やら武田やらのをはねのけた今や、厳島は大内様やそのご配下たる陶様のご采配なさるところと定まりてござれば、そのお奉行の棚守殿(野坂房顕)とは懇意にしておいて損はあるまい。」


 厳島神社の神主だった友田氏は大内氏の支配下だったが、大永の初め頃に大内氏が尼子氏に負け越していたのを見て謀反を起こし、安芸武田氏と尼子氏を呼び込んだ。

 しかし、大内義興は息子の義隆とともに直々に宮島を訪れて反乱を鎮圧し、陶興房を監督者に立てつつ、神主から奪った財務権限を棚守(管財人)の野坂房顕なる者に任せ、彼を支援した。

 これを受けて、尼子方に鞍替えしていた毛利元就も大内方に帰参した。

 やがては安芸武田氏も重臣の離反で没落していくことになるが、今でもすでに安芸における大内氏の支配は定まったかのように見えていた。


「ううむ、とはいえ鈴木様は『大内には深入りすべからず』と書き遣りてござるぞ。」

「そはおそらく、遣明船をめぐりて大内様が管領様と争われることとなったがゆえでござろう。されども、大内様は国許にお帰りになり、しばらくは上方に出てくることもあるまい。厳島に限っては、誼を通じても構わぬでござろう?」

「九州には大内様や大友様がおられて覇を競うておられる。そして、かの地には天王寺屋(津田宗伯)がしきりに船を出しておる。そのあたりにも何か気がかりがあるやもとそれがしは思うのだが……。」

「確かに鈴木様と懇意の野遠屋は天王寺屋と不仲だが、大内様と親しもうとも、それで波風が立つことにはなるまいて。……なるまいな?」


 小西は急に不安になって高三の方を振り向いて問いかけた。

 高三は首を振って答えた。


「それがわからぬゆえ、どうかと問うておるのだ……。」


 ◇


 その頃、堺を支配する足利義維・細川六郎(晴元)・三好元長らの陣営は、内部分裂が深刻な段階に進んでいた。


 三好家は堺の市街のはずれに「海船政所」という屯所を持っており、町内に兵を不用意に入れて町衆と軋轢を起こさないよう、この屯所に詰めて兵の管理をしていた。

 堺公方・足利義維の在所は顕本寺であり、元長はこの屯所に分かれて兵を取りまとめることで、細川六郎(晴元)の周りの側近たちに阿波兵の指揮権を奪われないようにも気をつけていた。

 もっとも、それによりまだ年若い細川六郎は可竹軒周聡・三好政長・木沢長政ら反元長の連中に取り込まれてしまっており、堺政権内部の分裂が加速することになっていた。

 特に木沢は河内の畠山義堯の家臣でありながら越権して政権中枢に潜り込んで勝手に動いていた。これを迎え入れている連中は元長と仲の良い義堯に対する当てつけのつもりなのだろうか。何にせよ、義堯は木沢の増長に強い不満を覚えていた。


 対立の激化は、元長がこれまでの戦功を認められて(あるいは認めさせて)足利義維から直々に山城守護代職を得たのが大きな原因だった。

 これまで山城は、その中でも特に京は、将軍・足利義晴が近江に逃げてしまって役人が足りなくなっていた中で、丹波勢の柳本賢治・松井宗信がなんとか統治していた。

 彼らは自らの権力拡大にも余念がなかったが、支配機構の整備に尽力してきた自負もあったことから、それを横取りされたように思ったのだ。

 柳本と松井は細川六郎の側近連中とつるむようになり、元長は孤立を深めていた。


「鈴木は合力を拒むか……。」


 三好元長は腹心の篠原大和守から鈴木家が近江管領・細川道永と和解したと聞いて唸った。


「雅楽会に医学校と、かの家は『名』を求めておるようだな。」

「そのようですな。」


 三好元長は不満げに顔をしかめて吐き捨てるように言う。


「まったく。成り上がり者は『名』を求めたところで成り上がりであることは変わらぬ。成り上がるからには、常に武威と己が意志を見せつけねばならぬのだ。『実』を持ち、それを認めさせ続けねばならぬ。かくしてようやく『名』がついてこようというもの。」


 元長は先代の当主・三好之長が上方で成り上がり者と蔑まれて忌避されたことを根に持っていた。彼が実力主義なのはそのせいだが、それはつまるところ武力至上主義ということである。

 篠原大和守は元長の力強い物言いに感銘を受けて大きく頷いたが、主君に正しい判断を促すべく、鈴木家が名ばかりを重んじているわけでもないことを補足せねばならなかった。


「鈴木は名ばかりを求めるわけでもないようにございまする。先に『左馬頭様(足利義維)の開府は間近ゆえ、先んじて三河守護を与えん』と伝え申したところ、絶縁状を叩きつけられ申した。」

「なに?左様なことがあったのか。」

「大事には至らず、また、朝倉の攻め寄せたる折のことなれば、お報せしてはおりませなんだ。御免くださいますよう。」


 朝倉云々とは、細川道永が年始に朝倉教景(宗滴)の援軍を呼んで帰洛を図ったことである。


「よい。我はおぬしの判断に全き信を置いておる。されど、ふむ、守護職はいらぬか。いや、絶縁状などというたいそうなものを寄こしたは、主家の今川の耳目を気にしてのことであろう。」

「それがしもそのように考えてございまする。」

「ふうむ……。」


 元長はあごひげをよじってしばらく考えると、合点がいったように手を打って言った。


「うむ、鈴木めは東の今川に忠を見せ、南信濃に小笠原を置き、伊勢と結び、東紀伊を押さえた。であらば狙うは尾張のみ。近々必ずやこれに攻め入るであろう。」

「それがしもそうかと思うておったのでござれども……。」

「なんだ、違うのか。」


 水を差された元長はむっとして問うた。


「先に織田の分家と三河の間で小競り合いがあり申したが、鈴木は大人しく手を引き守護代の織田家と和睦してございまする。織田から手を出したと聞こゆるところ、野心あらばそのまま攻め入る好機なれど……。」

「そうしなかったというわけか。」


 実のところ、鈴木家中では反今川の声が、今川家中では反鈴木の声がますます強まっており、両家の上層部は暴発を抑えるのに苦心していた。

 国力が拮抗しつつある中で今川が鈴木を抑えられている理由は、かつて今川氏親と鈴木重勝が結んだ主従の義理だけだった。

 そのことは当の鈴木よりも「いつ反抗されるか」と不安に思う今川において強く認識されており、今川の重臣団は「近いうちに叩いて力を削ぐ」という前提を共有するに至っていた。

 両家はともに衝突回避に気をつけているとはいえ、そのような前提で振る舞う今川と鈴木には温度差があった。これでは緊張関係が弛緩することはありえない。

 結局、何をしても関係が改善しないことから鈴木重勝は諦念を強め、今や織田家よりも今川家を第一に警戒して身動きが取れなくなっていたのである。


 元長は目を閉じて「ううむ」と唸り、しばらく考えにふけったが、やがてクワッと目を見開いて「わからぬ!」と怒鳴った。


「わからぬが、そうまで我らに合力したがらぬは、主家への義理を通しておるということであろう。客将の小笠原を信濃に戻したも義理堅きことなり。義理が大事というならば、認めてやろうではないか。」

「よろしいので?」

「うむ。されど、堺に屋敷を構え商いをするのはやめぬと言うならば、それ相応のモノを差し出すべきなり。それもまた義理というもの。」

「なるほど……。では、委細はそれがしにお任せいただいても?」

「うむ!」


【史実】小西行正と高三隆喜はそれぞれ小西行長(関が原で西軍についた有名なキリシタン大名)の祖父と高三隆達(小唄の名手)の父です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] やっぱり面白いです! [気になる点] 信濃小笠原家をこれからどう扱うのか気になります。独立勢力とすると将来的には勢力拡大の邪魔になるかもだし。今は身近な同盟勢力となっていますが。 [一言]…
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